"It Takes a Thief to Catch a Thief " 犯罪とアメリカのジャンル映画──対談クリス・フジワラ&マーク・ロバーツ vol.3

インタビュー

9. 単発のジャンル映画──存在しないコンテキスト

ロバーツ:もはやインダストリーがないということでしょう。現在では、B級映画を同じやりかたで生産するということはありえません。すべてが大ヒットするように意図されていますから。監督たちは、現在では、ポスト・インダストリー時代のハリウッドに対し、異なる関係を結んでいます。クエンティン・タランティーノのような人がいますが、彼らは異なる時代のスタジオへ侵入するハッカーになるという途方もない夢を抱いています。ここに、先ほど衣笠さんがおっしゃった映画における引用と剽窃の問題が生まれてきます。タランティーノは是が非でもB級映画監督になりたがっているのですが、おそらく、それが本当の芸術性の証拠になると思っているからでしょう。理想は、制度上・予算上のひどい制約のもとで仕事しながらも、素晴らしい映画を作る監督になることなのです。その条件で映画をうまく作れるのであれば、その人はとても優秀な監督であるに違いないですから。タランティーノの場合に皮肉なのは、自分が望んでいることをすべてやれる全権を持っているということでしょう。彼が望むのは、自分が本当にやりたいことをやる手段を持たない監督なのです。

フジワラ:存在しない文脈を作り上げることは可能ではありません。タランティーノは、そういったことをやろうとしている人々の最先端にいます。彼は自分の映画の最初にショウ・ブラザーズのロゴを入れさえしますが、しかしこれもまた、夢想の身振りなのです。現在では実在しない幻想の映画なのです。

ロバーツ:おそらくそれが映画のポスト=ノスタルジーの秩序のひとつの側面なのでしょうね。タランティーノは、ゴダールのように絶えず他の映画を引用し言及し続けています。しかしゴダールには、何かを構築し、何ごとかを言おうとする試みがあるように感じられます。それは対話の試みであり、われわれを考えさせるものです。単なるパスティッシュではないと、少なくとも私には思えます。一方でタランティーノについていえば、彼が文脈の欠如を気に留めていないように思われます。彼が他の映画を引用するとき、それは再認以上の何ものではないようにしばしば思われ、われわれはそれを引用であるとしか認識しません。そうして繰り返される身振りというのは、「ああ、それ覚えてるよ」という感覚の誘発です。純粋な引用性であり、そこまでは確かに行くのですが、それ以上のものは何もないように思えます。誰かが何かを引用するときに、その引用の背後にその人物が隠れていることがあります。断片は引用され、盗用されています。ちょうどコラージュのように。ここでのコラージュは絵画やドローイングに関わるものではありません。集められ、その結果として再機能させられた断片の集積です。ただし、タランティーノにおいては再機能しているようには思えませんけれども。そう、タランティーノとゴダールのアプローチの間にはどんな違いがあるのでしょうね。なんとも言いがたいところではありますが。

