ジャック・ベッケルの/についての昆虫学
──ジャック・ベッケル生誕百周年記念国際シンポジウム・レポート

角井 誠

 「世界映画史でもっとも貴重な映画作家の一人でありながら、フランス本国でさえ、今日にいたるも、ジャック・ベッケルを無条件に擁護しつくした者は誰もいない」[*1]──そう始まる蓮實重彦氏の檄文はいささかの誇張も含んではいない。映画史は、このベッケルをまえにして「無意識の自己規制」に陥り、たえず言いよどみ、口籠り、ときにはその名すら忘れてきたのである。1960年に没したこの映画作家の最初のレトロスペクティヴが行われるまでに1991年ロカルノ映画祭を待たねばならなかったという事実がすでに、彼にたいする無理解と過小評価を端的に物語っているだろう(パリでのレトロスペクティヴが開催されたのはさらにその翌年のことである)。その後も、ベッケル擁護の声はまばらに響くことこそあれ、大きな叫びとなることはなかった。生前は不遇ながらもせめて死後の栄光には浴せたモディリアーニと違って、ベッケルには死後の栄光すらも許されていないかのようなのだ。そして、フランス本国でさえさしたるイヴェントもないままその生誕百周年も過ぎ去り、またぞろ躊躇と健忘症が繰り返されようとしていた2006年の暮れ、ついにベッケル擁護の叫びがあがる。「熱烈なベッケル主義者」たちはいまこそが「復讐の機会」とばかりに「ベッケルの旗のもとに」集結したのだ。東京は御茶ノ水のアテネ・フランセ文化センターにて、傑作『怪盗ルパン』(1957)の上映に引き続き、蓮實重彦、ジャン=ピエール・リモザン、青山真治、クリス・フジワラ各氏による熱い講演が繰り広げられた。ここに読まれようとしているのは、その「ジャック・ベッケル生誕百年記念シンポジウム」についての遅ればせのレポートである。

 確かに、ジャック・ベッケルという映画作家は一筋縄ではいかない。というのも、彼の映画はその「題材」においても「スタイル」においても実に多彩で、やすやすとひとつの輪郭におさまってはくれないからだ。映画作家自身もまたたえず、「分類されることへの強迫観念」に付き纏われていた[*2]。1957年にジャック・リヴェットとフランソワ・トリュフォーがおこなったインタヴューのなかで、ベッケルはふたりの若い批評家が押し付ける「分類」──「アメリカ風のコメディ」と「探偵映画」という二分類、あるいは「社会的な」映画というレッテル──をことごとく拒む。そしてただ慎ましやかに、劇作上の要請ではなく、自分の登場人物を観察することへの愛着、「"昆虫学者"のような側面」(引用符筆者)について語って見せるばかりなのである。「昆虫学者の側面」という表現は、しばしば批判的に揶揄されるベッケルの偏執狂的な細部へのこだわり、あるいはジャン・ルノワールとの親近性という批評上の常套句を言いなおしただけに聴こえるかもしれない。かつてルノワールの助監督を務めたことがあるからといって、安易にベッケルをルノワールの「弟子」と位置づけることはともすれば彼独自の演出や主題を見えなくしてきた嫌いがある(それゆえ、今回のシンポジウムのなかで、意識的であれ無意識的であれ、それぞれのパネリストが、ルノワールについてほとんど言及することなく、ベッケルの魅力について語ろうとした点は興味深い)。けれども、「昆虫学」という表現は、慎ましやかであれ、ベッケルの映画を考えるうえでとても興味深いものであるように思われる。それゆえここでは、「昆虫学」という表現を導きの糸としつつ、それぞれのパネリストの発言を辿りなおしたいと思う(そのため、このレポートは必ずしも実際の講演や議論の展開を忠実に報告するものでなく、筆者の理解した範囲で再構成したものに過ぎないことを明らかにしておく)。

