蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.3

インタビュー

7.作り手たちへの恋文
8.映画と社会
9.50年越しの復讐


7. 作り手たちへの恋文

蓮實:映画評論家としての私が具体的にどんなことをやってきたのか、それをあまり深く考えたことはなかったのですが、先日刊行された『映画の呼吸──澤井信一郎の映画作法』を読んでいて気づいたことがあります。要するに、私は、批評家として、この映画はこのように見るべきだとはどこでもいっていなかった。いわゆる「映画の見方」を語ったことはなかったのです。それに気づいたのは、インタヴィュアーの鈴木一誌さんが、私の書いた『野菊の墓』(1981)のごく短いレヴューを長々と引用しておられるのを読んだときのことです。引用された自分の文章を改めて読みながら、確かにこれは観客を無視した映画監督への「恋文」のようなものだと思いました。それがときによって「果たし状」のようなものとして機能する場合もあったのでしょうが、まだヴィデオもDVDもない時期に、部分的にショット分析をしているのにも驚きました。おそらく、それをしないととても作品にたちうちできないと思ったからでしょう。それは、すでに述べたように、眠っている記号を覚醒させる試みだったのかも知れません。『野菊の墓』は試写ではなく封切りで見たので、たぶん、批評を書く前にもう一度見直しているとしか思えないのですが、ここを見ているのだから、監督も文句はなかろうと居直っているようにも見え、改めて読み直して冷や汗をかいたりしました。そこでの私のある指摘を受けて、澤井さんが、映画批評は普通は見る人のために書かれているものだが、蓮實の批評は、作る側に向けて書かかれているという意味のことをいっておられる。その言葉に触れて、ああそうだっかのかと思い当たった次第です。
 澤井さんは、これが処女作だから、まだまだ不充分なところがたくさんあると謙遜しながら、私の文章が、「こちらが迷ったり悩んだりして、結論を出しかねているところを正確に指摘して、そこに言及して、その場かぎりじゃない映画技術論にしてくれる」[*5]といっておられます。撮影の現場にはほとんど足を踏み入れたことのないいわば素人の私にそんな技術論などとてもできはしないはずですが、澤井さんの指摘を自分に引きつけて身勝手に解釈するなら、私は、まだ撮ったことのない映画を撮るようにして、作家と向かい合っていたのではないかと思います。要するに、徹底した観客無視です。見る者を代表するかたちで、一般観客向けに、この作品はこう理解すべきだといったことはいっさい口にしてない。おそらく、そんな批評は、これまであまりなかったのかも知れません。自分ではそうは思わないのですが、初期の私の映画批評がしばしば難解だといわれたのは、おそらくそのことと関係しています。澤井さんもいわれるように、私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません。日本語を読むことのない外国の監督たちに触れている場合もそうした姿勢を貫いてきたので、翻訳で私の書いたものを読んで、それを介して親しくなる監督の数も増えてきました。考えて見ると、私は、外国の映画研究者よりも、外国の映画作家たちとずっと話が合うのです。
 そうしたことが、教師としての私の姿勢にも現れていたのでしょう。この作品はこう読めといったことはいっさい無視し、勝手に映画作家たちへの「恋文」めいたことをまくしたてていた私の授業を聞いておられた若い人たちを、映画を語る方向ではなく、多少なりとも映画を撮る方向に向かわせることができたのは、そうしたことと無縁ではないのでしょう。自分では意識していませんでしたが、私の授業は、ある意味で実践的だったのかも知れません。撮影の現場などまったく知らないのに、撮影所のベテラン中のベテランである小津安二郎監督のキャメラマンの厚田雄春さんや、成瀬巳喜男監督の美術監督の中古智さんと親しくしていただけたのは、そうした姿勢があったからだと改めて思います。実際、こうした現場の方々のお話を聞くときは、そのつど作品の細部を再現するように質問をしなければならない。まだDVDもなく、ヴィデオすら限られた作品しか存在していなかった時代ですから、これは大変な作業でした。いろいろお話をうかがっているうちに、中古さんもかつて自分のかかわった作品を見て確かめたくなったといわれ、東宝の試写室で、成瀬の『芝居道』(1944)を16ミリのプリントで一緒にみながらお話をうかがったこともあります。そんなとき、この方々を日本という風土に孤立させているのはあまりにもったいないと思い、厚田さんには『ラ・パロマ』を見ていただいたうえでキャメラのレナート・ベルタを紹介しました。お二人が、まるで同じ撮影所の古くからの仲間のように話し合っておられるのを見て、国籍を超えたこの対話こそがが映画なのだと実感しました。『ラ・パロマ』の導入部のナイトクラブのシーンで、客席の机に置かれているランプの赤いシェードが明るすぎる、もっと光源をおさえてもよかったはずだとか、厚田さんの指摘は実に実践的で、レナート・ベルタも感動していました。まだ『パリ、テキサス』を撮る以前のヴェンダースの作品を、すでに80歳を超えておられた厚田さんがごく自然に見られ、あの列車の場面はいい、あの自動車の窓から見た通りのシーンは素晴らしいといっておられるのを見たときも、まだまだお仕事ができる方だと残念でなりませんでした。偉大な二人の美術監督である中古智さんとアレクサンドル・トローネルとが握手をしている姿に間近から立ち会いえたことも、これこそまさに映画だと実感しえた瞬間でした。
 もちろん、批評家として、観客を無視したレヴューを書いてばかりいたわけではありません。また、国籍を超えた遭遇を組織して悦に入っていただけでもありません。作品の分析ばかりではなく、批評家として、何らかの意味で「フィルム外的」な事象にも触れざるをえない。映画史的な事実にも触れざるをえないのですが、正直いって、映画史的な言説がいかなるものであるべきか、いまだ十分に理解しえてはいません。ですから、若い方々には、さまざまな視点から、思ってもみないやり方で映画にアプローチしていただきたい。


