"It Takes a Thief to Catch a Thief " 犯罪とアメリカのジャンル映画──対談クリス・フジワラ&マーク・ロバーツ vol.2

インタビュー

6. 泥棒映画の変遷

──『キッスで殺せ』や『拾った女』(1953)といった1950年代のある種の映画では、何が盗まれるかに変化がみられます。ここでは何かが盗まれているのですが、それは実体がなく抽象的なもので、見ることさえもできません。『キッスで殺せ』ではおそらく原子爆弾なのでしょうが、それを目にすることはできませんし、『拾った女』ではマイクロフィルムが盗まれるのでしょうが、ここでもまた、それは見えないままです。しかし、こういった映画を通じて、私たちは冷戦の状況下における社会へのある種の批判をみることができます。それゆえ、おそらく1950年代以降には、お金ではない、国際問題に関連する重要なものを盗むことについての映画が多くでてくるのでしょう。

フジワラ:まったくその通りで、そこにこそ『キッスで殺せ』の優れた点があるわけです。彼らが盗むものには触ることができません。価値をもつものではないので、使用することができない。主人公の連れの女は、盗んだものが何であるかを主人公に聞き、「半分欲しい」と言います。でも、それを分けることなどできないのです。その箱の中で形を与えられているのは、恐ろしい狂気そのものです。具体的に実在するのではなく、実在のネガとでもいえるものが入っているのです。なぜなら、箱を開けてしまえば、その人は破壊されてしまうからです。すべてのものを吸い込んでしまうものなのです。今のはどちらかといえば極端な例ですが、ベッケルの『怪盗ルパン』においても似たようなことが起こっています。何かが盗まれるのですが、それは何の価値も持たないものですし、その価値を測定できません。『現金に手を出すな』では金塊が盗まれようとしますが、最終的に、それには手が届きません。あまりに熱すぎて触ることができないのです。金塊を運ぶ車が吹き飛ばされると、金塊は燃え尽きてしまいます。それゆえ、最も価値あるものにわれわれは触ることができず、なにかの役に立てることもできず、そこから何も得ることはできないというこのアイディアは、社会批判ともなるのです。

ロバーツ:おそらくそういったテーマは、製法や秘密を盗み出す映画においても前景化してくるでしょう。『Shack Out on 101』(1955)はスリラーであって泥棒そのものについての映画ではありませんが、リー・マーヴィンがカリフォルニアのロードサイドの食堂のコックを演じていて、その食堂には、近くの研究所から核科学者たちが出入りします。マーヴィンのニックネームは「とんま(slob)」で、誰も彼をまともに扱わないような、ぼんやりとした滑稽なキャラクターなのですが、映画がパラノイド的な転換をすると、彼が核の秘密を盗もうとするロシアのスパイだということが明らかになります。この映画では最終的に、われわれは彼が盗もうとするものを映画の最後のショットで見ることとなりますが、それは積分計算のように見えないこともないばかげた殴り書きのような、呪文みたいなもので、実際それが何なのかはさっぱりわかりません。冷戦のパラノイア的空気はこうしてひっくり返され、自分自身にはねかえってきます。そしてわれわれは呆然として「え、これだったの? あいつはこれを盗んだの?」と自問することになるのです。この時期に作られた他の映画では、ラッセル・ラウズが監督した『The Thief』(1952)が、核の秘密を盗もうとするスパイの物語です。こんどはワシントンD.C.が舞台で、フィルム・ノワールのスタイルですが、会話はまったくありません。この映画は完全にサイレントなのです。
 盗みをテーマとした映画は、発展していくに従って、ギャング映画、フィルム・ノワール、そして犯罪計画を描く映画(Caper Film)、という段階を通過していくように思えます。その発展のさらに先では、犯罪自体がおそらくキャラクターよりも重要となり、盗みの理由はあまり重要でなくなるのではないかと思われます。この流れは、オリジナルのほうの『オーシャンと11人の仲間たち』(1960)のような映画へと繋がっていきますが、この作品はラスヴェガスのカジノから金を盗むことを描いた、いわば派手な泥棒仲間の舞台ショーのようなものです。犯罪計画を描く物語──ここでは犯罪の技術的側面に重きが置かれますが──へと移行する以前には、誰が誰に何のために盗まれるのかという社会的な問題を、物語は提起できていました。もし誰かが金持ちから宝石や芸術品を盗むのであれば、そこには盗みへの共感が生まれうるでしょう。被害者たちが本当に何かを失うというようには思われないでしょうから。一方で低級な泥棒やスリは、誰からも盗むので、違った道徳性が存在するようになると言うことができるでしょう。政府や金持ちから盗むのとは同じではないということです。時には、盗みに関して一風変わった道徳性が出てくることもあります。『ファントマ/ミサイル作戦』(1967)では、泥棒は、金持ちの被害者たちに、「彼らの生きる権利に対する税金」を課すと語ります。違う言葉でいえば、彼らはあまりに金持ちすぎるので、生きる権利のために(つまりファントマに殺されないために)支払いをする必要があるということです。「わたしは盗賊も社会の上流階級も同類だと考えている」とファントマは言います。だから、これは実際には盗みではなくて、彼らに対してファントマが提示する変わった契約(ファントマは生命保険証書のようなサインを要求しさえします)のようなものです。断れば強制的に金を取って彼らを殺すわけです。社会の不正を正し、いくぶんかの平準化を試みようとする意味での盗みが行われています。社会秩序が押し付ける不公平を、違う種類の暴力で正すのです。


