「私たちは囚人であるとともに、番人でもあるのです」
──ペドロ・コスタ × 舩橋淳 対談

インタビュー

2008年4月初旬、新作『コロッサル・ユース』(2006)を携えペドロ・コスタが東京に降り立った。すでに何度か来日し、小津への敬愛を隠さず公言する彼にとり、日本は馴染みが深い国だというべきなのかもしれない。『血』(1989)、『溶岩の家』(1994)など初期の傑作を見たばかりであった私は、『ヴァンダの部屋』(2000)以降彼が遂げた驚嘆すべき変貌のプロセスや、それがさらに進化を遂げつつある『コロッサル・ユース』で見せたフィクションの可能性に大きく揺り動かされ、彼と語り合える機会があるということで、歓び勇んで渋谷のシアター・イメージフォーラムへ駆けつけた。
ジーンズに灰色のシャツというラフな出で立ちで現れた彼は、巨大な馬のように、悠々としていた。
それこそ「コロッサル」(巨大な)という形容詞は、彼自身のものではないか、と出会い頭に直感したのだが、大きな瞳は落ち着いていて、一点をじっと見つめながら、言葉を紡いでゆく詩的集中力ともいうような持続を自ら生きている作家がそこにいた。ジャック・リヴェットに「本当に偉大だと思う」と言わしめた、このポルトガル人映画作家は、原節子をいつか撮りたいと語り、また成瀬巳喜男を絶賛していた。

映画の構成において自由であること

舩橋淳:はじめまして。舩橋と申します。僕はペドロ・コスタ監督の映画の大ファンでして、もちろんすべての作品が好きなのですが、とりわけ『血』『ヴァンダの部屋』、それからこのたびの新作『コロッサル・ユース』に大きな感銘を受けました。
 さて、最初にお聞きしたいことは、「距離」に関してです。「距離」には様々な意味がありますが、さしあたり、ハリウッド映画との距離についてお聞きしたいと思います。現在、観客は「なにを見るべきか」「なにを考えるべきか」を映画に押しつけられることに慣れてしまっています。フレームの内部にストーリーやプロットが示唆する意味がぎっしり詰め込まれていて、その前提のもとで映画と向き合うことが常態化しているといいましょうか。ひとはフレームの間にあるもの、あるいはフレームの外側にあるものに想像力を働かせるということが、なくなりつつあるように思うのです。
 そんな時代でも、インディペンデント作家は、支配的な制度に対し様々な方法で「距離」を取ることができると思います。ひとつの例がストローブ=ユイレです。彼らのショットには、観客が寄せる期待とは無縁の絶対的な重力があります。あるいは、剥き出しの持続があるともいえると思うのですが、それらが見るものに実存的なインパクトを投げ掛けます。そうしたアプローチがある一方で、もっと表面的なものもあります。ダルデンヌ兄弟の映画はご覧になりますか?

ペドロ・コスタ:『イゴールの約束』(1996)は見ています。

舩橋:悪い映画ではないですが、彼らの作品は観客の期待に沿うように作られています。つまりプロット主導ということですね。ここにはもちろん中心となる登場人物がいて、物語が語られる。この先どうなるかという期待が、映画を見続ける動機になるのです。
 僕自身も作り手として、イマージュが物語やプロットに安易に従属しない方法を模索しているのですが、ペドロさんご自身は、ストーリーが一方的に与えられて観客の想像力を奪うような映画に対して、どのような距離を取ってきたとお考えでしょう?

コスタ:思うに、これは映画作家の問題である以上に、観客の問題なのだと思います。そんな映画は見るべきじゃないんです。それに尽きますね(苦笑)。現在、映画の作り手たちはいい仕事をしていないと思います。でもそれは観客の問題でもあって、観客のレベルに見合った映画の作り手たちがいるということです。悲しいことですが。これは社会の問題でもり、アメリカの映画館と同じことが、美術館でも起きていると思います……。

──古典的なプロット主導の方法ではないにせよ、それでもペドロさんの作品は、構成に関して極めて緊密であるという印象を受けます。そして、ショットと音の構成によってテンションが生まれているように思います。構成はどのように決定なさるのでしょうか。