8. 映画と社会

蓮實:私自身は十分やらなかったんですけれど、映画といわゆる「社会」とのあるべき関係の分析も、若い方に是非やってほしい。20世紀は、その前半においては、社会主義レアリスムなどといういい加減な言葉が出てきた結果、また、後半においては、「カルチュラル・スタディーズ」などという無意識の転向者の回収装置が大学で機能してしまった結果、「社会と文化」という概念がまったく信頼を失ってしまった。とはいえ、「社会」の問題はやはり映画と切り離せない。映画は一国家を簡単に超えてしまうので、「社会」と映画との関係を論じるのは非常に難しくなっているとも思います。溝口健二がどうして他の国でこんなに理解されるのか、とか、黒澤明の映画がこの国ではどうしてこんなに評価されるのか、とか、そのような次元を超えて、「社会」と作品との関係を見なきゃいけない。

──先生ご自身は『ハリウッド映画史講義』を書いておられます。

蓮實:あれは本当にB級映画的に書きました。さっと上映時間70分で読めるように書いたというところがあって、それ自体が、ある意味で社会的なエクリチュールだったといえます。要約すれば、映画はたえず国民国家に敗北しつづけているという内容ですが、そんな敗北によって、映画は初めて「社会」に触れるのです。誰かあれを長編にしてくれればいいと思っていましたが、幸い、上島春彦さんの『レッドパージ・ハリウッド』のような書物が書かれてほっとしています。どうして「社会」かというと、一方で、社会主義と無縁の映画は20世紀にはなかったと考えているからです。なんらかの意味で社会主義的な理想とかそういうものが、映画を動かしている。資本主義的な産業と思われたものが、その内部で、いかに社会主義的なものを糧としていたかは、アメリカ映画の歴史を見ればすぐにわかります。小津を見たって、溝口を見たってわかるはずです。満映だって、ソビエト映画が社会主義政策として、共和国ごとに撮影所を作ったという歴史的な事実と無縁のものとしてはとても語れない。また、他方で「社会派」などという映画作家の分類は、それとはなんの関係もないという現実があります。つまり、題材にこめられた「社会性」や映画作家による「政治的な姿勢」の選択は真の「ソシアル」なものを露呈させることがなく、被写体にキャメラを向けることそのものにそれが露呈されるのではないかという問題です。そうした問題をめぐって、私の目には、スペインの市民戦争やアイルランド革命を題材にしたケン・ローチの作品にはいかなる貴重さも感じ取れず、ストローブとユイレの画面をひとつ見ただけで、「ソシアル」なものの映画における圧倒的な貴重さを感じ取らずにはいられません。これは、ことによると私の間違いかも知れず、文化的な錯覚かも知れませんが、そういう問題を誰かが確かな視点からうまく論じてくれたらいいなと思っています。

