理念なき出発 ──
ペドロ・コスタ インタビュー by 舩橋淳 vol.2

インタビュー

コスタ ジャンヌとほかのミュージシャンの間には違いがあります。ジャンヌは歌を歌いたがっていますが、しかし歌手ではありませんし、歌手になろうとしているわけでもありません。毎日スタジオにはいません。ルドルフはといえば、毎日ギターを弾いていて、これまでもずっとレコードを作ってきました。彼はミュージシャンであり、つまりそれが彼の人生なのです。そう、私がスタジオで彼らを見ているとき、ジャンヌはまるで蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のようでした。友好的な巣ではありますが、彼女ははじめ戸惑っていました。すっかり驚き、魅了されていたのです。音が左右から聞こえてきて、「OK」「良くない」「これをやってくれジャンヌ」「あれを試してくれ」と言われるのですから。最初のショットではヘッドフォンから自分自身の声を聞いて、とても驚いていました。

舩橋 プレイバックのことですか。

コスタ  そう、プレイバックです。あれはダイレクト・サウンドです(後から合成したのではありません)。彼女は驚いて「この音はどこの音?」「これは私の声?」と言っていました。そう、私はこうした状況に対して、クロースアップを選んだのです。というのも、あまりに多くの出来事があるように思えたからです。その後、よりワイドな画面になります。いくつかの状況では、彼女はルドルフと一緒に映っています。そのようなショットが3、4ありますし、ロングショットもあります。ここは感動的でした。寛容あるいは庇護がまさにあそこにあったからです。 彼らふたりに「どこか別のところに動いたり、また戻ってきたりしてもいいし、そうすることで自ら編集したっていい」と言っていました。クロースアップがいくつも連続するわけではありませんでしたし、あるひとつのショットの中で、彼らが、彼ら自身のフレームを組織することができるのです。確かにフレームを決めるのは私です。しかしそのうえで、出演者たちはフレーム内のフレームを選ぶことができます。ある種の自由があったのです。

舩橋 キャメラは一台だったのですか?

コスタ はい。サイレント時代の偉大な映画作家がそうであったように。その後、こうしたやり方は消滅しました。おかしなことです。彼らの映画には、ワイドショットの中にクロースアップがありました。シュトロハイム、あるいはドライヤーもそうです。ドライヤーの『ゲアトルード』(1964)……これはとても難しい映画です。なぜなら、ショットの中にたくさんのショットがあるからです。あまりに多くのことを見なければならない。

舩橋 例を挙げてもらえますか。

コスタ ほとんどすべてのシーンがそうで、事物の平等性といったものがあるのです。あるショットの中で、どれかがより重要だということがない。ゲアトルードがより重要というわけでもないし、相手役の男性、彫造、湖、木、そのすべてが同等に重要なのです。観客は自分の視点を選ぶことができます。とてもワイドで大きな視野の中に導かれると同時に、観客は、その中で旅をすることができる。それがドライヤーの素晴らしいところです。『ジャンヌ・ダルク裁判』から『ゲアトルード』に至るまで方法は異なりますが、得られる結果はほとんど同じです。『ジャンヌ・ダルク裁判』ではほとんど全てのショットがクロースアップでしたが、『ゲアトルード』では、ほとんどがワイドショットで、静的です。

舩橋 『ゲアトルード』を観ると、ワイドショットでありながら『ジャンヌ・ダルク裁判』のクロースアップと同様の、もしくはそれを凌ぐ強度をあらゆる画面に感じます。雑多な空間の中に人を配置したと言うよりも、ここしかないという位置に事物と人間が収まっているという感じで、広い視界の中にも視線の行き場が美しく統御されているというか。それでワイドショットがクローズアップであるかのような画面の吸引力を発揮しているといいましょうか。観客は彫造や壁に掛かった絵やピアノなどそれぞれ視界に収めつつ、その中で女性(ゲアトルード)を位置づける・・・思うにドライヤーは照明やフレーミング、人の動きにより、画面に注がれる視線をいかに導くかについてとても高度な技術をもっていた。この「クローズアップ性」に関し、何か似たものを感じますか。それとも全く関係はないのでしょうか。

コスタ 『何も変えてはならない』と……?

