瀬川昌治と喜劇役者たち〜エノケンからたけしまで
──瀬川昌治インタビュー vol.1

インタビュー

 その喜劇映画群の画面の連続はバウンス感、つまり、弾むような感覚に溢れている。
 瀬川昌治監督の喜劇映画を、あなたはご覧になったことがありますか?
 『喜劇 女の泣きどころ』(1975)、『三等兵親分』(1966)、『喜劇 逆転旅行』(1969)、『ドリフターズのカモだ!! 御用だ!!』(1975)……。
 役者たちはフレームの中でつねに動くことをやめない。登場人物同士は、台詞のやりとりによる言語的な交流をしのぐほどに、全身を弾ませながらの掛け合いを行って、画面の中を躍動する。キャメラは無声喜劇のように静観を決め込み不動のフレームの中でドタバタとあがく道化を冷徹に眺めるのではなく、数歩寄り添って、俳優の動作に伴走し、彼らの肉体の弾みと感情を掬い取ろうとし、その滑稽な失策や錯誤を追う。画面の中、制服に身を包んだ男たちは職業への忠誠の過剰によって成功よりも失敗を招き寄せ、女たちは恋を夢見る暇もなく発情的に行動し、男たちの尻を追い掛け回す。ときおり、情緒性過多になって画面が湿り気を帯び始めると、一転して、照れたかのように、オチをつけて、嘆きによる時の繋留を、笑いに弾けさせる。
 瀬川昌治監督の喜劇は、跳ね飛ぶようなリズム感とともに約90分を疾走することを目指す。
 それらの喜劇の躍動感は、独特の演出術や、数々の職人的な裏方たちのたくらみとともに、エノケンからビートたけしまで、瀬川喜劇の出演者一覧表に綺羅星のごとく並ぶ、喜劇人たちの声と肉体によって具現されてきたのである。渥美清、フランキー堺、クレージーキャッツ、ザ・ドリフターズ、タモリ……日本という共同体の中で突出した人気を博した喜劇人たちのほとんどを、この演出家は自作に起用し、関係を持ってこられた。彼の語る喜劇史がなぜ存在しないのだろうか?
 瀬川昌治監督は、1925年に東京神田に生まれ、1949年に新東宝に入社、1960年に当時の東映では異色だった喜劇『ぽんこつ』でデビューを飾った。瀬川監督に、実際に接触を持たれた名だたる喜劇役者たちの肖像を描いていただき、その役者たちの源流たる軽演劇文化とジャズ文化について、その時代的・場所的な背景とともに語っていただいた。
(聞き手:寺岡愉治)


Vol.1.喜劇映画と軽演劇、斎藤寅次郎の印象、浅草のエノケン・ロッパ

1.喜劇映画と軽演劇

──監督は、デビュー作の『ぽんこつ』以来、実にたくさんの喜劇映画を手掛けられてきましたね。今回、「笑い」の特集ということで、瀬川監督に「喜劇役者たち」──1978年に撮られた監督のフィルムのタイトルでもある──についてお話を伺わせていただきたいと思い、本日は参りました。実際、榎本健一氏(『乾杯!ごきげん野郎』[1961])からビートたけし氏(『哀しい気分でジョーク』[1984])まで、ここまで名だたる喜劇人と組まれた映画監督の名前は他に思い当たりません。監督はもともと喜劇映画を志向して映画界に入られたのでしょうか。