──カメラと被写体の関係のうちに露呈する「社会」、それと、国家の枠に捕われずに、映画と「社会」との関係を語るということですね。

蓮實:ええ。アメリカで書かれる大半の日本映画論の多くは、日本という国民国家を安易に想定して、日本映画をその日本社会の中のものと一方的に決めてかかっている。「映画はたえず国民国家に敗北しつづけている」という視点を欠いたその抽象的な視点は、小津の『その夜の妻』(1930)を見ればわかるだろう(笑)。あるいは、アメリカ社会をジョン・フォードが代表していたなどと粗雑に主張する書物もあるけれど、「代表」なんてしてないから彼は映画作家になったんでしょう。けれども、そういうことがけっこう多くの本に出ちゃったりしてます。それとは別の意味で、アメリカとジョン・フォードを論じたいと思うんですけれど。

──ジョン・フォード論が出版されるのはいつ頃になりそうですか。

蓮實:これを仕上げるには、アメリカに行くか行かないかをまず決断しなきゃいけない。でもいまはあまりアメリカに行きたくない(笑)。テロが怖いということでもなく、飛行機ってものにあんまり乗りたくなくなってるんです。私は9・11をフランスで迎えまして、その直後に飛行機に乗らなきゃいけなかった。そもそも、なぜ飛行機が飛ぶかということが、私にはいまだ納得できていない。さらに、それを落とそうとする意志が人類のある部分には確実にあったわけです。しかも、飛んでる飛行機より落ちる飛行機のほうが映画では絶対に画になるという決定的な事実を、われわれはホークスやフォードの航空映画や、ヒッチコックで知ってしまっている(笑)。だから9・11以来、数えるほどしか外国に行っていないのです。なにか不自然なものに乗るという気持が非常に強いですから。

──アメリカでないと見られないフォードのフィルムを見に、ということですが、この際なので是非現地に赴いて、それについて書いていただきたいと思うのですが(笑)。

蓮實:そうですね。あと第3章を書けば終わりなのですが、アメリカに行くのは、見られないフォードの作品を見るためというより、インディアナ大学のリリー・ライブラリーで、1945年のフォードの足跡を詳しく確かめたいからなのです。黒澤明の自伝『蝦蟇の油』によると、敗戦直後の東京にフォードがいたことになっているのですが、私はそれが黒澤の勘違いではないかと思っている。アメリカで出ているフォード論の1945年の記述は、どれも実に曖昧です。不思議なことに、フォード研究者で『蝦蟇の油』を読み、その記述を不思議に思ったひとは誰もいないんです。しかし、それを確かめにアメリカに行くとなると、また1年がかりということになってしまいますね。


9. 50年越しの復讐

──たとえばニコラス・レイであれダグラス・サークであれ、先生の世代は封切りで見てこられたわけで、まさに「傷だらけの映画史」をリアルタイムで体験されたわけです。とすると、その後の世代と比べて、歴史意識が質的に実は相当違うのではないかと思うのですが。