舩橋 『ゲアトルード』です。

コスタ ああ!(ため息)。正直言ってドライヤーはとても恐ろしい。なんというか、ジョン・フォードや小津は、この地球上に生きていた人間で、かつ偉大な芸術家だったといえます。しかし、ドライヤーは、どこか奇妙なところがあります。どれか一本ということは出来ませんが、『怒りの日』(1943)、『奇跡』(1954)、『ゲアトルード』(1964)、あの年代にああいう類のことをするというのは……変態(wierd)です(笑)。
『ジャンヌ・ダルク裁判』と『吸血鬼』(1931)も撮っているというのは本当に驚嘆すべきことで、そこには驚くべき架橋があり、驚くべき道があると思います。小津の場合、序々にヴァリエーションが生まれてゆき、建物の全体がゆっくりと序々に見えてくるのですが、しかしドライヤーの場合、ギロチンが落とされるかのような具合です。50年代の映画ではそのように物事が起きます。私にとって、とても特殊な映画作家です。ある意味では、極めて遠くにいるのですが、同時に、最も再考する必要のある映画監督です。ドキュメンタリーであれフィクションであれ、映画を作ろうと思うなら、ドライヤーを避けては通れません。

舩橋 そんなドライヤーのショットの強度となにやら通底するものを、僕はあなたのクローズアップに感じました。今日の映画ではこのようなクロースアップには滅多にお目にかかれません。撮るのがとても難しいというのが、理由の一つとしてあるのではないでしょうか?

コスタ いえ、撮るのが難しいとは思いません。秘密なんてありません。芸術的な意味での秘密は存在しません。皆さんご存知のように、私は小さなビデオキャメラで撮影しています。偉大な撮影監督、たとえば40年代ハリウッドの達人がいるわけでもありません。照明が使える場所ならばどこででも撮っています。したがって、問題は別のところにあります。あなたが撮ろうとしている人物と、あなたとの関係性が問題なのです。理解すべきなのは、この映画が、私の望んだ映画であるということです。出演者たちも、私にそこにいてほしいと望みました。ところが映画は常にそうであるわけではありません。それははっきりしています。
「ナショナル・ジオグラフィック」はご存知ですか。動物のドキュメンタリーです。私には、動物たちが撮られたがっているとは思えません。作り手は、どのような関係を、虎や蝶と築くことができるでしょう。不可能です。もっとも、科学者はただキャメラを調査に用いているのだとも言えます。私自身も同じことをしています。私のキャメラは出来事の中の些細な喜びや恐怖を発見するための小さな顕微鏡のようなものです。それはそれで楽しく、面白いことです。こうした映画作りは、多くの場合、とくに撮り始めたばかりの若い映画作家にとって、とても手軽です。しかし、人間相手に限らず、外へ出て撮影をするならば、あらゆる事物が、等しく欲望を差し向けられていなければなりません。作り手は何かを撮りたいと欲望する必要がありますが、しかし事物からもあなたに撮られたいと欲望される必要があります。 フォードや小津のような私にとっての真の映画作家は、常にもっとも観照的(contemplative)な映画作家です。東洋的な観照でさえあります。観照とは、何物かに相応しいものであろうとすることです。あの風景、あの山々、あるいは茶碗、灰皿、そこに親密さの感情を覚えることがありえますし、そのときそこには交換があります。そこに功利主義的態度はありませんし、物語の中で役に立つショットであればいいということではありません。もちろん、それらは物語の部分や契機を成すわけですが、ショットはその先へ行くのです。小津の映画(『晩春』[1949])における花瓶のショットは、ヒロインは物思いに耽っていることを伝えます。原節子が考えている顔が映され、次に、花瓶が映され、また原節子の顔が映されます。

舩橋 小さなキャメラで撮影するとき、被写体と信頼関係を切り結ぶことをおろそかにして、気軽に廻してしまうことがあるのかも知れません。もっともキャメラのサイズに関係なく、キャメラの前と後ろの人間が、平たく友好的な絆はもちろん、職業的な信頼関係すら築けていないのではないかという作品もざらにあって、そんな作品はクローズアップを見ればまずわかる。

コスタ キャメラのサイズは重要ではありません。小さければいつでも持ち運びできますし、35ミリキャメラと15人のスタッフがなくても、それは主要な問題ではないのです。私は小さなキャメラをいつも35ミリであるかのように使っています。同様の気配りをし、同様の重要性と、同様の信頼を置きます。コンピューターでの編集も同じです。ファイナルカットプロであれ、アヴィッドであれ、私にとってそれはまさにムヴィオラのように古い伝統的な編集台なのです。重要なことは、あなたが撮影している人々とあなたの間で何が起きているかです。現実とあなたがどのような関係を持つことを選び、欲するか。どのような手段でそこにアプローチするか。