コスタ:その点に関しては、努力しているつもりですし、好きな言葉ではないけれど、僕の野心だといってもいい。つまり、自分のクラフトにおいて、より精確でありたい、より強烈でありたいという野心です。時間と空間をコントロールしたいということですが、でもそれは、自分のものの見方、空間との接し方によって決まります。こういうことを言葉で説明するのは非常に難しい。構成ですが、頭からショット1、ショット2、ショット3、と組み立てていくということとはまったく違います。その点に関しては、ゴダールの『映画史』(1988-98)を見ればなにがしかわかるところがあるはずです。ただそれは理論ではなくて、実践の産物です。
 理論やドグマは役に立ちません。だからといってあらゆることが自由だというつもりもありませんが、フィルムをどう構成するかという問題は、スポーツに近いところがある、といえるかもしれません。なんども繰り返し練習することではじめて自分のなかにいくばくかの自由が得られる、という点においてね。最初はフォームを矯正したりしますが、それらを通して自由が獲得されるのです。

──作品の長さは前もって決めますか。

コスタ:いいえ。そもそも台本を使いません。1時間になるか2時間になるか3時間になるか、最初はまったくわかりません。ただ、多少なりとも決めておかなければならないのは、撮影期間です。これは金銭の問題であるわけですが、その点に関してはきちんと見極めたいと思っています。たとえば、1000万円あれば1年間撮影できて、2000万円なら2年間撮影できます。『コロッサル・ユース』は、だいたい1年半から2年の間、撮影ができました。
 『コロッサル・ユース』の構成に関しては、はじめにガイドラインだけはありました。ある登場人物が過去と現在にまたがって、なにものかを見、探すというガイドラインです。しかし撮影はとても自由でした。各場面を順番に撮っていくというのではなくて、ある場面を撮っていて飽きたら他の場面を撮る、という具合です。たとえば過去の場面から、現在の場面へ。ポイントは、複数の場面の間にエコーを響かせる、ということでした。ある現在の場面の中でヴェントゥーラやヴァンダがすることが、過去の場面とエコーを響かせる、というように発想していったのです。

撮影する者とされる者との関係

舩橋:『コロッサル・ユース』のひとつひとつの画面は、息を呑む緊張に満ちています。あれだけ張りつめたテンションを、集団作業であるロケ現場において、どうやって掴み取ってゆくのでしょうか。

コスタ:現場でテンションを得ようと思ったら、なにかしらの駆け引きや術策が必要なことがありますが、僕はそういうことが好きではありません。この映画のキャラクターたちは、移民たちで、社会のアウトサイドにいる人間たちです。彼らの生が自然に備えているテンションを息の長いやり方で捉えたいと思いました。私たちの人生とフィルムとを、多少なりとも一体化するのです。これは、5週間で映画を作る、というような場合とは根本的に違います。

舩橋:一方で『骨』のときは苦労なさったそうですね。多くのスタッフを抱えて、真夜中の市街で照明が煌々と焚かれる……

コスタ:現在の映画作りは、軍隊や警察みたいなものになってしまいました。

舩橋:ええ。その手のいかにも男性的な映画制作のシステムが、内容そのものに反映されることがあります。撮影する者とされる者が、人工的な関係しか築けず、画面に映るものもそれを凝縮したように、あらかじめコントロールされたものになってしまうのです。そんな撮影される側を抑圧する制度は果たしていいものなのかどうか、考えてしまいます。
 僕がかつて映画制作を教わった師に、ドキュメンタリー作家の佐藤真さんがいたのですが、彼は次の点を強調していました。すなわち、撮影する者は、被写体に対して責任(responsibility)を持たなければならない。いま、多くの場合、被写体は気軽にスナップショットのように撮影され、利用されてしまいます。