フジワラ:ゴダールの場合、彼の映画のまわりを様々なものが取り巻き、そして循環しています。彼の映画で面白いのは、そういったものがいかにして異なる形を取るかということです。彼が何かを他のところへと切り取ってくるとき、それはいつだって他の何かになりえるのです。それゆえに、映画を見るときには常に考えさせられることになります。私が直面しているこのイメージの新たな連結は一体何なのか。なぜこうなのか。なぜこれとは違うものではないのか。結果的にそれ以外の可能性について考えることになり、映画のまわりにある広大な空間に気付くことになるのです。その空間の一部は、ゴダール自身の映画の知識であり、彼の持つ文化的な参照項です。そのうちのあるものは映画にとても直接的に関わり、あるものは境界上に留まります。あるものはまったく現れてこないのですが、それが存在しているということはわかります。「文化」という言葉はそういったものを語るにふさわしい言葉ではないかもしれません。彼が働きかける、画面外の空間といった方が正しいでしょう。タランティーノの場合、その逆に、あらかじめ方向性がきちんと定められています。断っておきますが、ゴダールがヨーロッパのモダニズム文化を参照しているから彼の方が偉くて、タランティーノはアメリカのビデオ・ストアからやってきた犯罪映画とカンフー映画を見るのが好きな映画ファンに過ぎないといようなことがいいたいわけではありません。大事なのはそのことではなく、そういった文化的事象が存在する空間をどのように利用しているかということです。ゴダールにおいては、映画とそういった空間の間の運動が多いように思えます。それゆえに、彼の映画はとても短くても構いませんが──80分より短いこともあります──詰め込まれたものが多いので、とても長く感じられるということがありえます。一方でタランティーノの映画には、事実上、終わりがありません。これは画面外の空間の問題であり、さらにはそれと時間との関係の問題であり、どれだけの時間が利用可能で、それを作品のためにどれだけ機能させることができるかということが問題なのです。私はタランティーノをこき下ろしたいわけではありません。『ジャッキー・ブラウン』(1997)はとても良い映画でした。それに結局、これは単に引用の問題に留まるものではありません。すべての芸術作品が、他の作品を引用しているということをわれわれは皆知っているわけですし。
 他の映画を引用するもっと昔の映画ということでいえば、リメイク作品を考えることができるでしょう。まずウォルシュの『死の谷』(1949)が思い当たります。『ハイ・シエラ』を自分自身で8年後にリメイクしたものです。彼は、『いちごブロンド』(1941)を『ある日曜日の午後』(1948)として作り直してもいます。どちらの場合でも、最初の映画は第二次大戦以前に作られていて、リメイクの方は戦後すぐに作られています。私が思うに、この例から言えるのは、引用というものが一方では過去との継続性を宣言するものであり、その物語がいまだに作りうるものであり、いまでも私たちにとって有効であり重要であるということを言っていて、また一方では、その物語の中で何か壊れはじめているがゆえに継続性そのものが問われる、ということです。ウォルシュの映画にはそういったものが認められると思います。後期の作品になるとその傾向はさらに強まりますが、1940年代後半のこういった映画からすでに、第二次大戦前後の両側の映画の間に、取り返しのつかないような断絶があるという感覚が深まっていったような気がします。ウォルシュ自身の作品において、この歴史的差異を貫いて機能させようと試みられている自己引用が存在するのです。
 引用とは違うアプローチとしてほかに思い浮かぶのは、監督がまさに参照しつつあるもの自体を排除しようとするような作品です。例えば、ジャック・リヴェットは『ノロワ』(1976)という映画を作りましたが、この海賊映画では、『ムーンフリート』(1955)やターナーの『女海賊アン』(1951)への言及が排除されています。もうひとつの例はヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』(1982)です。登場人物たちが制作していた映画は、おそらくアラン・ドワンの『Most Dangerous Man Alive』(1961)のリメイクでしょうが、その映画に由来するものは一切見ることができません。われわれは、新しい映画と古い映画の間の関係を本当には知ることができず、それはなぜかといえば、ヴェンダースの映画がそういったことに入り込もうとしないからです。その関係を知るには、ヴェンダースのインタビューを読む必要があります。それゆえに、この引用は引用ではない種類のものです。ラウル・ルイスは、1980年代にそういった映画を数本作っています。リヴェット同様、彼もシネフィルです。『The Poetics of Cinema』という彼の本には、フォード・ビーブやウィリアム・ボーディン、そして確かレスリー・セランダーといった、彼が子供の頃に見た2流のハリウッド監督たちとの出会いが書かれています。ルイスの『Three Crowns of the Sailor』(1983)や『City of Pirates』(1984)は、リヴェットの映画同様に、初期映画を振り返るものであるように思えます。ルイスは1980年代に作ったある1本の映画で、以下のようなシーンを撮っています。どの映画かは忘れてしまったのですが、そのシーンは『男性・女性』(1966)を思わせるもので、登場人物たちは映画を見ているのですが、それは実際に存在した映画ではなく、その映画のために、その映画の中で見せられるためだけに作られたものです。引用ではない引用です。この種の引用はいつでも興味深いですね。

