瀬川昌治と喜劇役者たち〜エノケンからたけしまで──瀬川昌治インタビュー vol.2

インタビュー

Vol.2.新宿:ムーランとストリップ、森繁、渥美、たけし

1.新宿:ムーランルージュ、森繁久弥

──新宿にあった芝居小屋、ムーランルージュ新宿座〔1931-1951年。浅草の興行界からやってきた佐々木千里によって開かれた軽演劇とレビューの芝居小屋〕に監督は通われたそうですが、当時、どのような演し物をしていたのでしょうか。

瀬川:ドラマと踊りとね。ドラマは結構、社会風刺なんかがあってね、わりと見ごたえがあったんですよ。学生客が結構多くて。戦時中は、劇場に検閲官はいましたが、よく芝居であるみたいに、途中に入ってちょっと止めろとかそういう風なのはなかったですね、ぼくが観た時には。勿論台本の検閲とか、直接観に来たりはしていましたけれどもね。一番後ろに席があったみたいだけれども。国策芝居だから国民の士気を鼓舞するものをうたった、その合間に、その隙間にね、作者の時代風刺みたいなものが入っている、というのが面白かったんですよ。国策一辺倒じゃなくて。書いていた人たちも、中江良夫さんだとか、大都映画で監督もされていた小崎政房さんだとか、インテリの人たちですからね。ちょっと辛い所とか、風刺したりというのが面白かったんです。一味違ったんです、他の芝居とは。名作がいくつもあったんですよね。「にしん場」とか。にしん場に犇めき合っている人間たちの人情とかなんかを通して時局の風刺みたいのがあってね。
 お客さんはたくさん入ってましたねえ。狭い小屋でしたけどね、200人ぐらいでいっぱいになっちゃうぐらいじゃないですか。合間に女たちがレビューなんかを踊ったりして。それがなんともいえなくて。それで踊っていると、舞台が近いから女優さんたちのお化粧の匂いが香ってきて、そういうのがまたよくてね。

──戦時中も踊りはあったんですか。

瀬川:踊りはありましたよ。まあ、踊りは大丈夫だったんじゃないですか。あの頃よく言われていたけど、股下三寸はみせちゃあいけないっていうのがあったけれども、それでもお色気っていうのはあったんです。
 それで、殊に印象に残っているのは沖縄の歌をよくやっていたんですよね。「♪沖縄よいとこ一度はおいで」なんていうやつをよくやっていたんです。それで踊るんです。

──衣装は和風なんですか。

瀬川:そうです。でもギリギリのね、前をパーッと開いたらスカートで、足を上げてなんていうのはやっていましたけどね。

──ジャズなどの洋楽は禁止されていたと思うのですが、その曲のリズムはジャズ的なリズムだったのでしょうか。

瀬川:ジャズは、もうあの頃は、なかったですね。洋楽はもうダメでした。リズムは、もちろん、そうです。

──メロディは和風ではあるけれども、リズムはそういうジャズ的なものだったのですね。

瀬川:そうです。

──そのお話は大瀧詠一氏の「分母分子論」〔洋楽の分母に、邦楽の分子が乗ることによって日本のポップスが構成されているという音楽文化論〕を想起させられます。しかも戦時中の敵性音楽が禁止されていた頃にもそれが適応しうるというのが興味深いところです。
 ところで、戦後のムーランルージュの活動期間は短かったようですね。

瀬川:短いですね。1年か2年じゃないですか。戦後も、今の三越の裏の辺り、新宿の武蔵野館っていうのがあった通りにあったんですよね。如月節子っていうね、可愛い女優さんがいたんですよ。ぼくは戦争に行く前にもちょっとムーランに凝っていたんで、彼女をよく観に行っていて、その名残もあったんです。学生時代ですけどね。
 戦後、ぼくの友達に如月節子の話をしたら「よく知っとるよ」とかって言うんでねえ、また行ったりなんかして。それで戦後ちょっと行ったりして。女優さんは、明日待子と小柳ナナ子が両看板でやっていたんです。その時に森繁さんが出てて、ちょっと一味も二味も違う人でね、面白いなあと思ってねえ。

