芦澤明子インタビュー vol.1

インタビュー

Introduction

 キャメラマン芦澤明子が手がけてきた仕事にはきわめて幅広いグラデーションがある。この1年間に劇場公開された主な作品は、『LOFT』『叫』(黒沢清監督)、『サンクチュアリ』『刺青 堕ちた女郎蜘蛛』(瀬々敬久監督)、『スキトモ』『屋根裏の散歩者』(三原光尋監督)、『世界はときどき美しい』(御法川修監督)、『INAZUMA 稲妻』(西山洋市監督)、『夢十夜 海賊版』より「第八夜」(佐藤央監督)。35ミリ、DV、24PHDそして8ミリと、彼女は次々とキャメラを持ち替えながら、メディアの特性を作品内容に絶妙にマッチングさせつつ、かたさとしまりのある映像をフレームに収めている。現在彼女がつくりだしている映像は、どのように培われ、いかにして獲得されてきたのか。このインタビューでは、自主映画を制作した学生時代、ピンク映画の撮影助手を務めた修業時代から始まり、TVCFキャメラマンの80年代、そして劇映画に再帰した90年代以降と、芦澤明子独特の豊かな経験を辿るとともに、彼女が歩んできた映像技術と時代の変遷も明らかになることになるだろう。

*本インタビューでは、芦澤明子キャメラマンが撮影を務めた『キャメラマン 玉井正夫』の佐藤央監督に多大な協力を賜った。ここに深くお礼申し上げる。

(取材・構成:入江宗則、衣笠真二郎)

1.映画との出会い、自主制作時代

──まずは映画との出会いから伺いたいと思います。ある本によるとかつてはゴダール少女だった、とされていますが、実際はどうだったのでしょうか。

芦澤:実は、子供の頃からそんなに映画には興味がなかったのです。ただ、大学に入って、たいへん不純な動機というか、気になる男性がいまして(笑)。その人がすごくゴダール好きだったんですね。その頃、ちょうど『気狂いピエロ』(1965)をやっていて、すごくおもしろい映画だと勧められて、それでデートコースがゴダールの映画だったんですよ(笑)。よく分からなかったけど面白かったんですよ、すごく!

──それは何年頃ですか?

芦澤:たしか1969年だったと思います。新宿のアートシアターで何回か観ているうちに、本気にゴダールの映画は面白いなって思っちゃったんです。当初の目的の彼とは疎遠になってしまいましたが、独りで何回も観に行きました(苦笑)。「分かんないな」と思いながらも、面白くてとにかく観ていましたね。それで、観ているうちにだんだんと映画って簡単に作れるな、って思い込んで自分も実作に足を踏み入れていくという大きな大きな間違いを犯してしまったのです(笑)。

──『気狂いピエロ』以降だとどういった映画を観ていましたか?

芦澤:『無常』(実相寺昭雄監督、1970)だったり『暗殺の森』(ベルナルド・ベルトルッチ監督、1970)などが印象深かったです。とにかく物語よりも動きのある映像に惹かれたんですよ。特に『無常』のほうはワイドレンズを使っての圧倒されるような長い移動がたくさんあって、こういう映画をやりたいな、と思いました。『暗殺の森』も動きのあるキャメラワークが多くて好きでした。当時は漠然といいな、と思っていましたが、だいぶ撮影のことを知ってから、その凄さがあらためて分かってきました。

──『無常』というと中堀正夫さんの撮影ですよね。

芦澤:中堀さんは撮影チーフでした。中堀さんの先輩にあたる稲垣涌三さんの1本目でした。稲垣浩監督の御子息で当時26歳。しかも、チーフの中堀さんも26歳でしたからすごく若い才能の集まりだったわけです。

──その後、中堀さんが撮影を担当された『幻の光』(1995)などに芦澤さんも現場に撮影応援に行ったりと関係ができてくるわけですが、当時は映画を観てクレジットに出てくるキャメラマンや他の技術パートの名前に留意したりはしましたか?