7. 盗みとノスタルジー

フジワラ:盗みに対するある種のノスタルジーの傾向は、1950年代やそれ以降に強くなっていったように思えます。『勝手にしやがれ』(1959)のベルモンドのようなキャラクターは、徒党を組まず一匹狼であり続けたがゆえに、いまだ憧憬の対象たりえています。この手の性質、つまり独立心ですが、これはたくさんの映画の中で、高い価値を与えられてきました。こういう特性は、古いスタイルを持ち死に絶えていくものとしばしば結びついていて、ここで再び、その意味においておそらく基準となった『ハイ・シエラ』(1941)が思い出されます。またほかに、デビット・グーディスの小説を基にした、ポール・ウェンドコスの1957年の『The Burglar』も例としてあげられます。この映画で、ダン・デュリエ演じるキャラクターが賞賛すべきなのは、まず第一に技術的な能力を持っているがゆえです。彼は小さなギャング団と仕事をするのですが、彼だけが、自分が何をしているかを本当にわかっている人間なのです。彼は盗みのアーティストで、それが彼を突出させます。彼は孤独でアウトサイダーであるだけでなく、ほかの誰もが拒絶する価値を擁護する者でもあるという感覚を、われわれは持つことになりますが、その価値が賞賛すべきものであることは、何らかのかたちで観客に示されます。ジョン・ブアマンの『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(1967)にも同様のことを言うことができます。これは比較的最近の映画ですけれども、ここにもリー・マーヴィンが出てきます。死の寸前から戻ってきた男についての作品で、60年代後半の現代において小綺麗でコンピュータ化されたシンジケートと戦うために違う時代からやってきた男が、それを完全に粉砕するのです。

ロバーツ:彼はおそらく実際には死んでいるのかもしれませんね。映画の最初では、それが曖昧なままです。

フジワラ:そうです。それゆえにノスタルジーがはっきりとあらわれた映画なのです。マーヴィンは古いスタイルの男を代表しています。彼は最近の男たちよりも優れていて、消えていくのですが、しかし死ぬのであれ生きるのであれ、彼はわれわれのヒーローです。彼はわれわれが勝利を願うような男であり、なぜならばわれわれのクズみたいな現状よりも優れているからです。違う言葉でいえば、現代の世界は汚らわしくておぞましく、この悲惨な状況から救い出してやるべきなのですが、しかし救い出した後になにがかわりに来るかというと、なにもない。だから実行者はいわば実体のない幽霊なのです。メル・ギブソンが出演したこの映画のリメイクは、同じロジックで作られてはいませんでした。

