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         <title>S・スピルバーグ『リンカーン』──民主主義のカタルシス</title>
         <description><![CDATA[<p>
洋の東西を問わず、権力と映画はウマが合わない。
</p><p>
歴史上、権力が映画を利用しプロパガンダを作れば、ロクな作品ができた試しはないし、逆に映画が権力を中心化して描こうとするとき、作品としての輝きが損なわれてしまうという罠がある。とくに歴史上の権力者を主人公とする、いわゆる伝記映画は、生まれたときから死ぬ瞬間までを描く大歴史絵巻となると、映画そのものから魅力が分散しがちとなる。『ナポレオン』『西太后』『クレオパトラ』『敦煌』など無残なほどフィルムを無駄遣いしている作品は挙げれば数多ある。もちろん、『イワン雷帝』（1944、ソ連）という傑作も存在するが、社会主義政権下の撮影所モスフィルムで、天才監督エイゼンシュテイン自身が権力を握り、映画を作ることができた。これは類い希な権力と映画の邂逅であり、例外中の例外というべきであった。
</p><p>
歴史的に見れば、映画はむしろ、権力に刃向かったり、権力に虐げられ日陰に追いやられる人間を描く方が性にあっている。『グレースと公爵』（E・ロメール、断頭台で処刑されるオルレアン公とグレース・エリオットの悲劇）や『ラストエンペラー』（B・ベルトルッチ）を思い浮かべれば、かつて手にしていたであろう権力が手から零れ落ち、身を滅ぼしゆく時間にこそ映画が宿ると感じられるだろう。
</p><p>
ゆるぎない王位にある人間が権力を思いのまま振りかざす姿は、映画的に見ればいかにも鈍重でスリルに欠けるのだろうか……
</p><p>
”権力者の映画史”において、映画そのものを輝かせてみせたという例は確かに存在し、それは普く、歴史上の人物を聖人化するのではなく、むしろその人間が波及させている”伝説”を脱神話化させたものだ。例えば昭和天皇を描いたＡ・ソクーロフ『太陽』を見れば、極小化したプライベートな時間を描くことこそ、むしろ伝記映画を輝かせる術ではないか、と思えてくる。歴史的偉業を断片的に繋げたタペストリー式伝記映画など、ただスケールの大きさばかりを上から目線で見せつけているにすぎず、つまらない。確かに溝口健二『新平家物語』（若き日の平清盛の10年間）やＪ・フォード『Young Mr. Lincoln』（1939、若き日の弁護士リンカーン）など、”歴史的偉人”のある一時期を焦点化した作品の方が、よっぽど奥行きと魅力ある人物像を描きえている。
</p><p>
そんな”映画史的経験則”を充分知ってのことだろう、スティーブン・スピルバーグの新作『リンカーン』は、第6代合衆国大統領をその人生最後の4ヵ月に絞り込んで描いた。10年に1本の大傑作である、と躊躇いもなく断言したい。
</p><p>
注目すべきは、この「最後の4ヵ月」には、有名なゲティスバーグでの「人民の人民のための人民による政治」も、奴隷解放宣言も含まれない。アメリカ映画の申し子スピルバーグはそんな人類史のメルクマールなど映画には必要ない、と切り捨てた。”Angels in America”で有名な劇作家トニー・クシュナーが書き上げた500ページに及ぶ脚本（いかに大河的伝記映画！）を、なんと70ページに削ぎ落としたという。
</p><p>
ここで『ジュラシック・パーク』と『マイノリティ・レポート』の巨匠が注目したのは、南北戦争の激戦ぶりを忠実に描写してみせることでも、黒人奴隷制度の非道ぶりを残酷に見せつけることでもなかった。合衆国で”民主主義”が見事に機能した瞬間を、サスペンス体験としてひりひりと描いてみせること、その一点に映画が絞り込まれている。
</p><p>
バイオレンスもホラーもアクションも、本気になれば世界一の技量（とハリウッドの財力！）で赤児の手を捻るように撮り上げてしまうスピルバーグ。しかし、今作ではド派手なヴィジュアル・エフェクトは抑制し、なんとも鈍重に思える政治の世界にドラマを見出したのは、驚くべき慧眼といいたい。
</p><p>
バラク・オバマが活躍する21世紀、人種間平等など常識と思われがちであるが、19世紀後半のアメリカ人にとりこの平等こそが非常識だった。実際、リンカーンが成立を目指した合衆国憲法修正第13条（13th Amendment)は、誰も進んで通そうとは考えていなかった。信じられないことに、当時の感覚ではわざわざ骨を折って通すまでもない凡案であったのである。人権運動の歴史に慄然と輝く、人類史上最も重要な法案と言ってもよいかもしれぬあの第13条が、かるくスルーされようとしていたのだ！　そんなとき、リンカーンを中心とする共和党の政治家たちが、いかに「肉を切らせて骨を裁つ」同意形成を成し遂げたのかがスリリングに描かれている。
</p><p>
それはすなわち、意志を統一することの困難さを痛いほど緻密に、リアルに描く作劇であった。
</p><p>
1864年、南北戦争は4年目を迎え泥沼化していた。政局も混迷を極めた。和平交渉を重視する共和党の多数派、奴隷制維持を当然とする民主党、和平が先に成立するなら奴隷制はわざわざ止めることはないという地方の有力支持者、奴隷制撤廃では不十分で人類皆平等ゆえに黒人も女性も参政権を与えるべきとまでいう普遍主義者（共和党 Tadeus Steven, Tommy Lee Jones)など、賛成・反対の白黒をつける前に、おのおの政治家の優先事項が多種多様、皆が明後日の方向を向いている状況は、まるで収拾不可能であった。
</p><p>
アベノミクス、TPP、改憲、脱原発、沖縄基地移転、生活保護、福祉など様々な争点があり、そのどれも十全に議論することもなく、ただ徒に離合集散を繰り返す日本の政党政治の現状況にあまりにも酷似しているではないか。
</p><p>
民主主義とは、皆が皆、別々の優先事項があり明後日の方向を向いている人間たちを、一挙にかっさらって、同じ議題について、YES を勝ち取ることに他ならない。人間の平等という理想がどうであろうと、同時代の国会においては、様々な利害が絡む多数の案件の中の一つに過ぎないのだ。
</p>
<p>
それをスピルバーグは、秀逸なサスペンス映画に仕立て上げた。
</p><p>
混迷した政局で、リンカーンは究極の選択に迫られる：　泥沼化した南北戦争の和平と、奴隷制廃止法案（第13条のこと）のどちらを優先するか？　　
</p><p>
第13条の下院での採決がいよいよ近づきつつあるとき、劣勢の南部が和平交渉の大使をワシントンに送ったという内部情報を得る。この情報が公に出れば、まずは和平を優先させ、下院での採決は中止すべしとなってしまう。さらに、南北戦争が終結すれば、わざわざ奴隷制を廃止するまでもないという議員も多数いて、彼らから賛成票を取るのが困難となり与党・共和党は分裂するかもしれなかった。しかも、共和党は過半数の議席はあるものの、改憲するには議席の２／３が必要であり、宿敵・民主党から20名の離反者が必要だった。
</p><p>
そのためリンカーンは強力なロビイスト集団を組織した。この会期末で議席を失う失職予定議員の、次の仕事を斡旋してやったり、地方有力者の上下関係を使って無理矢理中堅議員を懐柔したり、と手段を選ばず、票集めに奔走する。そうやって、少しずつ賛成票を増やしてきた矢先に、この南軍の和平使節派遣の密報が届いたのだ。
</p><p>
南北戦争は、夥しい死者を出していた。リンカーン自身も既に息子を一人失い、さらにもう一人ロバート・リンカーンも入隊すると言い張っていた。和平締結こそが時代が求める救済のようにも思えた。しかし、そうすると、せっかくの第13条は水泡に帰し、これから先「何百万人の子孫が差別され、奴隷とされる」未来を受け入れることになる。（補足：このほぼ１年前の1863年、リンカーンが行った高名な「奴隷解放宣言」は南部連合の支配する奴隷を解放するもので、合衆国全域に有効ではなかった。だからこそ憲法改正で、恒久的に奴隷制を廃止する必要があった。）かといって、和平交渉を先延ばしにしたとしても、第13条が可決する保証は何もなく、もし否決され、さらに戦渦が拡大すれば、歴史上最悪の選択をした政権となってしまう。終戦と奴隷制廃止、人道上の理想も同時代の文脈にあっては共生不可能である事実が、痛々しく我々の胸を締めつける。
</p><p>
はたして、リンカーンはどちらのオプションを選ぶのか、ここに映画のサスペンスが集約されてゆく。
</p><p>
そんなときダニエル・デイ＝ルイス演じるリンカーンは、次のような言葉をつぶやく。
"If you can look into the seeds of time, And say which grain will grow and which will not, Speak then to me."
（もし時の種を見分け、どの種が育ち実をつけどの種が育たぬのか、分かるのであればぜひ教えて欲しい。ーーシェイクスピア「マクベス」の引用）
</p><p>
政治とは数ある理想を手のひらに並べてみせ、どれが「芽吹き、実を結ぶ」のか、選び抜き大地に種蒔く行為なのだろう。
</p><p>
貧困・格差、福祉、未だ放射能が漏れ続ける原発事故の処置、原発避難民の賠償問題、東北復興、北朝鮮情勢、TPPなど問題山積のなか、改憲・国防軍設置を優先させる日本のプライム・ミニスターは、「時の種」への感性を明らかに欠いていると言えまいか。
</p><p>
映画「リンカーン」を見る行為は、自国の政治状況と照らし合わしながら、民主主義とはなんだろう、と考える同時代的な体験に他ならない。それほどの緻密さと、リアルさをもって、いつの時代も「ある、ある」と思える議員間の対立、収拾不可能な政局が目の前に展開されるからだ。
</p><p>
「映画」としての完成度も傑出している。
</p><p>
ダニエル・デイ＝ルイスは、演技という語をいかにも陳腐に響かせるほど、ゆたかな唯物論的存在を輝かせているし、サウンドトラックの常連・ジョン・ウィリアムズは、近年二度目の最盛期を伺わせる充実ぶりである。『シンドラーのリスト』以降スピルバーグの画面を支えるヤヌス・カミンスキー（撮影監督）は、リンカーンの寝室など『ミュンヘン』を思わせる美しい逆光の空間や、「戦火の馬」や「宇宙戦争」などで開発した真っ黒な群衆の人影ショットなど、モノクロームの造形美は相変わらず突出しているが、実は日中の屋外のシーンや議論する連邦議会の場面など、驚くほどストレートな色彩で撮りあげ、Ｅ・ロメールの晩年のような成熟したカラーパレットで、思わずうっとりさせる。
</p><p>
そして何よりも、映画において何を見せないべきかを考え抜くことがサスペンスの要諦である、と心得る巨匠スピルバーグの演出。
</p><p>
まず、あの巧みな話術で有名な合衆国大統領が大衆の前で話す（いかにも盛り上がる）演説シーンが、一度しかない。あの「人民の人民のための人民による政治」という演説は、映画の冒頭、それを以前聴いたいかにも優秀そうな黒人兵士によって語られ、リンカーンは彼に向かってにこやかに頷くだけだ。（スピルバーグを見続けてきた者であれば、この”隠し”によって彼の”演説”はとっておきのシーンで炸裂するはずだと、予感するだろう）南北戦争の惨たらしい殺戮場面も、冒頭に出てくるのみで、あとは画面への登場は禁ぜられる。そして、リンカーンその人の暗殺シーンですら、画面上では描かれない。スピルバーグにかかれば、いかにも山場となりそうなアクションが悉く抑制されているのだ。
</p><p>
では、いったい何を描いているのか？
</p><p>
大臣の面々や同じ共和党員、妻や息子と度重なる衝突を繰り替えし、決して完璧な人間ではない凡人アブラハム・リンカーンが、混迷を極める政局のなか何一つ完璧なプランがみえぬまま苦渋の選択をし、全く意見が異なる人間たちを一人ひとり口説いてゆく姿を真摯に描いているのである。
</p><p>
そこにはじっくりと深慮することの美徳とでもいおうか、慎重なることの優雅さが浮き彫りとなる。
</p><p>
いわゆる政治は、議員のおっさんばかりが議論を続けているだけで歩みも遅く、もっとも映画には縁遠いように思われるが、実は完璧でない人間ばかりが集まり互いの違いを乗り越えて結束する力ほど感動的な瞬間もない、ということを我々は映画により発見する。
</p><p>
リンカーンは呟く。
"Ｓay all we done is show the world that democracy isn't chaos, that there is a great invisible strength in a people's union?"（我々がやってきたのは、民主主義は単なるカオスじゃない。人々の結束には、目に見えない偉大な力がある、ということを示すためだろう？」
</p><p>
その言葉のもつ意味をスクリーン上で確かめてほしい。
</p><p>
民主主義が希薄化している今、日本の政治家全員が見るべきといいたい。
</p><p>
いや、政治家でなくとも民主主義の危機を痛感している日本人にはぜひ見ていただきたい一本である。
</p><p>
そこに、我々が忘れかけている”民主主義のカタルシス”があるからだ。
</p>]]></description>
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         <pubDate>Sun, 09 Jun 2013 19:44:04 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>ジョアン・ペドロ・ロドリゲス レトロスペクティブ</title>
         <description><![CDATA[<p>
　来たる3月23日、アテネ・フランセ文化センターと川崎市民ミュージアムを皮切りに、ポルトガルの新鋭監督ジョアン・ペドロ・ロドリゲスのレトロスペクティヴが開催される。ジョアン・ペドロ・ロドリゲスは現在ヨーロッパを中心に高く評価されているが、その作品は未だ日本で上映されたことはない。しかし、今回、映画上映団体<a href="http://dotdashfilm.com/" target="_blank">DotDash</a>主催による上映企画の第１弾として、ジョアン・ペドロ・ロドリゲスレトトスペクティブが関東と関西で開催される。さらに、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督・協力関係にあるジョアン・ルイ・フェーラ・ダ・マタ監督の来日も予定されており、このレトロスペクティヴは貴重な機会となるだろう。
</p>
<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/joanpedro01.jpg"></div>
</p>
<p>
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス<br>
João Pedro Rodrigues<br>
映画監督<br>
1966年ポルトガル、リスボン生まれ。<br>
リスボン映画演劇学校で、「ノヴォ・シネマ」の映画監督アントニオ・レイス（『トラス・オス・モンテス』）などのもとで学んだ後、アルベルト・セイシャス・サントスやテレーザ・ヴィラヴェルデらのアシスタントとして映画界に入る。2000年に撮られた処女長編『ファンタズマ』は、ヴェネツィア国際映画祭にコンペティション部門でプレミア上映され大きな話題を呼んだ。2005年の2作目『オデット』は、カンヌ国際映画祭に出品され特別賞を受賞したほか、世界の数多くの映画祭に出品。続く2009年の長編3作目『男として死ぬ』は、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でプレミア上映されたほか、トロント国際映画祭、ニューヨーク映画祭、サンフランシスコ国際映画祭など数多くの映画祭に出品され、この年のフランス「カイエ・デュ・シネマ」誌の年間ベストテンに選出された。2010年にはハーバード・フィルム・アーカイヴで、アメリカでの初めてのレトロスペクティヴが開催され、現代ポルトガル映画を牽引してきたアントニオ・レイス、マノエル・ド・オリヴェイラ、ペドロ・コスタといった監督たちの仕事を受け継ぐ新鋭監督として紹介された。2012年のリオ・デ・ジャネイロ国際映画祭では、マノエル・ド・オリヴェイラと並んでジョアン・ペドロ・ロドリゲス特集上映が行われ、世界で今最も注目されている監督の1人である。JPRと長年に渡って映画を共に製作し、現在はリスボン映画演劇学校で教鞭もとっているジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタとの共同監督作『追憶のマカオ』は、第65回ロカルノ国際映画祭のインターナショナル・コンペティション部門に正式出品された。現在、最新作『The King's Body』と『Mahjong』を製作中（ともに短編）。また、2012年カンヌ映画祭批評家週間短編部門で審査委員長をつとめる。
 </p><p>
 
ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ<br>
João Rui Guerra da Mata<br>
映画監督<br>
モザンビーク、ロレンソ・マルケス生まれ。2004年～2011年、リスボン映画学校でアート・ディレクションの教鞭を執る。1997年、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス監督の短編作品『ハッピー・バースデー！』に出演し、本作は第54回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。アートディレクターとして数々の長編・短編映画制作に携わる。特にロドリゲス監督の作品では共同脚本も務める。ロドリゲス監督とのコラボレーションはその後さらに発展し、短編作品『チャイナ・チャイナ』（2007年）や『紅い夜明け』（2011年）では共同監督も務めた。『火は上がり、火は鎮まる』（2012年）は単独での初監督作品である
</p><p>
 
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、フィルモグラフィー<br>
1988年　『羊飼い』O Pastor（The Shepherd）<br>
16mm／カラー／12分<br>
脚本・編集：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス<br>
撮影：オルランド・アレグリア、デルフィン・ラモス<br>
キャスト：カジミロ・オレイロ、ジョアキン・ラット<br>
リスボン映画演劇学校の卒業制作として撮られた、ある羊飼いの一日をとらえた処女短篇作。近年、ハーバード・フィルム・アーカイヴのディレクターであるヘイデン・ゲストによって企画された、ポルトガルの映画監督アントニオ・レイスのレトロスペクティヴ（2012年5月開催）で、映画学校の教授であったレイスからの影響が色濃い新世代ポルトガル映画監督の作品として注目され、ペドロ・コスタの『血』などと共に上映された。
 </p><p>
 
1997年　『ハッピー・バースデー！』Parabéns!（Happy Birthday !）<br>
35mm／ カラー／14 分<br>
脚本・撮影：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス<br>
編集：ヴィトール・アルヴェス、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス<br>
キャスト：ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ、エドゥアルド・ソブラル<br>
30歳の誕生日にガールフレンドからの電話で起こされた建築家シコと、彼と一緒に寝ていたセクシーな青年ジョアンのふたりの男をとらえた短篇作。『チャイナ・チャイナ』や2012年ロカルノ国際映画祭に出品された『追憶のマカオ』などで共同監督を務めているジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタがシコ役を演じており、今作がふたりのパートナーシップの始まりとなった。第54回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、審査員特別賞を受賞。
 </p><p>
 
1997年 　『これが私の家』Esta É a Minha Casa（This is My Home）<br>
Betacam／カラー／50分<br>
脚本・撮影：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス<br>
編集：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ヴィトール・アルヴェス<br> 
故郷のトラス・オス・モンテス地方へと向かう、パリに住む移民の家族を追ったドキュメンタリー作品。靴の修理屋で働く夫と、アパルトマンの管理人をしている妻のパリの日常風景や、フランスからスペイン、さらにポルトガルへと、休暇を利用して車で旅をする家族の姿をとらえている。
 </p><p>
 
1998年　『万博への旅』Viagem à Expo（Journy To The Expo）<br>
Betacam／カラー／54分<br>
脚本・撮影：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス<br>
編集：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、パウロ・レベロ<br>
『これが私の家』の続編で、同家族が万博の開催されているリスボンを旅行する様子をとらえたドキュメンタリー作品。前作『これが私の家』の撮影当時、リスボン万博「EXPO 98」がフランスのメディアで広く紹介されていた。家族はリスボンへ行きたいとロドリゲスに伝えていた。果たして翌年の夏休みに家族はリスボンを旅行する。旧市街や郊外、万博会場やサッカースタジアムを訪れる家族の記録。
</p><p>
 

2000年 『ファンタズマ』O Fantasma（The Phantom）<br>
35mm／カラー／90分<br>
脚本：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ジョゼ・ネーヴェス, パウロ・レベロ, アレシャンドレ・メロ<br>
撮影：ルイ・ポサス<br>
編集：パウロ・レベロ、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス<br>
キャスト：リカルド・メネゼス、ベアトリス・トルカト、アンドレ・バルボーザ<br> 
リスボンのゴミ清掃員として働く青年・セルジオの日常が、抑えがたい欲望によって、次第に暴力と堕落へと染まっていく様相をとらえた初の長編作品。第57回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門でプレミア上映され、ポルトガル映画で初めて明確かつ過激にホモセクシュアルを描いた革新的な作品として知られる。ベルフォール国際映画祭で最優秀外国語映画賞、ニューヨーク・レズビアン&ゲイ映画祭で最優秀賞を受賞したほか、世界各地の数多くの映画祭で上映された。
 </p><p>
 
2005年　『オデット』Odete（Two Drifters）<br>
35mm／カラー／98分<br>
脚本：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、パウロ・レベロ、フランシスコ・フラザン、ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ<br>
撮影：ルイ・ポサス<br>
編集：パウロ・レベロ<br>
キャスト：アナ・クリスティーナ・ド・オリヴェイラ、ヌーノ・ジル、ジョアン・カレイラ<br> 
『ファンタズマ』で国際的知名度を得たロドリゲスが、前作における過激な身体表現とは異なる方向性で撮りあげた長編第2作。交通事故によってボーイフレンドのペドロを失ったルイと、子供が欲しいあまり妄想に取りつかれるオデットの交錯を描いた異色のラブ・ストーリー。カンヌ国際映画祭のインディペンデント映画部門に出品され、特別賞を受賞したほか、ボゴタ映画祭やミラノ国際映画祭でも受賞。世界の数多くの映画祭に出品され、ベルフォール国際映画祭では、オデット役を演じたアナ・クリスティーナ・ド・オリヴェイラが最優秀女優賞を受賞した。
 </p><p>
 
2007年　『チャイナ・チャイナ』China China<br>
35mm／カラー／19分<br>
共同監督：ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ<br>
脚本：ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ<br>
撮影：ルイ・ポサス<br>
編集：ルイ・モウラン<br>
キャスト：ジアリャン・チェン、ルイス・ラファエル・チェン、チェン・ジエ<br> 
愛のない結婚生活を強いられながらリスボンの街を生きる若い中国人の母親の姿を描いた短篇で、グローバリゼーションや現代の核家族の姿を痛烈な眼差しでとらえたロドリゲスの新しい試みが垣間見られる作品。カンヌ国際映画祭のインディペンデント映画部門に出品されたほか、ベルフォール国際映画祭など数多くの映画祭で上映された。
 </p><p>
 
2009年　『男として死ぬ』Morrer Como Um Homem（To Die Like a Man）<br>
35mm／カラー／133分<br>
脚本：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ルイ・カタラン、ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ<br>
撮影：ルイ・ポサス<br>
編集：ルイ・モウラン、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス<br>
キャスト：フェルナンド・サントス、シャンドラ・マラティッチ、シンディ・スクラッシュ<br> 
過去20年間女性として生きたものの、性転換の外科手術は受けなかったリスボンの中年ドラァグ・クイーン、トーニャ。彼女の健気で繊細な姿が、すでに性転換手術を終えている友人や、ヤク中のボーイフレンド、そして同性愛を嫌悪する軍隊を脱走した疎遠な息子といった人物たちとの交錯を通じて鮮やかに描かれた長編作品。ペドロ・アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』やライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『13回新月のある年に』なども想起させる傑作。カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でプレミア上映され、ブエノスアイレス国際インディペンデント映画祭、チェコ映画祭では最優秀作品賞を受賞したほか、ニューヨーク映画祭、トロント国際映画祭など数多くの映画祭で上映された。
 </p><p>
 