蓮實:その点で、私は絶滅寸前の珍種みたいなもんです。しかし、私と同世代で、映画もちょっと好きだというひとたちは、必ずしもサークやレイを評価していなかった。やっぱりウィリアム・ワイラーの方がいいとか、西部劇でいえば、フレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』(1952)やジョージ・スチーブンスの『シェーン』(1953)の方がはるかに好まれていて、『大砂塵』がいいなどといっても本気にしてもらえませんでした。だから、私とほぼ同期の映画好きでも、興奮した度合いが違うわけです。ダグラス・サークは今はビッグネームじゃないですか。しかし、当時はぜんぜんビッグネームじゃなかった。ダグラス・サークは、製作したユニヴァーサルという会社が二流だといった印象を与えていたのかも知れません。双葉十三郎さんの星取り表というのがあったんですが、双葉さんもそういうものはほとんど取り上げていない。ニコラス・レイにしたって、双葉さんはまともなことをひとことも書いていない。ですから、そういう傾向に対する反感がなければ、私は映画批評に進まなかったと思います

──植草甚一さんはどうだったんですか

蓮實:植草さんは、ハリウッド時代のフリッツ・ラングを擁護されたりして刺激的な方だったのですが、ニコラス・レイをはじめとしたハリウッドの50年代作家に関してはあんまりものをいわなかった。

──僕らの場合はすでにエスタブリッシュされた状態で見るわけです。サークであれば、シュミットが自分の映画で使って、ニコラス・レイであればヴェンダースが使っていて、しかもそれを梅本洋一さんなりが紹介してから見るという、3クッションぐらいしているわけでして。これはもうリアルタイムで見るというのと違うといわざるを得ません。

蓮實:当時は、サークもニコラス・レイも、明らかにワン・オブ・ゼム(one of them)でしかなかったわけです。とくにこのふたりは日本ではほとんど問題になりませんでした。バット・ベティカーにしても双葉十三郎さんはぜんぜんダメだったなあ。唯一バット・ベティカーに狂っていたのは、仏文の学部時代に私と同期だった詩人の天沢退二郎です。だから、三隅研次はいいぞ、田中徳三はいいぞとかいう話は、ほんとひそひそやるしかなかった。東大新聞の映画評で私がロバート・ロッセンの『ハスラー』(1961)を擁護したときも、世間はシーンとしていました。また、個人的にドン・シーゲルの『殺し屋ネルソン』(1957)を絶賛したときなど、みんなから馬鹿にされ、孤立するしかなかった。思えば、野蛮な時代だったのです。

──でも確信があったのですね。

蓮實:だって面白いんだもん(笑)、ニコラス・レイにしても、ドン・シーゲルにしても。でもそれをあまり面白がらないんですね、まわりの多くのみなさんは。どこか、始めからバカにしているところがある。北野武さんの最初の映画も面白かった。『ソナチネ』(1993)は凄い。ところがこういう声は虚ろに響くわけです。みんな、見てるのに面白くないっていう。ニコラス・レイは、いまでも鮮明に憶えてるんですけど、ほとんどロードショーで公開されていないんです。当時は入場料が高いロードショーに対して、安く映画が見られる一般封切りというのがあって、一般封切りのほうに先に出てしまう。ニコラス・レイはあきらかに一般封切りで、『追われる男』(1955)はキャグニーが出ているからか、かろうじてロードショーされました。一般封切りされた映画ってのは、どこかでバカにされていた。ジョン・フォードだってそうです。『リオ・グランデの砦』(1950)もロードショーされていない。逆に、われわれには一般封切りで奇妙な作品を発見する喜びがあったわけで、『大砂塵』(1954)は本当に興奮して、すぐに二度見ています。一般封切りで学割も安かったから、高校生でも贅沢ができたのです。フォードの『我が谷は緑なりき』(1941)はロードショーされていますが、西部劇の『アッパチ砦』(1948)は一般封切りです。なんとなくわかるでしょ、『我が谷は緑なりき』のほうが高級な映画だと思われていて、料金の高い1館で長いことロードショーをやり、それから一般封切りにおりてくるわけです。
 それから、いま思い出したんだけど、京橋にテアトル東京というところがあって、ジャック・ベッケルの『怪盗ルパン』(1957)はそこでロードショーされたんです。でも『現金に手を出すな』(1954)は一般封切り、『アラブの盗賊』(1954)も一般封切り、『肉体の冠』(1951)もそうだったと思います。一般封切りだと、劇場のパンフレットもペラペラで、いずれもごく普通の大衆映画として封切られているわけで、こういう公開時のヒエラルキーが、当時は映画に対する正統的な視点をある程度曇らせていました。