 まず、それは、ベッケルが人物や対象を観察するさいの「リアリズム」への執着として解することができるだろう。人物や社会の描写における細部の正確さは、ベッケルの映画の特質として高く評価される一方で、かえって映画から深みを奪い、表層的なものにしてしまうとして批判の対象ともなってきた。しかし、そうした「リアリズム」こそが「絶対的な現代性」の徴であるとあらためて擁護したのが、ジャン=ピエール・リモザン氏であった。たとえば、『偽れる装い』(1945)は占領下のパリのドキュメントでもあるし、『七月のランデヴー』(1949)には、睡眠や楽器の演奏をしている人物を本物らしく撮影するためのさまざまな工夫がある。そして、『赤い手のグッピー』(1943)では、農民たちが着る人物の衣装──それは蓮實重彦氏の指摘によればジル・ドゥルーズも着ていたフランスの「農民服」であるという──を現地で調達している。そこには、人物の衣装を現地のスーパーで調達したダルデンヌ兄弟の配慮にも通じる現代的な傾向があるのである。『怪盗ルパン』においてルパンが金庫をあけるときの指の動きはまるで本物の金庫破りのように手馴れていて優雅であるが、『穴』(1960)に至ってはなんと本物の泥棒が登場してしまうのだ。リモザン氏は、急死したマックス・オフュルスから引き継ぎ、脚本家のアンリ・ジャンソンとの衝突やジェラール・フィリップの演劇的な芝居というハンディキャップのために失敗作となった『モンパルナスの灯』(1957)と違って、『穴』こそは「絶対的に現代的」な映画であると断定する。作者ジョゼ・ジョヴァンニが自身の監獄体験をつづった小説を原作とし作者自身もシナリオ執筆に参加しているばかりでなく、実際に脱獄に参加したジャン・ケロディも俳優として出演しているのだ。しかも、作者のナレーションに続いて、クレジットなしで映画がはじまる。クレジットでまず俳優の名前が記されるとどうしても俳優のほうを見てしまうが、『穴』では、観客は「俳優」ではなく「人物」そのものを見ることになるのである。そうした「ちょっとしたラディカルさ」がベッケル映画の現代性のしるしとなる。リモザン氏いわく、40年代から50年代に活躍したベッケルは、製作の面においても技術の面においても「時代の犠牲者」であった。遺作『穴』が公開されたのは、『勝手にしやがれ』と同じ週であったのだ[*3]。

 クリス・フジワラ氏は、そうした人物の観察における「昆虫学者のような側面」を、細部の正確さではなくて、「物語の形式」ないし「演出」の次元において分析する。ベッケル映画において、人物たちは昆虫学者=演出家から何も隠すことができない。フジワラ氏によれば、ベッケルの映画は、「シンボリズム symbolism」や、「秘密 secret」をたえず回避しながら、「直接さ directness」や、「明らかさ openness」によって特徴づけられる「暴露 revelation」の映画である。『肉体の冠』(1952)のダンスシーンや河岸のシーンには、観客と向き合うようなコミュニケーションの率直さがある。『穴』でも、人物たちは視線を介して「無言のコミュニケーション」をおこなう。人物のコミュニケーションは直接でシンボルを欠いているのだ。それゆえ、ベッケル映画においては金銭もリアリティを欠いている。モディリアーニが金銭を得るのは死後のことであり、ルパンすら金銭に執着しないのだ。また、ベッケルは何事も「秘密」にせず、すべてを「オープン」にする。たとえば、観客はルパンが宝石を盗むさいの一部始終を目撃することになる。何かを隠すことによって説話を機能させるフリッツ・ラングと違って、ベッケルは秘密を明らかにしてゆくことで人物を造形し、説話を組み立てるというわけである。ベッケルのキャメラは、その場にいることですべてを明らかにしてゆく。『怪盗ルパン』でも、リザロッテ・プルヴァーの部屋にはいるキャメラは「暴露の手段」となる。扉はその開閉によって観客を導いてゆくのであって、まさに「扉の奥には秘密がない」(これは蓮実重彦氏が執筆中のベッケル論のタイトルでもあるという)のである。

 リモザン、フジワラ両氏が、ベッケルの昆虫学者のような観察のしかたについて論じた一方で、蓮實重彦氏、青山真治氏はむしろ、ベッケル的な昆虫学者のまなざしをベッケル自身の映画に向けなおす。主題の多彩さなどに惑わされることなく、一貫した細部の身振りにこそ目を向けて、その細部がもつ多彩で豊かな相貌を明らかにしようとするのである。蓮実重彦氏が着目するのは、「平手打ち」という身振りである。それは『エドゥアールとキャロリーヌ』(1951)でのアンヌ・ヴェルノンとダニエル・ジェランのカップルのあいだでの平手打ちのように、誰でも行使できる「民主的」で、「家庭的」で、「身近な」暴力としてある。またそこには、『現金に手を出すな』(1954)での上下関係、『赤い手のグッピー』の一族のなかでの主従関係のように、さまざまな「権力関係」がはいりこむこともある。驚くべきことに、人物たちはそうした暴力を当然のように受けいれる。この「儀式化」された暴力が、ベッケルの映画に「灰色の湿った」表情を与えているのだ。『最後の賭』(1942)や『現金に手を出すな』では拳銃も登場するが、傷を残さぬように手の届く範囲で行使されるささいな「平手打ち」という暴力こそベッケル的である。それはまた愛し合う恋人たちが抱擁し、接吻しあう距離でもある。それゆえ、ベッケルの暴力はエロティシズムと類似することになるのだ。また、「平手打ち」はベッケル映画において「裏切りへの制裁」としてある。『穴』でとりわけ顕著なように、裏切りの密告はすぐれてベッケル的な主題である。だが、『肉体の冠』は例外的である。密告者であるルカ(クロード・ドーファン)のほうが、マリー(シモーヌ・シニョレ)に平手打ちを喰らわす。そのとき、彼女は「最低 degueulasse」と呟く。それは『勝手にしやがれ』のラストで、密告されたジャン=ポール・ベルモンドがジーン・セバーグへ発するのと同じ台詞である。ここから、ベッケル追悼のさい「ベッケル兄」[*4]の文章をしたためたゴダールが、「兄」にいかに多くを負っていることがわかるだろう。こうして蓮實氏は、「ベッケルなくしてゴダールの処女作はない」というスリリングな仮説を提示するに至るのだ。