ロバーツ:リー・マーヴィンのかわりを見つけることはできないということですね。もしくは……キャロル・オコナーのかわりも。

フジワラ:そういったタイプの俳優は誰もがそうですね。盗みについての他の有名な映画で、同じようなことがあります。『狼たちの午後』(1975)です。この作品では、先ほどと物語的な状況はまったく違いますが、それでも表面的な部分の下には、ノスタルジーのようなものがあります。というのも、銀行強盗というモチーフ自体が古いものだからです。アル・パチーノが演じるキャラクターとそのパートナーは、ブルックリンでちんけな強盗劇に踏み切りますが、彼らは古い時代の人間であるという感じをさせます。いまや1970年代であり、彼らにチャンスはありません。彼らは最終的に、FBIによって簡単に捕まってしまいます。すべてのテクノロジーが彼らに向けられ、マスメディアもすべていて、その一方で彼らはテクノロジー以前の時代の人間なのです。彼らは敗れます。何の装備もなく、運がなかったということももちろんありますが、それでも彼らは賞賛すべき人物です。人間性ゆえの賞賛なのですが──それがこの映画のセンチメンタルなところなのですけれども──、彼らはもはや可能ではない生き方に属しているがゆえに賞賛すべき人物なのです。1970年代中盤の映画が誉め讃えるのは、そういったものです。同じ時期のアルトマンの映画も昔の生き方を讃えていましたしね。いくぶん皮肉なやり方ではありましたが。例えば、『ボウイ&キーチ』(1974)がそうです。

ロバーツ:紳士泥棒というキャラクターにも、ノスタルジーのようなものが働いていると思いませんか。例えば、アルセーヌ・ルパンや、その前で言えば、ラッフルズはまさに19世紀のキャラクターです。彼らの登場するこれらの映画は19世紀の終わりに書かれた物語に基づいていますが、その当時でさえ、紳士泥棒には時代錯誤的なものがありました。1960年代や70年代、こういったキャラクターたちは泥棒映画のジャンルからは消えてしまったようにも思えます。そのかわり、泥棒たちが現代の社会状況とどのように折り合いをつけていくか、彼らがどのように生き延びていくか、そういったことが強調されているようです。紳士泥棒にまつわる時代錯誤も、ノスタルジーの一形式であるでしょう。

フジワラ:まったくです。この種のノスタルジーは、ドラキュラの場合と似ています。ドラキュラは、19世紀後半におけるもうひとつの悪のヒーローですが、同様に何度も映画のなかに回帰してきます。こちらはおそらくどちらかといえばヨーロッパ的なノスタルジーの形式であるでしょう。アメリカ映画にも時々見出すことができますけども。つまり、貴族社会へのノスタルジーであり、個人の価値が、どれだけお金を稼ぐことが出来るかに基づくのではなくて、高い階級に生まれた人々がその技能や魅力、能力を高めていくことが可能なシステムに基づいていた時代へのノスタルジーなのです。映画において、こういった価値──純粋に個人的な価値です──はわれわれの社会から消えつつあるものとして現れているのではないでしょうか。われわれは彼らの存在に常に言及しながらも、彼らの存在は常に危険に晒されているように思われます。

