大巨人のはにかみ
──松本人志『大日本人』

三野友弘

1. 現実と虚構の往還

 昨年1月、約600人もの報道陣を前に『大日本人』(2007)の製作発表記者会見が開かれ、松本人志の監督デビューが公表された。それから松本は、約半年後の劇場公開に先立って、数々のTV番組、雑誌から膨大な量のインタビューを受け続けることになる。
 そして、そのような華々しさとは趣きが異なるものの、本作『大日本人』の劇中においても、松本演じる主人公・大佐藤大(だいさとう・まさる)は、現実の松本人志と同様にTV局の密着インタビューを受ける。一見すると平凡な中年男にすぎない大佐藤だが、まもなく取材を通じて、彼が "大日本人" という伝統職を継いだ六代目だと判明する。彼の家系は、身体に高圧電流を流すことで大巨人に変身するという遺伝体質を持ち、代々その特殊能力を活かして、日本国内に出没する巨大生物 "獣" を退治してきたという。TV局は、そんなヒーローの知られざる実態に迫ろうと、大佐藤の私生活に密着していたのだ。しかし、軍備が整った現代において、大日本人の不要論が持ち上がり、世間の風当たりは厳しい。さらに大佐藤は、妻子との別居、跡取り問題、かつて英雄だった祖父(四代目)の介護など、私的な問題も数多く抱えている──。
 このような物語を持つ本作は、大きく分けてふたつのパートで構成されている。ひとつは、TV局が大佐藤に密着取材するドキュメンタリー形式のパートである。手持ちカメラで捉えられた大佐藤の私生活は、どこまでも侘しい風景として現れる。曇天、あるいは雨さえ降り頻る索漠とした住宅地、祖父を預けた老人福祉施設、出張先のスナック、自宅近辺の安居酒屋、そして無趣味な古惚けた一軒家と荒れ果てた庭──。このパートは、随所に素人役者を起用した効果も相俟って、映画的スペクタクルとは無縁の、生々しい生活感に覆われている。対照的にもうひとつのパートは、巨大化した大日本人と獣との戦闘がCGを駆使して描かれ、円谷プロ的な特撮ヒーローの世界を髣髴とさせる。
 大佐藤のうらぶれた生活と、そこに忽然と立ち上がる大巨人のフィクション。片やドキュメンタリー形式、片やCGのヒーローものという、現実と虚構の奇妙な混淆。この両極の間に広がる大きな落差を、松本人志が孤独に往還し続けている。本稿では、その落差の広がりの中に、松本の素顔を探っていきたいと思う。


2. 地に咲く笑い

 まず『大日本人』のドキュメンタリーを模した部分であるが、ここに広がるうら寂れた風景はどこに由来するかと考えた時、それを松本人志の出生地・尼崎市に求めるのはあながち間違いではないだろう。松本の笑いの独自性は、尼崎市で過ごした高校時代までにすでに完成していたと、松本の幼馴染である放送作家・高須光聖が証言している。ドキュメンタリー形式のパートにおける大佐藤の生々しい生活が、松本人志その人の生まれ育った環境に由来するのではないかと考えたときに、『大日本人』に息づくある一面が明らかになるはずだ。
 一大工業都市として名を馳せた同市は、大阪湾に面した市の南部が阪神工業地帯の中核として大いに発展し、戦前には東洋最大と謳われた尼崎第一・第二発電所が相次いで竣工して、松本の少年期に当たる70年代半ばまでフル稼働していた。しかし、巨大な火力発電所が巻き上げる煤塵は市内一円に降り注ぎ、見上げる空は慢性的に鼠色に曇っていたという。小中学校の各クラスには2メートル大の箱型の空気清浄機が1台ずつ設置され、授業中に「光化学スモッグ注意報が発令されました。窓を閉め、空気清浄機を作動してください」と校内アナウンスが入ることも日常茶飯事だった。こうした劣悪な環境でありながら、人口密度は高く、低所得者が肩を寄せ合って、貧困を恨みながら日銭を稼いでいた。もちろん、松本家も例外ではなかった。さらに同市は、被差別部落民や在日コリアンが多い土地で知られ、数多くの公害訴訟と並び、部落解放や朝鮮人学校を守る運動が戦前から綿々と繰り広げられ、差別と偏見、貧困と暴力とが一緒くたになって遍在していたという。