──選別の基準が今とはぜんぜん違うんですね。

蓮實:違うんです。大衆性があるかないかということなんでしょうけど、ベッケルの『アラブの盗賊』なんて、ジョルジュ・ロートネル監督の『やるか、くたばるか』(1959)との二本立てで、誰もまともな作品として見てないと思います。パンフレットも二本立て用というのがあって、見てみると劇場名も出てない。ロードショーのほうが高級とみなされていて、一般封切りのほうがたくさんの館でやるからひとは入るんだけど、軽視されていました。それがくやしいかというとそうでもなく、逆に発見の喜びを味あわせてくれました。
 ところで、今年生誕100年なのに、フランスではジャック・ベッケルについてほとんど何もやらない。今年はいろんな映画作家の100年ではあるんだけれど、ベッケルをフランスで何もやらないとはなにごとかと怒り狂ったら、ならお前がフランス語で書けっていわれて、書かなきゃいけないんです。ベッケルを作家主義政策の視点から評価していたトリュフォーと会ったときに、どうしてベッケルは無条件で偶像視されてないのかと聞いたら、彼の映画は高くつくんですって。

──製作費ということですか。

蓮實:そう。それで、B級志向の若い監督や批評家たちから嫌がられていたらしい。それと、『現金に手を出すな』で変に当たったんで、当たる監督と見なされて敬遠されてもいたということのようです。フランスにおいてさえそうなんですよ。『アラブの盗賊』の日本公開は50年代の終わりでしょう。すると、私は、ほぼ50年もの間、ジャック・ベッケルを偉大な映画作家として無条件に擁護する機会をうかがっていたわけです。

──復讐の機会が来たというわけですね。

蓮實:これは文字通り、復讐の機会です。それと、これはすでにいろんなところに書きましたが、『カイエ・デュ・シネマ』の星取り表で、『モンパルナスの灯』(1958)に対して、当時編集長だったエリック・ロメールが星ひとつかふたつなんです。そのときにちょうどフランスで封切られていた中平康の『狂った果実』(1956)が星3つ。高校時代にそれを見て、「こいつ殺す」と思った。その編集長が、しらぬまに映画作家エリック・ロメールになってしまった(笑)。最良の作品ではないにしても、中平康のほうに多く星をつけるっていうのは、絶対に許せない。だから、私は、エリック・ロメールに一度は「殺しの烙印」を押したんです。私は、『カイエ・デュ・シネマ』系の映画評論家と思われがちですが、私はアンドレ・バザンにも「殺しの烙印」を押しています。彼は、ベッケルに対して、評価しつつも、たえず留保をつけていますが、とりわけジョン・フォードに対して許しがたい振る舞いを演じている。それを知ったのは高校時代ですが、以後、アンドレ・バザンは許していません。その意味で、私は過激な反=カイエ派なのです。

──50年前から。

蓮實:そう。「許さない」ってね。それから、『ゴダールのリア王』(1987)が長編の長さに達しなかったんで、その前に自分の好きな監督たちの写真をたくさん入れて長編にしたのですが、それを見て、「ベッケルがなかったじゃないか」っていったら、ゴダールが「しまった!」っていっていました。「フレール・ジャック(兄貴ジャック)」という素晴らしい追悼文を書いたゴダールまでうっかりベッケルのことを忘れてしまうんだから、フランスには彼の名前を抑圧するなにかが機能していたとしかいえません。だから、ベッケルについては、50年ぶりの復讐劇をやんなきゃいけないかと思ってるんですが、復讐は疲れます。それで、彼の映画が日本で全部見られるわけじゃないし。