2011年　『聖アントニオの朝』Manhã de Santo António（Morning of Saint Anthony's Day）<br>
HD／カラー／25分<br>
脚本：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス<br>
撮影：ルイ・ポサス<br>
編集：マリアナ・ガイヴァン<br>
リスボンの守護聖人を讃える6月13日の「聖アントニオ祭」には、恋人に愛の証として、造花のカーネーションと愛の詩を添えた、香草の植木鉢を贈る伝統がある。その祭りの翌朝、始発電車で帰宅するロドリゲスが、携帯電話で写真を撮ったことがこの作品をつくるきっかけとなった。祭りの熱狂と、そのあとに訪れる静寂や帰宅する若者たちの姿がインスピレーションを与えたという。「（祭りのあと）疲れきって家に帰ろうとしている若者たちは、全員が同じような機械的な動きをしていて、酒に酔った彼らのそのリズムはまるでダンスのように見えた。その光景は、幾何学的かつメランコリックなバスター・キートンやジャック・タチらの動き、またピナ・バウシュの踊りを必然的に想起させた。」<br>
本作品はカンヌ国際映画祭でクロージング・ナイト作品として上映されたほか、第50回ニューヨーク映画祭でも上映された。
</p><p> 
 
2011年　『紅い夜明け』Alvorada Vermelha（Red Dawn）<br>
HD／カラー／27分<br>
共同監督・共同脚本：ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ<br>
撮影：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ<br>
編集：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ、ルイ・モラン<br> 
マカオの有名な食品市場「レッド・マーケット」で売られる食材が準備されていく様子をとらえたドキュメンタリー。商人の慣れた手つきによって屠殺される生き物の姿などを追いながら、生と死、現実と超現実が次第にオーバーラップしていく。シノプシスには、「2011年2月。マカオの食品市場レッド・マーケット。平凡なふたりの映画監督。生と死に挟まれた、身振りとありふれた日常。ジェーン・ラッセル（1921-2011）の死を悼んで」とある。彼女はロバート・ミッチャムなどと共に『マカオ』（1952年、監督：ジョセフ・フォン・スタンバーグ、ニコラス・レイ）に主演している。本作はロカルノ国際映画祭、リスボン国際インディペンデント映画祭、チョンジュ国際映画祭など数多くの映画祭で上映された。
 </p><p>
 
2012年　『追憶のマカオ』A Última Vez Que Vi Macau（The Last Time I Saw Macao）<br>
HD／カラー／82分<br>
共同監督・共同脚本：ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ<br>
撮影：ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ、ラファエル・ルフェーヴル<br>
キャスト：ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、シンディ・スクラッシュ<br>
マカオで幼少時代を過ごしたジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタが、パートナーであるロドリゲスと共に撮ったドキュメンタリーでありフィクション。「幼少期以来訪れていなかったマカオに、私は30年ぶりに帰ることになった。長いあいだ連絡のなかった友人のキャンディからメールを受け取ったからだ。アジアのエキゾティズムに魅せられてか、生活が楽だったからなのか定かではないが、彼女がアジアに行ったことは知っていた。彼女はろくでもない男にまた引っかかっていることを私に伝え、「奇妙で恐ろしいこと」が起こっているマカオに来てほしいと頼んできた。自分の人生で最も幸福だった時間へと連れていってくれるジェットフォイルに乗って、私はマカオへ向かった。」（ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ）。本作は第65回ロカルノ国際映画祭・インターナショナル・コンペティション部門に正式出品された。
 </p><p>
 
2012年　The King's Body（製作中）
</p><p> 
 
2013年　Mahjong（製作中）<br>
HD／カラー／ 33分<br>
共同監督・共同脚本：ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ<br>
撮影：ジョゼ・マグロ<br>
編集：マリアナ・ガイヴァン<br>
キャスト：アンヌ・ファン、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ジョアン・ルイ・ゲーラ・マタ<br> 
</p><p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/joanpedro02.jpg"></div>

</p><p>

関東上映スケジュール<br>
日付	アテネ・フランセ文化センター<br>
3/23(土)	<br>
 14:50 『ファンタズマ』<br> 
 17:30 『男として死ぬ』＋監督ティーチイン	<br>
3/25(月)	<br>
 17:20 『オデット』<br> 
 19:30 短編集1<br>
3/26(火)	<br>
 17:30 短編集1<br> 
 19:00 『追憶のマカオ』<br>
3/27(水)	<br>
 17:40 『追憶のマカオ』<br>
 19:30 短編集2<br>
3/28(木)	<br>
 17:30 短編集2<br>
 19:00 『オデット』<br>	
3/29(金)	<br>
 15:20 『男として死ぬ』<br>
 18:00 短編集1<br>
 19:30 短編集2<br>
3/30(土)	<br>
 13:10 『オデット』<br>
 15:20 『男として死ぬ』<br>
 18:00 『追憶のマカオ』<br>	
</p><p>
川崎市市民ミュージアム<br>
3/23(土)	<br>
 12:30 『オデット』<br>
 15:00 『追憶のマカオ』<br>
3/24（日）<br>
 12:30 『オデット』<br>
 14:15 監督ティーチイン<br>
 15:30 ドキュメンタリー<br>
3/30（土）<br>
 12:30 ドキュメンタリー<br>
 15:00 『追憶のマカオ』<br>
3/31（日）<br>
 12:30 短編集2<br>
 15:00 『追憶のマカオ』<br>
</p><p>
関西上映スケジュールは<a href="http://dotdashfilm.com" target="_blank">公式サイト</a>にて近日発表
</p><p>
[会場]<br>
アテネ・フランセ文化センター<br>
千代田区神田駿河台2-11　アテネ・フランセ4F<br>
TEL 03-3291-4339(13:00-20:00)<br>
JR/地下鉄　御茶ノ水・水道橋 徒歩7分<br>
</p><p>
川崎市市市民ミュージアム<br>
神奈川県川崎市中原区等々力1-2<br>
TEL　044-754-4500<br>
詳細な地図は<a href="http://www.kawasaki-museum.jp/guide/annai/access.html" target="_blank">こちら</a>をご参照下さい
</p><p>
皆さまのご来場を心よりお待ちしております。
</p>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">news</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ジョアン・ペドロ・ロドリゲス</category>
        
         <pubDate>Sun, 03 Mar 2013 11:52:21 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>K編集長のcinema days vol.6</title>
         <description><![CDATA[<p>
『ギリギリの女たち』（2011年）を見たのは、昨年秋の第24回東京国際映画祭の特別上映「震災を越えて」でのことだった。小林政弘監督が宮城県気仙沼市の被災地に所有する家を舞台に、震災を機に再会を果たした三姉妹による愛憎劇ということで、上映の枠組みといい、当初は3.11が「フィクション」のスクリーンでいかに扱われているかに興味を覚えた。しかし、実際に作品を見てみると東日本大震災と断言できる事象との関連性は見られない。少なくとも作品が成立するために、特定のディザスターを援用する必要はないように思われた。
</p><p>
　本作で際立っているのは、映画という装置の人工性、映画が作りものであること、そのものの表出である。冒頭35分間の長回しは、臨場感や娯楽性の獲得のためではなく、例えば登場人物が必ず一方のフレームから入り、他方のフレームから出ていくといった様式性を強く意識させる。海辺での360度パンについても同様で、流麗なカメラワークというよりも、ぎこちない機械の動きがイメージとしてそのまま記録されている。映画的なもっともらしさの追求が放棄された中で、登場人物の身体は演劇的な過剰さを帯びる。彼女たちに残された家は、パフォーマンスが展開するステージであり、三者の衝突を唯一のアクションに、ストーリーらしいストーリーが語られることはない。三姉妹のセリフはそれぞれのやりとり、会話によるコミュニケーションよりも、独白や悲鳴、絶叫のために用意されているかのようである。彼女たちは悲痛をあらわにしながら、自らの存在を綺麗に塗り固めていた嘘を、カメラの前でひとつひとつはぎ取っていかなければならない。ニューヨークで成功したはずのダンサーである長女に扮する渡辺真紀子は、もはや希望も絶望もないぎりぎりの極限状態を、その容貌全体に何とも言えない気迫としてみなぎらせる。埠頭のロングショットで披露されるダンサー役のダンスよりも、その「顔力」に圧倒された。
</p><p>
　東京国際映画祭から間を置いて、小林監督のブログ、<a href="http://sarumachiyellow.blogspot.jp/#!/2011/11/blog-post_01.html" target="_blank">「『ギリギリの女たち』のこと、」</a>をふと目にした。作り手の文字による主張とフィルムを常に照らし合わせる必要はないと思うが、そこで述べられている被災地で映画を撮ることの後ろめたさについては共感を覚えた。
</p><p>
　別の意味で「ギリギリの女たち」が登場するのは、フィリップ・ガレル監督『灼熱の肌』（2011年）だ。フィリップ・ガレルが亡き友人でイタリア在住の画家フレデリック・バルドをモデルに手がけた本作は、しばしばジャン・リュック＝ゴダールの『軽蔑』（1963年）と比較される。確かに冒頭でブリジット・バルドーに代わり、モニカ・ベルッチの美しい裸体が披露されるが、彼女はたった一人で冷たいブルーのベッドに横たわり、その声はこちら側には届かない。『軽蔑』が意識されているなら、そのリバイバルではなく、『軽蔑』以後である。その直後、友人ポール（ジェローム・ロバール）のナレーションで、フレデリック（ルイ・ガレル）の自殺が語られ、私たちは生前のフレデリックと妻、映画女優のアンジェル（モニカ・ベルッチ）をローマに訪れることになる。フレデリックとアンジェル、ポールと恋人エリザベート（『メゾン ある娼館の記憶』でも注目を集め、今後の活躍が楽しみなセリーヌ・サレット）と2組の男女を追ったカップルの映画ではあるが、『恋人たちの失われた革命』（2007年）のように同性間の関係の描写が新鮮に映った。誰もが息をのむ美貌とグラマラスな姿態の持ち主アンジェルが、繊細な少女の面影を残したエリザベートに、自分の黒いドレスをプレゼントする場面では、肌のぬくもりを共有するようなセンシュアリティーが漂う。4人を取り巻く嫉妬と共犯性のさじ加減が絶妙に仕上げられている。ガレルの最新作 La jalousie では再びモニカ・ベルッチとルイ・ガレル、ローラ・スメットとミッシェル・ピコリが顔を合わせる。
</p>
]]></description>
         <link>http://www.flowerwild.net/2012/08/2012-08-14_084508.php</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">journal</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">F・ガレル</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">小林政弘</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">［連載］編集長のcinema days</category>
        
         <pubDate>Tue, 14 Aug 2012 08:45:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>映画が生まれる場所──第64回カンヌ映画祭報告</title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/cannnes2011001.jpg"></div>
</p><p>
　今年のカンヌ映画祭における、テレンス・マリックの最高賞パルム・ドール受賞という何の驚きも無い結末は、映画祭のコンペティションは如何に在るべきかを改めて問いかけた。確かに、圧倒的な映像美によって生命誕生から一組の父子の物語までを綴る壮大な交響詩『ツリー・オブ・ライフ』は、パルム・ドールに相応しい作品と言えるだろう。<br>
　『ツリー・オブ・ライフ』は既に去年の映画祭での出品が予想されていたものの、結局は完成が間に合わなかっただけに、今年は満を持しての登場であり、映画祭開幕前からパルム・ドール大本命と目されていた。今年の審査員長であったロバート・デニーロはマリックにパルムを与える為に選ばれたとさえ言われていたのだから、この結果はあまりに予定調和的で、ここまで筋書き通りであったことに驚かされた程である。<br>
　次点にあたるグランプリには、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『Once Upon A Time In Anatolia』とジャン=ピエール＆リュック・ダルデンヌ 『The Kid With A Bike』の二作品。ジェイランは、夜の荒野を警察と容疑者が死体を捜して回る場面だけに１時間半近くを費やし、そこでの人物達の感情の機微を、優れた演出力で浮かび上がらせていく。大きな出来事の欠如という点では、如何にも映画祭的な映画であり、作家映画の牙城であるカンヌでこそ評価されるべきフィルムであろう。一方、父親に捨てられた少年の絶望と、彼の引受人となった女性との交流を描いたダルデンヌ兄弟の新作は、その繊細さや展開の見事さに格の違いを感じさせた。ひたすら走り続ける少年や自転車の疾走感がフランソワ・トリュフォーを想起させるような、映画の根源的な快楽に満ちた佳作であった。ただ、彼らの作品としては比較的軽いタッチの小品であり、既に二度のパルム・ドールを受賞している彼らに今更二等賞のグランプリを与える必要があるとは思えなかった。<br>
　監督賞にはニコラス･ウィンディング･レフンの『Drive』、脚本賞にはヨセフ・シダーの 『Footnote』という、相当好みの分かれる作品が並んだ。昼間はスタント・マンとして、夜は運転手として犯罪に手を貸す寡黙な男が主人公の『Drive』は、題材がデニーロの出世作『タクシー・ドライバー』を思わせることもあり、受賞を予想する声は聞かれていたものの、散漫な物語構成に突如として挟み込まれる暴力描写には必然性は感じられず、受賞は意外な気がした。大学教授の父子の葛藤を描いた『Footnote』は、テーマに目新しさは無いが、大学のアカデミズムの世界を舞台にしたことによる新鮮味とリズムの良い展開が評価されたのであろう。<br>
　将来有望な若手監督に与えられることの多い審査員賞にマイウェンの『Polisse』が選ばれたのは妥当と言える。パリ警察の少年保護課を舞台に様々な人間模様を描き出し得たのには、俳優陣の好演に拠る部分が大きいし、こうした矢継ぎ早の会話ばかりが目に付く擬似ドキュメンタリー風のフランス映画には、もはや目新しさは感じられない。だが、社会性が強く、しかも日常的なテーマを、緩急を巧みに使い分けながら描いた力量は認めざるを得ない。<br>
　映画祭の話題をさらったのは俳優賞が与えられた二作品であった。まず女優賞はラース・フォン・トリアー の『Melancholia』で花嫁を演じたキルステン・ダンストが受賞。公式記者会見でトリアーが「ヒトラーに共感する」などと述べた為に今年の映画祭から追放されたことがスキャンダルとなったが、結果的には昨年のシャルロット・ゲンズブールに続き、連続してトリアー作品から女優賞が生まれたことになる。地球への小惑星の接近と、結婚式でメランコリーに陥る新婦を描いた作品自体は、プロローグの力強さには圧倒されるものの、全体的には冗長の感は否めない出来であった。一方、男優賞を受賞したのは、ミシェル・アザナヴィシウスの『The Artist』で、映画のトーキー化の波に付いて行けずに落ちぶれていく映画スターを演じたジャン・デュジャルダン。『The Artist』は白黒スタンダードの無声映画という異色作で、当初はコンペ外の特別上映であったものが直前にコンペ作に変更された。サイレント映画へのオマージュとしてはあまりにも稚拙で安易な部分ばかりが目に付くのだが、時折見受けられる映画的な巧さや、犬の好演（名演技を見せた犬に贈られるパルム・ドッグを受賞）にも助けられて、高いレベルのエンターテイメント作品に仕上がっている。だが、元々はテレビの人気者であったデュジャルダンの受賞はフランス人を喜ばせたものの、本命と言われたミシェル・ピコリ（『Habemus Papam』）やショーン・ペン（『This Must Be The Place』）の素晴らしさを凌ぐ程の演技を見せていたとは言い難い。
</p><p>
　そもそも受賞結果に関しては、全ての人を納得させるようなものが存在する筈も無く、審査員間の妥協の産物に他ならないと考えれば、あれこれと文句を付けるのが無意味なことも承知している。そうは言っても多くの人が疑問符を付けるようなケースは在る訳で、例えばアキ・カウリスマキの『Le Havre』が今回無冠に終わったこともその一つと言えるだろう。不法滞在の少年を靴磨きの男が匿うという単純な物語なのだが、カウリスマキならではの繊細で優しさに満ちたスタイルによって、ジャン・ルノワール的な人間賛歌が描き出される。マリックもカウリスマキも、隅々まで映画作家の世界観で満たされているという点では共通しているが、マリックが映像で観客をひたすら圧倒するような意志に貫かれているのに対して、カウリスマキはシンプルな映画の力で観る者の共感や幸福感を導き出すことに成功している。カウリスマキは『過去のない男』（2002）で、既にグランプリを受賞しているだけに、中途半端な賞を与える必要は無いのかもしれないが、二度パルムを取っているダルデンヌ兄弟にグランプリを与えているだけに、カウリスマキが無冠に終わったのは釈然としない（ちなみに『Le Havre』は国際批評家連盟賞を受賞）。<br>
　また、映画作家の世界観の表出という意味では、19世紀末の娼婦館を舞台に、見る／見られるという関係性を密閉空間で徹底して審美的に描きあげたベルトラン・ボネロの『House Of Tolerance』が無冠に終わったことも個人的には納得し難かった。カンヌでの受賞は、その作品の海外セールスや他の映画祭での上映機会に大きく影響するだけに、ボネロのような将来有望な映画作家にこそ賞を与えるべきであろうし、そういう意味では『ブンミおじさん』にパルム・ドールを、『神々と男たち』にグランプリを与えた去年の審査員の選択は賞賛に値した。<br>
　その一方で、先述したトリアーや、ペドロ・アルモドバル（『The Skin I Live In』）の新作が、彼らのフィルモグラフィーを考えれば、決して出来が良いとは言えないフィルムに過ぎなかったこと、また日本勢の二本（河瀬直美 『朱花の月』と三池崇史 『一命』）が、賞に絡むような作品レベルに達していなかったことも、映画祭におけるコンペティションの在り方について考えさせられた。<br>
　結局のところ、カンヌ映画祭はトリアー（今回が9回目のカンヌのコンペで、『奇跡の海』で1996年にグランプリ、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で2000年にパルム・ドールを受賞）やアルモドバル（今回が4回目のカンヌ・コンペ）といった、「定期会員」と呼ばれる監督の新作であれば、無条件にコンペに入れてしまうのだろうか。また、カンヌの申し子と言える河瀬直美の作品であれば、外国人受けを狙ったような凡作であっても選んでしまうのか（例えば青山真治の『東京公園』のような作品こそが日本を代表するべきではないのか）。また、しばしばコンペティションの選から漏れた作品が集まると言われていた「ある視点」部門で、今年はガス・ヴァン・サントやブルーノ・デュモン、ホン・サンスといった著名監督の、しかも高いレベルの作品が並んでいることも、最近のセレクションにおける不可思議な事柄の一つであろう（ちなみに昨年の「ある視点」では、マノエル・デ・オリヴェイラとジャン＝リュック・ゴダールの新作が上映された）。こうなると、コンペティションを嫌って、コンペ外の特別上映を自ら選択するウディ・アレン（今年は『Midnight In Paris』が映画祭のオープニング作品として上映）のような態度が、既に高い評価を得ている映画作家には相応しいのかもしれない。<br>
　こういった疑問が数多く浮かんでくることからも、カンヌが如何に影響力の大きな映画祭であるのかが良く解るのだが、結局のところ賞を選ぶのが審査員達であるように、コンペティションの作品を選んでいるのは映画祭ディレクターなのであって、そこに個人的な好みや思惑が含まれているのは当然のことと言える。そして、世界中に映画祭が乱立し、ワールド・プレミアを奪い合うような状況の中では、プログラミング担当者の力量や個人的なコネクションが、そのままセレクションの水準に反映してしまうことがしばしば見受けられる。それはカンヌとて例外ではない。コンペティション部門はともかくとしても、以前から「ある視点」と平行部門である監督週間との間での作品の取り合いはよく知られていたし、そのせいかもう一つの平行部門である批評家週間は、それらの部門で落選した作品の寄せ集めではと思わせるようなレベルの低いセレクションであったこともしばしばであった。しかし、今年はそうした構図が一変していた。
</p><p>
　フランス監督協会が主催する監督週間は、一昨年を最後にオリヴィエ・ペールがロカルノ映画祭のディレクターに転出した為、彼の下でスタッフを務めてきたフレデリック・ボワイエが内部昇格の形で昨年よりディレクターに就任。初年度にあたる去年のセレクションは、ペール時代にはしばしば見られた実験的なスタイルを持った意欲作は少なかったものの、骨組みのしっかりとした物語映画を中心に手堅くまとまっていた。ところが今年はボワイエの堅実な路線が裏目に出た感があり、ありきたりな人間ドラマや作り手の独りよがりな感性を押し付けられるような駄作ばかりが目に付いた。そうは言っても、ジャンヌ・ダルクの最期の日々を静謐に格調高く描いた『The Silence of Joan』（Philippe Ramos）や、少年同士のゆすりの物語を長回しと画面外を巧みに活用した独特のスタイルで描き出した『Play』(Ruben Ostlund)のような発見が無かった訳ではない。しかしながら、『ソフィアの夜明け』が一昨年に同部門で上映された（その後東京国際映画祭でグランプリを受賞）カメン・カレフの新作『The Island』は才気は感じられるものの展開に無理がある完全な失敗作であったし、アンドレ・テシネの『Unforgivable』に至っては映画がどこに向かっているのかさえ判らず、失敗作にすら成りえない有様であった。<br>
　やはり今回の監督週間におけるセレクション全体のレベルは相当に低く、それを反映してか、例年一般の観客が長蛇の列を作る為に、満員で入れないことが少なくないにも関わらず（映画祭のバッジや招待券無しでは入場不可能な公式部門とは違って、平行部門は一般の観客がチケットを買って観ることができる）、今年は週末の昼間の上映以外は空席が目立っていた。結局、フレデリック・ボワイエは映画祭閉幕から一ヵ月後の六月下旬にディレクターを解任されることになる。<br>
　そうした監督週間の低迷と対照的であったのが、今年50周年を迎えた批評家週間の充実ぶりである。フランス映画批評家組合が主催するこの部門は、クリス・マルケル、ベルナルド・ベルトルッチ、ジャン・ユスターシュ、フィリップ・ガレル、ケン・ローチなど、数々の巨匠映画作家の初期作品を紹介してきた輝かしい歴史を持っている。だが、コンペティションでは長編第一作と二作目のみを扱い、しかもメイン会場からは遠い小さなホールでの上映ということもあり、近年は注目を浴びることは少なかったように思う。しかしながら、去年あたりから作品のレベルが上がってきて、今年はカメラ・ドール（映画祭全体の新人監督賞）を受賞した『Las Acacias』（Pablo Giorgelli）をはじめ、17人の女子高生が同時に妊娠するという実在の出来事を瑞々しく映画化した『17 Girls』（Delphine＆Muriel Coulin）や、少年と少女の出会いと別れを丁寧に描いたブルガリア映画『Ave』（Konstantin Bojanov）など、小粒ながら今後が楽しみな若手監督達の佳作が並んでいた。また、オープニング作品として上映された『Declaration of War』（ヴァレリー・ドンゼッリが監督・主演）は好評を持って迎えられ、『ターネーション』で注目を浴びたジョナサン・カウエットの新作（『Walk Away Renee』）が特別上映されるなど、ここ数年では最も充実したラインナップだったと言えよう。そうした作品選定に少なからず影響したと言われるのが、「カイエ・デュ・シネマ」誌の元編集長であるシャルル・テッソンが選定委員会に加わったことだ。そのテッソンが来年の映画祭からは選定ディレクターに就任するだけに、批評家週間からは一層目が離せなくなるだろう。
</p><p>
　リュミエール大劇場での公式上映が、ハリウッド大作（今回は『パイレーツ・オブ・カリビアン』最新作が上映）や、既に評価が定まった監督達の新作披露の場という側面が強いだけに、新たな映画の可能性を発見する場という、映画祭が本来持つべき役割は二つの平行部門が担っていると言えるだろう。またカンヌ映画祭は、世界最大の映画見本市（マーケット部門）という顔も持っており、そこでは出来上がったばかりの作品が世界中の映画セールス会社によって出品されており、あらゆるジャンルのフィルムが製作規模や質を問わず、玉石混淆の状態で上映されている。その結果、カンヌでは公式部門と平行部門、マーケットを含めると毎日百本から二百本近いの上映スケジュールが組まれている。映画祭には、リュミエール大劇場のレッド・カーペットでメディアや群集の注目を浴びる作品がある一方で、ホテルの会議室を改造した小さな会場で、数人の業界関係者だけの為だけに上映されている作品もあるのだ。カンヌで上映会場を渡り歩く毎日を送っていると、その途方も無い規模の大きさと作品の数に飲み込まれそうになることもしばしばだが、その中から映画の可能性を広げる様な傑作と出会い、しかも世界で最初に陽の目を見る瞬間に立ち会えるというのは、カンヌ映画祭でしか味わえない僥倖なのだろう。
</p>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">T・マリック</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">カンヌ映画祭</category>
        