 この尼崎の独特の世界観は、『大日本人』の中にも色濃く反映されている。例えば、尼崎第一・第二発電所は大佐藤が巨大化する施設の第二電変場・三河電変場であり、光化学スモッグ注意報は獣の襲来を告げる防衛庁からの出頭命令であり、被差別部落民は国民から疎まれている大日本人(大佐藤)であると見なすことも可能だろう。何より、大佐藤の古惚けた一軒屋と曇りがちな空が、『大日本人』の舞台は旧・尼崎市ではないかという錯覚を誘うのである。
 貧乏ゆえに、金のかからない遊びを考えなければならなかったという松本は、小学5年生にしてクラスメイトに漫才を披露していたという。そのレパートリーの多くは、尼崎の「変な」大人たちを観察し、ネタにして笑い飛ばすというものだった。その感覚は、『大日本人』に起用した中年男にカメラを向け、「正義とは何か?」「命とは何か?」と禅問答のように問い、素人ゆえの生真面目なリアクションを引き出す場面の笑いに通じている。名もない庶民の抱える「貧困」「差別」「偏見」──そういった哀しみを直視し、笑いに引き寄せながら社会の中に居場所を用意する。というより、松本自身が実はその対象に含まれているのであり、他人を高みから見下ろすほどの余裕はなく、自分自身をまず救済しなければならないという逼迫感が、尼崎時代から引きずる松本の本音だったのではないか。