芦澤:そのときはまったく気にしていませんでした。もっと勉強しておけばよかったですね(苦笑)。

──大学に入ってから、自主映画をみずから制作され始めたそうですが、それはそういった映画を見始めてから、いざ作ろうと考えたわけですか?

芦澤:ええ。できるかな、って思っちゃった(苦笑)。

──制作母体は青山学院大学の映画サークルか何かだったのですか?

芦澤:いや、サークルではなくて、クラスの勉強嫌いな人たちと一緒にやろうということで3、4人で始めたわけです。本格的な映画団体というよりは時間を持て余した友達の集まりという感じでした。

──1976年に森田芳光さんの『水蒸気急行』(1976)と芦澤さんの作品とのジョイント展が行われていますが、こういった自主映画レベルでの交流はどういったものだったのでしょうか。

芦澤:今のようにメールとかはないですから、やっぱり上映会みたいなのをやると友達のつてや口コミで聞いてきた人たちが集まってくるんです。自分たちで上映会場を調べて安いところを探したりして、例えば水道橋にある「労音会館」という当時50人くらい入るそういうところで上映会をやるんです。たしか畳の部屋でした。そこでなんとなく集まってきた人たちが、そのまま知り合いになっていくという形でネットワークができてきたのです。そういう中でお互いスタッフとして行き来したりするといったこともありました。当時、私のところにキャメラをやってくれ、という話は来なかったですけど(笑)。ちょっと出演してくれない? とかそういうオファーはありましたね。そういう交流のなかに現・映画監督の森田芳光さんや現・映画評論家の大久保賢一さんなんかがいたわけです。そこでは映画の話もたくさんしました。ただ、当時の私は映画に興味を持ち始めてさほど年月も経っていませんでしたから、話といってもよく分からない内容も多かったのですが(笑)、分かる範囲で付き合っていました。

──森田さんの作品は自主映画にもかかわらず動員がすごかったと聞きますが。

芦澤:私が森田さんと知り合ったのは動員ブレイク前ですね。

──資料によると1970年に森田さんは映画を発表し始めて、1971年に青山学院で上映会をやっていますが、そのとき知り合ったのでしょうか。

芦澤:ええ、そういうことで知り合いました。そのときに「大傑作」と仲間うちで評判だった『映画』(1971)という映画を観て、私も感化されたりしたのです。それで、私も負けないように作ろうと思っちゃったわけです。いい映画を観るとすぐ私もできちゃうかな、って思ってしまうのですけど、それは大きな誤解で……。負けないように、と自分だけが思っていただけで、全然レベルが違うというか(苦笑)。
 やはり彼はすごく先見的な人でしたね。私の知る限りでは、自分で作った8ミリ映画をテレシネした初めての人ではないか、と思います。自分の映画をよりよいかたちでどう人に見せるかということを常に考えていて、それが今に繋がっているような気がします。

──芦澤さんの作品は何作あったのでしょうか。

芦澤:整理して数えたことがないから分からないけど(笑)、10本くらいやっているんじゃないかな。基本的に尺は短くて3分とか。たまに長いのを作ると大失敗で。

──タイトルなどを教えていただけますか?

芦澤:タイトルは『愛のまるやけ』といいまして……。タイトルのほうが内容よりもセンスがよかったんじゃないかなって思います(笑)。当時、8ミリサークルの情報などが掲載されていた「小型映画」という雑誌があったんです。そこで編集の日比野幸子さんがより映画的なものを雑誌としてプッシュしていこうという企画をしていて、そこでこの作品をとりあげていただきました。初めて自分の名前が活字になったのでよく覚えています。