ロバーツ:もうひとつの引用の方法としては、「入れ子構造(mise en abime)」が挙げられます。ここでは、映画のなかでもう1本の映画が作られます。このタイプにあたる、いまだに最もパワフルな初期の例は、ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929)で、われわれは、作られつつある映画を見ることになります。似たような例は、映画制作についての映画にも見ることができるでしょう。ゴダールの『パッション』(1982)は、その様子を見せますが、むしろゴダールは、なぜその映画が作り上げられることができなかったのか、制作を妨げる軋轢というものが何だったのかを見せているように思います。これは自己引用の一種で、実際には盗用ではありません。これらはあからさまな例ですが、しかし一般に、なにが引用であるかを特定するのは困難です。なぜなら、クリスが指摘してくれたように、アートは不可避的に引用を伴うからです。映画において言えるのは、観客の注意を引用へ引きつけようとするものと、それを見せるのを拒むものとがあるということです。後者は、他のテクストの引用もしくは繰り返しを望まないのです。

フジワラ:それこそが、私がリヴェットのやり方をより評価する理由です。彼は、言及を行わず、言及の拒否の努力さえもしません。『狂気の愛』(1969)を作ったとき、彼は出演者にいくつかの映画を見せたのですが、映画自体ではそれらの映画についての言及はなされません。しかしながら、インタビューで真相を知ってしまうとその途端、彼の映画はどれも他の映画の欠如に取り憑かれることになります。「引用してはならない」という不安も、タランティーノのような「すごくクールなやつらの全部を引用させてくれよ」的な身振りも、どちらもないのです。リヴェットは第三の方法を選び、それが最も面白い。
 映画史の中ではあらゆるところに引用があります。『フランケンシュタインの花嫁』(1935)は『フランケンシュタイン』(1931)を引用しています。ジェリー・ルイスの映画のすべては以前の映画を引用していて、彼ももちろん、「入れ子構造」を利用しています。タシュリンの『底抜け00の男(The Disorderly Orderly)』(1964)にはルイスとヒロインが旅行代理店の窓の前で話しているシーンがあり、ふたりがそこを離れるとキャメラが前進移動してきて、ジェリー・ルイスの新しい映画が飛行中に上映されるというトランス・ワールド・エアラインの広告が見えるのです。ルイスには、自己引用がしばしばあります。映画作家がいかにして自分自身に言及するようなキャリアを持つことができるかを思うと、私はしばしば驚いてしまいます。そういった例はひどく稀です。
 このことは、先ほどマンやソダーバーグについて語ったことにわれわれを立ち戻らせます。彼らの直面する問題が文脈の欠如であるという問題です。ロバーツさんがおっしゃる通り、今日製作される多くのものは、大ヒットを狙うものです。あるいは、それぞれ独立するばかりで連続性がありません。ハリウッドの監督には、創作行為における作家の常数を育んでいく機会がほとんどありません。こうした常数が、本来、真の連続性と文脈を作り上げるのです。ルイスにはそれがありました。彼は大スターでもあったがために、風変わりで派手なやり方でそれを披露してきました。クリント・イーストウッドにもそれがあり、彼の映画もお互いに言及しあっています。最近は違いますが、彼自身がスターとして出演する映画を彼自身が作るとき、どの新たなクリント・イーストウッド映画も、あるひとつの伝統の一部であるような印象を受けたものです。シチュエーションや会話などを反復することによって、ほとんどあからさまに以前の映画に言及していましたし、あるいは少なくとも、背景として共有していたのです。彼が何者でどこから来たのかを観客がすでに知っていることを彼は知っており、さらにそのことを観客は知っています。また、彼とわれわれが共有している他の映画が何か、ということも。イーストウッドやルイスがあてにできるような過去との連続性や共有されるつながりというものがあって、結局のところ、彼らはスクリーン上に現れるだけでもよいのです。こういったことは現在のほとんどのハリウッドの監督には不可能であって、ウッディ・アレンでさえそうなのです。アレンの連続性というものはもはやありません。スティーヴン・ソダーバーグはワーナー・ブラザーズのジーン・ネグレスコになりたいと願います。しかしそんなことは不可能で、『グッド・ジャーマン』を作ることによってそのような振りをすることに結局なるのです。
 ある意味では、アメリカ映画はもはや存在しません。スタジオが、それぞれの作品を、個別的な出来事として作り出しているだけなのです。そのなかにはシリーズものもあれば、リメイクものもあるわけですが、それはつまり、おなじみのパターンにあてはめることで売り出すのが簡単になるということなのですが、しかし、そういった映画が共有する共有空間というものは存在しません。すべてが他と違う作品であろうとしています。1940年代はそうではありませんでした。観客は今では小規模になりました。だから、まるですべての作品が、それぞれ映画を再発明しなければならないかのようなのです。