ロバーツ:そうですね。ここ20〜30年かで、超のつくような富豪にはお目にかかれなくなりました。こういったタイプの人物は映画におけるレパートリーのようなものでしたが、一方で最近ではキャラクターたちが「もっとわれわれのように」身近で、経済的にわかりやすいものであるべきだという感覚もまたあるのです。第二次大戦中、ジョージ・オーウェルはラッフルズなどの紳士泥棒の人物像についてのエッセイを書いていて、そこで彼は、ラッフルズがある種の階級間抗争をいかに体現しているかについて書きました。ラッフルズにとっての問題は、なんとかエリートたちのグループへ仲間入りすることができたものの、今度はお金の問題に悩まされるようになった、というものです。それゆえに彼は、自分の生活を支え、その社会層での自分の位置を維持するために盗みを始める必要がありました。捕まってしまえば、すべては終わりです。オーウェルはこう言っています。君がこの上流社会のメンバーであるならば、牢から出てきたとしても、まだそこに所属している。だが、もし君が泥棒に過ぎないのならば、牢から出てきたとき、君は単なる泥棒である、と。
 盗みの技法と『怪盗ルパン』の話に戻りますと、あの映画で私が感心したことのひとつは、ベッケルが作劇的な緊張感をうまく作り出しつつも、盗みそのものをとってみれば、どれもあっさり成し遂げられてしまうということです。筋を追っていくと、完全に計画立てられているようには思えず、そのすべてをわれわれは見ることになりますが、ルパンが捕まるだろうという恐れは微塵も感じさせないのです。このことについては、クリスがシンポジウムで話していたと思いますけれども。ベッケルはわれわれ観客を引き込むのですが、そこには大きなサプライズもないですし、ドラマティックなどんでん返しもありません。
 『怪盗ルパン』にはもうひとつ興味深い点があります。犯罪や泥棒についてのある種の映画では、盗みの理由というのが時に極めて抽象的です。盗まれるものは具体的であっても──お金、宝石、そういったものです──なぜそれを盗まなければならないのかということが不明瞭なのです。クリスが言ったように、『マーニー』の謎の一部は、なぜ彼女が盗むのかということで、一方で`『怪盗ルパン』はただ「純粋な楽しみ」のために盗みをします。お金が必要だから盗むのではなく、ルパンの場合、われわれの注意はルパンがいかにして盗みを実行していくかということに移されます。なぜ盗むのか、ではないのです。もちろん、ブレッソンの『スリ』(1959)もまた、盗みが「いかに」行われるかを見せるものですが、それでもこの映画は金持ちの盗みを描きはしません。ブレッソンの映画では、スリのミシェルはギリギリの生活をしており、みすぼらしい屋根裏部屋に住み、彼の友達は、ミシェルが社会に適応してくれれば、きっとうまくいくだろうにと考えています。しかし彼はスリに夢中で、その技術を磨くことの虜になっているようなのです。映画のほとんどは、彼がその技術を完璧にしていく様子を描いています。列車のシーン、ミシェルとその共犯者が、乗客から盗みをする場面で驚くべき身振りを披露するとき、そのことがわかります。映画の最後に至るまでに、葛藤劇はミシェルの体面を焦点とするようになっていきますが、ここでもまた、それはお金とは関係ありません。みすぼらしい生活とは対照的に、彼にとって、お金がないということはそれほど重要なことではないのです。
 お金の価値に対する関心の欠如について、さらにその先を行くもうひとつの映画は『黄金の眼』(1968)でしょう。ディアボリークはある種のスーパー・クリミナルで、犯罪の動機は不明です。最初は、自分のガールフレンドのためにお金や宝石の盗みをしているように思えます。彼はたくさんのお金を持っていて、派手な生活を(少なくとも私生活では)送っているように思えるので、盗みをするのは気まぐれからのように思えます。しかし、映画の後半に面白いシーンがあります。政府はディアボリークを追跡し彼を怒らせるのですが、ディアボリークはその報復として爆弾を仕掛けます。フランスの財務省や国税庁、そして他にも経済に関係する省庁が爆破されます。爆破される建物と、テリー・トーマス演ずる財務長官が国民に税金を払うよう懇願するためにテレビに出演するシーンがモンタージュされます。長官は市民としての善意に訴えかけ、社会の一員であるがゆえに社会に関心を持つよう話します。ディアボリークの行動の理由は語られず、経済システムを破壊することは、『ファイト・クラブ』(1999)のエンディングのようなニヒルな身振りとして受け止められます。これは、経済に対するテロのようなもののレベルにまで達するのです。何かを得るために盗みが行われるのではなく、金銭の価値を消し去ってしまうための盗みなのです。