──それはもうご自分でキャメラを廻していたわけですか? 自主映画では基本的に監督がキャメラを廻すことが多かったと聞きますが。

芦澤:ええ。他人に任せるというのは考えられなかったし、キャメラは自分でやるものだと考えていました。ただ最初の頃は自分で出演もしていましたからね。他の人に撮ってよ、って頼んだりして。撮影も出演も人手がなかったので自分でやっただけです。とにかく、その頃は自分のイメージが映像になるというのが楽しくて8ミリ映画を作っていました。


2.映画界へ ピンク映画時代(助監督から撮影部へ)

──自主映画の制作資金稼ぎのために渡辺護監督のプロダクションでアルバイトをしていたとのことですが。

芦澤:「アルバイトニュース」に求人情報が掲載されていたんです。大学が渋谷だったので事務所の場所が近いなぁ、と思って。「渡辺プロ」というと、(大手芸能プロと同じ名前だから)なんか期待して行ったんですけど、違ったなぁ、と(笑)。

──そのバイトの面接は渡辺護さんご本人だったわけですか。

芦澤:はい。それと今も現役でピンク映画を撮っていらっしゃる稲尾実さんとふたりでした。女だからどうだというよりも、とにかく人手が来てよかった、といった感じですぐ現場に行くことになりました。

──どういうことを現場でやっていたのでしょうか?

芦澤:映画のお手伝いって感じで……助監督ですね。それで最初の頃にやった仕事では、絡みのシーンで女優さんの足の裏が汚れているのを拭くのが私の役目だったことをよく覚えています。あとは日活ロマンポルノの映画で有名になる前の宮下順子さんのために事務所にギャラを届けにいったりしていましたね。
 やはり渡辺護さんとその時期に出会ったというのは非常に大きな体験でした。よき時代の映画館育ちで、生き字引のような監督でしたから……いろいろ教わりましたね。例えば、アップひとつ入れるにしても、何かを説明するためのものではなくて、そうじゃないアップを入れることができるようになると本当の監督だ、とか……わりと抽象的ですけど(笑)。渡辺監督がおっしゃっていた主観と客観が映画のなかの縦糸・横糸になっていることとか、当時はなかなか理解できなかったですけど、今になって「これだな!」と思い出したりします。あと具体的なことではタクシーに乗ったら自分の荷物は左側に置け、と言われましたね。右側に置くと降りるときに忘れることもありますが、左側に置くと絶対に忘れないから必ず大事なものは左側に置け、と言われましたね。これは撮影部になってからも非常に役にたった言葉です。

──ピンク映画の撮影期間は短いですよね。

芦澤:撮影は4日です。でも準備からアフレコまであるから、拘束は10日から2週間くらいでした。撮影条件は今のピンク映画とまったく変わらないです。でも、物価などのことを考えれば当時のほうが贅沢だったと言えるでしょうね。ただ、今の撮影者のあいだではピンク映画は人気があるんですよ。何故かというと35ミリのフィルムで映画を撮るということ自体が減ってきている状況があるからです。ピンク映画はある意味、旧態然としているというか、今でも35ミリフィルムで撮影して、アフレコ方式で作品を作るという魅力が若いキャメラマンや監督にとってもあるのですよ。ですから、ピンク体験というのはフィルムを扱うという意味では貴重なよい体験だと思います。
 当時の話に戻りますと、規模としては照明部2名、撮影部2名、演出部は監督除いて2名、アフレコですから録音部がいなくて、あとは制作が1名と車両の運転手さんといったかたちでした。

──(師匠筋にあたる)キャメラマンの伊東英男さんに出会ったのも渡辺護さんの現場なのですか?

芦澤:はい、そうです。当時私はお手伝いとはいえ、演出部でしたので監督のそばで動いていたわけですけれども。

──その作品名は何でしたか?

