K編集長のcinema days vol.6

編集部

『ギリギリの女たち』(2011年)を見たのは、昨年秋の第24回東京国際映画祭の特別上映「震災を越えて」でのことだった。小林政弘監督が宮城県気仙沼市の被災地に所有する家を舞台に、震災を機に再会を果たした三姉妹による愛憎劇ということで、上映の枠組みといい、当初は3.11が「フィクション」のスクリーンでいかに扱われているかに興味を覚えた。しかし、実際に作品を見てみると東日本大震災と断言できる事象との関連性は見られない。少なくとも作品が成立するために、特定のディザスターを援用する必要はないように思われた。

 本作で際立っているのは、映画という装置の人工性、映画が作りものであること、そのものの表出である。冒頭35分間の長回しは、臨場感や娯楽性の獲得のためではなく、例えば登場人物が必ず一方のフレームから入り、他方のフレームから出ていくといった様式性を強く意識させる。海辺での360度パンについても同様で、流麗なカメラワークというよりも、ぎこちない機械の動きがイメージとしてそのまま記録されている。映画的なもっともらしさの追求が放棄された中で、登場人物の身体は演劇的な過剰さを帯びる。彼女たちに残された家は、パフォーマンスが展開するステージであり、三者の衝突を唯一のアクションに、ストーリーらしいストーリーが語られることはない。三姉妹のセリフはそれぞれのやりとり、会話によるコミュニケーションよりも、独白や悲鳴、絶叫のために用意されているかのようである。彼女たちは悲痛をあらわにしながら、自らの存在を綺麗に塗り固めていた嘘を、カメラの前でひとつひとつはぎ取っていかなければならない。ニューヨークで成功したはずのダンサーである長女に扮する渡辺真紀子は、もはや希望も絶望もないぎりぎりの極限状態を、その容貌全体に何とも言えない気迫としてみなぎらせる。埠頭のロングショットで披露されるダンサー役のダンスよりも、その「顔力」に圧倒された。

 東京国際映画祭から間を置いて、小林監督のブログ、「『ギリギリの女たち』のこと、」をふと目にした。作り手の文字による主張とフィルムを常に照らし合わせる必要はないと思うが、そこで述べられている被災地で映画を撮ることの後ろめたさについては共感を覚えた。

 別の意味で「ギリギリの女たち」が登場するのは、フィリップ・ガレル監督『灼熱の肌』(2011年)だ。フィリップ・ガレルが亡き友人でイタリア在住の画家フレデリック・バルドをモデルに手がけた本作は、しばしばジャン・リュック=ゴダールの『軽蔑』(1963年)と比較される。確かに冒頭でブリジット・バルドーに代わり、モニカ・ベルッチの美しい裸体が披露されるが、彼女はたった一人で冷たいブルーのベッドに横たわり、その声はこちら側には届かない。『軽蔑』が意識されているなら、そのリバイバルではなく、『軽蔑』以後である。その直後、友人ポール(ジェローム・ロバール)のナレーションで、フレデリック(ルイ・ガレル)の自殺が語られ、私たちは生前のフレデリックと妻、映画女優のアンジェル(モニカ・ベルッチ)をローマに訪れることになる。フレデリックとアンジェル、ポールと恋人エリザベート(『メゾン ある娼館の記憶』でも注目を集め、今後の活躍が楽しみなセリーヌ・サレット)と2組の男女を追ったカップルの映画ではあるが、『恋人たちの失われた革命』(2007年)のように同性間の関係の描写が新鮮に映った。誰もが息をのむ美貌とグラマラスな姿態の持ち主アンジェルが、繊細な少女の面影を残したエリザベートに、自分の黒いドレスをプレゼントする場面では、肌のぬくもりを共有するようなセンシュアリティーが漂う。4人を取り巻く嫉妬と共犯性のさじ加減が絶妙に仕上げられている。ガレルの最新作 La jalousie では再びモニカ・ベルッチとルイ・ガレル、ローラ・スメットとミッシェル・ピコリが顔を合わせる。

14 Aug 2012
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