フジワラ:よい例を出しましたね。『ディアボリーク』は結局、すべてがあからさまな映画です。最初のシーンでは巨大なベッドをドル紙幣が覆っていて、最後には彼[ディアボリーク]が金で覆われることになりますよね? 彼のすべての活動の結果は、一方ではあなたがおっしゃるように財政的構造を破壊するものですが、また一方ではディアボリークたちの内的世界を飾り付けるものでもあります。ディアボリークとそのガールフレンドは、すべてが芸術作品となりうるような密室に住んでいます。彼らは究極のコレクターで、アヴァンギャルド芸術の目利きでもあります。結局、金銭が芸術作品へと変わったのです。これはまさに極限的な場所です──特に金のなかったマリオ・バーヴァ監督にとっては。たぶんこの作品が彼にとって最もお金のかかった映画だったのだと思います。

ロバーツ:そうですね、いざ予算を手にしたときに、彼がこのようなことをしたというのは、なんだか心強いことですね。

フジワラ:その点において、これはとてもラディカルな映画です。大抵の犯罪計画をめぐる映画は私の興味をあまり惹かないのですけれども。これはもっとも興味のもてないジャンルのひとつなのです。

ロバーツ:おそらく、計画とその実行にフォーカスが当たりすぎているのですよね。一般的なパターンはこうです。一癖あるエキスパートたちがチームを作る。グループ内の緊張関係が描かれ、犯罪を失敗させることになるであろう分裂の前兆が描かれる。準備をして、リハーサルをするのですが、実行にあたっては何か好ましくないことが起こる……。以上はとても想像力に欠けたプロット立てだと思いますけれども、キャラクターを詳細に描いたり人々の間の関係性について語ったりするというよりも、犯罪のメカニクスの方に重点が置かれがちであるということは確かでしょう。もちろん、犯罪計画をめぐる面白い映画もあります。ウォルター・マッソーが出演している『突破口!』(1973)は、単なる銀行強盗映画以上のものであると思います。強盗の最中によからぬことが起こります、つまり、襲った銀行がマフィア御用達だったがゆえに、マフィアたちは主人公たちを追ってきて、やっかいに巻き込まれるということです。

フジワラ:あれは素晴らしい映画ですね。最初のうちは銀行強盗の映画なのですが、強盗たちは社会関係の構造を明らかにし、以前は明白でなかった隠された資金のネットワークを暴き、主人公のヴァリックはそれに対して最終的に勝利します。この映画も、70年代に作られていた、独立を勝ち取ることについての映画のひとつです。チャールズ・ヴァリックは、彼の上着にプリントされているとおり、「最後の一匹狼」です。カーニバルでスタント・パイロットとして働いているときの彼の写真もいろいろと画面に映し出されます。この映画は、この人物と古い時代との繋がりを描いており──かなりの程度『殺しの分け前/ポイント・ブランク』のように──すべてが非人間的でそっけない現在の世界に彼を立ち向かわせることになります。結局は、彼はそのすべてを拒絶してメキシコに向かうのです。ペキンパー映画の登場人物のように。
 去年公開された映画で私が気に入ったのは、スパイク・リーの『インサイド・マン』(2006)です。典型的な強盗映画では絶対にありません。この映画もまた、盗まれたものが結局なんなのか曖昧な映画ですが、それがとても面白いやり方で描かれているのです。とはいえ、全体的に見れば、このジャンル自体はあまり魅力的ではありません。オリジナルの『オーシャンと11人の仲間たち』は最悪の映画だと私は思っていました。しかし歴史が進んで様々な作品がつくられることで起こることがあって、そのひとつが、かつてわれわれが嫌っていた映画がそれほど悪くないと気付くことです。ソダーバーグ版と比較すれば、オリジナルの『オーシャンと11人の仲間たち』はとてもよい映画です。ソダーバーグ版は先ほどわれわれが話したようなものとは違った、新たなタイプのノスタルジーです。1960年代初期への、男らしさのようなものに対するノスタルジーです。


8. ポスト=ノスタルジー

──ソダーバーグは『アウト・オブ・サイト』(1998)の後、1960年代の、明るくてカラフルでハッピーな映画の再利用を行っているようにみえますが、例えば『オーシャンズ11』(2001)に見られるようなその新たなノスタルジーというものをどのように考えますか。私自身は彼の映画に対してアンビヴァレントな気持ちを持っていまして。『イギリスから来た男』(1999)はかなりよい映画だと思います。