コスタ:それはある面で真実だと思うけれど、でも僕は、「映画の作り手の責任」という言いかたには怒りを覚えます。それは観客の責任でもあるからです。でも誰もそのことを言わない。映像の作り手にはあらかじめ超越的な力が与えられているという思い込みがある。だからあなたの先生の言ったことに完全に同意することはできません。責任は分かち持たれることができるし、またそうあるべきです。
 映画制作のもっとも大きな問題は、カメラのこちら側と向こう側の間のバランスです。作り手はもちろん責任を持たなければならない。自分の仕事に対して。同時に、カメラの向こう側にいる人間も責任を持たなければならない。そしてここには教え学ぶという側面もあります。その貴い意味においての「教育」があるのです。それは大学とか教育機関でなされているような教育とは違って、つまり根源的な意味における教え学ぶということです。見ること、聞くこと、我慢強くあることについての教育です。映画の作り手は、同時に先生であり、生徒でもあります。私はヴェントゥーラやヴァンダに多くのことを教わりました。

舩橋:ただ、撮影される側にも責任があるとはいえ、映画が資本社会の文化産業であり、広く流通するものであることを考えると、作る側の責任の方がより重大であると思います。素人を被写体とする場合、彼らはどれだけ広範囲で映画が公開され、巨大なスクリーンで映し出されることがどれだけのインパクトを観客に与えるのか、ということまで考えが及ばないのではないか、という問題です。特に小さな部屋でホームビデオのようなビデオカメラで、さりげなく撮影される場合においてです。佐藤真さんが主張していたのは、少人数撮影においては特に、被写体となる人物が映画制作へ協力するといったときにもつ漠然とした「映画というもの」への理解像と、撮影者が熟知している映画の社会的波及力には、大きな隔たりがある。被写体がくつろいで開けっぴろげに、私的なことまでいろいろ話してくれるとき、それをどう扱うかは作り手・撮影者の責任となってくるということです。つまり、結果として、被写体の協力の意志を利用し搾取することにもなりうる可能性があるということですね。

コスタ:ええ、もちろん。僕が言いたかったのは、術策を弄すれば弄するほど結果は悪くなる、ということです。すべてオープンにすべきだと思います。とくに僕がいま一緒に映画を作っている仲間たちに関しては、騙すことなんて考えられない。彼らはとてもオープンですし、裸で、無警戒です。彼らは彼らのままです。そして全員が、やがてフィルムのなかで自分たちが演じ、話している姿が公開されるだろうことを知っています。
 ただ、2年間も作業を続けることは簡単なことではない。もしこれが5週間であったなら、その場を取り繕うこともできる。しかし1年、2年、3年となればそういうわけにはいきません。持続的な関係がなければなりません。浮気の関係とは違うのです。ほとんどすべての映画は、だからある部分、浮気の関係であるといえるかもしれません。相手と出会って、ごく短い間だけ関係を結ぶという意味でね。『コロッサル・ユース』は、もっと長く、実人生に近い。

過去の映画との距離

舩橋:再び「距離」に関してですが、ペドロさんの作品には、特に処女作の『血』において、シネフィル的な欲望が画面に漲っていましたね。僕はニコラス・レイやジョン・フォードなどを想起しました。近作『ヴァンダの部屋』そして『コロッサル・ユース』では、そのシネフィル的欲動から距離をとるようになってきたと感じるのですが。

コスタ:ええ、そうでしょうね。僕が映画を作りはじめたのは、多くのことがすでに存在してしまった後、とりわけゴダールの後でした。ゴダールが出現したことで、映画の思考、映画の実践はこれまでよりも自覚的になりました。それはいいことだったと思いますが、私たちがどこから来たのか、先行する世代がなにをしたのか。ゴダールによって多かれ少なかれそれらが指摘され、明るみに出されたのです。どの作家がいい親で、どの作家がだめな親だ、ということもね(笑)。
 しかしゴダールの作品を見れば明らかですが、彼は映画を作るときに映画を必要としていない。初期は、他の映画の影響、オマージュ、ほとんど剽窃に近いものまで見受けられますが、序々にゆっくりと、特にビデオ作品ではあきらかに、それらの参照から離脱していったのです。思うに、本当に自分がなにを言おうとしているかを知るまでには、とても長い時間がかかります。多分、『勝手にしやがれ』(1959)が彼の言いたいことではなかったと思う。『軽蔑』(1963)や『気狂いピエロ』(1965)でなにがしかを言おうとしたのだと思うけれど、彼が言いたいことのすべてはいま現在の作品のなかにあるのだと思います。ビデオ作品にね。彼の言葉でもありますが、「フィルムの背後にその人となりを感じる」ということです。以前のゴダールの作品に感じていたのは、スタイルであったり、達人的な巧さだったりしたのですが、いま感じるのはもっと複雑なもの、思うに、もっと真実に近いなにかです。
 これは僕や舩橋さんの場合も同じだと思いますが、ニコラス・レイをとってみても──自分の中から除き去るということではありませんが──、いまのニコラス・レイは僕にとってかつてのニコラス・レイではありません。愛着は変わりませんし、いまも大好きです。ただ昔はもっと取り憑かれていたように思います。いまのほうが距離が取れている。年のせいかな(笑)。