         <pubDate>Fri, 08 Jul 2011 17:25:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>無限に拡散する自己「像」を肯定できるのか？ ——D・アロノフスキー『ブラック・スワン』</title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/blackswan001.jpg"></div>
</p><p>
　『ブラック・スワン』は、ナタリー・ポートマン演じるニナが、プリマドンナに選ばれ、不安と苦悩を乗り越え、大成功する話である。
……と要約しても間違いではないといえば間違いがないのだが、それは所謂一般向けの惹句に過ぎない。確かにストーリーラインだけを見ればその通りであるが、それを期待して観に行くと大いに裏切られる。<br>
　ニナの母親は元ダンサーで、夢を娘に託している。ニナは人生のほとんどをバレエに捧げている。ニナ自身は不安の強い神経症的な性格であり、ふたりの関係は典型的な「過剰に密着した母娘関係」である。ニナはほとんど潔癖症か強迫神経症ではないかと思われるほどであり、快楽や娯楽をほとんど忌避し、禁欲によって目標へ接近しなければいけないという精神状態になっている（これはマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じた、資本主義を駆動させる心的態度のようである）。
</p><p>
　とはいえ、この両者の関係はいささか図式的過ぎる。この「母娘」の関係は、密着しすぎた「母娘」関係に関する専門書や新書などを手に取れば、そこで描かれている内容と映画で描かれている母娘関係とにそんなに違いがないことが分かるはずだ。すなわち、非常に類型的なのである。ただし、この責任は監督のアロノフスキーにあるというよりは、脚本家にあると言える。15年以上構想を練ったと言われる『ファウンテン　永遠に続く愛』（2006）以来、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した『レスラー』（2008）も本作も、アロノフスキーは脚本に名前がクレジットされていない。そして彼が脚本にタッチしていない作品は、極度に単純な内容ばかりなのだ。<br>
　有名バレエ団に所属しているニナは、そこで主役の候補に選ばれる。主役である「スワン・クイーン」を演じるためには、純真無垢な「ホワイト・スワン」と同時に邪悪で官能的な「ブラック・スワン」も演じなければいけない。「スワン・クイーン」に一度は選ばれたニナが「ブラック・スワン」の演技力不足を指摘され、役を奪われるのではないかと不安に駆られ、そして「ブラック・スワン」を演じるのに必要な快楽や悪を覚えていく。<br>
　彼女を「ブラック・スワン」を演じることに目覚めさせるのは、ミラ・クニス演じるリリーである。枕営業（？）も厭わず、快楽主義的で、邪悪な印象を与える彼女との交流が、潔癖なニナに性衝動などを芽生えさせ、母娘関係から脱却させ、そして「ホワイト・スワン」と「ブラック・スワン」を両方演じられる強さを与える……。
</p><p>
　だが、リリーは、ほとんどニナの幻想のような存在である。ある場面までは彼女は実在だったと思うが、ニナは自分自身の鏡として幻覚のリリーを見ていたのだ。しかし、このような「分身」の話も非常に類型的である。本作で期待されていたのは、その「分身」や「像」の問題系を扱いながら、どこまで未知の領域を見せてくれるのか、というところであった。そのことを示すのが、タイトルと同時に現れる、フレームの外では無限遠にまで自己の像が連なっているだろうと思わせるニナの像である。合わせ鏡の中で反射する自己の像、そして本番の舞台で、合わせ鏡の中に映っていた像とほぼ同じ構図で並ぶ他のダンサーたち。自己の鏡像と、取替可能な「主役」である自分と他のダンサーとが重なっていることが図像的に示されている。この両者の絡み合いが本作の最も肝となる部分である筈であった。<br>
　一瞬、ニナの精神状態が悪化して、鏡の中の像が自律的に動き出すシーンがある（このシーンがおそらくこの映画で一番スリリングな瞬間で、それ以降は失速するのみである）。虚実の区別を失ったニナは「鏡」を破壊し、その破片を突き刺すことで非実在のリリーを殺害するのだが、それは自分を殺害することでもある。ニナは腹部にガラスが刺さったまま舞台を演じきり「スワン・クイーン」として成功する。歓声の中、「スワン・クイーン」の演技を完成させたニナは「パーフェクト」と呟きながら（おそらく）死を迎える。「鏡像」と重ねあわされた「他のダンサー」との取替可能性の問題が、舞台上でのパーフェクトな死という唯一性の獲得という、あまりにも安易な解決を迎えてしまうのだ。おそらく、これが「取替可能性」を克服するものだと考えられているのは、壮絶な演技を行ったあとに舞台で実際に死を迎えた「伝説」として唯一性を獲得するからだと思われる。
</p>
<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/blackswan002.jpg"></div>
</p>

<p>
　繰り返すが、本作で問題になっているのは、「鏡」「像」「分裂」「取替可能性」である。まず、ニナ自身が、母親の敗れた夢を実現させるための操り人形に他ならない。バレエ団にとってプリマドンナは簡単に交代させられるものである。ダンサーは顔や服が著しく類似しており、図像的に取替可能であるようにしか見えない上に、歳をとったダンサーがあっさりと捨てられるシーンでそのことは明白に描かれている。他者と自己が重なって理解されると同時に、彼女自身が分裂していく。バレエ団の団長のマスターべーションを行えという指導が、芸術的意図（ブラック・スワンを演じるのに必要な指導）なのか、ただのセクハラなのかその区別もニナにとっては難しい。その心理的負荷が増すにつれて分身であるリリーの出現が増えていく。<br>
　だが、この映画の結末はあまりにも陳腐である。分身の殺害と、それが自分であったという結末に驚きは無い。死によって唯一性や、超越（的なもの）を獲得するという（アロノフスキーお得意の）結末はあまりにも安易、かつ陳腐である。それは彼の作品と比較してもそうだし、同時代のほかの監督と比較してもそうである。
</p><p>
　例えばアロノフスキー監督に強い影響を与えた塚本晋也の場合を見てみよう。鏡に向かい合うシーンは塚本晋也の作品に頻出し、アロノフスキーの『π』（1998）でもオマージュが捧げられていたが、本作はそのテーマの延長線上にあるようにも見える。神経症的な女性が身体的な快楽を目覚めさせるというテーマは塚本監督の『六月の蛇』（2003）を思い起こさせるが、ここで比較したいのは2010年の『鉄男　THE BULLET MAN』である。大量破壊、都市破壊、世界の終わりという形で訪れる「超越」（的なもの）への誘惑を断念するこの作品の強さと比べると、『ブラック・スワン』が如何に自堕落に「死」を利用したかが良く分かる。<br>
　その「死」の扱いは、アロノフスキー自身の『ファウンテン』と比較しても明らかに後退している。アロノフスキー映画は、なんらかの「直線的な構図の向こう」にあるものを求める人間を描くことが多い。仮にその求める対象を「超越（的なもの）」と呼ぶが、それは『π』では数学的にカバラの秘密を知ることであり、『レクイエム・フォー・ドリーム』(2000)では麻薬の陶酔の向こうにあるものだった。『ファウンテン』では、16世紀スペインでの「永遠の生命」の探求や、マヤ神話における死と復活の地への宇宙船（ツリーシップ）での航海、そして新薬の開発を巡る科学的な探求、映画自体の完成などと、その「超越（的なもの）」を目指す行為が「重ね合わせ」られていた。そしてそれは図像的にも様々に表現されていた。中心から外に向けて放射される光、靄、天井の模様、装飾品、照明、などなど……。「旅」をテーマにした本作は、手前から奥へのシンメトリーな構図が多用されるが、一方で主人公は「loosing perspective」、つまり、遠近法を失っていると言われる。実際に目的地に到達した瞬間が映画では描かれるが、時間軸や作中作などと巧みに入れ子にされた構造になっている本作では、その「到達」によって拡散した「黄色い光」が、過去や未来に飛び散っていることが明らかになる。照明や装飾によって、黄色い光や、光の粒は、主人公が「到達」する前から既に世界に満ちていて、主人公が気づいていないだけである。生まれてから、死ぬ。この直線が、遠近法が、映画の構造自体で崩壊させられており、そのことが図像的にも表現されていた（この設計については、メイキングを参照いただきたい）。
</p>

<p>
　『ブラック・スワン』もまた『ファウンテン』と同じ撮影監督であるマシュー・リバティークが担当しているために、図像的な企みとしては同じレベルを期待してもいいはずである。実際、『ファウンテン』でのフィックスの多用とは違い、手持ちカメラでアシンメトリーな構図を連発する本作は、ニナの心理の不安や恐怖、そして「白」と「黒」の鬩ぎ合いを図像的に現しており、一定の緊迫感はある。図像の持つメタファー的な効果を計算し、主題の図像化を行おうとする意図は明白であるが、「図像」の増殖を食い止め、「唯一」である自分を獲得しようとする意図を物語が見せ始めてからこの「図像」の効果も混乱する。「白」と「黒」の不安に満ちた葛藤は、ラストの真っ白な光に包まれ、「白」の「パーフェクト」に飲み込まれてしまうのだ。『ファウンテン』では、映画の進行と共に暗い色調から光を増加させるという設計がテーマと共鳴して効果をもたらしていたが、これはどうだろうか。「黒」との葛藤の末にそれを受け入れたようには見えない。むしろ、その葛藤が全く無意味で、ニナは最初と何も変わっていない、という印象を受ける。<br>
　そもそもの失敗は、無限に増殖している「像」の暴走を「止めなくてはいけない」と、ニナが、あるいは脚本家・監督が思ったことにある。その「像」の増殖を止めるという行為が映画それ自体に抵抗してしまっている。映画とはそもそも複製される自己の「像」が無限に増殖していく可能性を止めることができないどころか、むしろそれこそが映画を映画たらしめる本質であり、快楽の源泉である。それを映画内で食い止めようとすることは、映画の無意識に抵抗する強い摩擦となってしまう。
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<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/blackswan003.jpg"></div>
</p>

<p>
　我々が見るニナはナタリー・ポートマンの生身の肉体でも唯一の存在でもなく、複製された像である。複製された像であるニナが複製を拒んだところで、それは奇妙な逆説を生むだけである。「複製」の自走に脅えるニナ自身が、「複製」である映画の中で「複製」であることを拒もうとする「自走」を行っているように見えるのだ。そして、それは「映画」という装置の中では抵抗にならざるを得ない。映画の与える快楽の条件そのものに抗おうとしている彼女の「パーフェクト」からは、結局それもまた複製のフェイクに過ぎないという印象を最終的に我々は受ける。作中現実では唯一の「舞台」であるが、我々が見るのはあくまでも「映画」である。この齟齬が、結末やその前後に対して白々しい思いを我々が感じざるを得ない大きな理由のひとつなのではないかと思う。（もちろん、そのような映画というメディアの条件に意図的に挑戦した作品であると好意的に見ることも出来るが、そうだとしても成功しているとは言い難い。まず、「舞台」という、一回性による「いま・ここ」のメディアを映画で描く時点で間違いなくその倒錯は始まっているのだから）<br>
　この映画の可能性は、むしろ「像」を暴走させることにあったのではないか。自己の「像」の暴走を許さず制御しようとするニナは、自分の分身である娘をコントロールして意志を認めない母親の姿に重なると同時に、「映画」を統括する製作者とも重なる。母親の夢の代理人として育てられた娘が、母親と同じことを反復してしまうトラウマから脱出できないという悲劇性を受け取るにせよ、そこには「支配」の欲望が見え隠れする。この「支配」から「死」以外の形で脱出するには、まず自己の「像」を支配から解放することが必要であった。そのことによって、母親の「像」である自己の解放を行うという可能性があった。
</p><p>
　もし本作が「像」の暴走や自走を肯定していたならば、まだ私たちが誰も見たことが無い新しい「映画的自己」を見られたかもしれないという思いを、本作の鑑賞後に悔しさとして感じずにはいられなかった。「死は病気であり、治すことができる」と呟き、「死」の治療薬を開発するために真っ白な雪原の中で仲間から離れていく黒い点であった『ファウンテン』の主人公を思うと、本作での「死」の扱いは、あまりに安易な悲劇を崇高であるかのように美化しており、圧倒的に後退していると思わざるを得なかった。「loosing perspective」、すなわち「遠近法を失った」主人公が生まれてから死ぬという単線的な時間意識から解き放たれたということを巧みな図像と編集によって示し、「無時間」の世界の一端に時間芸術である映画で触れさせるというところまで到達できたアロノフスキー監督のこの後退には、失望を禁じえない。<br>
　本作を好意的に見て、そのような「死が終わりではない」という認識が底にあるのだと考え、ニナの死は悲しむべきことではないと考えても、それはそれで今度は「死」による「崇高さ」が失われる。確かに、ニナの死は複製の死なので、映画のフィルムを戻せば彼女はいつだって生きているし、何度でも生きている。「死」はない、とすら言える。しかし、そう考えることに違和感を覚えてしまうのは、そう考えてしまうことは、結局芸術の名において娘や団員を狂気に追い込み、死においやることを肯定してしまうことに繋がりかねないからである。
</p><p>
　『ファウンテン』が「死」という目的論を破壊しても大丈夫だったのは「喪」の内観を表現するかのような映画だったからである。基本構造として、愛するものを失った男の心象風景のような「喪」の中で「無時間」や「死が終わりではない」と発見されるからこそ説得力を持っており、そしてそれが映画という何度でも繰り返し再生可能な装置と一致していたことが重要な点なのだ。<br>
　複製可能で死の存在しない像である彼女の死に何故か崇高な悲劇性を感じてしまうという、「フィルムと、フィルム内現実のギャップが生み出すアイロニカルな味わい」こそが本作の醍醐味と言おうとすれば言えるだろう。「像」に死を与えるという不可能性への挑戦をニナと製作者が行ったものと考えることもできる。だが、実際の人間の「死」すら「像」になってしまう「映画」というメディアでそのようなことを行おうという試みの中で、本作が傑出して優れているとは言えないだろう。むしろ、無限に拡散する「像」としての自己を肯定する新しい自己像の構築こそが本作の向かうべき方向であったのではないだろうか。本作にはその可能性の煌きが、一瞬、間違いなく宿っていた。
</p><p>
<div class="info">
『ブラック・スワン』　BLACK SWAN<br><br>

監督：ダーレン・アロノフスキー<br>
原案：アンドレス・ハインツ<br>
撮影：マシュー・レバティーク<br>
プロダクション・デザイン：テレーズ・デプレス<br>
音楽：クリント・マンセル<br>
出演：ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、バーバラ・ハーシー、ウィノナ・ライダー<br><br>

2010年／アメリカ／108分<br><br>

大ヒット公開中<br>
配給：20世紀フォックス映画<br>

</div>
<div class="copyright">画像の複製と転載を禁じる。(C)2010 Twentieth Century Fox</div>
</p>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">film</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">D・アロノフスキー</category>
        
         <pubDate>Thu, 19 May 2011 10:27:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>イタリア人による“アンチ・ルネサンス”の賛歌『四つのいのち』監督ミケランジェロ・フランマルティーノ　インタヴュー</title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/fourlife001.jpg"></div>
</p><p>
　命はどこまで広がりを持っているのだろう？　「幸福な」命と「不幸な」命などというものがあるのだろうか？　私たちは命について人間中心に捉えがちだ。だが、私たち自身から焦点をずらしてみると、まったく異なる世界、そこに息づく「いのち」のサークルが見えてくる。<br>
　『四つのいのち』は決して「難解な」フィルムではない。一切のナラティヴな台詞を排した作品世界は、耳で観て、心で聴く深い響きに満ちている。ミステリアスでもあり、思わず微笑みを誘うユーモラスな場面もある。極めてオリジナルなフィルムを完成させた監督ミケランジェロ・フランマルティーノに作品の制作プロセス、彼の映画観などについて語ってもらった。（取材・構成／石橋今日美）<br>　<br>
</p><p>

——第１作の『Il Dono』（2003）から今回の作品まで約７年間経過していますが、その間何に取り組まれていたのですか？
</p><p>
<div class="right-withtxt"><img src="http://flowerwild.net/images/fourlife004.jpg"></div>
まずこの作品の撮影が長期間に及びました。何を撮るか決めてから、カンヌに行き着くまでに５年間かかりました。制作でも非常に不幸なことがあり、１年半撮影が中断しました。そのときも再開できると何度も思いながら、その都度中止されたので、すごくストレスもたまりました。ロケーションや炭焼き、木の祭りを見て、ものすごくいいなと思い、これをつなげて、アニミズムの要素も取り入れようと考えたんですけど、そうやって考えている間に、自分に撮れるのだろうかと自問自答した時期もありました。そのような経過を経たので、大変時間がかかったわけです。
</p><p>
——ではあらかじめ、あるコンセプトやシナリオが頭にあって撮影したのではなく、その土地に魅かれて即興的に撮り始めたのでしょうか？
</p><p>
最初の作品『Il Dono』を撮って以来、自分はミラノの生まれなのですが、家族みんなの出身地であるカラブリアに何度も行きました。ただ『Il Dono』を撮るまで10年間カラブリアに帰ってなかったんですね。なので、なぜカラブリアで撮るのかという意味を理解したいという思いもありました。カラブリアに何度も行くようになると、友人や映画を見てくれた人などに「もっといい場所がある」「いいところで映画を撮れる」と案内されることもありました。その中で見た場所で撮影が始まったということは、ものすごく意味が大きいですね。自分が興味を持ち、撮りたかったものはありましたけど、それよりも四つの場所があり、四つの形があった、と言えると思います。
</p><p>
——場所と関連して、現地に住む職業俳優ではない人々、また動物たちの映画出演はどのように進められたのでしょうか？
</p><p>
まあ、山羊はプロでした（笑）。まず場所があり、その場所からイメージを膨らませて準備するわけですね。どうやって準備するかというと、まず人や動物たちを見るわけです。その中から、自分の興味のある対象を選び出します。私は脚本ではなく絵コンテを描いていくのですが、例えば山羊をみて絵コンテを描き、それを再現するために撮影をする。だから現実から出発して、現実を観察してそれを撮って、そして出発点だった現実を新たに生み出すという二重の作業になっていくわけです。その中で、コントロールできないものとの関係性を構築していかなければならないわけですよね。人間の本能から、コントロールしようという気持ちがどうしても働くわけだけれども、実際には完全にコントロールできないものと関わらなければいけないという、自分の中で遊戯的な関係を作っていく必要がありました。
</p><p>
——その土地、現実とのコラボレーションがあったということでしょうか？
</p><p>
もちろん。協力と葛藤です。その土地に影響されるという意味ではコラボレーションですが、完璧にやろうとすると葛藤が生じます。ただその葛藤、闘いの中で自分は常に負けなければいけない。勝つ必要はないわけで、勝ってしまうとその映画の中に撮られたものというのは、死んだものしか映っていないわけです。打ち負かされたものが映っているわけだから。相手を勝たせなければならないわけですよね。ですから撮影クルーは、敢えてちょっと弱い力を持っているメンバーでのぞんだわけです。被写体の方を勝たせるために、完璧にはコントロールできないスタッフで取り組みました。
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/fourlife003.jpg"></div>
——実際にはスタッフは総勢何人くらいでしたか？
</p><p>
毎回の撮影で固定した人数ではなく、山の中に木を撮りに行ったときは４、５人でしたし、犬の出てくる長廻しのときは、25〜30人くらいのメンバーでした。
</p><p>
——この作品で印象的なのは台詞がないことと、クローズアップの次にロングショット、というように被写体との距離の大きな変化を見せる編集でした。編集の構想はどのように？
</p><p>
台詞を使わないというのは撮影前から決めていました。なぜかと言うと、まず作品の目的として、人間を中心からはずす、というのがありました。年老いた牧夫から始まりますが、次は動物になって、動物から植物になって、植物から鉱物になるという四つの状態を経ていくわけですけども、その中で人間は中心ではなくなる。それはなぜかというと、人間とその他の物事とのつながりを探すためにそういうことをしたわけです。そのためには説話のためにある台詞を使わずに、イメージと音で表現しようと試みました。<br>
アップはこの映画では基本的に少ないと思います。ほとんど引きのショットで、その場合、観客がそこに何を見るかは自由なわけです。ある意味ではインタラクティヴな可能性がそこにあると思います。その自由を重んじたかったのです。それよりもスケールの問題ですね。作品の最初に老人の顔がアップで映し出されます。そこに蟻が歩いています。その場面では、老人の顔がむしろ風景と化して、それを背景に蟻が動いている。別の場面、木の祭りでは、立てられている木に人間が蟻のように群がって見えます。風景と人間の立場が逆転するわけです。そこでは風景がクローズアップのようになっていて、人間は蟻のようになっている。その逆転が面白かったので、人間と人間以外のものとの関係を逆転させた形で、人間の重要性というものを小さく、逆転して表現することができると考えたのです。ドゥルーズは、映画というものは人間とものとのつながり、特に失われたつながりを表わすことができると言ったわけですけど、それが人間にとっては薬にもなると思いますし、自分としては非常に表現したかったことです。
</p><p>
——日本では土葬ではなく火葬ですが、最後の場面で木が焼かれるときは、人々が集まり一種の荘厳さを感じました。人間だから、木だから、という区別なく、命あるものを葬るセレモニーのようでした。
</p><p>
火葬との関りというのはあると思います。炭焼き職人たちは、木であったものを炭にするわけですから、ある意味橋渡しの役をしています。作品からは最終的にカットしたのですが、白い木を運んでいる場面があって、それはモミなんですけど、白いモミなんですね。他は黒い木の中に１本だけ白い木なので、老人が死んで運ばれる棺を想起させるようなシーンがありました。運ばれていくというものは、何回か登場しますが、何らかの形で葬列を思わせます。
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/fourlife002.jpg"></div>
——先ほどから、人間が使う言語を使用しない、人間を世界の中心からずらすというお話をされていますが、もしルネサンスを単純に、遠近法のように人間の視点や肉体を基準にさまざまなものが考案された人間中心の世界の時代とするなら、本作はイタリア人による反ルネサンス的フィルムと見てもいいのでしょうか？
</p><p>
すごく素晴らしい見方だと思うんですけども、冗談ではなくて。確かに遠近法というのは人間を中心に据えたわけですよね。それがまず芸術の中で生まれて、科学の分野で固定化されたわけですけども、不均衡が現実のものとなってしまいました。芸術の中で遠近法が生まれて、それが記号である限りはそれでよかった。ですが、都市計画などという形になって科学の中で具現化してしまうと、人間が物事の中心になってしまい、同時に孤独にもなるわけですよね。人間は他のものと切り離されてしまうわけですから。もう一度、物事との連帯、つながりを取り戻す必要があって、それはもともと芸術が生み出したものであるから、その子孫である映画芸術がそれを取り戻させるのは、素晴らしいことではないかと思います。
</p><p>
——小津映画にも、例えば『晩春』（1949）の花瓶のように、人間ではなく、もの中心の長めのショットが見られ、さまざまな解釈を生みました。ルネサンスの同時代的経験のない日本の映画の中で影響を受けた、あるいは自分と近いと感じる映画作家はいますか？
</p><p>
小津は本当に好きです。東京に来るというと『東京物語』（1953）のことを考えますし、ヴィム・ヴェンダースの『東京画』（1985）という作品も好きです。とにかく小津は自分にとって巨大なマエストロです。小津はものの撮り方や、スペースの使い方、ローアングルにしても、すごく多くのことを教えてくれました。自分も低い位置からのショットを結構使うのですが、というのも、普通に立った人間の目線で撮ると、普段見慣れたものが見えてきます。でも例えば低い位置から撮ると、いつもとは全く違うものが見えてくるわけですよね。小津の場合は畳だったからローアングルだった、という言い方もされますけど、自分にとっては別の目線で見るということ、そこから別のものが見えてくるということを教えてくれました。それからカメラのレンズのことになりますが、常に50mmのレンズを使っていた。アングルが変わっても50mmで撮っていたということは、物事のヒエラルキーをなくすという意味があったと思いますし、50mmの画角の中で観客が自由に何を見るか、何に重要性を置くかを選択できます。アングルの中で寄ったり引いたりすることで、撮り手が被写体の重要性を決定するのではなく、見ている者に決めさせる、自由を与えるという意味があったと思います。ものの撮り方に関しては北野映画も結構やっていると思います。やくざが紙相撲をやっているシーンに続いて、海岸で本当に相撲をやっているけど周りの人間は砂を叩いている。ものと人間が逆転しているような撮り方が北野武にもあると思います。重要なことを必ずしも画面の真ん中で見せるのではなく、画面の端の方に持ってくる塚本普也監督の人間と非人間の扱いにしても、日本映画の中で重要だと思います。
</p><p>
——今後のプロジェクトは？
</p><p>
この映画では絵コンテをたくさん描いたんですけど、そのうちに絵を描き始めると止まらなくなったので、アニメをやろうかと思っています。１年半制作が中断していたときに、やろうとしていたことがあるのですが、実写映画のプロジェクトについてお話しするにはまだ早い段階ですね。
</p><p>
（2010年10月、東京国際映画祭来日時にて）
</p><p>