フジワラ:『イギリスから来た男』に言及なさったのはとても面白い。この映画はなんらかのリメイクではありませんが、しかしそれでもノスタルジーの映画です。テレンス・スタンプが古いタイプの人物を演じる、60年代についての映画です。おそらく、ソダーバーグの関心のひとつは、『殺しの分け前/ポイント・ブランク』のような昔の映画や、フィルム・ノワールの初期の頃のモデルに回帰した映画をつくることです。しかしながら、現在のハリウッドにおいては、これがノスタルジーの問題であるとは思えません。もはや、ノスタルジーというのが使うべき言葉であるかもよくわかりません。フレデリック・ジェイムソンは、『白いドレスの女』(1981)、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1981)、『マイアミ・バイス』のテレビ・シリーズのような80年代の作品について語るとき、こういった作品がポストモダン的なノスタルジーの例であると指摘します──すなわちパスティッシュです。現在では、ジェイムソンが語ったパラダイムはその役割を終えていて、新たなものが始まっています。ノスタルジーは、人々にとってノスタルジックすぎるのです。少しだけスパイク・リーの『インサイド・マン』に戻りますが、この作品がうまく立ち回っているとは私は思いません。泥棒たちの独立を賞賛するような映画を観客が見たがっていないことは明白なのですから。現在、人々は拷問についての映画を見たがっています。拷問は大人気ですね。

──マイケル・マンについてはどうですか。彼をフィルム・ノワールと結びつけることができるのか私にはわかりませんが、彼の映画がハリウッドで例外的なものであることは確かで、彼は古いスタイルの影響を受けつつ、それを何らかの形で刷新しようとしています。

ロバーツ:ジェームズ・カーンの出ている『真夜中のアウトロー』(1981)がそうですね。しかし、『ヒート』(1995)も興味深い映画です。多くの人はあの映画を好みませんでしたけれども、犯罪物語をあまりない形で扱った映画だと思います。物語自体はストレートなものなのですけれど、マンはそれを非常に幅のあるものにしました。それがおそらく刷新のひとつでしょう。とても長い映画で、多くの時間が重要でない人物の描写に費やされ、警察側とギャング側の共犯者たちの両方で、彼らが妻や家族と過ごすシーンをみることになり、これによってパチーノとデニーロの関係性が対等なものとなります。このようなやり方は、タイトで整っていてハードエッジなものであろうとする全体的な傾向からは逸脱しています。こちらにはもっとゆとりがあり、そのことによって暴力を句読点のようにして挿入することが可能になります。ひたすら乱闘し続けるというのではなく。

フジワラ:マイケル・マンが抱える問題というものは──ウォルター・ヒルにもみられる問題ですし、おそらくスティーヴン・ソダーバーグもそうなのでしょうが──ジャンル映画を作ろうとしても、他に誰も同じことをする人間がいないとき、その作品はジャンル映画になり難いということです。たったひとりの人間が作っているものをジャンルということはできないからです。例えばソダーバーグは、『グッド・ジャーマン』(2006)を作ったばかりですが、この作品は、1940年代後半のスタイルの映画をつくろうという、はっきりとした試みです。問題なのは、彼だけがそれをやっているということです。もし今が1940年代後半であったり、もしくは皆が突然そのような映画を作ったりするのであれば、ソダーバーグの映画も意味をなすでしょうし、その文脈において評価することもできるでしょうし、面白いものでもありえるでしょう。しかし実際には、意味のないひどいシロモノであると思います。機能するだけの充分な文脈があるとは思えません。マイケル・マンは面白い監督ですが、本当に面白いと思えるようになるためには、彼がやっていることに対する制度的で包括的な文脈が必要でしょう。3年に1本のペースで映画をつくるだけでは、そのような文脈をつくりあげることはできません。こういった種類の映画には、しばしば何かが欠けているように思えるのですが、それはおそらく文脈の欠如なのではないかと思います。こういった種類の映画は、あたかも文脈をもつように思えるのですが、実際にはそんなものはないのです。



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02 Apr 2007

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