 青山真治氏の講演は、「ひとには口をきいてはならない瞬間がある」という唐突な断言からはじまる。それは、「平手打ち」と同様にベッケル映画のなかの目立たない細部──人物が押し黙る「無言の瞬間」──へとわたしたちを誘うばかりでなく、おそらくひとがベッケルの映画から学ぶことのできる「粋」な人間の振る舞いかたを示している[*5]。それら無言の瞬間はしばしば「鏡」と結びついている。『現金に手を出すな』のなかではマックス(ジャン・ギャバン)の相棒のリトン(ルネ・ダリー)が歯を磨いたあと、洗面台の鏡に映った自分の顔を黙って見入るし、『穴』のラストでは、潜望鏡を裏返すと居並ぶ看守たちが映りこむ。また、『エドゥアールとキャロリーヌ』ではアンヌ・ヴェルノンが真正面から鏡にむかって身支度をするし、『怪盗ルパン』でもルパンが髭を外すときにも鏡のほうを見やる。それら沈黙と鏡のシーンは、すぐれてベッケル的なイメージをかたちづくることになるだろう。そこでの鏡は、ナルシシズムとは関係なく、「外に向かう鏡」である。『穴』の鏡は自分自身でなく外を見るためにあるし、『現金に手を出すな』でも、リトンは鏡に映った自分の相貌を介して彼を取り巻く社会を見るのである。また、女優たちが鏡の位置に置かれたキャメラを真正面から見据えるように、愛する男をキャメラ目線で見つめることになる。『肉体の冠』の冒頭近く、踊るセルジュ・レジアーニとシモーヌ・シニョレの目線が交わる。『怪盗ルパン』では、キャメラ目線のリザレット・プルヴァーが横顔のルパンと切り返される。そのとき、ふたりは見つめあっているかのように見えて、互いのことを見ていない。そこにふたりの関係が示されている。そのシーンに、青山真治氏は、ふと、ステーィヴ・カーバーの『ビッグ・バッド・ママ』(1974)のラストを思い出す。そこでも、男女の目があっていないのにあっているように繋がれているのだ。フランスの批評家たちはさておき、ベッケルは映画作家たちをたえず刺激してきた。レオス・カラックスの『汚れた血』(1986)には『七月のランデヴー』や『肉体の冠』の記憶があるし、アキ・カウリスマキの『コントラクトキラー』(1990)には、『肉体の冠』のラストのシモーヌ・シニョレのように、セルジュ・レジアニのほうが窓の外を見やるシーンがある。「ベッケルを見ることは映画を学ぶこと」であるのだ。

 シンポジウムの最後、それぞれのパネリストが1本ないし2本ずつベッケル作品を推薦していった。リモザン氏は、『肉体の冠』と現代的な作品である『穴』。青山氏は「日のあるうちは立って飲む」というモディの台詞も「粋」な『モンパルナスの灯』。フジワラ氏は戦後の若者たちを描いた『七月のランデヴー』と「純粋な親密さ」に溢れる『エドゥアールとキャロリーヌ』。そして蓮實重彦氏は、「最も美しいドレスを着た女優」エリナ・ラブールデットが登場する『エドゥアールとキャロリーヌ』、そして『怪盗ルパン』である。美容師がルパンの頭にローションをつけるさいの動きの迫力は、すぐれたアメリカ映画におけるミュージカルの振り付けを思わせるのだ。わたしたちもまた、観察する昆虫学者のまなざしで、ベッケルの画面へとじっくり目を凝らすことにしよう。それは、人間の身振りについてそして映画について多くのことを発見させてくれるはずだ。





[脚注]

1.
シンポジウムのチラシに掲載された「ベッケルの旗のもとに」からの引用。講演の冒頭で触れられた「カイエ・デュ・シネマ」誌におけるベッケルへの無理解について、蓮實重彦氏は本サイトの「蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめ vol.3」でも言及している。またベッケルをめぐる同時代さらには没後の無理解については、たとえば、Jean-Louis Vey, Jacques Becker ou la fausse évidence, Aléas, 1995.の導入および結論を参照のこと。

2.
Cahiers du cinéma, no32, fev.1954, pp.3-17.

3.
『勝手にしやがれ』は1960年3月16日、『穴』は同3月18日公開。

4.
ジャン=リュック・ゴダール「ジャック兄」『ゴダール全評論・全発言Ⅰ1950-1967』奥村昭夫訳, 筑摩書房, 1998年, 470頁.

5.
青山真治「ジャック・ベッケル 粋と神秘」『われ映画を発見せり』青土社, 2001年, 199頁.

10 Apr 2007
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