10. デジタル時代の著作権

──今日、映画は新たな段階に入りました。DVDの登場により、デジタルで映画が配給しうるようになりました。映画がこの段階に入ると、著作権やその侵害についての新たな懸念が生まれます。例えば、いくつかの国ではDVDは著作権もなくコピーされ、売られています。映画がDVDに移されてデジタルで配給されるようになるということは、フィルムがデータになるということで、データは盗みうるものです。  映画が新たな段階に入ると、著作権について厳重な取り締まりが行われるでしょうが、そのことは人々が映画にアクセスするのを妨げもしないでしょうか?

ロバーツ:泥棒は、お金、宝石、芸術作品、愛、心臓、腎臓、そして今や映画を盗んでいます。映画産業は、映画の著作権侵害が彼らの収入を著しく減らし、最悪の場合、アーティストを傷つけることになるとわれわれに信じ込ませます。泥棒はアーティストの口から食べ物を奪うのです。いまや、ロビン・フッドのシナリオはもはやなく、集団窃盗があるだけです。たくさんの泥棒がいます。孤独で派手な泥棒のヒーローなどおらず、大衆的な現象があるばかりです。共産主義について人々が言っていたようなお馴染みのメタファーが役に立つでしょう。ガンのようにして広がっていく何ものか、といったものです。
 フランスのCNC(Centre national de la cinematographie)によれば、新作映画の90%以上が、DVDのリリース前にインターネットで入手可能だとのことです。とても大きな数字ですが、最も興味深い部分は「DVDでリリースされる前」という部分です。盗人たちがコピーすべきDVDを持っていないとすれば、どのようにして新たな海賊盤は出回るのでしょうか? 厚かましくも劇場でビデオを回す人たちによって作られたものもあります。しかし、そういうものの質が高いはずがありません。この調査を行った人は、あまり知られていない事実を発見しました。DVD程度のクオリティを持つ海賊盤のほとんどは、スタジオの内部の人間や、ある時にはなんとアカデミーの審査員から流れているということらしいのです。
 DVDが高すぎると思っている多くの人々がいるがゆえに、この地下ネットワークが存在していることは疑いないでしょう。一枚のDVDを作るのに100円もかからないと知っている人たちは、DVDに4500円も払いたくないと考えます。DVDを作る材料はとても安いのです。上乗せの幅が大きすぎるのです。さらに大きな経済的問題は、1960年代に映画の観客が少なくなると、映画産業は収入を安定させるために入場料を段々と上げていったということです。誰の手が汚れていないかという問題に戻ってきてしまいました。映画はかつてもっと安かったわけですから、映画産業がわれわれから盗んでいるということでしょうか? 映画泥棒たちは、この文化財産を再配給することによって、いくらかの貢献をしていると考えることはできるでしょうか? 泥棒は、少数の人間を金持ちにするために多くの人間を貧乏にするこの社会や経済のシステムへの反応なのでしょうか?
 私の予想では、DRMが著作権侵害を完全にコントロールすることができるようになるまでこの事態は続くでしょう。もしくは、値段が下がることで、人々が海賊盤を買うことによる厄介はごめんだと思うようになるまでです。その他に考えられるのはiTunesのようなモデルで、著作権侵害を試みてそれを秘密のネットワークでダウンロードするというような手間をかけるよりもiTunesストアで曲を買う方が安いというような場合です。映画にとってはそのどちらも、先の話です。