芦澤:すごいタイトルなので……(笑)。まだ日活ロマンポルノが始まったばかりの時期で、作品は全体がモノクロで、ここぞという絡みのシーンだけカラー撮影という感じでした。

──どういう経緯で演出部から撮影部に移られたわけですか。

芦澤:演出部って人間関係そのものが仕事になっていくような気がして。そういうのがおそらく自分には向いてないなって思って(苦笑)。それに撮影をやっている人たちがキャメラマンだけでなく助手さんも露出計をもって光を計測したりしていて、すごく恰好よく見えたんですね。それを見ていて撮影部をやりたいな、と思っていたのです。それにピンク映画では1年以上も演出部をやっているとチーフ助監督になってしまうんですよ。それで私がチーフ助監督の現場で重大なミスを犯してしまいまして……ものすごく重要なシーンでもう出番が終わったと勘違いして重要な俳優さんを家に帰しちゃったんです(苦笑)。渡辺監督には怒られるし、自分でも相当自信をなくしました。
 それで助監督をやめて、撮影部になりたいって言ったら、まわりのどのキャメラマンにも「やっぱり女の子は駄目だよ」と言われてまったく見向きもされなかったのです。けれども、伊東さんだけは「じゃあ、来たら」って気軽に言って受け入れてくださったのです。それで最初に撮影助手としてついた現場の先輩の助手さんが高間賢治さんでしたね。

──伊東英男さん、高間賢治さん、芦澤さんという撮影部だった、と。

芦澤:ええ、そうですね。

──高間さんは、その後、アメリカに行かれたりして、著名なキャメラマンになっていくわけですが、当時、高間さんと芦澤さんではどのようなやりとりがあったのでしょうか。

芦澤:高間さんは非常にフェミニストな方で『太陽にほえろ!』のTV映画の現場にも連れていってくれました。そこでは、「女性のスタッフが来ても大丈夫なの?」といったような女性スタッフを受け付けない空気が流れることもあったのですが、そんなとき「そんなことはない」と言って、私のほうがそこまで怒らなくてもいいのに、と思うほど高間さんのほうで闘ってくださいました。後に文化庁研修で海外に行く最初の人が高間さんだった、というのも非常によく分かりました。その頃から日本映画界の壁をぶち破ろうとするエネルギーがいろんなところに弾けていた感じがしましたから。だから映画業界のいろんなところで摩擦もあったけれども、そういう姿を見ていてすごいなぁ、と思っています。

──伊東英男さんはかなり多くの若松プロ作品の撮影も担当されていますが、芦澤さんも助手として参加されましたか。

芦澤:残念ながら1本もかかわっていないです。伊東さんもこの世界ではたいへんなベテランのキャメラマンで助手が他にもたくさんいましたので。

──伊東さんのほかの助手さんたちで、例えば、若松プロでは長田勇市さんなんかも撮影助手として1976年頃から参加されていますけど、その当時面識はありましたか。

芦澤:ええ。ピンク映画に撮影機材を貸し出す機材会社で既に出会っていましたね。そこで長田さんと知り合ってから、私も玉井正夫さんがやっておられる機材会社に連れていってもらったのではなかったか、と思います。玉井さんの機材会社はピンク映画にはあまり機材を貸し出さないところだったのですが、そこに若い人たちが集まっていたんです。


3.玉井正夫の機材会社

──長田勇市さんも、友達の紹介でピンク映画の現場に初めて入る前に1週間ほど玉井さんの機材会社で機材の扱い方を学んだと、あるところで書かれていますが、ピンク映画に機材を貸し出さない機材会社に何故ピンク映画の助手さんたちが集まってくるのでしょうか。

芦澤:それは玉井さんのやっておられる機材会社が何のキャリアも資格もない若い人たちを受け入れてくれる非常に自由のある場所だったからです。長田さんもさきほどの高間さんの話とは若干意味は違いますが、同じように非常に挑戦的な人なのです。それで玉井さんご自身もとても挑戦的な方だったので、いろいろと意欲的なことをしようとする若い人を非常に可愛がっていたんです。だから玉井さんは長田さんのことを可愛がっていました。「お金はあげられないけれども、ここで勉強するのは自由だからね」とおっしゃってくれたので、ピンク映画の撮影体験しかないようなどこにも属さない若い助手さんが集まってきて溜まり場のようになっていました。玉井さんご自身が権威的なものをとても嫌う方でしたし、私を含めた若い人たちも、あの東宝の玉井正夫だ、といったかたちでは接していませんでした。