舩橋 なるほど。

コスタ ゴダールを常に思い出すのですが、キャメラは事物を撮影するためにそこになければならず、キャメラを構える以前、それら事物は存在しないのだと彼は言いいます。私と、キャメラと、そして事物。この三者は平等です。したがって、キャメラは冷たい機械ではありませんし、気まぐれな機械でもありません。上位にあるのでも下位にあるのでもなく、同じレベルにあります。私は事物を見せるためにキャメラを必要とします。事物は何かと結びつくためにキャメラを必要としています。
しかし、事物はもはやその生命について語っていません。同じ物語、同じ動きを繰り返してばかりいるという感覚……たとえば、ナショナル・ジオグラフィックがそうですが、動物を撮るのはとても難しいことです。犬や猫を見るのは素敵なことかもしれませんが、違う方法もあります。しかしそれは大変に難しい。有名なブレッソンのロバの映画があります……

舩橋 『バルタザールどこへ行く』ですね。

コスタ これはまったくナショナル・ジオグラフィック的ではない。

舩橋 優しさがあります。

コスタ ええ。あのロバはほとんど人間のようです。つまりブレッソンは応答する責任を持って、相手との絆を重んじ、困難な作業をしようとしているのです。映画を撮るということは、とても大変な仕事です。そしてそこに秘密はありません。ゴダールは天才で、小津は天才で、ジョン・フォードは天才で、他の誰それには才能があって、などといろいろ言うことができますが、しかしそこに秘密などないのです。

舩橋 あなたは何度も『ワン・プラス・ワン』(1968)に言及しています。『何も変えてはならない』というタイトルは、彼が『ゴダールの映画史』で使ったフレーズの前半部分です。あなたはキャリアにおいて、ジャン=リュック・ゴダールから多くを学びとって来たといえますね。

コスタ いえ、全然……(笑)。

舩橋 全然、ですか? 彼はとてもやっかいな人物ではありますが……

コスタ おそらく多くを学んでいるのでしょうが、でも、よくわかりません。

舩橋 会ったことはありますか。

コスタ 彼からはファックスが送られてきます。直接話したのは二度です。ある映画祭で偶然会って、少し言葉を交わしました。もう一度は、ダニエル・ユイレの葬儀のときです。その後で、彼がファックスを送ってきたのです。彼はファックスマンだから(笑)。一度、私が何か質問をして、それで返事が戻ってきました。そして一度、彼の奥さんが私に電話をしてきて、彼のメッセージを伝えてくれました。私が作ったストローブの映画と『ヴァンダの部屋』がとても気に入ったのだそうです。
いまだにゴダールとストローブには、私が若い頃にレコードを買ったときと同じ興奮を覚えます。「ホワイト・アルバム」が出たとき、私はレコード屋に走って行き並びました。彼らふたりが、今日もまだ、そのように興奮することのできる映画作家です。

舩橋 昨日、『ワン・プラス・ワン』を見直しましたが、あれはどう見てもローリング・ストーンズの映画ではなく、ゴダールの映画でした。信頼関係というよりも、異種対抗デスマッチでゴダールの勝利といった方がよいでしょうか。

コスタ ロックを使う映画は無数にあります。しかしロックは映画と不幸な関係しか持っていない。いい映画はほとんど3本、4本、5本と数えらえるほどしかありません。ローリング・ストーンズについては、ロバート・フランクの素敵なフィルムがあります。しかしほとんど知られていません。『コックサッカー・ブルース』です。

舩橋 観ました。とても美しいフィルムですね。

コスタ ミック・ジャガーのキャラクターが──「キャラクター」と言っておきましょう──とてももの哀しいのです。

舩橋 『何も変えてはならない』の撮影中あるいは編集中に『ワン・プラス・ワン』を観ましたか?というのは、今日の対話のために二日前に観てきたのですが、非常に動揺しました。ローリング・ストーンズがスタジオでリハーサルをしているのですが、ゴダールがキャメラをスタジオの中から外の海岸へ移動すると、クレーンの上に女性がいて、そしてクレーンは黒と赤の旗を立てて上下に動きます。

コスタ ええ。ロマンティックなフィルムです。

舩橋 はい。とてもロマンティックなフィルムです。そして同時に政治的なフィルムです。

コスタ このフィルムは、あの時代、あの場所におけるドキュメンタリーへと傾斜しています。あの時期のものの考え方、生き方が、フィクションを遮断しています。想像的なものを与えてくれないのです。スタジオの場面も、彼が行きたいところへついていくしかありません。そのような調子なのです。
私はそれとは違うことをしようと試みました。というのは、ジャンヌがいてくれたからで、この女性の登場人物が、私の心を想像的なものへと開いてくれました。歌の多くは、女性の視点から語られています。たくさんのひとが私にジャンヌの顔のことについて言っています。「ああ、マレーネ・ディートリッヒみたいだ」とか、「吸血鬼映画のようだ」などです。ジャンヌのなかには、異なった顔があります。そのうちのいくらか少しは私から来ているし、そして彼女自身から来ているし、照明、歌から来ています。