瀬川:喜劇っていうのはまったく予想もしなかったんですよ。
 もともと自分の志向としてね、サスペンスドラマに興味があって。ヒッチコックをはじめとしてアメリカ映画に面白いのがいっぱいあったでしょう。ああいうジャンルのやつをやりたいなと思ったりした時に、ぜんぜん毛色の違う『ぽんこつ』(1960)っていう企画が来たでしょう。それまでぼくの志向していたのとは違うからちょっと悩んだんですけれども。当時の女学生とぽんこつ屋という対比がわりと面白かったんで〔編者註(以下同):『ぽんこつ』は佐久間良子演ずる女子大生と江原慎二郎演ずるぽんこつ屋の恋を主軸にした喜劇〕、引き受けたんですけどね。
 ぼくは、所謂社会的なテーマやなんかっていうのは、一応措いちゃうんですけれども、お話を面白く伝えるっていうことが、今の映画には殊に足りないと思うんですよ。だから、ずっとそれを心がけて来たんですよ。「旅行シリーズ」(1968-1972)なんかになると、汽車の絶えず走っているリズムがありますね、そのリズム感に乗って観客がドラマを観てゆくっていう、そういうのをずっと生涯心がけて来たんですよ。そういう点で、今の映画を観るとちょっと食い足りないというか。
 それと場面の転換ですね。予想しない展開っていうのを心がけて。それはやっぱり偶然性じゃなくて。若い人によく言うんですけれども、シナリオ時からそういうテンポというか運びを心がけてもらって。
 たとえば、普通にドアから出入りするっていうシーンも、窓から出入りするようにならないかって言うんですよ。(ビリー)ワイルダーから学んだんですけども、ワイルダーは絶えずそういう要求をするらしいんです。それでいて、じゃあなぜ窓から入るんだっていうと、やっぱり違うシチュエーションを考えるじゃあないですか。要するに桁外れのシュチュエーションっていうのを面白くつくって、それをなんとか埋めるんですよ、もっともらしく。どうしたらいいのかって。話もそういう意味で膨らんでゆくし、観客の予想を裏切ってゆくというかね、そういう展開がやっぱり大事なんですよね。

──チャップリンやキートンが芸人の家庭にうまれ、幼少期より舞台に上がって芸を練磨した後に映画に進出した、というのは有名なお話ですが、かように喜劇映画は舞台上で試行され熟成された芸を養分として摂取し、それを映画独自の形式と化合させることで発展をしてきました。話を日本に移しても同じような摂取状況があり、喜劇映画では多くの軽演劇〔喜劇性に富んだ大衆演劇〕で芸を鍛練した俳優たちが活躍をしてきました。監督の作品にも榎本健一氏をはじめとして、軽演劇出身の喜劇人が多数出演されています。また、監督ご自身も軽演劇が盛んだった戦前・戦中の浅草を舞台にした演劇作品、「浅草三部作」を演出されていますね。日本の喜劇映画において、軽演劇の存在はどのような力を及ぼしたのでしょうか。

瀬川:軽演劇はひとつの大きなエレメントだったんです。そういう喜劇とぜんぜん違う山田洋次さんみたいな人間関係を主軸にして笑いをとっている喜劇もありますが、でもその根幹をやっているのは軽演劇出身の渥美清なんですね。斎藤寅次郎さんなんかが集めた、飛んだり跳ねたりしていたコメディアンだってそうでしょう。それは普通の、なんていうか真っ当なドラマとはちょっと違う。でも彼らは一様に役者だったから、そういう普通のドラマもやっていたから、そういうのを斎藤さんは「人情」っていうのにダブらせてね、それで人情喜劇というようなものを作られて。
 だからその人情喜劇では、ドラマそのものは普通のドラマとは変わらないんですけれども、それを味付けするのはスラップスティックというか。それは普通の役者にはできないですよね。新劇だとか舞台を志向している人にはとてもできない。そういう部分で喜劇役者は、偉大な才能と芸を持っていないとできないっていうことなんですよね。今の吉本興業の連中なんかはそういう土壌がなくて、ただ馬鹿騒ぎみたいなのしかできないからね。だから、所謂昔の喜劇、チャップリンなんかを源流とする喜劇みたいなものは、今現在できないということなんですよね。

──軽演劇から出て来られた役者の方はどのような点が他と違いましたか。

瀬川:たとえば、由利徹が倒れて形が決まるのは芸ですからね。芝居のリズムがないとできないですから。それから、みんな喰い合っているから、みんな台詞を変えちゃうんですよ、自分で都合のいいように。変えられた相手っていうのも負けちゃあいけないからなんか返すでしょう。アドリブが効くというか、そうやって盛り上げていくっていうそういう芸があるんですよね。由利徹は、『喜劇 競馬必勝法』(1967)で伴淳さんの隣に住んでいつもヘンテコリンな祈祷をあげているっていう役で、いつも覗きをしているみたいな役も、こうやってくれって言ったこちらのつもりの倍ぐらい面白くしてくれるんですよ。間がいいしね。あの連中は、作れるんですよ、芝居をね。修羅場を踏んでいるから。