──森繁久弥氏は残念ながら監督の映画には出ておられませんが、助監督時代に新東宝でよく顔を合わせておられたようですし、監督が多く助監督としてついておられた松林宗恵監督の映画にたくさん出演されています。ご著書の中で瀬川監督は、新東宝の撮影所に主役としてやって来られた森繁氏に対して、「昭和24年に新宿のムーランルージュという小さなレビュー小屋で森繁さんの舞台を見ていた私は、その何とも言えない味のある芝居が強く印象に残っていたので、決して若いとは言えないこの新人のデビューを期待して見守っていた」〔『乾杯!ごきげん映画人生』 47-48頁〕と記しておられます。その時、森繁さんはどんなお芝居をなさっていたのでしょうか。

瀬川:どんな芝居だったですかねえ。名作の「にしん場」とか、多分そういうのだと思うんですよね。

──あんまりギャグはやられないんですか。

瀬川:あんまりギャグはやらないんです。お芝居はもっと真面目な、ね。

──戯曲主体のお芝居だったようですね。

瀬川:そうですね、出ている人も役者の人たちですから。まあ、そういう意味では多少、笑いはありますよね。森繁さんなんかもキャラクター的には笑わせていました。

──新東宝の映画で森繁氏は、たとえば『森繁のデマカセ紳士』(渡辺邦男監督、1955)などキワモノ的な演技を見せておられますが、ムーランルージュではそういう芝居をしていたのではないんですね。

瀬川:はじめ、新東宝では新人だから非常に安手に使われていてねえ。ムーランルージュの芝居はアチャラカじゃあないんです。だからあの頃の芸術祭賞かなんか賞があったりすると時々貰ったりなんかして。斎藤豊吉さんや小崎政房さんなんかが結構ムーランの脚本を書いていて、わりと有名な文芸家がね、遊びにちょっと書いたりしたのが多かったんです。

──軽みのある演技が森繁さんの特徴だと思うのですが、当時からそういった演技をされていたのでしょうか。

瀬川:ええ、軽みのある。ムーランの専属の役者に入っていますね。だから1年ぐらいじゃないですか。

──主役だったんですか。

瀬川:ええ、主役です。ぼくより10歳以上〔森繁氏は1913年生まれ〕ちがうので、そのころももう35、6でした。

──森繁さんの名前を決定的にした『夫婦善哉』(豊田四郎監督、1955)の時が41、2歳だったようですね。ところで、森繁さんはどういう経緯で映画界に入られたのかご存知でしょうか。

瀬川:新東宝に入って来られたのは佐藤一郎さんっていう早稲田を出たプロデューサーが新東宝で結構メインで大物監督を引っ張ってきて、その早稲田の関係で森繁さんも多分引っ張られたんだと思うんです。はじめ新東宝に入ってこられたときは、NHKのラジオ番組「愉快な仲間」のレギュラーだったんですよね。それで人気が出ていて。それとムーランぐらいで。それで、あんまり知られていなくてね。でもぼくは森繁さん芝居っていうのは、やっぱり従来にない味があって、凄いなと思ったんですけれども。

──どのような点が従来と異なっていたのでしょうか。

瀬川:つまり自然体ですよね。自然体でしかも滑舌がはっきりしていて。それから、動きが角(かど)ばらないで。つまり後年の森繁さん流の芝居っていうのをあの頃からやっていてねえ。
 ぼくは本にも書いたと思うんですけども、ぼくが一番最初についたのは『アマカラ珍騒動』(1950)っていう、もう本当にプログラムピクチャーでね、中川(信夫監督)さんがなんでも引き受けちゃうから、ぼくはほんとに駆けまわっていたんですけども、それの主役でしょ。で、(柳家)金語楼さん相手ですから、軽いムーランばりの芝居だと思うんですが……ぼくは記憶がないんですけれども、とにかく安手でね。撮影所を舞台にしたやつで、セットがぜんぜんいらなくて、もうとにかく撮影所の中で撮っているっていうだけですからねえ。金語楼さんが夜警でね、森繁さんが大道具さんで、泥棒が入るかなんかといった話だったと思うんですけれども。その作品でも森繁流の芝居をやっていた記憶がありますね。最初森繁さんと、やっぱりムーランで観ていたから、面白いなと思っていたんですけど、ちょっとシャシン自体は失望をしてね。ただ、今、映画のガイド本を見ると中川さんの傑作だって書いてあってね。中川さんって、何でも観られるように仕立てちゃうからね。そういう技術を持っていた方だから。そういう点では勉強になりましたけれども、ね。
 それで、本格的に森繁さんがほとんど主役で出たのは藤田進のね、『新遊侠伝』(佐伯清監督、1951)でした。佐伯さんの演出と森繁さんの芝居っていうのは違うんですよね。佐伯さんはやっぱり任侠的な後の東映的な芝居でしょう。森繁さんっていうのは崩してやるから。しょっちゅう怒鳴られていましたよ。