<div class="info">
『四つのいのち』　LE QUATTRO VOLTE<br><br>

監督・脚本：ミケランジェロ・フランマルティーノ<br>
出演：ジュゼッペ・フーダ、ブルーノ・ティンパノ、ナザレノ・ティンパノ<br><br>

2010年／イタリア・ドイツ・スイス／88分<br><br>



作品公式HP：<a href="www.zaziefilms.com/4inochi/" target="_blank">www.zaziefilms.com/4inochi/</a>
4月30日、イメージフォーラム他全国順次公開
</div>
<div class="copyright">画像の複製と転載を禁ずる。@Vivo film, Essential Filmproduktion, Invisibile Film, venturafilm.</div>]]></description>
         <link>http://www.flowerwild.net/2011/04/2011-04-21_162704.php</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">interview</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">M・フランマルティーノ</category>
        
         <pubDate>Thu, 21 Apr 2011 16:27:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>The Girl and the Brain──D・フィンチャー『ソーシャル・ネットワーク』</title>
         <description><![CDATA[<p>
　昨年末、ヨーロッパの知人・友人の映画評論家たちが『ソーシャル・ネットワーク』（デヴィッド・フィンチャー監督、2010年）を2010年のベスト10の１本に挙げているのを知った。他でもないFacebook上で見たのだ。離婚した元夫の動向を知るために架空のアカウントを作って「友達」になろうとする元妻、志願者の履歴書に記された内容の裏付けを取るためにサイトを利用する企業の人事採用担当者、「relationship status」（恋人の有無などについての情報を公開するプロフィールの項目）の更新をめぐって起こるカップルのいさかい、破局……風が吹けば桶屋が儲かるFacebook。利用者のプライベートとの癒着・密着度を示す実話の数々に、今後Facebookが日本でも普及するか、といった議論自体、「今さら」感を与えるが、映画的フィクションと想像力はいかにインターネットのモンスターとその生みの親、マッドサイエンティストに立ち向かったのか？
</p><p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/social001.jpg"></div>
</p><p>
　『ソーシャル・ネットワーク』のオープニング、創設者のメンバーのひとりマーク・ザッカーバーグがバーで恋人エリカに振られる場面は、作品全体のトーンを決定する重要な役割を果たしている。まずスピード。デヴィッド・フィンチャー監督は、キャストが肉体的疲労に達し、役柄の内面を作り込む余裕や計算もなく、膨大な台詞が自然と口から発せられるまでテイクを重ねる、というロベール・ブレッソン的なメソッドを実践したそうだが、マーク（エキサイティングな不透明さ、得体の知れなさを体現するジェシー・アイゼンバーグ）の早い口調は実に印象的に演出されている。目の前の女の子が本当にガールフレンドなのか、そもそも相手の存在を意識しているのか、首をかしげたくなる独りよがりなトークの炸裂。怒ったエリカ（本作では庶民的なナタリー・ポートマン風のルーニー・マーラ。ヒロインに抜擢されたフィンチャー最新作『The Girl with the Dragon Tattoo』ではイメージを一新！）が、マークを切り捨てるのも無理はない。あなたは将来コンピューター業界で成功者にはなっても、女性にはもてない。オタクだからではなく、「Assholeだからよ！」。ここで主人公をサイバースペースでの暗躍へと突き動かすモチベーションが提示される。まず、知能指数もプライドも人一倍高いマークによる個人的な失恋の腹いせ。寮に帰った彼は直ちに、エリカは「ヴィクトリアズ・シークレット」（主にランジェリーのカタログ通信販売で有名な米大手ブランド。妻の下着の買い物に付き合うのが恥ずかしかった男がブランドを立ち上げた逸話が後に披露される）の力を借りてバストサイズをごまかしている、など自身のブログに悪口を書き殴る。そして女子学生一般の揶揄（不正入手した全女子学生の写真データベースから任意の２枚を並べ、どちらがホットかをユーザーに投票させるサイト「フェイスマッシュ」の立ち上げ）。さらには効率のいいナンパに役立つ情報の一般提供（映画が描く、悪名高き「relationship status」誕生の背景。彼氏持ちの女の子に敢えて声をかけてふられることを防止）。マークとその周辺の人物たちの異性関係の問題を、彼らの躍進ぶりとリンクする形で描いている点で、本作は「学園もの」、「青春映画」の王道を裏切らない（アメリカの大学生活で学生の「格付け」機能を持つ名門「社交クラブ」の存在の描写も興味深い。Facebookはそのアンチテーゼ的存在でもある）。けれども、そこには若き億万長者であっても、学生時代はごくありふれた悩みを持っていた、というような脱神話化の意図はない。本作はマーク・ザッカーバーグの「素顔」を探るフィルムでも、創設者に倫理的な判断を下す作品でもない。冒頭のシーンほど、明らかに主人公に好印象を抱けない場面は他には見られない。作品は焦点の定まった「素顔」、人物像を模索しない。マークと主要登場人物はあたかも万華鏡を通して映し出され、その像は刻々と変化し、砕け散っては再生を繰り返す。Facebook創設をめぐる法的なトラブルにも、フィルムは明快な事件解決を見せてくれるわけではない。だが本作を、デジタル時代の単なる『藪の中』と片付けるのは早合点だろう。
</p><p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/social002.jpg"></div>
</p><p>
　「そうじゃない」という弁護士に反駁するマークの言葉で、学生時代のシークエンスは突然３年後、サイトの所有権と功績の問題をめぐる裁判前の調停の場面に移る。テーブルにはマークとFacebookに資金提供したかつての友人で共同設立者エドゥアルド・サベリン（アンドリュー・ガーフィールド）、アイディアを盗用されたと主張する双子のウィンクルボス兄弟（米大人気TVドラマ『Gossip Girl』にも出演し、キャンパスのエリートを素晴らしく体現するアーミー・ハマーを一人二役で双子にキャストしたアイディアは秀逸）とそれぞれの弁護士が顔を揃える。自己弁護のために誰もが真実を語っているとは限らないし、そもそも唯一絶対の真実の究明などあり得ないのではないか……そんな「グレーゾーン」にある彼らのやりとりは、映像表現にも反映されている。各ショットの被写界深度は比較的浅く、発言する人物にピントが合わされる。話す主体の変化に合わせて、画面の切り替えはスピーディーで、同一のショットの中で発言主が変われば、ピント送りが用いられることもある。焦点内/焦点外が素早く切り替わる中、登場人物達はあたかもワンショットにおいて、発言権とフォーカスを同時に争っているかのようだ。フォーカスから外れてしまえば、発言の正当性を主張する機会そのものを失ってしまう。そしてフィルムは誰一人に、常に安定してフォーカスを合わせない。
</p><p>
　作品が過去と現在のシークエンスが交錯する形式をとるようになって、さらに特筆すべきはスピードだ。ここで言うスピードとは台詞回しの速さではなく、調停で取り上げられる論点とそれに合致する過去のシーンが、数年の時間の厚みなどないようにつなぎ合わされるスピードを指す。例えば、マークにとっては憧れの「師匠」的存在、エドゥアルドにとっては彼らの友情と共同事業を壊した元凶とも言える、ナップスターの創始者ショーン・パーカー（ジャスティン・ティンバーレイクが意外にもはまり役）がレストランで初めて顔を合わせるシーン。調停の場面とレストランのテーブルでエドゥアルドがショーンに対する悪印象を語るフレーズは、過去と現在のシーンが切り替わっても、時差なく連続して響く。初対面のエピソードの締めくくりを語るのに、エドゥアルドは、ショーンが立ち去る前に会社に最大の貢献をした、と述べる。場面は間髪を置かずレストランに切り替わり、ショーンが「The Facebook」の「The」をとって「Facebook」にした方がクールだ、と言い残して立ち去る、といったように記念すべきサイト命名の瞬間も、過去と現在の「ぺらぺらな」連続性とスピードで描かれる。『ゾディアック』（2007年）では、連続殺人鬼から殺人予告の暗号が送りつけられ、実際の犯行が起こるまでのサスペンス、時間の経過の複数のサイクルが作品の核をなしていたが、本作では真実が明かされるまでの宙づりの時間の体験の代わりに、過去と現在の出来事がほとんどシームレスに素早く入れ替わり、新事業に乗り出す若き起業家たちのスリルと熱情が強調される。
</p><p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/social003.jpg"></div>
</p><p>
　Facebook創立当時のトラブルの真実を解き明かすことが目的とは思えない本作が実際に迫ろうとしているのは、Facebookというメディアそのものではないだろうか。登場人物たちが映画の画面の表層で絶えずフォーカスイン/アウトするように、モニター上のFacebookの「Wall」（ユーザーの投稿が表示される掲示板のようなもの）にも様々なトピックスが書き込まれるが、常に注目の的となるようなものはなく、次々と新たな投稿がなされ、古いものは画面の下へと消えてゆく。時間の感覚についても同様のことが言えるだろう。それぞれのユーザーの「Wall」のページをひらけば、３分前の書き込みであろうが、２年前の写真であろうが、スクロールで簡単に表示することができる。日記帳や紙のアルバムのような「個人史」の物理的な厚みはない。過去と現在の手触りのある境界、人間の記憶の区切りは、「Wall」上には存在しない。そんなフィルムであっても、ラストは「青春映画」の古典を忘れてはいないようだ。外が暗くなった調停の会議室には、パソコンを前にまだ席に着いているマークと、彼に同情的な態度を見せてきた同世代の女性弁護士マリリンのふたりが残っている。オープニングと呼応する形で、マリリンはマークに、あなたはAssholeではなく、そうなろうと一生懸命になっているだけ、と言い残して立ち去る。彼は一瞬間を置き、Facebookにログインし、エリカがサイトに登録しているのを確認してかすかな微笑みを浮かべる。そして彼女にメッセージを送るか、「友達」の「リクエスト」ボタンを押すか躊躇し、後者を選ぶ。何度もコンピューターの更新ボタンを押して、彼女の「承認」を待ちながら……ネットビジネスの覇者は、たくさんの女の子に囲まれてシャンパンに溺れたかったわけではない。SNSをまったく利用したことのない者にはピンとこないかもしれない場面だが、未だにひとりの女の子のことが彼の心を離れなかった。自身が立ち上げたサイトによって、皮肉にもマークは自らが作り出した種の孤独と苦い想い出の瞬間を味わうことになる。
</p><p>
<div class="info">
『ソーシャル・ネットワーク』　THE SOCIAL NETWORK<br><br>
監督：デヴィッド・フィンチャー<br>
製作総指揮：ケヴィン・スペイシー<br>
原作：ベン・メズリック<br>
脚本：アーロン・ソーキン<br>
撮影：ジェフ・クローネンウェス<br>
出演：ジェシー・アイゼンバーグ、アンドリュー・ガーフィールド、ジャスティン・ティンバーレイク、アーミー・ハマー<br><br>

2010年／アメリカ／120分

</div>
<div class="copyright">Photos by Merrick Morton © 2009 Columbia TriStar Marketing Group, Inc. All rights reserved.</div>
</p>
]]></description>
         <link>http://www.flowerwild.net/2011/02/2011-02-26_185423.php</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">film</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">D・フィンチャー</category>
        
         <pubDate>Sat, 26 Feb 2011 18:54:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平倉圭『ゴダール的方法』書評 </title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="right-withtxt"><img src="http://flowerwild.net/images/hirakura001.jpg"></div>
　平倉圭の『ゴダール的方法』は、ひたすらゴダールへ内在するその徹底性において前例を見ない映画論である。著者は、「ゴダールの映画それじたいを分析の方法とする」（12頁）と述べる。知られるように、ゴダールは、編集台における映像と音響のモンタージュによって新たに「思考」を生成させる「方法」を練り上げてきた。著者もまた、デスクトップ上に再現された編集台を用いて、「再帰的に」ゴダールの映像と音響を分析する。外在的な言説は、一切、援用されない。
</p><p>
　従来のゴダール論のひとつの規範が、ジル・ドゥルーズが論じた、複数のイメージの意想外の連結──いわゆる「と et」の方法であると著者は述べる。それは、創造的な「つなぎ間違い」とも呼ばれ、顕彰されてきたが、著者は、それがゴダールの映像そのものの分析に関する限り、もはや紋切り型しか生産していないと断じる。著者は、「と et」によって広がる意味作用には目もくれず、その生成の場へと閉じこもることを選ぶ。「と et」、あるいは「間 entre」ではなく、注目されるのは、「類似 ressemblance」である。彼が問題にするのは、「と et」によるある種の連想ゲームではなく、そもそも連結がありえ／ありえず、あるいはイメージがただひとつでありえ／ありえない、そのような揺らぎが生成する「0.1秒オーダー」の操作の場である。平倉は複数のイメージが「類似」によって緊張関係に入るその場を「不確定な知覚の領域」と呼ぶ。その領域が具体的にいかなる「方法」によって生み出されるかを微視的な視線で解明した点に、本書の著しい画期性はあるのだ。
</p><p>
　たとえば1-3「実例教育」と2-1「ミキシング」。『勝手にしやがれ』（1959）のミシェルが叫ぶ「パパパパッ、パトリッツィア」のp音とt音にショットの区切りが合わせられる操作、あるいは、フランソワ・ミュジーと共同作業を始めた後の作品でとりわけ過激化する映像と音響の同期／非同期の諸操作を、本書は驚くべき緻密さで解き明かす。ただあっというまに通り過ぎるとしか思われなかった映像と音響の束が残した印象、それらがそもそもどのように生まれたかを、これほど明晰に語ることができるということに驚かされる。それら分析の内実について、これ以上、踏み込んで語るのは不可能なのでやめておこう。代わりに、その感触について述べておきたい。
</p><p>
　それは知的興奮と同量の「受苦」（これも本書のキータームである）を私にもたらした。一般に、静止画像とダイアグラムを用いた映像分析は、読むことに少なからぬ苦痛を伴う。辿るのに「不-自然」な労力が必要だからであり、また、それ以上に、「実際の映画」と自分の記憶の中の映画が、あまりにかけはなれていることを思い知らされるからだ。著者は、私の「怠惰」な記憶を、問答無用のダイアグラムを用いて、容赦なく矯正しにかかる。なぜそのようなことをするのか。精確なものが曖昧なものよりも、解像度の高いものが低いものよりも、望ましいからである。「鈍さ」とそれゆえの「不遜」を著者は徹底して憎む。だが、精度への希求にははっきりした方法上の理由がある。「不確定な知覚の領域」へ具体的に触れるために、というのがそれだ。
</p><p>
　「解像度を上げるときに明らかになるのは、知覚システム内部から排除することのできない普遍的誤認の能力である」（17頁）。ここに本書の不思議な逆説がある。ハイ・レゾリューションが追求されるのは、不可避的な「不確定」と出逢うためにである。極限まで精度を高めてもなお解消されない「誤認」の領域だけが問題であって、平倉はそれを「安易な誤認」と峻別する。その点では、本書はドゥルーズと対立する論陣を張っているように見えて、彼の映画論の核心にある「思考の不能力」に、一層、厳格に近づいている印象も受ける。ともかく、読者は、多数の切れ目の入ったタイムラインを辿りながら、ゴダールの映画がいかに構造的に「不確定な知覚の領域」へと観客を追い込んでいくかを、いわばスーパー・スローモーションで追体験させられることになる。
</p><p>
　著者がゴダールを純粋に内在的に経験しようとしたのと同じ姿勢が、この書物に対する読者にも要求されているといえるかもしれない。そして、静止画像とダイアグラムを用いたその「0.１秒オーダー」の執拗な分析を読書体験としてくぐり抜けることで、読者の身体にもなにがしかの変化が生じるだろう。その変化だけが、この書物に新しい価値を与えることができる。「本書が関心をもつのは別の見方-聴き方を発明すること、すなわち視-聴覚する身体の現実的な変容可能性だけだからだ」（20頁）。本書におけるもっとも感動的な瞬間は、すべての頁を辿り終え、ゴダールの映画と再び対面したときに訪れるはずなのだ。
</p><p>
　その点で、本書の刊行がゴダールの新作『ゴダール・ソシアリスム』（2010）の公開に同期するよう配慮されたことは重要な意味を持つ。『ゴダール的方法』をかたわらに、新しくその映像と音響を見る機会が読者に与えられるからだ。無論、平倉自身のこの作品への反応もおおいに気になるところだ。実際、この書物の最後、論述を最終的に『アワーミュージック』（2004）におけるゴダール自身の顔のイメージへと収束させ、「復活」をめぐる倫理的なマニフェストと重ねる箇所だけは、あまりにも見事に正しいような気がしないでもなかった。「後書き」で示唆されている通り、もっと無数の、はみだしたアイディアの断片が、渦巻いているはずである。ゴダールが現在もまだ新作を作り続け、そして『ゴダール的方法』が新しい映像と音響へと開かれていることは、途方もなく貴重なことである。
</p>

<div class="info"><br>
平倉圭『ゴダール的方法』，インスクリプト，2010年．<p>
</div>]]></description>
         <link>http://www.flowerwild.net/2011/02/2011-02-09_080157.php</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">journal</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">pickup</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">J・L・ゴダール</category>
        
         <pubDate>Wed, 09 Feb 2011 08:01:57 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『黒沢清、21世紀の映画を語る』（boid）刊行記念 特別公開講座「黒沢清の“答える！”」</title>
         <description><![CDATA[<p>
<strong>第12回ビブリオテック文明講座</strong><br>
出演：黒沢清（司会 樋口泰人）
</p><p>
<div class="right-withtxt"><img src="http://flowerwild.net/images/biblio101.jpg"></div>
イベント内容：映画講演集『黒沢清、21世紀の映画を語る』（boid）の刊行を記念して、黒沢清監督による特別公開講座を開催します。講座のテーマはずばり「答える！」。黒沢監督が、会場のみなさんの質問すべてにお答えします。「映画監督の仕事とは何か？」「脚本を書く秘訣は？」「最近見ておもしろかった映画は？」等々、どんな質問でもかまいません。通常のトークや講座とはひと味違う、白熱した議論が巻き起こるかも！？
</p><p>
参加者の方々は、黒沢監督に対する質問を各自一つずつご用意してご来場ください（質問の内容は問いません）。講座のなかで、司会者の指名によって質問を受け付けます。時間の都合により全員の質問にお答えできない可能性もありますが、なるべく多くの質問にお答えします。
</p><p>
日　時：2011年2月11日（金・祝）15:00～17:00（14:30開場）<br>
受講料：1,500円（当日精算）<br> 
予約制：電話または店頭にて受付　Tel.03-3408-9482<br>
予約受付：火～土曜 12:00～20:00　日、祝日12:00～18:00<br>
会　場：Bibliothèque（ビブリオテック）<br>
「詳細はこちら <a href="http://www.superedition.co.jp/biblio/event/2011/0211.html" target="_blank">http://www.superedition.co.jp/biblio/event/2011/0211.html</a>」
</p><p>
ゲスト略歴：<br>
黒沢清（くろさわ・きよし）<br>
映画監督。1955年兵庫県神戸市生まれ。83年『神田川淫乱戦争』で商業映画デビュー。2000年には、パリをはじめフランス数ヶ所で『CURE』『ニンゲン合格』『カリスマ』が公開され、カンヌ国際映画祭『ある視点』部門に出品された『回路』は、国際批評家連盟賞を受賞した。その後の作品に、『アカルイミライ』『ロフト』『叫』『トウキョウソナタ』などがある。現在、日本で最も重要かつ著名な監督として世界の熱い視線を浴びている。『黒沢清の映画術』ほか、著書、関連書籍も多数。
</p><p>
樋口泰人（ひぐち・やすひと）<br>
映画評論家。1957年生まれ。「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員を経て、98年に個人レーベルboid（ボイド）を設立。執筆活動と並行して、書籍、音楽CD、ビデオ等の企画・製作、映画の配給・宣伝を手掛ける。著書に『映画は爆音でささやく99-09』他。
</p><p>
書籍情報：
『黒沢清、21世紀の映画を語る』（boid）<br>
著者：黒沢清<br>
価格：本体2200円＋税<br>
書籍内容：映画とは何か、映画監督とは誰か、映画館とはどんな場所か？　 20世紀のスクリーンに掛けられたそんな巨大な疑問符に向けて、黒沢清が語りつくす21世紀の映画論。ソウルやアメリカ・イェール大学など、海外での講演を含め、2006年から09年までに行った12の講演を載録。
</p><p>