舩橋:ちなみにどの作品が特に好きでしたか。

コスタ:『黒の報酬』(1956)。でもいまは少し批判的にもなれます。20年前、あるいは25年前はもっとナイーヴでした。ニコラス・レイの作品はとにかく驚異的で、美しいとひたすら感動していました。いまはニコレス・レイのような作り手よりも、フォードや小津に近づいていっています。彼らはまだ充分に評価されているわけではありませんが、極めて偉大な作り手です。その仕事はコンスタントで、とても力強いものでした。経済的な問題に関しても、小津とフォードは堅固なシステムのもとで映画を作っていました。

舩橋:スタジオシステムの時代ですからね。

コスタ:ええ。僕は彼らと違ってしっかりした映画産業のなかにいるわけではまったくありませんが、彼らの姿勢に近づければと思います。つまり、2年間という短い期間に、彼らがいたような環境──ほとんどスタジオ的な環境を作りだそうと試みたのです。人数は少ないのですが、みなが一緒にいて、毎日おはよう、おやすみを言い合うなかで、その内部に堅固なリアリティーが生まれます。たとえばこれが4週間、東京で5人のスタッフで撮影、などということであれば、そうしたリアリティーは生まれません。

リアリティーのなかに自分を置くこと

舩橋:ところで、僕はいま自宅の近所の谷中で新作を撮影中です。小さなカメラを使って、知り合った老人たちを撮っています。この企画は自由に映画を作りたいという想いからきていて、それに関しては、前作『ビッグ・リバー』(2006)の苦労もありました。あのときは40人のスタッフがいて、カメラアングルを少し変えるのに1時間もかかるという状況でした。ですから日本に戻って、いま2、3人のスタッフと一緒に小規模の映画を撮っているわけです。ここでは自分が愛着をもつ人たちを、その実生活の延長で捉えることができます。
 この作品のこともあり、日常のリアリティーへと開いてゆく映画について、いまいろいろと考えているのですが、エリック・ロメールが面白い言葉を使っているんですね。それは「リスク・マネージメント」という言葉です。つまり、ロメールはある部分についてはきっちり構築する。プロットやストーリーです。ところが他の部分は開いてしまう。リアリティーに対して開くのです。あるいは、完全に素人俳優ばかり起用するけれども、スタッフはプロフェッショナルで編成する、というような組み合わせかたをするのです。偶然性とコントロールの組み合わせ、ということもできるでしょう。この「リスク・マネージメント」という考え方についてどう思われますか。ペドロさんも撮影のときに似たようなことを考えますか。