──『腰抜け二刀流』(並木鏡太郎監督、1950、前記の佐藤一郎がプロデュース)というのが森繁さんの新東宝での第1作ですね。

瀬川:あれが一番最初でしょ。ぼくはあれを観たんですけれども、ちょっとがっかりしました。
 森繁さんは「三等重役」の第1作目(東宝製作、春原政久監督、1952)に出て、浦島人事課長役で、おそばを鋏で切るっていうね、あの役で一躍有名になったんですね。

──それが後の「社長シリーズ」に繋がってゆくわけですね。

瀬川:それからやっぱり森繁さんっていうのは、役者としての考え方っていうのをしっかり持っている方です。本にも書きましたけれども撮影の合間に喫茶店兼バーみたいなところで、森繁さんのボヤキを聞いたりなんかして、そのときもやっぱり思ったんですけれども、あの話の面白さっていうのは森繁さんの芝居の面白さに繋がっていると思いますね。

──ちょっととぼけた感じでお話になるんですか。

瀬川:ちょっととぼけた感じでありながら、芯のしっかりしたことをおっしゃるんです。

──東京の喋りもできるし、もともと大阪でお生まれになっていて、関西の喋りもおやりになりますね。

瀬川:ええ、凄いですよね。この間、フィルムセンターの川島(雄三)さんの特集で『暖簾』(1958)を観たんですが、二役をやっていて〔この映画で、森繁久彌は親子二代にわたる大阪商人を一人二役で演じている〕あれも凄いですよね。

──川島さんの映画では、一方で、結構ゲテモノ的な『縞の背広の親分衆』(1961)なんかもおやりになっていますね。

瀬川:あれもゲテモノですねえ。『グラマ島の誘惑』(1959)もゲテモノですねえ。ハチャメチャを徹底してやるところが川島さんらしいですよねえ。アナーキーになっちゃって。

──森繁さんは、歌でも、映画でも、舞台でも成功された方ですね。シリアスなものも、軽妙なものもおやりになって。

瀬川:誰でも日本人がもっているような心情に訴える魅力があるんですね。喋りにしても、そうなんですよね。


2.ストリップ:脱線トリオ、渥美清、コント55号、ビートたけし、太地喜和子

──戦後、軽演劇は、ストリップ劇場の幕間の劇として、生存してゆきましたね。

瀬川:ええ、だからみんな軽演劇で育っているんですね。新宿セントラル劇場っていうストリップ劇場ができて、必ず脇に由利徹とかそういうのが出ていて。ストリップと軽演劇の二本立てでしょう。だからそういうので結構面白いギャグをやっていたっていうのを覚えていますよね。由利徹とか脱線トリオ〔由利に南利明、八波むと志の3人組。命名者は後述の井原高忠〕とかがねえ、ストリップの合間にショートコントをやっていて、面白いネタをいっぱいやっていたんですよね。
 もともとは、中村屋の並び、伊勢丹の反対側に、帝都座という日活の5階建ての映画館があって、その5階に小ホールがあって、そこで本当のおっぱいを出したストリップの第一号をやっていたんです。その時は動いちゃいけないっていうんで額縁ショーといって、額縁の中に立っているだけでしたけれども。そこから新宿にストリップがパッと芽生えて行ったんです。
 その新宿セントラルっていうのはその後にできた小屋なんです。よく、そこへ行きましたよ。戦後の新宿では人の集まるところだから娯楽が雨後の筍のように出てきて。ストリッパーの衣装は脱ぐ前はやたらとキラキラしたのをつけていましたね。それと、当時面白いのはセントラルにはお客によく見せようっていうんで花道があったんですよね。それで舞台でパッと脱いで、スポットが当って花道を渡ってくるでしょう。そうするとお客がまだ馴れていないから、みんな硬くなって振り向かないで緊張して正面見てるんですよね、それがすごくおかしくてさ(笑)。まだそういうのを見るのがうしろめたいという気持ちがあったんじゃないですか。ぼくらなんかは仲間で行ったから喰らいついて見ましたけれども。