舩橋 私見ですが、あなたがとったアプローチは『ワン・プラス・ワン』とは違います。なぜならこちらではアンヌ・ヴィアゼムスキーが登場するのは、ほとんどフィクションといっていいからです。彼女は女優であるし、この場面は政治的寓意に満ちたゴダールの演出以外の何ものでもない。あきらかにゴダールの意図は──彼の意図など無論わかりませんし、誰にもわからないと思いますが──ローリング・ストーンズのリハーサルを余すところなくドキュメントし、彼らがいかにして楽曲を作るかを観客に理解させるといったものではないでしょう。それどころか、キャメラはリハーサル・スタジオから遠く離れ、突如どことも知れない浜辺で、クレーンの上に載ってしまいます。

コスタ 彼は反応の素早い(reactive)人間です。より迅速に反応しようとする機械のようです。実際に彼が日常でもそうなのかどうかわかりませんが、話によると、とても素早くて、スポーツマンで、敏捷な人だそうですね。そして60年代、彼は他のどの映画作家よりも素早く反応しました。彼は何が起ころうとしているかわかっていた。ローリング・ストーンズ、ブラック・パンサー……ほかにもたくさんあります。まるで誰よりも早く地震を探知する男です。
 私はそういうタイプではありません。私の世代の映画作家、ジャ・ジャンクーなど現在映画を撮っている作り手には、誰も彼のような作家はいない。しかし、我々の殆どがストローブよりもはるかにゴダール側の「肋」から出発しています。というのは、ストローブはある意味でフォードや小津やドライヤーと同様に、映画だけを重要視しない。映画作りは、大工仕事のようになされなければならず、フィルムが事柄の中心にあるのではない。それはひとつの部分であって、映画を作るときはいい仕事をし、ベストを尽くすということです。つまり問題なのは信念です。政治、道徳について、あるいは倫理についての信念です。もし道徳、政治、生き方に確信をもっているのであれば、フィルムはすでにそこにあります。それら全ての事柄についてのフィルムがあるのです。社会や国家、兵士たち、女性たちについての理念があるならば、フィルムはすでにそこにあります。
私たちはそこまで強くはありません。信念の人ではありません。ゴダールも違います。私たちは形式とともに始めます。ストローブは形式とともに始めることはありません。「これが世界についての私の理念だ」という具合に、理念とともに始めるのです。ゴダールは決してそのようには言いません。彼はこう言います。「これが世界だ。あるいは、それも世界だ。たぶん、あれも。これも好きで、それも好きで、あれも悪くない……」。ゴダールとストローブは、私にとり現代で最も重要な映画作家です。 いずれにせよ、私たちは形式とともに始めます。それから幾ばくかの幸運と、幾ばくかの労働によって、うまくゆけばある理念に到達することができます。隣人のヴァンダやヴェントゥーラ、それからジャンヌたちと労働するわけですが、なにか或る理念とともに始めることはできません。私はそこまで強靱ではありません。不幸にも、私たちは一つの理念とともに映画をはじめる能力を失ってしまったのです。 おそらく、だからこそ私はジャンヌの顔とともに始めたのです。あるいは、ルドルフを見るジャンヌ、ジャンヌを見るルドルフ、そうした小さな事柄、それからジャンヌが曲に合わせて想像した様々な物語、そうしたものと一緒に始めたのです。やがて撮影の最中、いや、大半は編集の最中ですが、フィルムをより堅固なものに組み立て、そして、いくつかの理念を掘り出すのです。

舩橋 そのような方法はフィルムを世界へと開き、あなたに自由を与えるのだと思います。あなたは「弱い」と言います。しかし言葉を替えるならば、世界の豊かな選択肢に対してオープンでいられるということでもあるわけです。そこに、ただひとつの理念から出発する映画とは異なる、現在を掴み取る可能性があるとはいえないでしょうか。

コスタ 私が「弱い」と言うとき、それは「はかない(fragile)」という意味です。そのせいで、私や仲間にとって、事態はより困難になります。私の仲間たちの中にはこうした批判を受け入れない者もいるかと思いますが、現代の映画作家のフィルムは、私には、往々にして強靱さに欠けるように思われます。なぜなら、すべては理念ではなく形式から出発していて、そのため、首尾一貫性に乏しいように思われるからです。しかしそれは私がゴダールに対して持つ批判でもあります。ゴダールのフィルムはしばしば一貫していません。美しくないという意味ではありませんよ。もちろん、そこにはシークエンス、ショット、映画としての瞬間がありますが、それはジョン・フォードやドライヤーのフィルムと同じやり方においてではありません。

(地震が起きる)

コスタ さっき地震の話をしましたよね?