──具体的にはどういった勉強をされていたのですか。

芦澤:35ミリフィルムの詰め方を練習するとか、16ミリの新しい機材が入ればそれを触らせてもらうとか、そういうことを実際にやらせてくれましたからね。非常にオープンな場所でした。

──いわゆる普通の機材会社ですよね?

芦澤:ええ。個人でキャメラや機材を購入して集めたような、そういう小さな規模の機材会社でした。あの安本淳さんも東宝を退職されていて、同じ六本木にそれぞれ別の機材会社を出していたんですよ。最初一緒の機材会社だったのかは分からないけれど、安本さんの機材会社が俳優座の先にあった光映社(現・光映新社)というところで、玉井さんの会社は第一光映社(後のステップ8-8)といって昔のテレビ朝日通りにありました。お互いに機材を貸し合ったりと交流していました。玉井さんの機材会社で先見的なことといえば、小さな規模の機材会社のなかでは日本で最初にスーパー16ミリのキャメラを導入したりしていました。後のスーパー16ミリのブームを予見されていたのかもしれません。

──『世界はときどき美しい』(2004)を8ミリキャメラで撮影されたときに、玉井さんから言われた「機材は小さければ、小さいほど気をつけなければいけない」という言葉を思い出されたそうですが、玉井さんご自身から学んだことは何かありましたか。

芦澤:撮影助手の仕事はキャメラマンに言われたことをやるような仕事ではあるけれど、それでも自分で考えて動きなさい、とよく言われましたね。例えば、撮影現場でまだ美術のことや照明のことが決まっていない段階で、キャメラマンがキャメラを三脚に立てたとします。その場所に機械的にすかさずバッテリーを持っていくという行為が果たして本当に必要なことかどうか、ということですよね。バッテリーはキャメラを廻すときに持っていけばいいわけで、他にやることがあるかもしれないのにパブロフの犬みたいに何も考えず反射的に動くというのではなく、そこで考えろというようなことを言われました。
 あと玉井さんに怒られたエピソードがありまして、同期の若い助手さんたちとフィルムチェンジを何分間でできるか競争していたんですよ(笑)。それを見た玉井さんが「そういうことをしたら駄目だ」とかなり本気で怒っていました。スピードだけを競うのではなくて正確さが必要なんだ、ということでしたね。それに、そもそも神聖な撮影機材を競争に使うのは間違っているともおっしゃっていました。
 玉井さんは35ミリのキャメラマンでしたが、機材会社をやるようになってから、時代の流れもあって16ミリの撮影機材を早めに導入されていたんです。やはり、そうすると35ミリにはなかった事故や機材トラブルも結構ありまして、そういった体験から機材が小さければ小さくなるほど、それに反比例して事故は大きくなるから気をつけなくちゃいけないよ、とおっしゃっていました。

──当時、玉井さんご自身も16ミリのキャメラを廻したりはしていたんでしょうか。

芦澤:建築や絵画がお好きでしたから、ご自身で建築とか美術のPR映画などの企画をたてて、16ミリキャメラを持って出かけておられました。そんな時は、会社で仕事がなくブラブラしている助手に声をかけてロケに連れていってくださいました。