──その頃、靖国通り界隈や歌舞伎町はどんな雰囲気でしたか。

瀬川:道幅もあんな広くなくて、それから都電も通っていたんですよね。西武線の駅の方からカーブして、あの向こう側に角筈っていうエリアがあるんですよね、そこから市電が出ていて。雑然としていましたよね。靖国通りを渡った、今のコマ劇場の辺りは色々な地権の関係があって、あっちは尾津組が支配してたんだよね。それが焼け野原になっちゃって、先ず温泉マークの連れ込み旅館がいっぱい建って。コマ劇場のところはずうっと空き地だったんですよね。そこで、闇市がやっていたんですよね。靖国通りの右側が、コマへ行く方が焼け野原で、左側が、焼け残ってたんです。そこが松竹セントラルっていう小屋で、ストリップの常打ち小屋だったんです。靖国通りに面した、今のテアトル新宿の辺りですかねえ。

──コントの雰囲気はどんな感じでしたか。

瀬川:勝手に台詞を変えちゃったりするから。勝手にその筋書きと反対のことをやりだしたりなんかして、もう食い合いなんですよ。そうすると台本にない反対のことを言って、「お前言えねえだろう」とかって言うと、「なに言ってんだよ」って、それで掛け合いをするっていう、お互いにイジメ合って食い合って、それで笑いをとるっていう。そういうのを鍛えられているからねえ。相手をやっつけてやろうっていう、修羅場のケンカみたいなね。本人はトチッちゃって「参りました」になるとダメでしょう。だから、即興芸っていうのをどんどん身につけていって。
 由利徹の脱線トリオは面白かったですね。八波むと志がやっぱり威勢がよくて。南(利明)はあの頃から名古屋弁を使ってたのかなあ。3人ともぜんぜん毛色が違うじゃないですか。
 ショートコントみたいなので、西部劇をモジってやっていて。アメリカの男たちがたむろしているバーのセットで、そこでテキサスの哲っていう役名のガンマンの由利徹が酒を飲んでいると、向こうから南利明か八波むと志どっちかが来てね、で、喧嘩になって。撃ち合いになって、由利徹がフォークをかざして殴りかかろうとすると撃たれて、テーブルの上に伏して、フォークにステーキを刺して立ち上がって、「テキサスの哲と言われた男がこんなテキを刺すとは!」なんて言って死んじゃうのを覚えていますけどねえ。由利徹に話したら、よく覚えてますねえ、なんて言って(笑)。

──ストリップ劇場のコントではつまらないと野次が飛んだりするんですか。

瀬川:そう、野次が飛んだり。本当に親近感がありましたからねえ、舞台に。客席に来たりなんかもしますからねえ。そういうのも面白かったよねえ。小さい小屋といっても、200人ぐらいは入ったんじゃないですかねえ。客層は、大人の男が中心ですから、本当に面白くないと笑わないんです。今、新宿のルミネで演っているような吉本の芸人は若い娘向けですからぜんぜん違うんです。

──音楽は生演奏でつくのでしょうか。また、どんな曲を演奏していたのでしょうか。

瀬川:音楽は生ではなかったです。あの頃だと、レコードですかねえ。ジャズもありましたねえ。ジャズがアメリカから来て結構流行っていたでしょう。それから歌謡曲ですよね。「リンゴの唄」なんていうのも結構それで踊ったりなんかしてましたよね。