協力　boid（<a href="http://www.boid-s.com/" target="_blank">http://www.boid-s.com/</a>）

</p>]]></description>
         <link>http://www.flowerwild.net/2011/01/2011-01-15_221131.php</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">news</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">樋口泰人</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">黒沢清</category>
        
         <pubDate>Sat, 15 Jan 2011 22:11:31 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>K編集長のcinema days vol.5──オートクチュールの重力 </title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/tron001.jpg"></div><div class="captionlong">"TRON: LEGACY" Film Frame ©Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.</div>
</p><p>
　CGを初めて全面的に使用した劇場用長篇『トロン』（スティーヴン・リズバーガー監督、1982）が製作された当時、「カイエ・ドゥ・シネマ」の批評家だったオリヴィエ・アサイヤスは、本作をルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』や映画『カリガリ博士』（1919）と比しながら賛辞を隠さなかった。一方、オンラインゲームやSNSの流行を知らなかった時代の観客にとって、『トロン』の舞台そのもの、コンピューター・システムによって統制されたヴァーチャルな世界が共感を呼ぶには、あまりにも「早すぎた」のだろう。手で触れることのできる未知の生物との遭遇を描いた『E.T.』（1982）の記録的なヒットに対し、『トロン』の商業的失敗は明らかだった。スクリーン上でも、実生活でも、仮想空間というものが、ますます「リアルな」響きを持つ今日、かつて興行的失敗に泣いたリズバーガー監督を製作チームに迎え、『トロン：レガシー』（ジョセフ・コジンスキー監督、2010）が作られた。『トロン』の遺産は負と転じるのか、それとも……
</p><p>
　「『アバター』を超える未来の3D映画、誕生」という宣伝文句に多少なりとも惹かれて映画館に足を運んだ観客は、ディズニーのこれまで以上に精緻な3Dロゴが消えた後、肩すかしをくらうような印象を受けるかもしれない。本編が始まる直前、作品の一部は2Dでの鑑賞が前提になっているが、上映中に立体視用のメガネは外さないように、という「注意書き」がスクリーンに映し出される（少なくとも日本のマスコミ用試写では）。これはむしろ逆効果ではなかったか。緊急時以外に押すなとされるボタンを実際に押せば大変なことになるが、暗闇の中でひそかにメガネを外すくらい問題ない。にわかに、何が3Dで、何が2Dで描かれるのか、という抗えない興味を覚える。その答えを見出すのに、それほど時間はかからない。作品は、デジタル界を動かす大企業エンコム社のトップ、ケヴィン・フリン（『トロン』同様、ジェフ・ブリッジスが演じる）がある日突然、姿を消してから20年後という設定で始まる。ケヴィンを恨みながら成長した息子サム（ギャレット・ヘドランド）は、エンコム社の社運を賭けた新製品発表を鮮やかに妨害した後、父からのものらしい謎のメッセージを受け取る。手がかりを求めて主人公が思い出の場所、父が経営していた一見アナログなゲームセンターを訪れる際、フィルムは2Dを選択する。古めかしい建物を正面からシンメトリックに捉えたロングショットは、古典的な遠近法を見捨てることなく、2次元で提示される。見る者が日常世界における遠近法の効果を実感できる場面では3Dを濫用しない。フィルムは最後までこのルールに忠実であるように思われる。全編をショット単位で検証することはできなかったが、作品の進行につれて、メガネを外しても映像がぼやけない2Dのタイミングが自ずと分かってくる。特に現実世界でアクションが展開する前半部、観客の実体験からその場の様子を類推できるような風景の描写や、建造物の荘厳さを静謐なショットで引き出す場合、古き良き絵画的・写真的遠近法の効果、2次元の奥行きのイリュージョンが積極的に用いられる。『アバター』（2009）が独自のリアリズムに基づき、作品世界のトータルな3Dでの表象を披瀝したのとは対照的だ。
</p><p>
　芸のない推測であることは承知の上で言うなら、2Dの選択は、監督デビューでいきなり大作を任されることになったジョセフ・コジンスキーの経歴と切り離せないだろう。映画監督より以前に、ナイキやアップルのCMの映像クリエイターとして知られている彼は、コロンビア大学で建築学の修士課程を修了している。現実に存在しえる建物を、とりわけシンメトリーの美学で正確に描き出す手腕には、建築学のソリッドなバックグラウンドが感じられる。われわれの眼と身体感覚が長らく馴染んできた遠近法というマジックは、ここではすたれることはない。
</p><p>
　では肝心のデジタル3Dは、どこで力を発揮しているのか。まず目立つのは、あるオブジェ（主観ショットにおける武器、爆破で飛び散る何かの破片など）がスクリーンの「こちら側」に向かって飛んでくるように見える場面である。これは、まったく驚きに値しない、50年代ハリウッドの立体視作品から今世紀の3D流行の始まりまで観察される使用法だ。それに対して2Dのショットと機能的にコントラストをなしていたのが、アナログな透視図法の経験を超える時空間の創出のための3D援用である。理論的にコンピューター・システムの世界、トロン・シティでのパートが主な対象となる。主人公サムがディスクとライフ・サイクルを駆使して、命がけのゲームを繰り広げるシーン（『スター・ウォーズ エピソード１／ファントム・メナス』［1999］のポッド・レースの場面をはじめ、今なお参照される『ベン・ハー』［1959］スタイルの競技場、観客の配置）から、創造主に反旗を揚げたクルーが密かに武力を蓄える反逆軍の基地まで、3Dで描かれたデジタル空間の広がりとそこを埋め尽くす群衆は文字通り眩惑的で、実生活での知覚体験を瞬時に打ち消す途方のなさを見せつける。
</p>
<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/tron002.jpg"></div><div class="captionlong">"TRON: LEGACY" Film Frame ©Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.</div>
</p>
<p>
　すべてを3Dで表現できる時代に敢えて2Dを採用する確信犯的な「アナクロニズム」もさることながら、『トロン：レガシー』を特徴づけるのは、SF映画というジャンルにおいて成功した「スタイリッシュな」達成である。ここで言う「スタイリッシュ」とは、超未来都市の建築美や飛行マシンのデザインにとどまらない。一見人間の外観をした兵士の体が粉々に砕け散る、そのきらめく破片のひとつのような細部にまで、五感で耽溺したくなる独自のスタイルを確立しているのだ（パリの老舗セレクトショップcoletteが本作のフランス公開を前に、フィルムにインスパイアされたアイテムを特集するのも無理はない）。見た目も着心地も悪そうな、もこもこの宇宙服はもちろん登場しない。父を追ってトロン・シティに入ったサムが、撮影時に電気で発光するランプを縫い込んだスーツを着用する場面は、まるでファッション・フィルムの一部であるかのように見えるだけでなく、着る者の肌とボディを直に想起させるセンシュアリティーを持っている。また『ブレードランナー』（1982）や『スター・ウォーズ』シリーズなどと異なり、『トロン：レガシー』ではヒーローは白の発光、悪者は赤、とストイックに色のパレットを限定することで、グリッドで構成された作品世界のリアリティーを鮮やかに具現化している。特にクライマックスが近づくにつれて、この色づかいは3Dとの相乗効果を高める。
</p><p>
　動物や少年少女が主役を飾り、観客の「泣き」のつぼを外さないディズニー映画のストーリー展開をこの作品に期待するのは難しい。捨てられたと思いこんでいた父に対する息子サムの相反する感情、エディプスコンプレックスは中途半端であり、サムと有能な女戦死クオラ（日本では早々に放映が打ち切られたが、世界的に人気のTVシリーズ『House M.D.』のバイセクシュアルな女医役で知られるオリヴィア・ワイルドが好演）との恋愛はあまりにも淡すぎて、棚からぼた餅的な印象を免れない。だが、そうしたドラマをここに求める必要はない。3Dが映画産業だけでなく、携帯端末の分野にまで進出する今日、2Dと3Dのイリュージョンの見事な融合の果てに生まれたのは、新たな「不思議の国」とその徹底したスタイルだ。そう、ここでは飛行マシンも、単なるリアルさの執拗な追求を離れて、ふんわりと優美に停止する。まるでオーダーメードで仕立てられた重力をまとっているかのように。
</p><p>
<div class="info">
『トロン：レガシー』　　TRON: LEGACY<br><br>

監督：ジョセフ・コジンスキー<br>
脚本：エディー・キツィス、アダム・ホロヴィッツ<br>
撮影：クラウディオ・ミランダ<br>
プロダクション・デザイン：ダーレン・ギルフォード<br>
衣装デザイン：マイケル・ウィルキンソン<br>
音楽：ダフト・パンク<br>
出演：ギャレット・ヘドランド、ジェフ・ブリッジス、オリヴィア・ワイルド、マイケル・シーン、ボー・ガレット、ブルース・ボックスレイトナー<br><br>

2010年／アメリカ／125分
</div>
<div class="copyright">画像の転載および複製を禁じる。©Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.</div>
</p>]]></description>
         <link>http://www.flowerwild.net/2011/01/2011-01-10_101412.php</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">film</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">J・コシンスキー</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">［連載］編集長のcinema days</category>
        
         <pubDate>Mon, 10 Jan 2011 10:14:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『ブンミおじさんの森』で</title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/bunmi001.jpg"></div>
</p><p>
　最良の映画はラディカルなシンプルさを獲得する。本年度カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したアピチャッポン・ウィーラセタクンの新作『ブンミおじさんの森』（『Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives』アピチャッポン作品としては、ようやく日本初の一般公開決定！監督がコンペティションの審査委員長を務める第11回フィルメックスで一足早く見ることができる）はその鮮やかな実例になっている。
</p><p>
　肝臓ガンに冒されたブンミおじさんは、アピチャッポン自身の故郷でもあるタイ北部の静かな山間で、死期を迎えようとしている。実際の政治的問題（共産化をめぐるイデオロギーの対立、隣国からの労働者の移入など）を盛り込みながらも、フィルムは現実と幻想の安易な二項対立をあっさりと突き崩す時空間を創出する。作品はブンミおじさんと、彼のもとを訪れる別世界の者たち（亡くなった妻の幽霊、猿の精霊に姿を変えた息子）との遭遇を描くが、生者が住まう領域とされる、この世の現実世界と「向こう側」は、根源的な映画の技法と原則によって、その境界を魅惑的にぼやかしてみせる。映画のフレームが何か見せるものであると同時に隠すものであると主張したのは他ならぬアンドレ・バザンだが、この作品において亡霊が出現するために、おどろおどろしい効果音や奇をてらった演出は必要ない。目に見えないはずの存在が、確実に観客の目に映っていた主要登場人物たちとあっさりと共存するためには、戸外の夕食のテーブルを囲むブンミおじさんたちのショットが、鬱蒼とした夜のジャングルの中から、赤く発光する目をこちらにむける漆黒の猿男の画面に切り替わりさえすればよい。
</p><p>
　ここで作品の多くを先走って「解説」することは無粋というものだろう。観客にとって、何かを「見ること（何かが見えること）」とは「信じること（作品世界におけるそのものの存在）」である、という大胆不敵なテーゼが、得も言われる陶酔感とともに具現化されたフィルム、それが『ブンミおじさんの森』である。
</p><p>
<div class="info">
『ブンミおじさんの森』　UNCLE BOONMEE WHO CAN RECALL HIS PAST LIVES<br><br>

監督：アピチャッポン・ウィーラセタクン<br>
提供：シネマライズ<br>
配給：ムヴィオラ<br><br>

2010年／タイ・イギリス・フランス・ドイツ・スペイン／ 114分<br><br> 
第63回カンヌ国際映画祭パルムドール（最高賞）受賞<br>
日本公開2011年春／シネマライズほか全国順次<br>


</div>
<div class="copyright">©A Kick the Machine Films</div>

</p>
]]></description>
         <link>http://www.flowerwild.net/2010/11/2010-11-20_103844.php</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">A・ウィーラセタクン</category>
        
         <pubDate>Sat, 20 Nov 2010 10:38:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>無限メタ構造と宙吊り美学の限界 ――C・ノーラン『インセプション』</title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/inception001.jpg"></div>

</p>
<p>
　映画と夢は相性がいい。映画自身も夢を描写してきたし、鑑賞者の側も精神分析などを用いて、夢を分析するように映画を解釈してきた。しかも、この「夢」には、睡眠時に見る夢と、願望の投影である夢との両方の意味が託されている。テクノロジーによる芸術であり、同時に大衆娯楽でもあるが故に、映画は資本主義の欲望と併走し続けるという宿命を負わされてきた。全米興行収入二位の記録を更新した『ダークナイト』（２００８）の監督、クリストファー・ノーランもまた、その映画の持つ宿命と格闘せざるを得ない監督であるようだ。
</p><p>
　新作『インセプション』は夢を主題にした映画である。簡単に物語を紹介しよう。この作品世界では、夢に侵入する装置が開発されている。主人公コブ（レオナルド・ディカプリオ）は、相手の脳内からアイデアを盗む産業スパイだが、サイトー（渡辺謙）の夢に侵入して失敗し、逆にサイトーの依頼でライバル企業に「インセプション」をさせられることになる。インセプションとは「植え付け」のことであり、アイデアや観念を相手の頭の中に吹き込み、それを頭から離れなくさせることである。それは具体的には、サイトーのライバル会社の次期社長であるロバートに、「自分の道を歩め」と、エディプス・コンプレックスを刺激するメッセージを植え付け、巨大なコングロマリットとなった会社を「自発的に」分割させることである。
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　その物語と並行して、主人公コブの深層意識にあるトラウマの問題が語られる。本作の夢は、複数の人間の夢が混合しているので、コブのトラウマを解決しないことにはミッションが成功しない。コブには妻を失ったトラウマがあり、夢の世界で彼女と暮らすことに惹かれている部分がある。このトラウマを象徴する形象が「列車」である。かつて、夢の世界で長い年月を過ごした妻のモルは、「現実」に帰ろうとしなかった。そこでコブは、彼女に「ここは現実ではない」とインセプションすることによって、現実に戻らせた。作品における夢の世界は、夢の中の夢、そのまた中の夢と多重化が可能な構造になっており、コブと妻は、列車に轢かれて自殺することによって一段階上の階層に移動したことが示されている。だが「ここは現実ではない」というインセプションは、「現実」の家族のところに戻ってからも妻に効果を発揮し続ける。そして妻は、「真の現実」に帰るために、飛び降り自殺をしてしまうのだ。これがコブのトラウマになっている。
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　さて、この物語、どこかで観たような気がするのは、僕だけではないだろう。「現実」が「現実」でなかったり、多重化したリアリティが存在する物語は、ノーラン自身も影響を認めている『ダークシティ』（1998）『１３F』（1999）『トータル・リコール』（1990）などのテーマと同じである（「クリストファー・ノーラン・インタヴュウ」『SFマガジン』2010年9月号）。さらに、夢の世界の深層（この映画内部では、夢は何段階もの階層になっている）によって、トラウマを解消する物語は、典型的な精神分析の形になっている。夢の中に何度も妻が出てきて邪魔をするところは北野武の『TAKESHIS‘』（2005）のようでもあるが、最も顕著に影響を及ぼしているのはクローネンバーグなのではないだろうか。麻薬によって現実か夢か分からなくなった世界を彷徨い、かつて射殺した妻の亡霊に常に脅かされる、バロウズ原作の『裸のランチ』（1991）や、脊髄にゲーム装置を装着して複数の人間が仮想現実に入る『イグジステンズ』（1999）の影響が大である。特に、『イグジステンズ』は、「現実だと思ったらそこもまたゲーム」だというどんでん返しの仕掛けがある点においても、本作への影響が大である。（その『イグジステンズ』はフィリップ・K・ディックの「パーキー・パッドの日々」へのオマージュである）
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　とはいえ、特にクローネンバーグや北野武などと比較した場合、あるいはフェリーニなどと比較した場合、この映画に出てくる「夢」はあまりにも構造的だ。夢が、基本的には「都市」あるいは「建築」なのだ。『イグジステンズ』の場合は、ぬるぬるねちょねちょした気持ち悪い世界が「深層」に広がっている。さらに、映画のカットが変わることで夢の中に移行するという演出により、いつ階層が移動したのかがわからないシステムになっていた。このような映画の規則を使った「階層移動の混乱」を用いている点で、クローネンバーグの方が才があるだろう。『インセプション』における夢への移動は、あまりにも説明的すぎるのだ。さらに、クローネンバーグはお得意のエロティックな「内臓感覚」の演出により、ゲーム機が生物であったり、肉体の中に物体が入ったりと、触覚などの視覚以外の感覚を揺さぶる演出が多い。それに対し、『インセプション』はあまりに視覚的である。視覚的であり、かつ、古典的な遠近法的な構図や場所を多く用いている。夢の中がエロティックな場所というよりは、理性による均整の取れた場所であるという印象の方が強い。</p><p>

<div class="right-withtxt"><img src="http://flowerwild.net/images/inception003.jpg"></div>　さらに、ギャグや笑いの要素がほとんどないことも特記すべきである。『TAKESHIS‘』では、夢的な世界の中で支離滅裂なギャグなのかどうか不明なものが連発する。それと比べて、『インセプション』の夢は、どこまで深層に下りても現実のようだし、銃撃戦が起きている「ハリウッド映画」のような夢でしかない。一般的な精神分析理論において「深層」に存在するとされる神話的類型や記号の戯れとは明らかに異質の「夢」描写をしているのだ。これらの「夢」の特性は、この映画を理解する上で重要な点である。
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　フロイトの考えによれば、夢＝無意識の世界は、言葉遊びや類似性の原理で動いている。「変形」などの作用によって、直接現しにくいものが現れる。それに対し、『インセプション』の夢には、この要素がほとんどない。例えば『不思議の国のアリス』なら現れるような、遊びやナンセンスがほとんど登場しない。しかし、これは単にユーモアがないだけなのか。それとも精神分析理論を意図的に無視したのだろうか。この夢の描写の「生真面目さ」こそがこの作品の肝である。
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　『インセプション』に登場する夢の階層を確認してみよう。まずロバートと一緒に飛行機に乗っている、「現実」の層。ここを第一層と仮に呼ぶ。そしてロバートの夢の中。ここはニューヨークのような都市であり、車による銃撃戦が起こる。これを第二層と呼ぶ。そして第三層は、ホテルの中である。そして第四層は、ジャッキー・チェン出演の『ファイナル・プロジェクト』（1996）やテレビゲーム『メタルギア　ソリッド』（2001）を思わせる、雪山の中の要塞基地。ここまで、全ての階層で「潜在意識」は銃撃してくる「人間」として現れる。そして夢は「アーキテクト」と呼ばれる人物が「設計」していることになっている。一瞥して分かるのは、全て「建築的」夢なのだ。水や雪も登場するが、基本的には建物ばかりが強調されている。そして第五層に至ると、「建築」的意図は明瞭になる。沢山のビルが立ち並ぶグリッド的な世界だが、そのビルは次々と倒壊している廃墟なのだ。
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　『マトリックス』（1999）を意識したという本作の「夢」の意図は明らかだろう。「アーキテクト」（建築家）とは、『マトリックス　レボリューションズ』（2003）において、ボードリヤールの概念、高度資本主義＝ハイパーリアルのメタファーとしての「マトリックス世界」を設計した人物のことである。最近では、インターネットの設計を行う人間のことも指す。つまり、夢の中が「言葉の戯れ」などではなく、きちんと設計されているのだ。この世界における夢は、かなりコンピュータ的な仮想現実と重ねあわされている。とはいえ、映画と夢と仮想現実を重ね合わせること自体は別に珍しくもなんともない。それどころか、どこか映画内の「ゲームの規則」についての混乱を招く印象が強い。
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　第五層には失われた妻がいる。そして彼女と一緒にこの世界に留まるという選択も残っている。だが、少女アリアドネ（ギリシャ神話に出てくる、巻糸で迷宮からの出口を指し示す少女。その他の登場人物もアーサー王などの神話的モチーフから採られている）の否定によって、主人公コブは現実に戻ることを選択する。このこと自体だけを見れば、『ラブプラス』などのように仮想現実の恋人と耽溺する「セカイ系」的自閉世界を捨て「現実に帰れ」というメッセージを発しているかのように見える。冒頭が日本から始まるのも、そういう意図に見えなくもない。そして物語は、インセプションに成功し、家族と再会し、「現実」を生きることにしたコブの「トラウマの乗り越え」というハッピーエンドを迎える、かに見えるが、そうではない。この作品では「現実」の層にいることを確認するために独楽が使われていた。それが倒れれば現実である。だがこの映画の結末で、独楽は、倒れそうで、倒れない。「現実ではないかも」という疑いに観客を誘うのだ。
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　確かに、ハッピーエンドとして解釈しようとすれば、不整合な点が多く見つかる。例えば冒頭でコブは海岸に打ち上げられ、年老いたサイトーと会い、物語はそのまま進んでいくのだが、なぜかそのシーンと同じシーンが後半にも現れる。単線的な時間ではこのようなことは絶対に起こりえないのだ。ノーランは映像や技法での冒険をそれほど行わないが、『メメント』（2000）はじめ、時間軸を移動させる罠だけは多用する。そのため、本作の時間軸の移動も、注目する必要がある。
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　時間軸の問題を突き詰めて考えると、整合の取れる解釈はこの「現実」の第一層も基盤となる現実ではなかったというものしかない。冒頭のサイトーへのインセプションは新幹線の中で行われる。そしてその失敗の後、サイトーが主人公の救い手として、世界各国で、唐突に、都合がいいとも思えるほどに現れる。夢の中に、コブのトラウマである列車が何度も現れることを思い出して欲しい。それは、ホテルの廊下、飛行機の座席などの形で図像的に反復される。とすれば、最初の新幹線の時点で、それはコブの夢なのではないのだろうか。夢の持つ願望充足の機能が、救いをもたらす存在（サイトー）を生み出しているのだ。
</p><p>
　とすると、妻が「ここは現実ではない」と言って自殺したことは、実は妻の方が正しいということになる。そして、コブが思っている「現実」が「現実」ではないのなら、そして特権的な「現実」がどこにもないのなら、夢の中で暮らそうとした妻の方に理があるという可能性にまで開かれる。
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<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/inception004.jpg"></div>