11. 公正利用、真のリテラシー

フジワラ:私が興味を惹かれることがふたつあります。ひとつは、盗みと対立するモデルとしての「公正利用(fair use)」という概念です。「Cineaste」誌で、『This film is Not Yet Rated(この映画は未審査である)』(2006)という映画を作ったカービー・ディックのインタビューを読んだばかりなのですが、この映画は、MPAA(Motion Picture Association of America)のレート・ポリシーが実際には非常に差別的であるということについてのドキュメンタリーで、大手のスタジオを競争から守るために審査基準が設定されているということでした。これはとても興味深く思われます。映画の中では18禁指定された多くの映画の抜粋が使用されていますが、それによってMPAAによる18禁の審査がどれだけ歪んでいるかということを例証しようとしたと、インタビューで彼は語っています。彼は抜粋したどの映画に対しても使用料を支払っていませんが、なぜならすべてが「公正利用」の原則の元で使われているからです。アメリカでは、ある種の目的のために使うのであれば、以前出版されたものや著作権を持ったものを抜粋することができるという法律があります。それは教育的利用であったりするのですが、もし基準さえ満たしてしまえば、そうでなくても「公正利用」だとみなされ、著作権を持つ人にお金を払わずにすむのです。彼は自分の弁護士に、この法律を適用して他の映画から一部を抜粋したら、訴えられる可能性があるかどうかを質問したのですが、弁護士の答えは「いいえ、これは公正な利用ですし、私は公正な利用についての本も書いていますから大丈夫です」というものでした。これはとても面白い例だと思います。すべての技術やすべてのソフトウェア──映画もいまや「ソフトウェア」と呼ばれます──が、利用可能である以上、このことは将来もっと重要な役割を果たすことでしょう。「公正利用」の例はもっと増えるでしょうし、「公正利用」の原則も、おそらくもっと広がっていくでしょう。私はよいことだと思います。現在では、皆が少し怖がりすぎていて、誰か他の人の材料を使って映画を作りたがらず、実際に訴えられたりもしていますから。音楽についても同様の状況がありますが──サンプリングに関してはたくさんの訴訟が行われています──、「公正利用」というのは過去の映画を利用するにあたっての面白いやり方だと思いますし、引用を映画制作の一形態とするためにも面白いと思います。
 私の興味を惹くもうひとつのことは、このことに関連しているのですが、何かをダウンロードした人がクリエイターとなるという考えです。ある意味では、私はこの考えに反対です。2年前のニューヨーク・タイムズのコラムを読んだことを覚えています。筆者は、どこかの大学でカルチュラル・スタディーズをやっている人でしたが、その人は、ビデオや音楽の編集ソフトが皆のコンピュータにあって素材のダウンロードが容易になってきた今、ただ既成品だけを見たり聞いたりしなければならないという束縛から解放されたという事実を賞賛していました。すべての人がクリエイターとなりうるというのです。このコラムは、この種の意見を信奉する人が書いたものの典型例ですが、ふたつのことを見落としています。第一に、ものの考え方の教育について問うていないということです。クリエイターに能力を与えるのは、ものの考え方です(「能力を与える[empower]」という言葉は、このコラムの著者や彼と同様に考える人々にとっては大げさに聞こえることでしょうけども)。つまり、その新たなメディアを利用する能力を、本当に面白く創造的なやり方で与えるための教育というものは一体何か、ということです。そしてこの記事が言及していない第二の点は、作品をマーケティング・宣伝・配給する際に、巨大エンターテイメント企業には絶大なるアドヴァンテージがあって、その結果、いわゆるホーム・クリエイター(home creator)とよばれる人々が引き寄せられるものが、結局はメジャーの作品であるということです。こういった人々は、既存のものと同じ構造と意味をただ反復するのではないかたちで、その素材を扱うことが果たしてできるのでしょうか。違う言葉でいえば、ダウンロードできて、それを切り貼りできて、反復するからといって、そこから解放されたということにはならないのです。形を変えることのできるツールがあるからといって、既存の素材に潜在する前提条件から自由になるとは限らないのです。それゆえ、もし優れた映画作家になるための、映画についての優れた思考者になるための教育がないならば……なぜならば、映画制作とは思考することに帰着するからです。つまり、私が言いたいのは、ツールがあってそれを簡単に使えるからといって、その人がよい映画作家になるわけではないということです。ある人が優れた映画作家であるということは、映画について深く考えることができるということなのです。いかにして思考するかを学ばず、そうする必要性についても学ばないのであれば、人々をクリエイターにする能力を与えるといわれる技術に、私はそれほど希望を持てません。