──渥美清氏も、映画以前にはストリップ劇場のコントに出演されていたわけですが、その時代のコントで、何か記憶に残っている演技は、ありませんか。

瀬川:ひとつ覚えているのは、浅草で出ていた……「フランス座」っていうんですかねえ……あれでやっぱり渥美清がダントツに面白かったですねえ。どういう役だったかよくわからないけど、戦後で物がなくて、オーバーが着れなくて、インバネスっていう当時の和服の外套みたいなのを着て長い襟巻きをしてね、それがすごく長くて。なんかで見得を切るのかな。最後に見得切って、長い襟巻きをどういう訳かクルクルクルッと巻いちゃって、首絞められちゃって、ゲッっていうような、くだらないギャグを覚えてます。ただ、そのくだらないギャグがねえ、たとえば渥美を通すと、結構面白いんですよね。

──その渥美氏の芸がやがて『男はつらいよ』で寅さんという役柄に収斂していってしまうのを、ストリップ劇場の頃から渥美氏を観てこられた監督は、どのように感じられましたか。

瀬川:だから、あの人は品行方正になっちゃって。まあもちろん芝居がすごい幅の広いレパートリーを持っている人だからね。ただ、寅さんっていう役になりきっちゃったら、一定のああいうパターンでしか芝居ができなくなっちゃったでしょ。ぼくは、あれでやりましたよね、『喜劇 初詣列車』(東映製作、1968)で。あの人はね、ああいうしっちゃかめっちゃかなところがあるんですよ。それがすごい面白いんでねえ。『初詣列車』の時はなんか、そういうのをやりたいなと思っていてね。たまたまその頃はヒッピーとかも流行っていて。だからぼくは『初詣列車』っていうのが一番好きなんですよ。渥美がボディ・ペインティングの中で泳ぐのを財津一郎とやったり、そういうストリップの時の渥美の一面を出したいなと思ってやったんです。で、高嶋政伸とぼくがテレビドラマの『HOTEL』で付き合ったときに、「もうあれが最高だ!」って高嶋が言っていたけどねえ(笑)。

──たくさんの睡眠薬をチャンポンにして飲んでラリってしまうというシーンもありますね。

瀬川:ああいうのをねえ、こういうのやってよ、って与えるといっくらでも膨らませるんですよ、彼は。そういうドタバタのネタをいっぱい持っているから。長髪のカツラを後ろ前で被ったりとか(笑)。でもそうやっていて、昨日のことを思い出すとかっていう風に繋げないとね。それだけやっていると、またドタやってる、っていう風になるからねえ。だからそうならないようにいろいろ工夫はしましたけれどもねえ。
 このあいだ、渥美さんとねえ、浅草で座付き作家をされていた井上ひさしさんのね、浅草時代の対談を読んでいたんですけどね、やっぱりああいう土壌が今はなくなっちゃっているから、もう渥美さんみたいな喜劇役者はもう育たないですね。素質があるにしてもね。吉本興行なんかが一生懸命やっているけれどもあれは使い捨ての芸人を養殖しているだけであってね。

──それから前衛音楽の指揮者が大泉滉氏で、皿を割ると渥美氏が叫ぶ、という曲を上演するシーンも可笑しいですね。

瀬川:あれはねえ、皿が割れて「アオーッ」っていうのはねえ、思いついたんで、あのギャグをどういうふうに使おうかっていうんで、小松を探して歩くっていうプロセスの中でね。ああいう反復のギャグっていうのは……当時日テレ(日本テレビ)でああいうナンセンスをやっていたディレクターが何人かいるんですよね。みなさんがああいうのを面白がってくれていてねえ。で、日テレで1回『追っかけろ』っていう1時間ものの連続ドラマをやったんですよ。井原高忠君っていう学習院の3年後輩なんです。それでター坊、ター坊っていうんですけれども、彼が日テレで権勢を握っている時に、8ミリ映画で喜劇シリーズで、「追っかける」っていうのをテーマにワンクール〔3ヶ月間にわたる13回の放映〕やろうっていうことで。世界各国に監督が行って、キャメラマンと、本当に少人数のスタッフなんですけれども、あと助監督ともうひとりで6人ぐらいで、8ミリカメラを持たせて。で、ドラマを藤村俊二さんが、世界各地に行って、誰かが逃げるのを、おヒョイが〔藤村氏の通称〕追っかけるっていうテーマだけで、っていうのがあって〔この番組は、『スーパースター・8★逃げろ!』日本テレビ製作、1972年、4回で打ち切りになったのが有名な番組のようで、瀬川監督が担当されたのは第3話と思われる〕。