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　さて、基本的にはここまでが用意された読みである。このような「現実が現実ではない」あるいは「コブがいるのは全部仮想世界で仮想人格」という物語は、とてもありふれている。そのことだけで本作を評価することは出来ない。「現実が現実ではない」というハッピーエンドに対する悪意も、驚けるほどではない。むしろ、そのような「現実」と「虚構」を巡る「宙吊り」の感覚は、2010年にやる必要があるのか疑わしいとすら思われる。
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　ノーランは基本的には「宙吊り」の監督である。記憶と現実、被害と加害が反転する『メメント』がそのテーマを最もよく現していた。『バットマン　ビギンズ』（2005）『ダークナイト』では、正義と悪の宙吊り状態を描いた。それは図像的には、『ダークナイト』における、ジョーカーとバットマンがロープで宙吊りにされるシーンで象徴的に示されていた。</p><p>

『バットマン　ビギンズ』において、正義を行使しようとするバットマンに対して、執事が「trick and inception」が大事だと述べているのも本作への補助線になるだろう。『プレステージ』（2006）は、二人の奇術師を巡る、「魔法か現実かテクノロジーか」を宙吊りにする「トリック」のテーマを描いていた。そして今作は「inception」つまり、思想のコントロールの問題にチャレンジしている。</p><p>

　ノーランは時代に祝福された監督である。『メメント』で描いた、過去や記憶の問題、トラウマの問題や、加害や被害の反転の問題が、その後の９・１１と重なったからだ。９・１１がトラウマとなって混乱したアメリカにおける「現実感」と「正義」の問題系をノーランは主題にし続ける。この両者は分かちがたく結びついているが、主にそのニ系列をノーランは描き分けている。</p><p>

　テロ後のアメリカが行ったと言われている、戦争には付き物の「情報操作」や「思想コントロール」の問題もまた扱っていく。「情報」によるコントロールに覆われていく気配のアメリカの空気に呼応するかのようにフィルムに定着させていく。言葉やメディアによって世界観・現実感を構築する生き物である人間にとって、情報がコントロールされることは「現実」に自分が接していないのではないかと不安を巻き起こす。『インセプション』『プレステージ』『インソムニア』『メメント』にはその「現実」感覚の揺らぎを扱っている。</p><p>

　一方、『バットマン　ビギンズ』と『ダークナイト』では「現実」というテーマは出てこず、「正義」の問題に集中している。このニ作は、正義と悪を巡る、崇高な悲劇とでもいうような構成になっており、メタ要素はほとんどない。しかし、『バットマン　ビギンズ』の、恐怖を増大させ、相互に人間がゾンビのように見えるというガスは、恐怖を増大させようとするメディアのメタファーだろう。このガスにカメラも影響を受けたかのように、人々はゾンビ映画の技法で描かれてしまう。</p><p>

　以上確認したように、彼が祝福された、すなわち作家性と観客の志向が一致した幸福な状態にて映画制作を行うことができたのは、９・１１によってである。だが、それは本来、祝福されてはいけないものである。不吉なものによって祝福されてしまったという両義性が彼には存在する。そしてその作家性の底にあるトラウマの露呈という形で「第五層」を見るならば、そこにある倒壊したビルの群は、むしろコブのトラウマというよりは、ノーラン映画の基層にあるトラウマとしての９・１１の光景を描いているように見える。
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<div class="right-withtxt"><img src="http://flowerwild.net/images/inception002.jpg"></div>


　そう考えるならば、コブの悪夢的なトラウマは「列車」ではないのだ。夢や未開民族の思考は類似性の原理で働くが、外傷性神経症を負った患者もまた、似たような図像やシチュエーションにかつての記憶を甦らせて同一視して反復してしまう傾向が存在する。コブにとってのトラウマは、本当は「列車」ではなく、筒状の、窓がたくさんあるものなのだ。つまり、「飛行機」と「ビル」である。何度もそれが反復想起される。重力が狂い、回転するホテルの廊下もまたそうであろう。そこには崩壊と回転による混乱が生じている。
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　第二層で主人公たちは橋の上に宙吊りになり、そこから落下していき、水面に着地した際の衝撃で目が覚める。衝撃を受けると、一段階上の階層で目が覚めるのだ。では、飛行機に乗っている第一層が「現実」ではないと仮定するならば、そこから目が覚めてもう一段階上の階層に行くためには、その飛行機は何を行わなければいけないのか？　何かへの突入か、墜落である。
</p><p>
　中沢新一は、「イスラームの論理は、世界がバーチャル化していくことを許さない」と延べ、９・１１の攻撃は、そのメッセージを持っていると考えた。イスラームの論理は、ロゴス＝神の法と、現実そのものが一体化していて、「言葉と物」のように分割できないと考えている。ましてや実体と遊離した言葉の自己増殖を認めない。例えば、無利子銀行の「利子をとらない」点なども、この考えに由来している。さらに、イスラームは、宗教的なものの図像的提示も禁止している。基本的に、ロゴス＝リアルの世界観を信じており、イメージは極端に抑圧されている。この論理からすると、映画やメタ構造などは基本的に認め難いものであろう。
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　本作『インセプション』が発するメッセージである「現実の基層はない」は、このイスラームの論理に対する、映画としての反逆そのもののようである。バーチャルしかないが、その中で騙されていれば幸せだという、映画の一次的なハッピーエンドの持っているメッセージもまたその意味を持つ。
</p><p>
　だが、世界が全て仮想現実内の産物であり、無限の入れ子であると思いこみたい「欲望」の基層にまでこの映画は辿り着いているのだろうか。夢の割に、生真面目な形式性ばかりが目立つのは一体どういうことなのだろうか。この「夢」は、本来の人間が見る「夢」の猥雑な部分がほとんど剥奪されている。それが故に、見ていて退屈さの印象が強く残るのだ。仮に好意的に現代の人間は、無意識までコンピュータのように構造化されているという主張だと受け取っても、そのようなテーマ自体は特に新しいとも言えないし、基本的には人間が見る娯楽作品である映画としては失敗であろう。
</p><p>
　ノーランがこの日本語のレビューなど見ないであろうことは前提で苦言を呈するならば、ポストモダンの「底が抜けた」といわれる社会で、正統性や真理性が疑われているこの世界やメディア環境では、決定不可能性の中で宙吊りにされるなどというのは、現実の生活の常態であるに過ぎない。そこを「生活」の必然性により突破していかざるを得ないという世界を我々は生きているはずである。そのような際にこの「宙吊り」を見せられても、「それじゃなんの解決にもならないし、遅延させようとしているだけ」という印象ばかりが強く残る。無駄に長いこの上映時間の退屈に対する苛立ちは、決して倫理的な苛立ちだけではなく、この映画の生真面目な鈍感さに対する苛立ちでもあるのだ。
</p>
<p>
<div class="info">
『インセプション』　INCEPTIOＮ<br>
<br>
監督・脚本：クリストファー・ノーラン<br>
撮影：ウォーリー・フィスター<br>
音楽：ハンス・ジマー<br>
製作：エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン<br>
出演：レオナルド・ディカプリオ、渡辺謙、ジョゼフ＝ゴードン・レヴィット、マリオン・コティヤール、エレン・ペイジ、トム・ハーディ<br><br>

2010年／アメリカ／148分<br><br>

公式HP：<a href="http://www.inceptionmovie.jp/" target="_blank">http://www.inceptionmovie.jp/</a>
</div>
<div class="copyright">
©2010 Warner Bros. Entertainment Inc. 
</div>
</p>
]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">C・ノーラン</category>
        
         <pubDate>Tue, 10 Aug 2010 15:02:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>理念なき出発 ──ペドロ・コスタ インタビュー by 舩橋淳 vol.2</title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/pedrofunahashi102.jpg">
</div>
</p>
<p>
コスタ　ジャンヌとほかのミュージシャンの間には違いがあります。ジャンヌは歌を歌いたがっていますが、しかし歌手ではありませんし、歌手になろうとしているわけでもありません。毎日スタジオにはいません。ルドルフはといえば、毎日ギターを弾いていて、これまでもずっとレコードを作ってきました。彼はミュージシャンであり、つまりそれが彼の人生なのです。そう、私がスタジオで彼らを見ているとき、ジャンヌはまるで蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のようでした。友好的な巣ではありますが、彼女ははじめ戸惑っていました。すっかり驚き、魅了されていたのです。音が左右から聞こえてきて、「OK」「良くない」「これをやってくれジャンヌ」「あれを試してくれ」と言われるのですから。最初のショットではヘッドフォンから自分自身の声を聞いて、とても驚いていました。
</p><p>

舩橋　プレイバックのことですか。
</p><p>

コスタ　 そう、プレイバックです。あれはダイレクト・サウンドです（後から合成したのではありません）。彼女は驚いて「この音はどこの音？」「これは私の声？」と言っていました。そう、私はこうした状況に対して、クロースアップを選んだのです。というのも、あまりに多くの出来事があるように思えたからです。その後、よりワイドな画面になります。いくつかの状況では、彼女はルドルフと一緒に映っています。そのようなショットが3、4ありますし、ロングショットもあります。ここは感動的でした。寛容あるいは庇護がまさにあそこにあったからです。
彼らふたりに「どこか別のところに動いたり、また戻ってきたりしてもいいし、そうすることで自ら編集したっていい」と言っていました。クロースアップがいくつも連続するわけではありませんでしたし、あるひとつのショットの中で、彼らが、彼ら自身のフレームを組織することができるのです。確かにフレームを決めるのは私です。しかしそのうえで、出演者たちはフレーム内のフレームを選ぶことができます。ある種の自由があったのです。
</p><p>

舩橋　キャメラは一台だったのですか？
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コスタ　はい。サイレント時代の偉大な映画作家がそうであったように。その後、こうしたやり方は消滅しました。おかしなことです。彼らの映画には、ワイドショットの中にクロースアップがありました。シュトロハイム、あるいはドライヤーもそうです。ドライヤーの『ゲアトルード』（1964）……これはとても難しい映画です。なぜなら、ショットの中にたくさんのショットがあるからです。あまりに多くのことを見なければならない。
</p><p>

舩橋　例を挙げてもらえますか。
</p><p>

コスタ　ほとんどすべてのシーンがそうで、事物の平等性といったものがあるのです。あるショットの中で、どれかがより重要だということがない。ゲアトルードがより重要というわけでもないし、相手役の男性、彫造、湖、木、そのすべてが同等に重要なのです。観客は自分の視点を選ぶことができます。とてもワイドで大きな視野の中に導かれると同時に、観客は、その中で旅をすることができる。それがドライヤーの素晴らしいところです。『ジャンヌ・ダルク裁判』から『ゲアトルード』に至るまで方法は異なりますが、得られる結果はほとんど同じです。『ジャンヌ・ダルク裁判』ではほとんど全てのショットがクロースアップでしたが、『ゲアトルード』では、ほとんどがワイドショットで、静的です。
</p><p>

舩橋 『ゲアトルード』を観ると、ワイドショットでありながら『ジャンヌ・ダルク裁判』のクロースアップと同様の、もしくはそれを凌ぐ強度をあらゆる画面に感じます。雑多な空間の中に人を配置したと言うよりも、ここしかないという位置に事物と人間が収まっているという感じで、広い視界の中にも視線の行き場が美しく統御されているというか。それでワイドショットがクローズアップであるかのような画面の吸引力を発揮しているといいましょうか。観客は彫造や壁に掛かった絵やピアノなどそれぞれ視界に収めつつ、その中で女性（ゲアトルード）を位置づける･･･思うにドライヤーは照明やフレーミング、人の動きにより、画面に注がれる視線をいかに導くかについてとても高度な技術をもっていた。この「クローズアップ性」に関し、何か似たものを感じますか。それとも全く関係はないのでしょうか。
</p><p>

コスタ　『何も変えてはならない』と……？
</p><p>

舩橋　『ゲアトルード』です。
</p><p>

コスタ　ああ！（ため息）。正直言ってドライヤーはとても恐ろしい。なんというか、ジョン・フォードや小津は、この地球上に生きていた人間で、かつ偉大な芸術家だったといえます。しかし、ドライヤーは、どこか奇妙なところがあります。どれか一本ということは出来ませんが、『怒りの日』（1943）、『奇跡』（1954）、『ゲアトルード』（1964）、あの年代にああいう類のことをするというのは……変態（wierd）です（笑）。<br>
『ジャンヌ・ダルク裁判』と『吸血鬼』（1931）も撮っているというのは本当に驚嘆すべきことで、そこには驚くべき架橋があり、驚くべき道があると思います。小津の場合、序々にヴァリエーションが生まれてゆき、建物の全体がゆっくりと序々に見えてくるのですが、しかしドライヤーの場合、ギロチンが落とされるかのような具合です。50年代の映画ではそのように物事が起きます。私にとって、とても特殊な映画作家です。ある意味では、極めて遠くにいるのですが、同時に、最も再考する必要のある映画監督です。ドキュメンタリーであれフィクションであれ、映画を作ろうと思うなら、ドライヤーを避けては通れません。
</p><p>

舩橋　そんなドライヤーのショットの強度となにやら通底するものを、僕はあなたのクローズアップに感じました。今日の映画ではこのようなクロースアップには滅多にお目にかかれません。撮るのがとても難しいというのが、理由の一つとしてあるのではないでしょうか？
</p><p>

コスタ　いえ、撮るのが難しいとは思いません。秘密なんてありません。芸術的な意味での秘密は存在しません。皆さんご存知のように、私は小さなビデオキャメラで撮影しています。偉大な撮影監督、たとえば40年代ハリウッドの達人がいるわけでもありません。照明が使える場所ならばどこででも撮っています。したがって、問題は別のところにあります。あなたが撮ろうとしている人物と、あなたとの関係性が問題なのです。理解すべきなのは、この映画が、私の望んだ映画であるということです。出演者たちも、私にそこにいてほしいと望みました。ところが映画は常にそうであるわけではありません。それははっきりしています。<br>
「ナショナル・ジオグラフィック」はご存知ですか。動物のドキュメンタリーです。私には、動物たちが撮られたがっているとは思えません。作り手は、どのような関係を、虎や蝶と築くことができるでしょう。不可能です。もっとも、科学者はただキャメラを調査に用いているのだとも言えます。私自身も同じことをしています。私のキャメラは出来事の中の些細な喜びや恐怖を発見するための小さな顕微鏡のようなものです。それはそれで楽しく、面白いことです。こうした映画作りは、多くの場合、とくに撮り始めたばかりの若い映画作家にとって、とても手軽です。しかし、人間相手に限らず、外へ出て撮影をするならば、あらゆる事物が、等しく欲望を差し向けられていなければなりません。作り手は何かを撮りたいと欲望する必要がありますが、しかし事物からもあなたに撮られたいと欲望される必要があります。
フォードや小津のような私にとっての真の映画作家は、常にもっとも観照的（contemplative）な映画作家です。東洋的な観照でさえあります。観照とは、何物かに相応しいものであろうとすることです。あの風景、あの山々、あるいは茶碗、灰皿、そこに親密さの感情を覚えることがありえますし、そのときそこには交換があります。そこに功利主義的態度はありませんし、物語の中で役に立つショットであればいいということではありません。もちろん、それらは物語の部分や契機を成すわけですが、ショットはその先へ行くのです。小津の映画（『晩春』［1949］）における花瓶のショットは、ヒロインは物思いに耽っていることを伝えます。原節子が考えている顔が映され、次に、花瓶が映され、また原節子の顔が映されます。
</p><p>

舩橋　小さなキャメラで撮影するとき、被写体と信頼関係を切り結ぶことをおろそかにして、気軽に廻してしまうことがあるのかも知れません。もっともキャメラのサイズに関係なく、キャメラの前と後ろの人間が、平たく友好的な絆はもちろん、職業的な信頼関係すら築けていないのではないかという作品もざらにあって、そんな作品はクローズアップを見ればまずわかる。
</p><p>

コスタ　キャメラのサイズは重要ではありません。小さければいつでも持ち運びできますし、35ミリキャメラと15人のスタッフがなくても、それは主要な問題ではないのです。私は小さなキャメラをいつも35ミリであるかのように使っています。同様の気配りをし、同様の重要性と、同様の信頼を置きます。コンピューターでの編集も同じです。ファイナルカットプロであれ、アヴィッドであれ、私にとってそれはまさにムヴィオラのように古い伝統的な編集台なのです。重要なことは、あなたが撮影している人々とあなたの間で何が起きているかです。現実とあなたがどのような関係を持つことを選び、欲するか。どのような手段でそこにアプローチするか。
</p><p>

舩橋　なるほど。
</p><p>

コスタ　ゴダールを常に思い出すのですが、キャメラは事物を撮影するためにそこになければならず、キャメラを構える以前、それら事物は存在しないのだと彼は言いいます。私と、キャメラと、そして事物。この三者は平等です。したがって、キャメラは冷たい機械ではありませんし、気まぐれな機械でもありません。上位にあるのでも下位にあるのでもなく、同じレベルにあります。私は事物を見せるためにキャメラを必要とします。事物は何かと結びつくためにキャメラを必要としています。<br>
しかし、事物はもはやその生命について語っていません。同じ物語、同じ動きを繰り返してばかりいるという感覚……たとえば、ナショナル・ジオグラフィックがそうですが、動物を撮るのはとても難しいことです。犬や猫を見るのは素敵なことかもしれませんが、違う方法もあります。しかしそれは大変に難しい。有名なブレッソンのロバの映画があります……
</p><p>

舩橋　『バルタザールどこへ行く』ですね。
</p><p>

コスタ　これはまったくナショナル・ジオグラフィック的ではない。
</p><p>

舩橋　優しさがあります。
</p><p>

コスタ　ええ。あのロバはほとんど人間のようです。つまりブレッソンは応答する責任を持って、相手との絆を重んじ、困難な作業をしようとしているのです。映画を撮るということは、とても大変な仕事です。そしてそこに秘密はありません。ゴダールは天才で、小津は天才で、ジョン・フォードは天才で、他の誰それには才能があって、などといろいろ言うことができますが、しかしそこに秘密などないのです。
</p><p>

舩橋　あなたは何度も『ワン・プラス・ワン』（1968）に言及しています。『何も変えてはならない』というタイトルは、彼が『ゴダールの映画史』で使ったフレーズの前半部分です。あなたはキャリアにおいて、ジャン=リュック・ゴダールから多くを学びとって来たといえますね。
</p><p>

コスタ　いえ、全然……（笑）。
</p><p>

舩橋　全然、ですか？ 彼はとてもやっかいな人物ではありますが……
</p><p>

コスタ　おそらく多くを学んでいるのでしょうが、でも、よくわかりません。
</p><p>

舩橋　会ったことはありますか。
</p><p>

コスタ　彼からはファックスが送られてきます。直接話したのは二度です。ある映画祭で偶然会って、少し言葉を交わしました。もう一度は、ダニエル・ユイレの葬儀のときです。その後で、彼がファックスを送ってきたのです。彼はファックスマンだから（笑）。一度、私が何か質問をして、それで返事が戻ってきました。そして一度、彼の奥さんが私に電話をしてきて、彼のメッセージを伝えてくれました。私が作ったストローブの映画と『ヴァンダの部屋』がとても気に入ったのだそうです。<br>
いまだにゴダールとストローブには、私が若い頃にレコードを買ったときと同じ興奮を覚えます。「ホワイト・アルバム」が出たとき、私はレコード屋に走って行き並びました。彼らふたりが、今日もまだ、そのように興奮することのできる映画作家です。
</p><p>

舩橋　昨日、『ワン・プラス・ワン』を見直しましたが、あれはどう見てもローリング・ストーンズの映画ではなく、ゴダールの映画でした。信頼関係というよりも、異種対抗デスマッチでゴダールの勝利といった方がよいでしょうか。
</p><p>

コスタ　ロックを使う映画は無数にあります。しかしロックは映画と不幸な関係しか持っていない。いい映画はほとんど3本、4本、5本と数えらえるほどしかありません。ローリング・ストーンズについては、ロバート・フランクの素敵なフィルムがあります。しかしほとんど知られていません。『コックサッカー・ブルース』です。
</p><p>

舩橋　観ました。とても美しいフィルムですね。
</p><p>

コスタ　ミック・ジャガーのキャラクターが──「キャラクター」と言っておきましょう──とてももの哀しいのです。
</p><p>

舩橋　『何も変えてはならない』の撮影中あるいは編集中に『ワン・プラス・ワン』を観ましたか？というのは、今日の対話のために二日前に観てきたのですが、非常に動揺しました。ローリング・ストーンズがスタジオでリハーサルをしているのですが、ゴダールがキャメラをスタジオの中から外の海岸へ移動すると、クレーンの上に女性がいて、そしてクレーンは黒と赤の旗を立てて上下に動きます。
</p><p>

コスタ　ええ。ロマンティックなフィルムです。
</p><p>

舩橋　はい。とてもロマンティックなフィルムです。そして同時に政治的なフィルムです。
</p><p>

コスタ　このフィルムは、あの時代、あの場所におけるドキュメンタリーへと傾斜しています。あの時期のものの考え方、生き方が、フィクションを遮断しています。想像的なものを与えてくれないのです。スタジオの場面も、彼が行きたいところへついていくしかありません。そのような調子なのです。<br>
私はそれとは違うことをしようと試みました。というのは、ジャンヌがいてくれたからで、この女性の登場人物が、私の心を想像的なものへと開いてくれました。歌の多くは、女性の視点から語られています。たくさんのひとが私にジャンヌの顔のことについて言っています。「ああ、マレーネ・ディートリッヒみたいだ」とか、「吸血鬼映画のようだ」などです。ジャンヌのなかには、異なった顔があります。そのうちのいくらか少しは私から来ているし、そして彼女自身から来ているし、照明、歌から来ています。
</p><p>

舩橋　私見ですが、あなたがとったアプローチは『ワン・プラス・ワン』とは違います。なぜならこちらではアンヌ・ヴィアゼムスキーが登場するのは、ほとんどフィクションといっていいからです。彼女は女優であるし、この場面は政治的寓意に満ちたゴダールの演出以外の何ものでもない。あきらかにゴダールの意図は──彼の意図など無論わかりませんし、誰にもわからないと思いますが──ローリング・ストーンズのリハーサルを余すところなくドキュメントし、彼らがいかにして楽曲を作るかを観客に理解させるといったものではないでしょう。それどころか、キャメラはリハーサル・スタジオから遠く離れ、突如どことも知れない浜辺で、クレーンの上に載ってしまいます。
</p><p>