──DVD化もあんまりされていませんね。

蓮實:一応、『赤い手のグッピー』(1943)はありますが、その前の『最後の切り札』(1942)はない。『エドワーヌとキャロリーヌ』(1951)はあります。それから私が中学時代に初めて見て興奮した『幸福の設計』(1946)はある。素晴らしい映画ですが、どうもフランスでは軽んじられている。ベッケルを題材にした書物がフランス本国でも2、3冊くらいしかないんですもの。
 三隅研次にしても、フランスではDVDになってるものしか語られない。だから三隅研次論も書かないといけないかなあと思うんですけど、そうするとあっというまに1年過ぎちゃう。三隅研次はエステートだといわれていて、たしかにそうだし、美学的な面を強調するひとがいておかしくないんだけれど、それ以前に彼は説話論的な有効性というものを目に見えないかたちで活用するひとです。加藤泰の場合は、そこのところが混濁しているところが面白いわけで、日本映画論はまだまだこれから書かれなければいけない。特にマキノ論でいい評論がない。山田宏一さんや山根貞男さんの努力で成立した『映画渡世──マキノ雅弘自伝』はあるけれど、それをとらえて改めて世界的な視点からマキノ雅弘論を書くぞという若いひとがいない。
 あと残念に思ってるのは、黒澤明だって超一流の作家ではないにせよ、一流の偉いひとなわけです。もちろん世界の十指には入りませんけれど、そう簡単に出るひとじゃない。当時、私たちは加藤泰や鈴木清順を選び、ほかに黒澤擁護を書くひとがいるだろうと思っていました。黒澤が決定的に悪い作家であるはずがない。『蜘蛛巣城』(1957)は傑作と呼んでもよい。しかし、私が黒澤論を書かなかったことを「無視」と思われたり「否定」と思われたりするのがつらい(笑)。でも、書くなら、黒澤明論の前に、やはり内田吐夢論をと思ってしまいますが。

──2006年はシネマヴェーラ渋谷でマキノの「次郎長」シリーズをやりましたが、そのとき先生は檄文をメールで流布されましたね。

蓮實:バカなことをしたものですが、私は貧乏性ですから、客が入ってない劇場で優れた映画を見るといてもたってもいられなくなる。だから、頼まれもしないのに呼び込み役に徹したわけです。私は高級なことばかり難解な言葉で書いている人間だと思われがちですが、呼び込みばかりやってきたんです。「いらっしゃい、いらっしゃい」って。溝口健二シンポジウムもそうだった。あれは呼び込み以外の何ものでもない。没後50周年で溝口特集をやったけれど客が入らなかったなどという事態だけは、何としてでも避けたかったのです。マイケル・マンなんかは大きな規模で公開されるから呼び込みをやらなくていいだろうと思っていたのですが、劇場で見ると客席はまばらでしたから、やはり、「いらっしゃい、いらっしゃい」を律儀にやらないといけないようですね。封切りのときにそれにふさわしい対応をしていないと、あとに響きます。『ニューヨーク・タイムズ』のジョン・フォードをめぐる封切り当時の記事を全部拾ってみたことがあるのですが、ひどいもんです。「ジョン・フォード氏には映画がわかっていない」とか! 日本での封切り当時にこうむったニコラス・レイやバッド・ベティカーの無理解とかわるところがありません。だから、DVDの時代になったとはいえ、またデジタルによる上映がいずれ一般化されようと、映画の現在に触れているのは途方もなく重要なことなのです。マイケル・マンについてのまともな批評がないと、あとで響きますよ。個人的には、トニー・スコットについても同じことをいいたいのですが、あとで響くというのは、必ず映画から手ひどく復讐されるということです。

[完]


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脚注

5.
澤井信一郎+鈴木一誌『映画の呼吸──澤井信一郎の監督作法』ワイズ出版, 2006年, 161頁。

08 Jan 2007

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