──日本テレビで『ゲバゲバ90分』(1969-1971)などをやっておられた頃ですね。井原氏とはその後組まれていないのでしょうか。

瀬川:ないですね。ただ、『乾杯!ごきげん野郎』っていうのを撮った時に、井原くんがそういうのをやっていたんでね、そういう指導っていうんで、来てもらって……

──えっ!あれを井原高忠氏がやっておられるんですか。

瀬川:テレビでショウ番組やっていたから……〔井原氏は伝説的なショウ番組『光子の窓』や『11PM』のディレクター〕

──クレジットはされていないですね。

瀬川:ええ、クレジットないですね。まあ、日テレにいたからですかねえ。

──演出というか段取りみたいなものをされたのですか。

瀬川:ショウのときに動いたりなんかしますでしょう。夢のところとか。あるいは、みんなが練習で歌っている時とか。振り付けは別ですが。井原くんもバンドをやっていたので、世志凡太とか、サウス(南廣)とか友達でしょう。だからあの連中がね、なんだあれ、大きな顔をしやがってとか言ってましたけれども(笑)。それから、『九八とゲーブル』で湯原昌幸がテレビディレクターの役をやっているでしょう、あれも日テレの井原でやってくれって言って、やってもらって。今のところ最後に井原くんと会ったのはテレビの『HOTEL』でハワイに行って食事を一緒にしたときですね。

──萩本欽一氏や坂上二郎氏のストリップ劇場でのコントはご覧になっていませんか。

瀬川:その頃は、観ていないですね。だいたい助監督時代までですね。でも、コント55号のふたりがまだ売れない時に、今も浅井企画っていう事務所にいるでしょう。その浅井さんのところは喜劇役者が揃っていて、今度こういうのが出るので使ってみてください、って言って、多分ぼくが一番最初にあのふたりをテレビで使ったんですよ。大映テレビの、なんだろうねえ、あれは。16ミリで。
 欽ちゃんって、ぼくはあの人の芸風はあまり好きではないんだけれど、お客をサカナにして笑いを取るってるでしょう。でも頭がいいから色々考えるんでしょうけれどもね。二郎さんはもともと東映の大部屋だったでしょう。二郎さんとはテレビの『夜明けの刑事』でずっと一緒に付き合って。ただまあ、あのふたりのやりとりっていうのは芸がないとできないですよね。

──ストリップ劇場から喜劇人たちが大挙輩出された、その一番最後にビートたけし氏がいますね。

瀬川:ビートたけしの笑いっていうのはちょっと違うんですよ。あの辺から笑いの質が変わってきたんです。

──違いの第一に、戦後生まれ〔1947年生まれ〕という点が挙げられますね。

瀬川:ええ、戦後生まれの若者の感覚っていうのをうまくとりいれて、やっていましたね。

──また、それまでのコメディアンですと、ユーモアとペーソス、笑いを涙で締めくくるという「チャップリン的な理想」のようなものを持っていたように思うんです。

瀬川:そうです。それからアメリカ映画のギャグとかね。

──アメリカのアニメの超現実的な動きを体技で再現してみたり……

瀬川:今、吉本(興行)の芸人たちとかね、そういうのと接する機会がないからね。ほんとおしゃべりの学芸会で、学食で喋っているようなノリでやっているだけだからねえ。

──あとは、瞬間毎の視聴率を気にする裏方向けの一発芸ですね。編集するのも楽ですし。それを使い捨てして、「新しさ」とは名ばかりですけど、それを維持してゆくだけで。転結転結と、性急に転がしてゆくだけで……ところで、監督は、『哀しい気分でジョーク』(1984)でたけし氏とご一緒される前からツービートの漫才などをご覧になられていましたか。