──松竹のサイレント期に「喜劇の神様」と呼ばれた斎藤寅次郎監督にも瀬川監督は、1950年代、新東宝時代に助監督としておつきになっていますね。

瀬川:斎藤さんはねえ、一本つきましたよ。大貫(正義)くんっていうのがね、しょっちゅうついていて、ぼくの下のパートでついてくれて。松林(宗恵)さんがチーフでついていて、その関係でぼくが呼ばれて。確かねえ、『大当たりパチンコ娘』(1952)っていうのがあるでしょう、あれについたんですよ。で、あれが伴淳がまだほんのチョイ役で出てきて。
 斎藤さんはねえ、撮り出せば本当に速い。アングルも変えないしね。照明もフラットでね。芝居そのものは、普通に、あんまり凝る方じゃあないから。ぼくもまあ、半分お客さんみたいな感じで、斎藤一家ではないから。それでも大貫くんと一緒に走り廻っていましたから。
 ただ、『パチンコ娘』の時は、名前なんかはね、ぼくに勝手につけさせてもらって、当時のパチンコって手動式だからね、一発当ると15個玉が出る。大留重吾(オールジュウゴ)なんて名前をつけたりなんかしてやった記憶がありますけどねえ。
 松林さんが辞められて、もう監督になったでしょ。で、最後にねえ、斎藤さんのチーフ助監督をやれって言われてねえ、何日か準備をしたことがあるんですよ。その時に斎藤さんといろいろな話をして、ホンの話もしたんですけれども。そうしたら、ぼくはねえ、当時ボウリングっていうのが流行って。で、ボウリングをやりすぎてギックリ腰になっちゃって、それで斎藤さんのところに杖をつきながら行って、申し訳ないなんて謝った記憶がありますけどね。だから、あそこでやっていれば、またね、斎藤さんの印象っていうのはもっと強くなったと思うんですけれども。秋田訛りの。朴訥っていうかね。非常に寡黙な方なんですよね。好々爺な感じで。一日、動物園に行かれて、猿の動きを見たりなんかしてね(笑)、それを訥々とセットで話したりなんかしてね。面白い方でしたよ。

2.浅草:エノケン、ロッパ

──喜劇王と呼ばれたふたりの喜劇人、榎本健一氏も古川ロッパ氏も1930年代の浅草での活躍から映画へと躍進して行かれたわけですが、監督は、戦前には、浅草によく行かれたんでしょうか。

瀬川:戦前はあんまり行ってないですねえ。でも、本にも書きましたけれども〔『乾杯!ごきげん映画人生』清流出版, 2007年〕、『無法松の一生』(稲垣浩監督、1943)っていうのはちょうど浅草で観たんですよね。だから、あのころの浅草っていうのは記憶にはあるんです。ただ、「笑の王国」とかエノケン劇団とかに入り浸っているっていうほどではなかったんです。  戦時中にも行ってますよねえ。エノケンさんの舞台が水族館から浅草六区の松竹座かな、進出した時に一回観に行った記憶がありますけどね。軽演劇と、それからオペレッタっていうのがあったんですよね。エノケンさんが始めたやつですが、そういうのは行きましたね。それから、戦前から隆盛だった新宿のムーランルージュはよく行きましたねえ。

──戦争中なんかも軽演劇は上演されていたんですね。

瀬川:やっていましたね。ぼくが兵隊に行ったのは終戦の10カ月くらい前でしたけれども、その前には小屋はほとんど……映画は紅白っていうのに分かれて、そのふたつに統合されちゃってね、あと、実演っていうのはほとんどなかったんじゃないですか。ただ、地方なんかでは国策に沿った戦意高揚の時代劇なんかやっていたみたいですけれども。
 エノケンさんも風刺的というか、こんなことではやってらんねえ、とかそんな程度のことは言ってましたねえ。耐乏生活だからそういうのをモジってね。みんな笑いで解放されていたから。
 戦後も六区ははやっていました。もうエノケンさんは丸の内に行っちゃっていましたけれども。映画は浅草の小屋が地方の興行へのバロメーターみたいになっていてね。まだ瓢箪池なんていうのもあって。その後、埋め立てになっちゃったんじゃないですか。