ロバーツ:当初、DVDからの素材の「公正利用」に関して非難が加えられましたが、それはDVDがCSSと呼ばれるシステムを利用して暗号化されているためでした。ヨーロッパでは、このシステムをクラックしたハッカーに対する裁判があって、それを通じて明らかになったのは、映画業界が、DVDの内容にアクセスすることを、その内容を引き出すためにDVDの暗号を破壊することであるとみなしている、ということでした。しかし、そう考えることで、映画業界は「公正利用」をする人々をも犯罪であるとみなしていることになってしまうのです。DVDシステムの設計者がこのことを意図していたかどうかは定かではありません。最終的に、ハッカーたちが罪に問われることはありませんでした。この決定の詳細までは思い出せませんが、おそらく「公正利用」の原理と衝突したからだと思います。
 技術的な手段が広範に利用可能となることが芸術を先に進めるために求められるすべてであるとは思いません。私もクリスの懐疑論を共有しています。ある人はすべてを技術的な問題に還元して考え、技術をさらに進歩させることが問題を解決すると考えます。技術における進歩が、経済問題の解決同様に推奨されるというのは興味深いです。この場合でいえば、技術的な進歩が映画制作の秩序(economy)を完全に変化させることとなるでしょう。おそらく今は長編作品を制作するのに歴史上で最もお金がかからないでしょうし、その一方で、メインストリームの映画はこれまでにないほどにお金のかかるものとなる仕組みの中にあります。うんざりするくらいの高予算です。そのうちのかなりの額が宣伝に使用されています。両者の間にはある種の分離がありますが、これは技術の問題についての話ではありません。

フジワラ:その通りです。技術が美学的問題や社会的問題を解決すると考えるのは、自由市場がそれらの問題を解決すると言っているようなものですが、そんなことは絶対にありえません。「見えざる手」はワーナー・ブラザーズやディズニーのものなのです。

ロバーツ:われわれが映画の新たな段階に突入するにつれ、これまで以上に多くのものがたやすくアクセス可能になるように思えます。遠く離れてアクセス不可能であった映画が今や手の届く範囲にやってきて、映画史があたかも平準化されてしまうようにも思えます。異国に住む外国人として特に言っておきたいのですが、私にとってこの現象は喜ぶべきことです。この傾向について、私はとても楽観的です。なぜなら、映画文化やその歴史に対する一般的な目覚めをもっぱら助けるものとなるからです。映画の「リテラシー」という言葉を使ってもいいでしょう。この傾向には勇気づけられますね。

フジワラ:ええ、なんらかのかたちでわれわれにも代価が支払われるならね。

(取材:衣笠真二郎 構成:マーク・ロバーツ 翻訳:土居伸彰)



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02 Apr 2007

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