コスタ:ロメールはいいですね。そしてこういう方法はもっと使われていいと思う。ロメールの作品も、もっともっと見られるべきです。僕自身は、ロメールのなかでも好きな作品とそうでもないものがありますが、興味深いのは、リアリティーについての鋭い感覚です。それは屋外で撮影されていて、車が行き交っていて、通行人がときどきカメラを覗き込む、というようなところにあるわけではありません。舩橋さんが言うとおり、アマチュア的な部分と洗練された部分がうまく噛み合っているということですが、それはまた経済的な問題でもあります。ロメールの映画がいいと思うのは、金の使い方がうまいところです。ロメールの多くの作品は、男と女がいて、コーヒーとか自転車があればできてしまうんですが(笑)、これはとても素晴らしいことです。アメリカ映画は、中規模の作品でさえ、まったくおかしなところに大金が費やされている。僕は、金がどう費やされているかがスクリーンに映ると固く信じています。ロメールはその点に関して非常にいい。画面にお金がはっきりと見える。
 小規模の撮影をするときに問題なのは、リアリティーのなかに自分を置くこと、あるいはこういってよければ、「限定」することです。僕も舩橋さんの場合のようにたくさんのスタッフ、運搬車に囲まれて撮影をしたことがありますが、そうすると煩雑な作業のなかで決まって馬鹿げた時間を過ごすはめになります。大がかりな準備をして、みなが大騒ぎをしたあとで、「静かに、さあ撮ろう」というときなって、やはりなにか変えようと思っても、もうそれは不可能です。時間と予算が限られているわけですから。
 だからロメール的な意味において「限定」することには意味があります。小規模のチームで、リアリティーに向き合うこと。ファンタジーの側へと一線を踏み越えないこと。つまり、自分自身とリアリティーの間の葛藤こそが問題なのです。僕はかつて物理や歴史を勉強していましたが、それと同じ意味で、被写体を自分の好きなように変えることはできません。時間的、空間的に堅固な実体があるからです。そして、次に起こること、これも操作できません。物理的、空間的な制限の中で撮ってゆくこと、それが映画なのです。

舩橋:そうした姿勢は、あなたのキャリアのなかでどのようにして生まれたものですか。

コスタ:ゆっくりと、徐々にですね。だんだん具体的に、そして実際的になってきたんだと思います。それは僕がかつてのように、単なる監督としてだけ仕事をするわけにはいかなくなったからでもあります。これまでしてこなかったようなことを少しずつするようになっていて、いまではライティングを手伝ったりもします。そして、撮影現場を組織するほうに多くの労力と時間を費やすようになりました。そしてそういう仕事は好きですし、積極的にとりくんでいます。撮影現場がうまく組織できれば、その結果として、リアリスティックな仕事ができるからです。

舩橋:組織するというのは、金銭面だけではなく、スタッフやキャストの人選から、彼らとの能動的なコラボレーションまですべてに関わってゆくということですね。

コスタ:そう。関わってくれるひとたちについてのたくさんの細々としたことです。僕が彼らを尊重すれば彼らも僕を尊重してくれます。また、僕にはそうする必要があるのです。つまり僕にとってそこはほとんど外国だといっていいし、外国語で話すようなものです。僕は彼らと同じ社会階層にいないし、同じだというつもりもありません。僕は部外者で、だから彼らに多くのことを学びます。ヴェントゥーラはときどきひとことこういって僕を諭してくれます。「おい、気をつけな」。カメラさえあれば、彼らの内部に入っていけるだなんて思うのは間違いです。言葉の違い、社会の違い、階層の違いがあるのですから。もちろん僕はそういうものを取り払いたいと思っています。ただそれは僕の夢であって、彼らの夢ではない。彼らはただハッピーでいたいと思っているだけです。舩橋さんもきっとそう思っているのだと思いますが、僕も公平でいたいと思うけれども、相手のことを理解したつもりになることはできない。ただそれでも努力すること、未来においてなにかをもたらしたいと願うこと、それがリアリティーです。そして僕らの間の違い、その海のような広がりが、映画を生むのです。「間」、距たりこそが問題なのです。

『コロッサル・ユース』と西部劇

舩橋:『コロッサル・ユース』は英語タイトルですが、「コロッサル」という言葉はまさに主人公であるヴェントゥーラの画面に占める巨大な佇まいを想起させますね。それと、他の人がどう見ているのかわかりませんが、僕にはこの映画がある種の西部劇であると思えました。つまり、ある男がどこからともなく荒野へとやってくる。妻と別れた後に、新しい土地へとやってくる……。