──浅草寺裏にあったという瓢箪池の界隈は、どんな雰囲気でしたか。

瀬川:すごく人間臭くて。そんなに整備されているわけではないからね。田舎から出てきた人には瓢箪池が評判で。上野の不忍池をもっと小規模にした感じで。だから、そこに人が群がってお弁当を食べたりなんかして。六区も結構食堂なんかもあってね。もうすごい人ですよ。人が犇めき合って。映画館の封切日なんてもう。浅草寺へのお参りも兼ねて、東京の北の方の盛り場になっていて。今の浅草とは本当に違いますよね。

──浅草寺の信仰と、六区の娯楽と、吉原のセックスが三位一体になって歓楽街を形づくっていたようですね。

瀬川:助監督の時なんて浅草行って映画観て吉原に行ったりしたよね。今ではソープランドになってるでしょう。新宿にもありましたよね、新宿二丁目なんていう赤線があって。助監督の頃から、仕事が終わったら、ぼくは酒飲めないけど、酒飲んで、女郎屋行っておひらきみたいなのもね。井手(雅人)さんなんかともよく行きましたけどもね。お互い馴染みの女郎の名前を映画の主人公なんかにつけたりして。その映画を観て来いよなんて言ったりして(笑)。

──榎本健一氏に対してわれわれは映画でしか接することができませんが、フィルムでは対象の像が縮尺を狂わせられてスクリーンに投影され、観客は実際の対象の大きさから得る感覚とは異なった感覚を与えられます。監督は、『乾杯!ごきげん野郎』撮影時に間近で接されたわけですが、実際に小さい方でしたか。

瀬川:小さい方でしたねえ。ええ。ただ、日常の動きにもエノケン流のリズムがあってね。もう、そのものですよ。

──劇場での榎本健一氏はどんな感じでしたか。

瀬川:あの人は日劇なんかにも出ていたでしょう。すごい人気で。ロッパさんと一緒で。だから何本か観たことありますよ。やっぱり、あとは、あれは浅草で観たのかなあ、中学、高校ぐらいですかねえ。まあ、本当に小さい舞台だったから、結構面白かったですよねえ。歌ったり踊ったり。それで勝手にいろいろなことをやるから。なんか書割の噴水があったりして、喉が渇いたら書割の噴水を飲んだりして。そういうのはエノケンがやると面白いんでね。今思うとその中に女エノケンって言われた武智豊子さんも居たんじゃないかと思うんですけれども。演目はねえ、「猿蟹合戦」っていうのがわりとエノケンさんの当たり芸でね、猿になるっていうので、そういうのをやっていたのを観た記憶はあるけどねえ。

──舞台では、敏捷に動かれていましたか。

瀬川:敏捷ですよ動きは。それから踊りと歌が入るでしょう。あのころのジャズをエノケンさん流に歌って、踊ったりなんかね。それから、びっくりして倒れるっていうのがあの人の芸であって、ぼくも観てびっくりしたんだけれども、のけ反ったりなんかするのでもね、普通の人ならこういう45度ですが、20度ぐらいになっちゃって。それでも足はしっかりしていて。体操の選手みたいに身軽で。

──マック・セネットなんかの無声喜劇などで、映像装置が可能にするスラップスティックな躍動感を、肉体ただひとつで形にしてしまおうというような欲望を感じます。

瀬川:だから、山本嘉次郎さんなんかも書いていたけど、ロケーションなんかで垂直に立っている土塀なんかを横に走れるっていうね。
 それから、一回ねえ、駒けんじっていうエノケンさんのところのお弟子さんで、エノケンに似ているんですよ。エノケンさんの動きをそっくり取ってやる芸を持っていて。もう死んじゃいましたけどね。ぼくぐらいの歳じゃあないですかねえ。わりと早く亡くなっちゃって。やっぱり生活に困っていてねえ。それで、駒けんじが生きている時に、ぼくは浅草三部作っていうので舞台をやったんですよ。呉恵美子っていう瀬川組常連の女優を主役で。その呉恵美子っていう女座長のお師匠さんがエノケンさんで、必ず困った時に出てくるっていうね。それが本当にそっくりでね。エノケンさんの未亡人なんかもその芝居を観に来てくれて。千昌夫主演で「夢の浅草行進曲」の公演を新宿コマ劇場でやった時に、またエノケン役で出てもらって。