瀬川:いや、観ていないです。ラジオはしょっちゅう聴いていましたけどね。ええ、「オールナイトニッポン」。  ぼくは『哀しい気分でジョーク』っていう映画はわりと好きなんですよね。だから本当はもうちょっとリバイバルなんかでやってもらいたいんだけどね。あれはどういうわけなのかなあ、なんかビートたけしが嫌がっているって聞いたけどねえ(笑)。
 この頃、たけしのラジオで、ぼくは結構サカナにされたんですよ(笑)。ネタにされたの。まあ、毒舌じゃあないけれど(笑)。井坂聡って、ぼくの助監督をやってくれていた、彼がチーフでついていて、ぼくとふたりとも野球部の先輩と後輩で。後半で公園のシーンで小学生が野球をやるところがあるじゃないですか。あれの時に、ぼくはぼくで投げ方はこうだ、とかやっているし、井坂くんは井坂くんでやっているし、そうしたらそれをネタにして(笑)。ぼくはそれを車の中で聴いていたんだけれども、「面白いんだよな、ふたりとも野球部で。芝居そっちのけで、野球のことばっかやっちゃって」とか言って(笑)。

──たけし氏の役柄はこの映画の前々年に制作されたテレビドラマの『昭和四十六年 大久保清の犯罪』(TBS製作、1983、山泉脩ディレクション)の大久保清役や、この翌年に制作された映画、『コミック雑誌なんかいらない』(滝田洋二郎監督、1986)での豊田商事社長刺殺犯役に代表されるような狂気の面を出した役で注目を集めましたが、このフィルムでは、そうではなくて、人情味、ペーソス、優しさという面を主に出そうとされていますね。

瀬川:だからねえ、そういうのをみられるのが嫌なんですよね、きっと。いま狂気で売っているでしょう。
 それから事故にあってから、彼の顔が変わっちゃったじゃあないですか。あの頃のね、実に穏やかな、シャイな部分が顔にあって。その部分でホンを書いている吉田剛さんっていう名ライターが、本当にビートたけしにアテて書いたんですよね。だからたけしはねえ、まったく文句を言わないでやってくれたんですよ。それにたけしらしい肉付けをして。実際にはたけしはシャイで駄々っ子みたいなことを言うけど、本当は心の優しい男なんですよね。それを出すのが嫌がるんですよね。そういうふうに見られるのが。

──ここまで喜劇人のお話を主に伺って参りましたが、一方、ストリッパーという職業にも思いいれなどをお持ちだったのでしょうか。

瀬川:そうですね。もう亡くなっちゃったけど、よく土居通芳〔瀬川監督は"ドイ・ツーホー"と発音する。映画監督。新東宝時代のアクション映画『地平線がぎらぎらっ』(1961)が有名〕とかね、新東宝の助監督なんかと観に行っていましてねえ。あいつが好きでねえ。あいつは二枚目だからストリッパーにモテるんですよ(笑)。まあ、楽屋へ図々しく行ったりして。清水タツ子っていう当時有名なストリッパーがいたんですよ。花束を持っていこうって言って、ふたりで花束買って、楽屋に持って行って。で、ちゃんと渡ったか心配で、小屋がはねてから外で張っていたんだよね。でも、出てきたけど持ってないんだよね。そしたら後ろに、ヒモが抱えて持っていてね、なんだって言って(笑)。

──そういう経験が太地喜和子さんがストリッパーを演ずる、『喜劇 男の泣きどころ』(1973)を嚆矢とする三部作では生かされたのですね。

瀬川:そうですね。それで太地くんの映画の時は、ちょうど特出しのねえ、わりと有名な桐かおるってのがいたのね。で、桐かおるの舞台を観に連れて行って。本当は、ああいう特出しのストリッパーって女性が来るのを嫌がるんですね。でも桐かおるに頼んでいたんで、で、楽屋行って、太地くんと桐くんと色々な話をしていましたけどね。

──太地さんは思い切りよくお脱ぎになったようですね。

瀬川:太地くんはアッケラカンとおもいっきり脱いじゃいますからねえ。余計な神経を使わないでいいんですよ。  ぼくは太地くんって東映の時から知っていたんですよ。東映で助監督で、小石栄一さんの『ずべ公天使』(1960)っていう作品についてた時に、彼女もニューフェイスでそのずべ公の一員でね。その頃ぼくは牛込に住んでいたんですよね。牛込の柳町っていう都電の停留所から、ぼくと太地くんが一緒に乗るんですよ。で、面白い娘だなと思って。それで文学座に入って、結構思い切った大胆なことをやっていたんで、太地くんなんていいんじゃあないですか、って言って撮ったんですよ。

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06 Feb 2008

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