──そのPR映画というのはいわゆる企業から発注されたPR映画ですか? それともご自身による自主映画のようなものだったのでしょうか。

芦澤:ご自分で企画されていたものが多かったと思います。長田さんなんかはよくロケに連れていってもらっていました。
 玉井さんがやっておられる機材会社はさきほど言ったように、若い助手さんの溜まり場であると同時に、東宝映画の一番いい時代を担った技師さんたちが退職された後の交流の場でもあったんです。今思うと私ももっと話を聞けばよかったなぁ、と思うくらいすごい人たちが集っていたんですよ。しかも、東宝だけはなく厚田雄春さんも来られていて会社の垣根を超えたサロンのようになっていましたね。他に三木茂さん、柿田勇さんなど錚々たるメンバーでした。煙草好きな方々が多く集っていましたから、ソファのあるところで煙草をくゆらせながら、日がな一日語り合っているようなかんじでした。当時は私も不勉強の至りで「暇なおじさんたちだなぁ」と思って見ていたんですけど(苦笑)。

──みなさんはお仕事をされているような雰囲気ではなかった?

芦澤:ご自分で会社を立ち上げたり、好きな企画を立てたりなさっていたようです。悠々自適な立場になられていたので、自分のやりたい仕事をされていた様子でした。そういうときは皆さん16ミリキャメラで撮影していましたね。
 そのサロンのなかのひとりで東宝のキャメラマンだった芦田勇さんもその機材会社に来られていたんですけど、その方には私も声をかけていただいて福知山市役所の建築PR映画の撮影なんかについていって助手をやったりしました。キャメラはボレックスでした。そのとき芦田さんは60歳くらいだったと思うのですが、すごく身軽な方でフットワークがよくて驚きました。助手は私ひとりだけの非常に小さな規模の撮影で1日数カットだけ撮るようなのんびりした現場でしたが、室内の撮影をやるときには照明技師の小嶋眞二さんがやって来たりしていましたね。そのとき小嶋さんは東宝の現役の技師で忙しかったのですが、「先輩に頼まれると断れなくてね」などとおっしゃりながら休みの日に来てくださいました。さきほどの玉井さんからのアドバイスといった話に関連すると、小嶋さんからも貴重な助言をいただきました。例えば地方ロケに行ったら、前夜に深酒してどんなに酔っぱらっていても、朝は早起きして、その街を歩いてうろうろ散策しなさい、そうすると朝の光のことが分かるから、とおっしゃってくれました。

佐藤:そういった玉井正夫さんが企画した作品のなかには建築家の吉田五十八(いそや)についてのドキュメンタリーがあるのですが、その撮影には美術として伊藤憙朔さんが来たりしていたんですよ。玉井さんのお宅にはそのときの写真が残っています。『キャメラマン 玉井正夫』(2005)制作時に1975年頃玉井さんが撮られたそのフィルムを探してみたんですけど、見つからなかったですね。

──観ることはできませんが、玉井正夫さんは大阪の都市を巡る映画を自分で製作・撮影されたりと、元々そういうところがあったのかもしれませんね。

芦澤:当時の映画のキャメラマンはそういった自分の世界であったり、やりたいことを持っていたんですね。例えば、私なんかはフリーだけれど歳をとった時、果たしてそういう気持ちになれるのかどうか、自分でやりたいことがあるのかどうかって考えてみると、当時の方々は自分の世界を強く持っていらしたなぁ、と思います。玉井さんも何年がかりという長いサイクルで、建築映画や美術に関する映画を撮っていらっしゃいました。本篇のキャメラマンの時にはできなかったことをなさりたかったのでは、と今になって思います。あの時代のプリントやネガはどこにいっちゃったのでしょうかね。

佐藤:すごく多面的に活動されてた方だったと思うんですよ。若い頃はアヴァンギャルド映画が好きで自分でお金を出して自主製作で映画を作ったり(『大都会大阪交響楽』[1929])、戦前も来日したハリー三村(三村明)を中心に京都と東京のキャメラマンたちを取りまとめ、後の撮影監督協会にまで繋がる集まりを組織すべく奔走されたりとか、そういったところは「成瀬巳喜男のキャメラマン」といったイメージだけでは取り逃がしてしまう側面だと思います。


(つづく)


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13 Aug 2007

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