コスタ:実際、多くの映画が西部劇の物語を語っているといえます。西部劇は、特にフォードがそうですが、かつての人間が実際に生きた、真実の物語だと僕は考えています。そのエッセンスは彼らが送った人生に由来している。そして、その物語は、また、アイルランドの物語を思いださせます。とくに「連帯」という点に関して。
 そう、西部劇は移民たちの物語です。だからヴェントゥーラの物語は西部劇と似ています。ヴェントゥーラも新しい土地に、富や新生活を求めてやってくる。ちょうど、アメリカの移民たちがカリフォルニアに美しい土地、金やオレンジ・ジュースを求めてやってきたようにです。舩橋さんはヴェントゥーラの巨大さ(コロッサル)について指摘してくれましたが、彼の巨大さはふたつの側面に由来します。つまりまず一方で、フォードの登場人物たちのように、夢がありエネルギーに満ちている点。パイオニアであり、勇敢であるとさえいえます。そして他方で、彼は完全に悲劇的で、人生に失敗しています。

舩橋:西部劇はアメリカのサーガですが、その焦点は、ひとりの人間が、悲劇性と幸福の間のジレンマに立たされるところにあるのだと思います。たとえばフォードの『捜索者』(1956)で、戸口に立つデューク、ジョン・ウェインのように。

「反復」について

舩橋:ところで、あなたのキャリアのなかで、あるときから「反復」が重要になってきているように思います。同じ場所を何度も何度も繰り返し訪れる。それが小さな差異を生みだし、緊張や重力が生み出されます。その点に関しては、生活のなかの小さな差異にこだわり続けた小津を想起することもできるでしょう。ペドロさんはご自身の作品のなかの「反復」についてどのように考えていますか。

コスタ:難しい質問ですが、『コロッサル・ユース』に即していえば、まずとてもシンプルなアイディアがありました。ヴェントゥーラがある過去の時点で手紙を書く。それは彼にとって将来の計画でもあるわけですが、彼はコンスタントにこの手紙に立ち戻り、まるでこの手紙が彼にとっての映画のシナリオであるかのように、働きかけ続けます。彼にとって手紙に書かれた言葉はプログラムであり、マニュフェストでもあります。そこには、したがって現在から過去への、過去から現在への「反復」があり、いくぶんロマンティックで、想像的で、夢のような、決して完結しない流れがあるのです。同じ手紙を書き、手紙を読み上げることは、ヴェントゥーラが俳優としてリハーサルを重ねることでもあるともいえますが、その繰り返しのプロセスのなかで、なにものかが創造されます。
 それはまた、聖書、あるいは西部劇に存在するような、基礎的でシンプルなコードであるともいえますが、ヴェントゥーラはそのなかに閉じこめられる囚人であり、かつ同時に、このコードを守る番人でもあります。囚人であり番人なのです。
 ヴェントゥーラは独りで、妻もおらず、金も、見通しもない。そこで彼はコンスタントに夢をみて、また、コンスタントに夢の外へと出る。彼はこの両義的な営みに自覚的なのだと思います。つまり悲劇的な側面と、夢を見る側面の両義性に。

舩橋:反復がヴァリエーションを生み出す点で、バッハのゴルドベルグ変奏曲の構成のようだともいえますね。

コスタ:ええ、まったくその通りでしょうね。しかし同時にそれはコードでもあり、だから結局のところある種の監獄であるのも事実です。私たちは、つねになにものかの内部に囚われています。しかし、囚人であると同時に番人でもあって、ときには少しドアを開いて外に出ることもできる、そのように考えたいと思っています。完全に解放されるなどということはありえないにしても。

舩橋:そして終わりのない循環がかたち作られてゆくということですね。次回作もおおいに期待しています。今日はありがとうございました。

『コロッサル・ユース』 JUVENTUDE EM MARCHA

監督:ペドロ・コスタ
撮影:ペドロ・コスタ、レオナルド・シモンイス
編集:ペドロ・マルケス
録音:オリヴィエ・ブラン
音編集:ヌーノ・カルヴァーリョ
出演:ヴェントゥーラ、ヴァンダ・ドゥアルテ、ベアトリズ・ドゥアルテ、イザベル・カルドーゾ、グスターヴォ・スンプタ、シラ・カルドーゾ

2006年/ポルトガル・フランス・スイス/155分

2008年5月24日よりシアター・イメージフォーラムにて公開中

URL: http://www.cinematrix.jp/colossalyouth/

26 May 2008

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