舩橋 だからですね。我々もゴダールのように素早く反応すべきなんでしょうか。

コスタ ゴダールは既に目を覚まし「なんだ?」といってるかも知れない。

──次回作について少しだけお聞かせ下さい。

コスタ まだまだ曖昧な段階です。話したくないというのではなく、まだぼんやりしている。ヴェントゥーラと・・・彼と共におそらく同じ年齢ほどの男がいて・・・監獄か、病院で対話をしている。人に騙されるか何かで、ヴェントゥーラは人生の中でとても大変な時期を過ごしている。長くはならないはずです。1時間か、そこらで、短く、素早いものになる。

舩橋 前回『コロッサル・ユース』公開時にこうして話したとき、あなたが言っていた「Cinema with Justice 正義ある映画」について聞かせて下さい。協力者であり被写体であるヴァンダのような人物との信頼関係を築いてはじめて撮影できる何かがあり、そんな被写体と撮影者の平等性が画面に表れるという話でしたが、さらに聞きたいことがあるのです。
ゴダールは、目の前にあるものに直ぐさま飛びつく反射神経と素早さを持ち合わせている。あなたはゴダールほど素早くないとは言いつつ、ストローブ=ユイレのようにある理念から映画をスタートさせることはないという点で、ゴダール側の「肋」であり、目の前にあるものを<形式>により掴むことで映画をスタートさせるタイプだと言いました。ということは、あなたは撮影現場において、まるで編集するように対象を取捨選択をしているということでしょうか。
さらに、編集段階においてあるショットが「正義ある映画」として、正しいのかどうか、どのように判断されているのかをぜひ聞きたいのです。

コスタ とても単純なことです。例えば、俳優の出来で判断します。人物が弱い、あまりうまくいっていないと思ったり、ヴァンダはもっと勇気が漲っていて欲しいと思ったり、最初のテイクがより良かったと言ったり、簡単な取捨選択です。最も大きな要素の一つは、映画の文脈にうまくフィットするか否かです。ショットは、まるで建物をつくる石のようです。石がうまくはまっていなければ、一目ですぐに分かる。うまくはまらなければビル全体が崩壊する。これは映画作家として日々繰り返し、発見する鍛練です。ショットがうまくフィットしなければ、撮影時にミスを犯したということです。
マノエル・ド・オリヴェイラ監督についておもしろいエピソードがあります。ある時マノエルが同僚の監督の作品を見て、話しているのを聞きました。同僚の監督が「30分ほど必要以上に廻してしまった。あの後半の30分は良くない」と言ったところ、マノエルは「では、その30分をなぜ撮ったのだ?」と言いました。これほどシンプルなことなのです。オリヴェイラやドライヤーという人たちにとり、映画はおどろくほどシンプルなのです。この映画はこうだ、と決めれば、ミスはあり得ない。しかるべきモラル、倫理観、政治観を持ち、全てにおいて首尾一貫した考えを脳にしっかりと携えていれば、映画は正しいものとなる。私は、そこまで強靱じゃない。私は撮影中にミスを犯す。だから、編集ではショットの中に含まれていないものについても、想像します。ふんだんに想像力を羽ばたかせるといっていい。 私にとって編集はちょっとした校正作業でもあります。一つの理念をそのまま具現化するのではなく、編集により、犯したミスを補正してゆくのです。

舩橋 しかし、ミスという言葉からは最も遠いような完璧な画面が「何も変えてはならない」には溢れているのですから、映画はなにもミスをしない巨人だけのものではないと言えるのではないでしょうか。興行の成功をお祈りします。ありがとうございました。

vol.1 vol.2

何も変えてはならない Ne change rien

監督・撮影:ペドロ・コスタ
編集:パトリシア・アラマーゴ
録音:フィリップ・モレル、オリヴィエ・ブラン、ヴァスコ・ペドロソ
音楽:ピエール・アルフェリ、ルドルフ・ビュルジェ、ジャック・オッフェンバック 出演:ジャンヌ・バリバール、ルドルフ・ビュルジェ、エルヴェ・ルース、アルノー・ディテルラン、ジョエル・トゥー

配給:シネマトリックス
7月31日よりユーロスペースにてロードショー
公式HP:http://www.cinematrix.jp/nechangerien/

2009年/ポルトガル・フランス/103分/35mm/モノクロ/ステレオ

25 Jul 2010
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