──ちなみにそれはどういうお芝居だったのでしょうか。

瀬川:昔の大都映画みたいなワンマン社長の映画会社が舞台で、そこの大部屋俳優が千昌夫なんです。千昌夫っておデコの真ん中に黒子があるでしょう。だから縁起がいいっていうことで社長から抜擢される。ところが映画がトーキーになって。千昌夫ってズーズー弁でしょう。で、トーキーでダメになるっていう(笑)。それで映画界を辞めて、落ちぶれて、ルンペンになるとかね。それはホンはあるけども、ビデオはないんですよ。ビデオに撮っとけばよかったねえ

──エノケンさんの出演された瀬川監督の作品『乾杯!ごきげん野郎』については、ご著書でも撮影時の興味深いエピソードが紹介されていますね。このフィルムは、ニュー東映(第二東映)で撮られていますね。

瀬川:ニュー東映っていうのは予算がちょっと少ないんですよ。『乾杯!ごきげん野郎』っていうのは最初からミュージカルっていうことでね、そのころはもうカラーが主流になっていた時代なんですが、それを白黒にされちゃって。モノクロのミュージカルなんてどうなんだよ、なんて言ってやったんですけどもねえ。

──この作品では、エノケンさん独自の見せ場もたくさん用意されているように思います。アテ書きされたものだったのでしょうか。

瀬川:ええ、あれはアテ書きだと思います。もともと東宝の企画だったんですが、そっちでも出られる予定だったと思います。社長の榊安左衛門〔エノケンの役名〕ってね、実際に松竹の会長だった大谷竹次郎さんをモデルにしたっていう。ぜんぜん違いますけどね、実際は。

──『ごきげん野郎』の時エノケンさんは、もう既に壊疽で足を悪くされて、親指を切断されておられた頃ですね。

瀬川:そう。もう大人しい感じで。その前のときはテレビの現場では暴れたりね、お酒を飲むとすごいらしいですよ。松林さんに聞いたんだけど、東宝でね、映画を主演で何本も撮っているでしょ。気に入らないと、お酒飲んで酔っ払っちゃうと、撮影の何々組っていう控え室があるでしょ。今井(正)さんのところで松林さんがいろいろ話していたら、隣の部屋が何組か知らないけれども、エノケンさんが出ているっていう組で。エノケンさんはそこで飲んでいて、何が気に入らないのか怒鳴り込んできたんだって、今井さんのところに。で、暴れて、「俺のことエノケンって言っただろう!」とかって言って。エノケンって言うと怒るらしいんです。誰も言ってないって言ったのに、いや言っているとか言って、今井さんにからんだりなんかしたんだそうです。
 それから、エノケンさんはねえ、その前に助監督の時に、佐伯幸三さんっていう監督に頼まれて鉄道の踏切巡視のPR映画、それに出てくれたんです。30分くらいの交通安全のPR映画でねえ。

──それは、瀬川さんが監督をされたのですか。

瀬川:ぼくが監督をしたの。(身分は)助監督だけれどね。電通系の色々やっていたひとで、中村くんっていうキャメラマンで。ぼくが東映の助監督の時に途中で撮ったんですね。
 その時にエノケンさんは踏切を渡るお巡りさんの役をやっておられて。でももちろんあんまりお金がないので。撮影は1日ですからね。いやギャグはないです。ただ、踏切を無謀に渡るっていう役で。まあそんなに動きはないですね。サラリーマンの傘が踏切の遮断機にひっかかっちゃって上まで行っちゃうのなんてやりましたけどね。

──では、エノケンさんは、『ごきげん野郎』の前に、名義は佐伯幸三氏とはいえ、瀬川映画に出演されていたのですね。それは、短い作品ですか。学校などで上映する映画でしょうか。

瀬川:多分そうだと思いますよ。35ミリでした。短いですねえ。30分くらい。ぼくの姪が線路をよちよち行って線路で遊んでいる役をやって、(柳家)金語楼さんだったですかねえ、踏み切り番か何かで。誰かが救うっていうのをね、やったりした記憶がありますけどねえ。