コスタ　彼は反応の素早い（reactive）人間です。より迅速に反応しようとする機械のようです。実際に彼が日常でもそうなのかどうかわかりませんが、話によると、とても素早くて、スポーツマンで、敏捷な人だそうですね。そして60年代、彼は他のどの映画作家よりも素早く反応しました。彼は何が起ころうとしているかわかっていた。ローリング・ストーンズ、ブラック・パンサー……ほかにもたくさんあります。まるで誰よりも早く地震を探知する男です。<br>
　私はそういうタイプではありません。私の世代の映画作家、ジャ・ジャンクーなど現在映画を撮っている作り手には、誰も彼のような作家はいない。しかし、我々の殆どがストローブよりもはるかにゴダール側の「肋」から出発しています。というのは、ストローブはある意味でフォードや小津やドライヤーと同様に、映画だけを重要視しない。映画作りは、大工仕事のようになされなければならず、フィルムが事柄の中心にあるのではない。それはひとつの部分であって、映画を作るときはいい仕事をし、ベストを尽くすということです。つまり問題なのは信念です。政治、道徳について、あるいは倫理についての信念です。もし道徳、政治、生き方に確信をもっているのであれば、フィルムはすでにそこにあります。それら全ての事柄についてのフィルムがあるのです。社会や国家、兵士たち、女性たちについての理念があるならば、フィルムはすでにそこにあります。<br>
私たちはそこまで強くはありません。信念の人ではありません。ゴダールも違います。私たちは形式とともに始めます。ストローブは形式とともに始めることはありません。「これが世界についての私の理念だ」という具合に、理念とともに始めるのです。ゴダールは決してそのようには言いません。彼はこう言います。「これが世界だ。あるいは、それも世界だ。たぶん、あれも。これも好きで、それも好きで、あれも悪くない……」。ゴダールとストローブは、私にとり現代で最も重要な映画作家です。
いずれにせよ、私たちは形式とともに始めます。それから幾ばくかの幸運と、幾ばくかの労働によって、うまくゆけばある理念に到達することができます。隣人のヴァンダやヴェントゥーラ、それからジャンヌたちと労働するわけですが、なにか或る理念とともに始めることはできません。私はそこまで強靱ではありません。不幸にも、私たちは一つの理念とともに映画をはじめる能力を失ってしまったのです。
おそらく、だからこそ私はジャンヌの顔とともに始めたのです。あるいは、ルドルフを見るジャンヌ、ジャンヌを見るルドルフ、そうした小さな事柄、それからジャンヌが曲に合わせて想像した様々な物語、そうしたものと一緒に始めたのです。やがて撮影の最中、いや、大半は編集の最中ですが、フィルムをより堅固なものに組み立て、そして、いくつかの理念を掘り出すのです。
</p><p>
舩橋　そのような方法はフィルムを世界へと開き、あなたに自由を与えるのだと思います。あなたは「弱い」と言います。しかし言葉を替えるならば、世界の豊かな選択肢に対してオープンでいられるということでもあるわけです。そこに、ただひとつの理念から出発する映画とは異なる、現在を掴み取る可能性があるとはいえないでしょうか。
</p><p>
コスタ　私が「弱い」と言うとき、それは「はかない（fragile）」という意味です。そのせいで、私や仲間にとって、事態はより困難になります。私の仲間たちの中にはこうした批判を受け入れない者もいるかと思いますが、現代の映画作家のフィルムは、私には、往々にして強靱さに欠けるように思われます。なぜなら、すべては理念ではなく形式から出発していて、そのため、首尾一貫性に乏しいように思われるからです。しかしそれは私がゴダールに対して持つ批判でもあります。ゴダールのフィルムはしばしば一貫していません。美しくないという意味ではありませんよ。もちろん、そこにはシークエンス、ショット、映画としての瞬間がありますが、それはジョン・フォードやドライヤーのフィルムと同じやり方においてではありません。
</p><p>

（地震が起きる）
</p><p>

コスタ　さっき地震の話をしましたよね？
</p><p>

舩橋　だからですね。我々もゴダールのように素早く反応すべきなんでしょうか。
</p><p>

コスタ　ゴダールは既に目を覚まし「なんだ？」といってるかも知れない。
</p><p>

──次回作について少しだけお聞かせ下さい。
</p><p>

コスタ　まだまだ曖昧な段階です。話したくないというのではなく、まだぼんやりしている。ヴェントゥーラと・・・彼と共におそらく同じ年齢ほどの男がいて・・・監獄か、病院で対話をしている。人に騙されるか何かで、ヴェントゥーラは人生の中でとても大変な時期を過ごしている。長くはならないはずです。1時間か、そこらで、短く、素早いものになる。
</p><p>

舩橋　前回『コロッサル・ユース』公開時にこうして話したとき、あなたが言っていた「Cinema with Justice 正義ある映画」について聞かせて下さい。協力者であり被写体であるヴァンダのような人物との信頼関係を築いてはじめて撮影できる何かがあり、そんな被写体と撮影者の平等性が画面に表れるという話でしたが、さらに聞きたいことがあるのです。<br>
ゴダールは、目の前にあるものに直ぐさま飛びつく反射神経と素早さを持ち合わせている。あなたはゴダールほど素早くないとは言いつつ、ストローブ＝ユイレのようにある理念から映画をスタートさせることはないという点で、ゴダール側の「肋」であり、目の前にあるものを＜形式＞により掴むことで映画をスタートさせるタイプだと言いました。ということは、あなたは撮影現場において、まるで編集するように対象を取捨選択をしているということでしょうか。<br>
さらに、編集段階においてあるショットが「正義ある映画」として、正しいのかどうか、どのように判断されているのかをぜひ聞きたいのです。
</p><p>

コスタ　とても単純なことです。例えば、俳優の出来で判断します。人物が弱い、あまりうまくいっていないと思ったり、ヴァンダはもっと勇気が漲っていて欲しいと思ったり、最初のテイクがより良かったと言ったり、簡単な取捨選択です。最も大きな要素の一つは、映画の文脈にうまくフィットするか否かです。ショットは、まるで建物をつくる石のようです。石がうまくはまっていなければ、一目ですぐに分かる。うまくはまらなければビル全体が崩壊する。これは映画作家として日々繰り返し、発見する鍛練です。ショットがうまくフィットしなければ、撮影時にミスを犯したということです。<br>
マノエル・ド・オリヴェイラ監督についておもしろいエピソードがあります。ある時マノエルが同僚の監督の作品を見て、話しているのを聞きました。同僚の監督が「30分ほど必要以上に廻してしまった。あの後半の30分は良くない」と言ったところ、マノエルは「では、その30分をなぜ撮ったのだ？」と言いました。これほどシンプルなことなのです。オリヴェイラやドライヤーという人たちにとり、映画はおどろくほどシンプルなのです。この映画はこうだ、と決めれば、ミスはあり得ない。しかるべきモラル、倫理観、政治観を持ち、全てにおいて首尾一貫した考えを脳にしっかりと携えていれば、映画は正しいものとなる。私は、そこまで強靱じゃない。私は撮影中にミスを犯す。だから、編集ではショットの中に含まれていないものについても、想像します。ふんだんに想像力を羽ばたかせるといっていい。
私にとって編集はちょっとした校正作業でもあります。一つの理念をそのまま具現化するのではなく、編集により、犯したミスを補正してゆくのです。
</p><p>
舩橋　しかし、ミスという言葉からは最も遠いような完璧な画面が「何も変えてはならない」には溢れているのですから、映画はなにもミスをしない巨人だけのものではないと言えるのではないでしょうか。興行の成功をお祈りします。ありがとうございました。
</p>

<p>
<div align="center"><a href="http://www.flowerwild.net/2010/07/2010-07-25_163452.php
">vol.1</a>　vol.2</div>
</p>
<p>
<div class="info">
何も変えてはならない　Ne change rien<br><br>

監督・撮影：ペドロ・コスタ<br>
編集：パトリシア・アラマーゴ<br>
録音：フィリップ・モレル、オリヴィエ・ブラン、ヴァスコ・ペドロソ<br>
音楽：ピエール・アルフェリ、ルドルフ・ビュルジェ、ジャック・オッフェンバック
出演：ジャンヌ・バリバール、ルドルフ・ビュルジェ、エルヴェ・ルース、アルノー・ディテルラン、ジョエル・トゥー<br><br>

配給：シネマトリックス<br>
7月31日よりユーロスペースにてロードショー<br>
公式HP：<a href="http://www.cinematrix.jp/nechangerien/" target="_blank">http://www.cinematrix.jp/nechangerien/</a><br>

<br>
2009年／ポルトガル・フランス／103分／35mm／モノクロ／ステレオ
</div>
<div class="copyright">画像の複製および転載を禁じる</div>
</p>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">interview</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">P・コスタ</category>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">舩橋淳</category>
        
         <pubDate>Sun, 25 Jul 2010 16:37:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>猫のように撮る──ペドロ・コスタ インタビュー by 舩橋淳 vol.1</title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/pedrofunahashi101.jpg">
</div>
</p><p><strong>
Introduction
</strong>
</p>
　ペドロ・コスタには、抑圧的な言葉がまとわりつく。それは彼の作品に対する批評に限らず、長い期間スラムで被写体と生活をともにしつつ、ローキーで撮影を進める彼自身の制作姿勢や、さらにはそうして撮り上げられた画面が湛える冷徹な美しさがいやがおうにも見るものの言葉を奪い、やたらなことでは口を開いてはならぬと緊張を強いることに起因するといおうか。人がフォードや小津、ラングと共に擁護したくなるのは、何も『血』（1989）、『溶岩の家』（1994）、『骨』（1997）の初期作品に見られた映画史的な素養や作家自身の言及によってではなく、むしろ実は『ヴァンダの家』（2000）以降の作品にも変わらず漲っているコスタらしいというしかない峻厳さが、人を慌てふためかせ、思わずフォードとか小津とか抑圧的名詞を持ち出してなんとか迎え撃とうとしてしまう、といったほうが的確に思える（これは日本のみならず世界中のコスタ批評で顕著な傾向である）。<br>
　そして、ジャンヌ・バリバールのドキュメンタリーである新作『何も変えてはならない』（2009）が登場した。ブレッソンの「シネマトグラフ覚書」にある一節「何も変えてはならない、全てが変わるために」の断片であり、ゴダールが『映画史』（1998）にも引用したという文句は既に、冗談交じりに仲間と感想を言い合ったり出来そうもない、人を沈黙させてしまう“抑圧力”を充溢させているかに見える。スタジオであろうが、ステージであろうが、殆どのシーンが闇の中の限られたランプのもとで廻され（卓抜なラストショットなど例外はある）、屋外で陽光を捉えることを禁欲したこの作品は、またもやあの“抑圧的に美しい”コスタの映画なのだろうか、と人を身構えさせるかも知れない。<br>
　しかし、自然光が遮られた室内空間でのリハーサルとライブを5年に渡り誠実に撮り重ねた今作は、ロックからオペレッタまで奏でられる音楽がブレスト、パリ、リスボンはたまた東京と異なる文化圏・都市間を自由に行き交う歓びに満ちている。「何も変えてはならない」と呟いてみることが、灰色の抑圧をあたりに波及させるというより、異文化の音楽空間を無媒介にスルーさせる通奏低音として響き渡り、映画的大気を解放する。この新作を、そんな清々しい体験として読み直してみたい。<br>
　インタビューは2010年5月、東京の千駄ヶ谷、ビブリオテックで行った。（舩橋淳）<br><br>
</p><p>
舩橋　本日はありがとうございます。今のところあなたの映画を二度見ました。
</p><p>
コスタ　ずいぶん多い。
</p><p>
舩橋　ええ。前作『コロッサル・ユース』（2006）とは全く違うかたちで魅了されました。試写室の闇の中で時間の感覚を失ったといいましょうか。実際、あなたのどの作品をみても僕は時間の感覚を失ってしまいます。また画面を見つめつつ、カメラの裏側で何が起きているのか、現場はどう演出されているのか、どのショットが最後のショットになるのか、など推察してしまうこともあるのですが、あなたの映画でそんな邪推に成功した試しがない（笑）。ハリウッド流に構築された映画を見るときは、物語がどうやって始動し、展開して、終わりに至るかを感じるとることができます。いわゆる「アートフィルム」においてさえ、何らかの説話展開は存在しますし、それがある充溢感に到達して、映画が終わりを告げる、ラストショットが提示される瞬間を言い当てることができるものも少なくありません。しかし、あなたはそのような構築された展開感、画面が充溢し、輝きが増してゆく様を一つの終末的大団円に落とし込んでゆくようなことは一切しない（参照<a href="http://www.flowerwild.net/2008/05/2008-05-26_125045.php" target="_blank">「零度の画面——ラストショットが感知不能であること」</a>）。それだからか、僕は必ずと言っていいほど、あなたの映画のラストに立ち会ったとき、呆然とするしかない。そんなラストショットの感知不能性は、いったいなにが原因なのか。なにか特別な理由があると思いますか？
</p><p>
コスタ　わかりません。はっきり言えませんね。ただ、この映画のラストショットは、他のショットとはかなり異なっていました。撮り方も、ポストプロダクションの進め方も異なっていたのです。コンサートの場面の音楽はミックスされた音で、24ぐらいのトラックがありました。だからレコードを作るようなものです。ギター、ドラム、ベースなどを一緒にする必要があるのです。<br>
とはいえ、私はもっとラフな、ほとんどモノラルの音楽が欲しかったのです。ビートルズ的な意味におけるモノラルということです。ステレオで作られた「アビーロード」と、初期にモノラルで作られた「ラバーソウル」の間には巨大な違いがあります。ジョン・レノンはプロデューサーがステレオにミックスしたとき「このクソはなんだ！オレたちはこんなふうに（ばらばらに）演奏したんじゃない、オレたちは一緒に演奏したんだ」と言ったそうです。ジャン＝マリー・ストローブ以前に、1965年のジョン・レノンは言ったわけですね、「分離するな。わたしたちを分離するな」と。ステレオはある種、分離を意味します。<br>
だからわたしたちはモノラル的な方法で音を作っていきました。一緒に演奏し、時間をかけました。そして最終ショットは、すべての素材のなかで唯一準備せずに撮ったんです。
私たちは東京のラジオ局の楽屋にいて、そこで撮影するつもりはなかったのですが、突然、この部屋が白くとても明るく、そしてジャンヌたちメンバーが若干、緊張しているのを感じました。彼女たちはとても孤独で、無防備でした。この映画の他の部分とはまったくトーンが違っていることに気付きました。そこで私は素早く撮影し、録音はフィリップ・モレルがブームマイク一本でやりました。モノラルです。このラストショットが、実際にモノラルで録音された唯一のショットなのです。音響状態はかなり特別で、非常にラフ、ほとんどガレージバンドの音です。
</p><p>
舩橋　なるほど、ラストショットは唯一モノラルで録音されていたと。つまり音響空間の変化により、見るものが最後へと誘われる。
</p><p>
コスタ　実際、リハーサルのスタジオでもすべてモノラルで録音していました。でもそこにはたくさんの機材、サンプラーがあって、たくさんの音声トラックを付け加える必要がありました。映画全体はだから少しフェイク・ステレオとでもいうべきものなのです。ただ最終ショットだけは絶対的なモノラルでした。
</p><p>
舩橋　ドルビーなど音声空間の奥行きを与える効果は、すべてポストプロダクションでされたということですね。
</p><p>
コスタ　ええ、そうです。というのも、現代ではそれが避けられないのです。いま、完全にモノラルで35ミリ映画を作ることはできません。やれないことはありませんが、劇場にかけてもらえません。ドルビーやDTSのノイズリダクション・システムのスイッチを消す必要がでてきますから。日本もほとんどDTSでしたね？
</p><p>
舩橋　そうです。
</p><p>
コスタ　それを消さないといけない。ドルビーのスイッチをオフにすると、ブーンという汚いノイズ音が出てしまいます。とてもシンプルな音だけで音声トラックを作ることはできます、超高級の洗練されたミックス装置がなくとも。しかし、最後に必ずドルビー・リダクションを付け加えないといけない。そうしないと、今の映画館では掛けてもらえない。古いサウンドトラックでも掛けてくれるのは、シネマテークぐらいです。
</p><p>
舩橋　『何も変えてはならない』の音響空間は本当に素晴らしいと思います。映画批評家であり、研究者であるミシェル・シオンの語っていたことを思い出しました。シオンはジャック・タチの「僕の伯父さん」シリーズなどを挙げつつ、「その音はどこから来るの？」という問題に言及しました。とてもおかしく、ユーモアを交えて。そこでの音声は、現に見えているイメージのものではなく、思いがけない物や人から発せられたり、画面外から来たりしました。『何も変えてはならない』のモノラルの音声美学について語られましたが、今作は音の深度を感じる音響設計になっていると思いました。たとえばギターがより深いところから聞こえて来たり、ドラムがより浅いところから響いたり……と。
</p><p>
コスタ　モノラルは品質が悪いという意味ではありません。それはクリシェに過ぎない。モノラルには複数の次元があります。距離と深さがあります。スクリーンの右や左、上や下から来ないというだけです。
</p><p>
舩橋　僕は音声がスクリーンの中央下から聞こえてくるように感じました。上映前、試写室のスピーカーの位置まで確認しなかったので、試写中暗闇の中で、音声はスクリーン両脇のスピーカーに加え、スクリーン下部の巨大なスピーカーからでているに違いない、と思ったのです。ところが試写が終わってみると、そこにはスピーカーがありませんでした。ただ両脇に二つあっただけです。あなたは音声がスクリーンの奥から聞こえてくるようなイリュージョンを作り出したのでしょうか。
</p><p>
コスタ　ミキサーがとても優秀だったのです。彼は、若いけれども映画界ではお馴染みの顔とでもいいましょうか、フィリップ・ガレルの映画にも多く関わっています。とてもナイスガイで、働き者です。大金を稼ごうというのではなく、週末にも一緒に僕と作業してくれました。
</p><p>
舩橋　それからもうひとつ、『何も変えてはならない』で気付いたこと、魅了されたことがあります。それは壁の不在です。あのおばあさん二人がタバコをふかしているカフェを除くと、いったいどのショットが日本で撮影されたのか、あるいはパリなのか、リスボンなのか全く不明です。あなたはそれがどこであるのか、何が起きているかを示すことなく、音響とイメージの空間的連続を構築している。これにはとても心を奪われました。というのも、これまであなたが撮ってきた作品では、いつも屋外の壁を捉えたショットが印象的だったからです。たとえば『骨』の家と家の間の路地のショット。あるいは『コロッサル・ユース』でヴェントゥーラが白いマンションを背にしたショット。これらは美しいばかりか、観客は周囲の環境を感じ取ることができます。ところが今回は、屋外のショットが完全に排除されています。唯一例外的に屋外を感じられるのは、バリバールがスタジオ内の窓の近くに座っているショットぐらいでしょうか。この「どこであろうとも構わない」という規範は、どのような経緯で生み出されたのでしょうか。
</p><p>
コスタ　これはある目的についての映画ではないし、ジャンヌ・バリバールあるいはルドルフについての映画ではありません。これは音楽を作る人々と、そのムードあるいはトーンについての映画です。もちろんこの映画はジャンヌとフィリップ・モレルと僕の三人、その友人関係から生まれました。その頃、彼女は音楽と作曲とミュージシャンたちとの生活にとても入れ込んでいました。<br>
それからこれはいわゆる「映画クルーごっこ」から距離を置いてみる運動でした。ミュージシャン達のクールな集団性の一部になってみたいと思いました。スタジオで誠実に創作を続けるミュージシャンの集団性・コラボレーションは私にとりとても興味深く、単純に楽しそうだと思えました。映画の撮影現場の人間関係よりも、より温かく創造的で、貴重に思いました。映画では、現場が汚い権力争いの場になってしまうことがよくあります。ディレクターがいて、プロデューサーがいて、全てを把握しているかのような顔で威張り散らしている。しかし、現場のクルーは誰も映画のテーマについて理解していないとか……とても寒々しい場所です。
</p><p>
──あなたのスタッフは、通常あなたを入れて何人なのでしょうか。
</p><p>
『コロッサル・ユース』では時に5人となりましたが、本来は3、4人でした。なぜなら私が撮るのはとても狭い領域なので、駐車する必要もありませんし、メイキャップも衣装係も必要ありません。必要であれば、それぞれ自分のことは自分でします。ヴェントゥーラもヴァンダもそうでした。衣装やテキストなど自分のことは自分でやりました。私がストローブについて作った映画（『あなたの微笑みはどこに隠れたの？』［2001］）にも似ています。あの映画でも場所がどこであるかわかりません。彼らは小さな暗い編集室にいるだけで、それが地球のどこにあるかはわからない。ストローブの顔もダニエルの顔も見えない。暗いのでシルエットしか見えません。したがって、彼らが言うこと、編集用のモニターで起きていることに観客は集中するしかなくなるのです。<br>
この映画の場合、音楽と人々の関係に集中してゆきます。だから、私には、駅や空港やホテルを写す類のショットは必要なかった。音楽のDVDを見ると時にはそういうものが良いと思うときもあります。ニール・ヤングがリムジンに乗って、インタビューを受けて、ホテルで休んだり。
</p><p>
舩橋　なるほど。場所がどこであるかを示す従来の方法論から解放されることで、ひとつのショットからもうひとつのショットへ飛躍する自由さを獲得したのだと思います。例えば、僕はストローブ＝ユイレ・ショットと呼んでいるのですが（笑）オッフェンバッハのバックステージで出演者全員がラストに登壇し、観衆に挨拶をします。そのショットでは、ジャンヌや他の俳優の顔ははっきりと見えず、ステージ上の後ろ姿ばかりなのですが、次にジャンヌのクローズアップへスッと切り替わり、『何も変えてはならない』を歌い始めます。このショットの繋ぎには驚嘆しました。
</p><p>
コスタ　先ほども言ったように、わたしはあの手のショット──なんというべきか、ときどき「空ショット（empty shot）」といいますが、でも馬鹿げた言い方ですよね。「移行ショット」ともいったりします。［<a href="#001">1</a><a name="0001"></a>］ともかくそのような「移行ショット」は必要ないと思った。唯一の例外はあの日本人の女性二人のショットぐらいで、インタビューもなければ、休止もいらない、映画を早く進めたいと思ったのです。<br>
すべてがはっきりしたのは、編集のときでした。どの編集がベストか理解するのは簡単ではありません。この作品では3、4のヴァージョンがありました。最初と最後の部分に関しては固まっていて、多かれ少なかれどのヴァージョンも同じでしたが、その中間が難しかったのです。テンションを維持しなければならないのです。ですから試行錯誤を繰り返しました。<br>
そして歌詞も大きな決め手でした。そう、私は自分が監督であるよりもレコードのプロデューサーであるような気がしたものです。サイドＡ、一曲目、セカンドシングル、それから裏面という具合です。そして歌詞です。どこかですべてが結びついている。オッフェンバッハの歌詞でさえ、ある困難を抱え、取り残されてゆく女性の視点から書かれていて、作品全体と深く関わっているのです。
</p><p>
舩橋　おもわぬ偶然で笑ってしまったのは、女性の歌のレッスンコーチが、映画のジャンルをあれこれ挙げてジャンヌを指導するところです。「メロドラマのように」と言ったり、「西部劇」と言ったり……
</p><p>
コスタ　実際、オッフェンバッハ作曲「ペリコール」はジャン・ルノワールのとても有名な映画でアンナ・マニャーニが主演した『黄金の馬車』（1953）の基になっています。女優についての映画です。ある日、ジャンヌが私に電話してきて、彼女がこれから初めてクラシック音楽に真剣に取り組もうとしているのだと言いました。それがオッフェンバッハでした。この曲は、大衆向けのオペラの形式で、オペレッタといいます。パリのバーやカフェで演じられ、歌もプロではない歌手のために作曲されたもので、誰でも歌うことができた。レノン、マッカートニーやギルバート・オサリヴァンのようなもので、ポピュラー・ソングだったのです。19世紀の「ヘイ・ジュード」のようなものですね。この曲で当時の人々は踊ってもいました。ポップとロックの世界のなかにオッフェンバッハが融合するのは、素晴らしいことです。
</p><p>
──選曲には、あなたも関わったのですか。
</p><p>
コスタ　ええ。つまり、彼女たちは他にもいくつか曲を演奏していましたので、その中から選び出しました。僕は自分が気に入ったものと、物語を語ってくれるものとを選びました。散漫になりそうなもの、文脈から外れているものは使いませんでした。
</p><p>
舩橋　フィリップ・アズーリが吸血鬼映画のようだと言ったそうですが、悪、哀しみ、そして恐怖という主題が歌詞の基調になっていたように思えました。
</p><p>
コスタ　そう。それから苦痛もです。彼女は苦しんでいる女と男について語っています。
</p><p>
舩橋　二年前に『コロッサル・ユース』で来日された時あなたと話しましたが、そこで印象に残ったのが、撮影を「スポーツ」のようなものだと述べていたことです。ゴダールも同じことを語っています。現場の遷ろいゆく光に反応し、被写体との関係を保ちながら、フレームを決めてゆく−−良いショットを撮るためにそれら全てのことが必要ですが、そのためには映画の筋力が鍛えられていなければならないということをあなたは強調していました。
今度の映画をみて、つくづくあなたはクロースアップを撮る達人であると思いました。コスタ映画のクロースアップは本当に美しい。俳優の顔をキャメラで切り取る筋力が鍛えられているのでしょうか。思い出したのは、ジル・ドゥルーズがかつてドライヤーとブレッソン、とりわけ『ジャンヌ・ダルク裁判』を引きながら「アフェクティヴ・フレーミング」について語っていたことです。あなたはドライヤー的な意味におけるクロースアップを継承しているのではないか。ロングショットやミディアムショットにおいてさえ、画面の深みが押しつぶされ、パースペクティブがフラットとなり、人の剥き出しの存在が浮き彫りになっているという点で、クローズアップに思えてくる。<br>
たとえば、冒頭から二番目のショットで、はじめてジャンヌのクローズアップが登場しますが（これが鮮烈です）、彼女は闇の中でカメラを見たり、同じスタジオにいるであろう仲間の方を見たりと、様々な方向に視線を送ります。この闇の中で浮き上がるジャンヌに対し、あなたは一点、彼女の目にフォーカスを合わせています。そして彼女の視線の動きを通し、われわれ観客はこのフレームの外側を徐々に感じ始めます。フレーム外の音声、フレーム外にいる人物と彼女のコミュニケーションが聞こえてきます。つまり、徐々にゆっくりと世界が見えてくる（Slow Exposure)。
 </p><p>
コスタ　今回の撮影は、まさにドキュメンタリー的な意味での制限がありました。わたしには次に何が起こるか知りませんでしたし、コントロールする自由もありませんでした。
ただ彼らにもう一曲やってほしいとか、同じことを繰り返してほしいとか、ドラムにもうちょっと照明の方へ寄ってくれというのがせいぜいでした。私の役割は、非常に慎ましいものだったのです。<br>
私の仕事は、彼らの一部になることであり、彼らの注意を惹きつけずに作業することにありました。ルドルフが常に言っていることですが、演奏が真に一体化するならば、それはある種の「忘却」（oblivion）の境地であって、もはや意識はなくなります。テクニックのことも忘れ、自然になり、演奏している相手のことも忘れます。誰と誰が演奏しているというのではなく、ただひとつの存在になる。「忘却」がやってくればすべてが溶け合うというわけです。<br>
私は、彼らが私のことを忘れ、映画のことも忘れてくれるように努めていたのだと思います。そのなかで、わたしはジャンヌのものすごく近くにいました。でもいまだに、もし彼女と話す機会があれば聞いてみたらいいと思いますが、彼女は覚えていないと言うでしょう。つまり、彼女はどの部屋で、どの曲を演奏したかは覚えていても、私と録音のフィリップがそこにいたということは思い出せないのです。<br>
私はストローブ＝ユイレの映画とまったく同様のアプローチをしました。あのときは照明を使うことができませんでした。ダニエルは私に「静かに。集中したいの。気をつけて」と言います。それでも、私と録音マンはそこを動かず、ダニエルにそっと寄り添うようにくっついていました。わたしたちは猫のような存在であるべきなのです。猫にならなければならない。もしそれがうまくいけば、私たちの距離は接近します。すべての意味において「近い」関係になります。それがこの映画のクロースアップに関わる真理だと思います。<br><br>
</p><p>
<p>
<div align="center">vol.1　<a href="http://www.flowerwild.net/2010/07/2010-07-25_163719.php
">vol.2</a></div>
</p>
</p><p>
<strong>脚注</strong><br>
<a name="001"></a><a href="#0001">1</a>.場所・状況を示す広角ショットのこと、トランジション・ショットと呼ぶこともある。
</p>
<p>
<div class="info">
何も変えてはならない　Ne change rien<br><br>