──一方、エノケンと並んで喜劇王と称された古川ロッパ氏の舞台はどんな印象でしたか。

瀬川:ロッパさんも邦楽座っていう所が常打ちの小屋みたいになっていてね、ロッパ一座がやる時には必ずそこでやる小屋でね。あのあとピカデリーっていう劇場になったんじゃないの。ロッパさんの芝居っていうのはアチャラカも入っているけど、やっぱりロッパさん自身がホンを書いたりしていて、あの人はインテリですから、もちろん人情ドラマですけどね、医者と役者の友情を描いた『男の花道』という当たり狂言を持っていて……あの人はしゃべりが得意な人だし、実にウィットがあって、体型もそうだけれどエノケンさんみたいに動き回るんじゃあないんです。やっぱりロッパ・エノケンが受けたのは、ロッパさんがデンとしていて、エノケンさんがちょこまか走り回ってと、そういうんで笑いをとっていたんですよね。

──監督は古川ロッパ氏とは、助監督時代に『東京のえくぼ』(松林宗恵監督、1952)でご一緒されていますね。その時に言葉を交わされたりしましたか。

瀬川:その時にぼくはチーフでつきましたから。もう、ロッパさんってあの通りの方で。もうあんまり覚えていないですけど。まあ、普通に。(一般に流布されているイメージとは違って)そんなに気難しい方ではないです。あの、『東京のえくぼ』のことが、ロッパ日記に出ていますよね。ロッパ日記の戦後編ってあるでしょ〔古川ロッパ氏は膨大な日記をつけていたことで知られており、出版もされている〕。あれに、こんなものは出たくねえとかなんか(笑)。

──ジャズやレビューなどが合流したモダン文化としての軽演劇には大変親しまれていたようですが、それでは、一方、伝統的な芸能を鑑賞することのできる寄席には行かれませんでしたか。

瀬川:いや、寄席には行かなかったですね。ただね、後に安藤鶴夫さん〔落語/歌舞伎評論家。直木賞作家〕の『巷談本牧亭』っていうのをね、やろうとしたことがあります。桃川燕雄さんっていう講釈師を主人公にしたすごい面白い芝居なんですよ。それをねえ、文芸路線で、三國連(太郎)ちゃんでやろうと思って。これは、戦後間もない頃からの話でね。西村晃の車引きとの友情を描いたねえ、すごくいい話なんですよ。戦後間もなく劇場を作るんで、講談とか落語とかジャズとかひっくるめたエンタテインメントのショウをやるプログラムを日劇ミュージックホールを使って企画した若いプロデューサーがいるんですよ。そういうことを企んでいるプロデューサーが古い講談にこだわっている桃川燕雄さんに魅かれるっていう、すごいいい話なんですよ。
 それで、岡田(茂)さんが「ええやないか!」って一発で決まったって秋田くんっていうぼくとやっていたプロデューサーが言って、「ええっ、何で岡田さんがそんなのがいいっていうのか」って思ってね。そうしたらその次の週に、「秋ちゃん、この間の横浜のチャブ屋の話どうなったぃ!?」って。要するに横浜の本牧のチャブ屋〔外国人相手に若い女性が相手をする休憩所〕の『五番町夕霧楼』みたいな話だと思ってたんだよ(笑)。田坂啓にホンまで書いてもらったんですよね。安藤さんのお宅にも伺って、話したりなんかもしましたけどねえ。結局、流れちゃったんです。

──安藤鶴夫氏の作品を映画化されようとしていたとは驚きました。安藤氏はどのような方でしたか。

瀬川:ええ、洒落た方で、本当に粋な方でしたよ。お嬢さんもおられて、これが映画になるっていうので、すごく喜んでくれたんですけどねえ。だから、あのころ、桃川燕雄さんっていう、本当の上野の本牧亭に出ていたねえ、孤高の講釈師でね、伝説的な人だったんですよ。その高座も観に行きましたよ。若山富(三郎)さんと、後年テレビで一緒にやったでしょう。あの時に若山さんとやればよかったと思って。勝新がやっても面白かったですよ。ああいうタイプの人なんですよ……

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06 Feb 2008

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