監督・撮影：ペドロ・コスタ<br>
編集：パトリシア・アラマーゴ<br>
録音：フィリップ・モレル、オリヴィエ・ブラン、ヴァスコ・ペドロソ<br>
音楽：ピエール・アルフェリ、ルドルフ・ビュルジェ、ジャック・オッフェンバック
出演：ジャンヌ・バリバール、ルドルフ・ビュルジェ、エルヴェ・ルース、アルノー・ディテルラン、ジョエル・トゥー<br><br>

配給：シネマトリックス<br>
7月31日よりユーロスペースにてロードショー<br>
公式HP：<a href="http://www.cinematrix.jp/nechangerien/" target="_blank">http://www.cinematrix.jp/nechangerien/</a><br>

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2009年／ポルトガル・フランス／103分／35mm／モノクロ／ステレオ
</div>
<div class="copyright">画像の複製および転載を禁じる</div>
</p>]]></description>
         <link>http://www.flowerwild.net/2010/07/2010-07-25_163452.php</link>
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         <pubDate>Sun, 25 Jul 2010 16:34:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『鉄男 ＴＨＥ ＢＵＬＬＥＴ ＭＡＮ』におけるアナログ特撮とＣＧ</title>
         <description><![CDATA[<p>
<div class="imagelong"><img src="http://flowerwild.net/images/tetsuo001.jpg"></div>
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　産業の世界に機械が現れてから、生物(オーガニズム)に対する機械(メカニズム)の脅威というものは、労働と関連し、疎外論的な形で何度も語られてきた。ハリウッド映画で何度も語られる「人間vs機械」というテーマは、近代の始まりにまで由来する一つのクリシェのような恐怖と疎外感を反映している。『ターミネーター』（1984－）シリーズのように、スカイネットと機械が人間を支配するビジョンや、『マトリックス』（1999－2003）シリーズで描かれたような機械と人間の関係がそのようなハリウッド映画的なクリシェの一つの典型であろう。
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　『マトリックス』三部作で辿り着いた結論が「機械と人間の共存」だとすれば、塚本晋也監督の『鉄男』は、1989年において既にその認識に達していた。巽孝之の指摘に拠れば、このテクノロジーと一体化することのメタファーである「鉄と一体化する」という物語には、小松左京『日本アパッチ族』（1964）のミームが関わっている（「『鉄男』『鉄男Ⅱ／ＢＯＤＹ　ＨＡＭＭＥＲ』にみる現代鉄男族――日本アパッチ族の末裔」）。塚本監督本人は直接の影響を否定しているが、日本のサブカルチャーの水脈に息づいているミームの影響は疑うことが出来ない。
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　廃墟のような場所に見捨てられ、汚物の混ざった水を飲み、餓死寸前で鉄を食べることによって鉄人間＝アパッチ族と化す『日本アパッチ族』の物語は、敗戦後の日本のメタファーとして読めるものである。テクノロジーによる敗戦と廃墟の凄まじさの中から、日本がテクノロジーを導入して重工業を中心とした工業国家となっていくというルサンチマンのものすごさを、意識的、無意識的に確かにこの作品は象徴してしまっている。そして、アレハンドロ・ホドロフスキー監督に絶賛されて1989年のローマ国際ファンタスティック映画祭でグランプリを、実質的な商業デビュー作『鉄男』で受賞した塚本晋也監督もその系譜に繋がる。
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　そもそもが、映画において機械を悪者にするということには一つの矛盾がある。映画そのものがテクノロジーと密接に結びついた娯楽であり、撮影機も映写機も古典的な意味で「機械」である。襲ってくるターミネーターなどの「機械」っぷりには、恐怖だけではなく、映画という装置そのものの快楽も含まれているのではないだろうか。それらの「機械」の表象は、撮影装置と映写装置の快楽をスクリーン上に現そうとしたものなのではないだろうか。観客が気づかず、不可視にしがちなその二つの装置の快楽／恐怖を、スクリーン上に表現しているのだ。それは映画というイリュージョンの夢の中に、その基盤となる無機質なものを突きつけるからこそ「恐怖」と接続しやすい部分があるのではないか。
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　塚本監督の描く「鉄男」というサイボーグのテーマは、彼の映画制作の態度とも通じている。商業的体制での製作を何度か経験しながらも違和感を持ち、16mmのスクーピックなどのカメラを常に振り回し続けているその姿には、「カメラ」という装置への偏愛にも似た意識が感じられる。さらに、彼は常に手ブレを効果的に用いる。海外の作家にどういう装置で撮ったのかと訊かれて「気合で」と答えたエピソードなどは象徴的だが、塚本は撮影の際に「カメラ＝身体」という装置と化しており、それによって身体を装置化すると同時にカメラを身体化している。特にフィルムの手持ちカメラへの偏愛が彼にはある。それは、歯車が回ったりする、古典的な意味での「機械」への偏愛である。
　2010年に公開された『鉄男 ＴＨＥ ＢＵＬＬＥＴ ＭＡＮ』（以下『鉄男ＴＢＭ』）において注目するべきなのは、この時代におけるＳＦ映画であるのに、作中ではほとんどＣＧが使われていないということである。その問題に入る前に、『鉄男ＴＢＭ』の物語を簡単に要約する必要があるだろう。
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　最愛の息子を殺された主人公アンソニーは、怒りで突然体が「鋼鉄の銃器」と化していき、自分の身体が、生物と機械の両方によって作られた存在であると知る。怒りによって、東京を丸ごと破壊してしまえる兵器と化していくアンソニーを、世界の滅亡を望んでいる塚本演じる「ヤツ」が挑発していく。息子を殺され、妻を誘拐され、自らが兵器であることを知ったアンソニーは、世界を破壊するのか、それともそうしないのか……　結論から言うと、アンソニーは破壊をしない。一瞬、都市破壊のシーンが現れるが、それは夢想であるということがわかる。そして、ここに唯一ＣＧが現れているのだ。
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　このＣＧの数秒を問題にしてみたい。このシーンは、ＣＧで作られた映像を映写し、それをさらに撮影していると監督は述べている。ＣＧの「質感」に対して異様なこだわりや違和感が存在しているようである。そして、このシーン以外にＣＧはほとんど登場しない。全編は、本人が「根性特撮」と呼ぶアナログな特撮である。塚本監督は決してＣＧを使用しない作家ではない。その証拠に、前二作『悪夢探偵』（2007）『悪夢探偵２』（2008）ではＣＧが多用されていた。その撮影の詳細を知ると途方に暮れるようなこの「アナログ」への偏愛はいかなることだろうか。
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　ＣＧを使わない本作と対比するために、ＣＧを使った『悪夢探偵』『悪夢探偵２』の内容を確認しておきたい。ベネチア国際映画祭で、「夢」をテーマに撮られた北野武の『ＴＡＫＥＳＨＩＳ‘』（2005）を塚本が激賞したことと、「夢」をテーマにした多重構造の『悪夢探偵』の製作には、なんらかの関係が存在している。『ＴＡＫＥＳＨＩＳ‘』から続く三部作の『監督・ばんざい！』（2007）において、ニコニコ動画を意識したシーンや、チープなＣＧの表現を多用していることも重要である。インターネットの世界は「夢の論理」（無意識）との類似で語られるが、データの論理でもあるその世界を、「夢とＣＧ」で表現しようとしている部分が、『監督・ばんざい！』や『悪夢探偵』には濃厚である。特に、『悪夢探偵』は、携帯電話による通信の中に「ゼロ」という死をもたらす怪物が発生する物語でもあるうえに、ＣＧで携帯電話が溶けるシーンがある。以上を踏まえると、本作におけるＣＧのなさには大きな意図が込められていると考えるべきであろう。ではその意図とは一体何なのであろうか。
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　作中に現れるのは、もはや古典と化した機械である。家電ショップに行けば誰でもわかるように、今ではこんなおどろおどろしい機械を目にすることは日常生活レベルでは殆どない。ソフィスティケートされ、ブラックボックス化され、つるっとした滑らかな電化製品に我々の「生活」は覆われている。そこでは情報環境的なリアリティが濃厚である。
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　80年代、ポストモダンの記号操作的なリアリティの中で、それら全てをぶちこわす「破局」の物語が現れた。『鉄男』『鉄男Ⅱ／ＢＯＤＹ ＨＡＭＭＥＲ』（1993　以下『鉄男Ⅱ』）はそのような時代風潮の中に現れていた。「もう怖がることはない。美しいと感じた気持ちのままに、ムチャクチャにやってくれ、いちばんでかいものを壊してくれ」として、都市の破壊に向かって突っ走る衝動が『鉄男』『鉄男Ⅱ』にはあった。しかし、『鉄男』の三作目である本作では認識が大きく変更されている。
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「現在は仮想現実と思ってボーンと壊してしまうと、それこそすべてを壊滅させてしまってもう元には戻らないという怖さがある」「今の世の中は、たったひとりの無意識の暴力が、世界を崩壊させる力を持っていると感じます」（『塚本晋也読本 SUPER REMIX VERSION』）と述べられている。そしてその発言どおり、本作では『鉄男』『鉄男Ⅱ』に対する反省のような結末が描かれる。「すべてをぶっ壊す」という衝動のみで突っ走った全ニ作のように、「すべてを破壊」し、東京という人工空間で生の感覚を忘れて生きているバーチャル・リアルな人々に生を突きつけてやれという挑発に、応じるか否かが本作の肝となっていた。以前の塚本であったら、その「破壊」の解放感で「生」が回復すると思っていたかもしれない。しかし本作では、既にその認識では足りないことが自覚されている。さらに、「無意識」が情報環境やＣＧと結びついて描かれていたことを思い出すならば、明瞭に「無意識＝夢＝ＣＧ」を排除しようとした意図が見えてくるのではないか。
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　浅田彰は2006年の「「現在」を考える――こどもたちに語るモダン／ポストモダン」という対談で、ポストモダン的な、バラバラに遊戯的・解離的になってしまう主体について否定的な意見を述べている。塚本の『鉄男』『鉄男Ⅱ』にあったのも、ディシプリンから解放されるインディシプリンな喜びだろう。「美」によって「破壊」するという幼児的な自由がそこでは希求されているからだ。しかしその結果、インディシプリンになった主体は、「剥き出しの生」として、電子情報網に管理される「出口なし」になってしまい、その反動としてアポカリプティックな議論に陥ると浅田は言う。この「アポカリプティック」は、『鉄男』や『ＡＫＩＲＡ』（1982－1990）などにあった破局衝動と同じものであり、その原因が８０年代には遊戯的な記号であったものが、現代では電子ネットワークに変化している。浅田は言う。「情報システムとポジティヴな結合を果たしたとき、新たな力能をもったサイボーグが生まれることさえ考えられる」と。それには、晩年のフーコーが考えたような、ディシプリン（他律）でもインディシプリンでもない、セルフ・ファッションとしての自律であり、「自分自身を美しい芸術作品のように磨きあげていく」自律が可能性として考えられると言う。
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　本作品で、アポカリプティックな世界の破壊の力を持ちながらそれを抑制し、家族のために生きるアンソニーのラストシーンにおける「凄み」の演出はその意味で理解しなければいけないだろう。アンソニーは破壊の衝動を抑え込み、「生」を感じさせない無機質な労働へと赴き、家族を支えるサラリーマンと化した。しかしそのサラリーマンは、『鉄男』の田口トモロヲが演じていたような、弱弱しいサラリーマンとは違う。アンソニーは会社に向かう途中に若者の集団に絡まれるが、エリックの佇まいや表情からは、怒りや攻撃の予兆がなくても、若者の集団が威圧され、圧倒されるような、そんな凄みが存在している。これは先ほど述べたような、後期フーコーの考えた「自律」の映像化のようである（役者のエリックはその演技を「悟り」と理解していたと述べているが、そのような日本的なものとの結びつきも興味深い）。『鉄男』『鉄男Ⅱ』で語った衝動の帰結として生じた情報網による管理と、それによってもうひとつの破局衝動が生じるとしたら、それに対応するために、この三作目の結末は存在している。
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　本作においてＣＧの出現が、東京が破壊されると言う「幻想」のシーンに限られている理由もここで明らかになるのではないか。ＣＧは情報を操作する技術である。そして、それは本作が否定しようとしている情報による管理の問題と繋がってしまう。剥き出しの肉体と、それが都市と一体化し、大勢の人間と接続されるビジョンが『鉄男Ⅱ』のラストで描かれたが、そのような事態の具現化したような現在の情報環境に対して、塚本は敢えてアナログで勝負している。天井に張り付くシーンを撮るためにセットを逆さまに作ったり、車を破壊していくシーンを撮るために、一度撮ったら解体屋にレッカー車で運んで少し潰して、持って帰ってきて、再度撮影して、レッカー車で持って行き……という、気の遠くなるアナログ特撮を、効率の悪さも無視して敢えて行った意味もその辺りにある。本作には都市疾走などのいくつもの印象的な画面効果のあるシーンがあるが、あれも監督がカメラを持って街を走って、原始的なコマ撮りをしただけのようである（カメラはデジタルを導入しているが）。
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　素早い速度のカットと、手ブレは塚本監督の特徴であるが、「身体」をテーマにした『ヴィタール』（2004）では、35mmフィルムカメラの影響か、それは抑制されていた。本作は細かく切り刻み、バラバラである映像と手ブレが「身体」と「テクノロジー」というテーマと、映画撮影という仕組みと見事に一致している。2000年代に入ってから、塚本は撮影機材や手法を様々に実験し続けていた。その実験の成果として、「身体とテクノロジー」の融合した主体を描くこの『鉄男ＴＢＭ』という作品において、カメラ＝身体となって融合して得られた映像素材という点でも手法と主題が噛み合っている。さらに、素材を切り刻み繋ぎ合わせる編集という人工的な操作によって作品＝鉄男を生み出そうとするフランケンシュタイン的行為もまた、サイボーグという自然＝人工の存在を作り出そうとする作中の欲望と呼応しているだろう。
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　『鉄男』『鉄男Ⅱ』においてもコマ撮りなどは多用されていたが、それは人々の身体が融合する際の神秘的なビジョンとして現れることが多かった。今回のコマ撮りの都市描写はただひたすら鋭角の都市とカッティングによって、ただ「切断」することのみを志向しているようである。それは先ほどの「自律」として、破壊衝動や破局を自らの内に矯めこむ、ディシプリンでもインディシプリンでもない主体というテーマと関係しているだろう。それはロマン主義＝生気論的な他者との融合を志向しない、切断を要求するものである。
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　とはいえ、この映画のあまりにも視覚的に刺激的で、ほとんど生理的・神経的・身体的レベルにまで影響する映像と、音圧と音量を極端に上げるように監督から劇場に指示されたという石川忠の音楽とが、切りつけるように観客の身体内部に入り込んで、映画＝観客のサイボーグのような状態にさせられることも確かなのである。それはかつて『鉄男』で現していた、破壊と同一化を同時に求めるような衝動を全身で味わっているかのようである。ここには、『鉄男』をポルノ映画として構想したという塚本の発言から鑑みて、破壊＝同一化という、括弧付きの意味で「男性的」と呼ばれるような性的欲望が関わっているだろう。
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　だがそんな、映画＝観客という幸福な没入のサイボーグ状態もまた、スタッフロール終了後の闇と、客電が灯る瞬間によって切断されざるを得ない。『鉄男』『鉄男Ⅱ』が、映画と言う機械仕掛けの夢の中に一体化したいという、映画への夢の物語であったとしたら、『鉄男ＴＢＭ』は、家に帰らなければいけないということを学ぶ物語である。そして、本論では触れなかったが、最近の塚本の重要なテーマである「家族」が家には待っている。『鉄男』のラストシーンのように、奥へ奥へ、スクリーンの奥へ、没入の奥の奥へと進みたい欲望は、絶対に断念せざるをえない。映画という装置と一体化し、そのことで都市や世界と一体化するという夢を諦めて家に帰らなければいけないという、映画の観客が何度も味わう断念が、本作では映画そのもので描かれている。我々はサイボーグのユートピアには辿り着けず、一人で劇場を後にして帰らなければいけないのだ。<br><br>
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<div class="info">
鉄男 THE BULLET MAN<br><br>
監督・脚本・撮影監督：塚本晋也<br>
脚本：黒木久勝<br>
撮影：志田貴之、林啓史<br>
音楽：石川正<br>
出演：エリック・ボシック、桃生亜希子、中村優子、ステファン・サラザン、塚本晋也<br><br>

2009年／日本／71分<br><br>

５月２２日（土） シネマライズ他全国ロードショー
配給：アスミック・エース<br>
公式サイトURL：<a href="http://tetsuo-project.jp/
" target="_blank">http://tetsuo-project.jp/</a>
</div>
<div class="copyright">画像の複製および転載を禁ずる（C) TETSUO THE BULLET MAN GROUP 2009</div>
</p>]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">塚本晋也</category>
        
         <pubDate>Mon, 05 Jul 2010 22:54:05 +0900</pubDate>
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