3. 仕掛けられた落差

 松本は自分の笑いが尼崎という「逆境」で育まれたと語っているが、「芸人」の歴史はそもそもが逆境の歴史でもある。とりわけ明治維新によって近代化が進められる以前、芸人は非人と称される被差別民として扱われていた。単なる無芸の物乞いや、奇病、畸形も辻芸(大道芸)の一種に数えられ、象やラクダなど異国の動物とともに蟲惑的な見世物空間を現出させていたのである。そして当時の一般庶民は、彼ら芸人を見ることで、自らの社会的優位を確認することができた。つまり芸人は、"落差" そのものを示し出す存在であり、その落差が、社会の姿を相対的に測る物差しになっていたのである。
 近代化以降の日本では、そのような芸人の事情もすっかり様変わりしたが、それでもなお、松本人志の笑いはかつての見世物芸人の姿を髣髴とさせる。例えば『ごっつええ感じ』の名物コント、「トカゲのおっさん」シリーズでは、半身トカゲの中年男を松本自らが演じている。このフリークスは、人間らしい生活を夢見ながらも、汚い世間の言動に翻弄され、見世物としてストリップ小屋に売り飛ばされた挙句、終いには刑務所にぶち込まれてしまう。あるいは、スタジオの会議室に召集された独身男たちが、松本の出鱈目な命令にいじり倒され、笑いの餌食となる素人観察ドキュメント『働くおっさん人形』。踊りながら "生き地獄" なる歌を熱唱させられる中年男たちの狂態は、さながら平成版・見世物小屋の趣を呈した。他にも、老芸人・ピカデリー梅田が入れ歯を外してお下劣な笑いをとる「ピカデリー・シリーズ」など、見世物的な松本企画の番組は例を挙げたら枚挙にいとまがない。
 かつて江戸の市中に見世物小屋が軒を並べたように、現代の日常的空間であるTVにおいて、露悪的な見世物小屋を建て続けてきたのが松本人志である。常に "子供に見せたくない番組" の上位にランクされてきたそれらの番組群は、世間の常識に大きな落差を仕掛けることで、社会の自明性を揺るがしてきた。
 例えば、通常ありえないクローズ・アップで入れ歯の外れた老人の顔を大写しにするとき、本来なら大切に遇されるべき老人が、グロテスクな汚れ役に変身する。と同時に、一般的に考えられていた敬老精神の概念が脱臼するのだ。同様に、『ごっつええ感じ』の「世紀末戦隊ゴレンジャイ」などヒーローものを模したコントも、5人の戦闘服の色がカブるなど、惨めさを強調することでヒーローの自明性を脱臼させている。つまり、老人・ヒーローという一般化されたイメージを、落差によってズラしているのである。
 この手法は、『大日本人』を貫き、一般的なヒーローものを成立させているはずの様々なコンセプト(「勧善懲悪」など)を脱臼させるだろう。例えば、かつては英雄だった大佐藤の祖父、四代目の場合である。今や認知症になってしまった祖父は、夜中に老人福祉施設を脱走して勝手に巨大化し、ふんどし姿で街中を徘徊して市民に大迷惑をかけた挙句、最後には愛孫の大佐藤に足蹴にされて昇天してしまう。このあり得ない落差が、老人とヒーローの両概念を一遍にズラしている。さらにいえば、四代目を演じた俳優・矢崎太一氏の老いさらばえた肉体は、物語を超えた生々しさで観客に迫ってくる。枯れ枝のように痩せ細った身体でアクションを演じる姿の危なっかしさ。成れの果てとなったヒーローの惨めさが、哀しさと滑稽さのギリギリのラインで示されているのだ。またヒーローらしからぬといえば、そもそも主人公の大佐藤自身、近隣の住民から石を投げつけられて自宅の窓ガラスを割られたり、全国各地の国民から罵声を浴びたりするなど、ヒーローとは正反対の冷遇に処されている。ヒーローたちがその有様なら、怖いはずの "獣" たちも、漫才師の海原はるか扮する締ルノ獣が1・9分けの髪を振り乱すなど、いかにも間抜けな造形で、あるべき姿からズラされている。
 かつて被差別民だった江戸の芸人は、落差によって社会の自明性を揺るがす、文字通りの "汚れ役" だった。松本の笑いにもそれと同じダイナミズムがみとめられる。しかし、決定的に違う点がひとつある。確かに松本は、老人やヒーローを汚れ役に祭り上げたが、同時に、笑いという演出を通して彼らに情けをかけ、結果として彼らの存在を救済している点だ。例えば海原はるかが髪を振り乱したとき、その下に隠れていた頭皮が無防備に晒される。それをそのままの映像として放り出せば、身も蓋もなく醜怪である。だが、切り返された大佐藤の表情や間を含めた緻密な演出によって、観客に笑いが生じる。人のコンプレックスを暴露し、殊更に強調して見せながらも、それらは演出の呼吸の中で笑いとして生成し、その瞬間に彼らの弱みはチャームポイントに反転して、そっくりそのままの姿で肯定される。社会の外側にずり落ちていた忌避すべき辺境者たちが、その落差を逆転させるのだ。ともすると弱い者いじめと批判される松本の笑いは、その点でむしろ大らかなユーモア精神に支えられたギリギリの人間賛歌へと転じるのである。
 考えてみれば、松本人志その人が、貧しかった社会の底辺から瞬く間に億万長者へと登りつめ、巨大な"落差"を一足飛びに乗り越えた存在である。まったくの無名から赫々たる名声を掴んだその飛躍により、社会的な立場や世間への発言力も、まるで "別人" のように変化した。それでもひとりの人間であることに変わりがない彼は、その激しい落差を今なお自らの内側に抱え込んでいる。冒頭で述べたふたつのパート、うらぶれた大佐藤の私生活と、天を衝く大巨人の虚構とは、等しく松本人志の世界であり、強迫観念的に繰り返されるその伸縮運動に、彼の人生が抱え込んだ落差が炙り出されているのだ。


4. 松本人志のユーモア

 孤独な辺境者を、笑いで引き上げてきた松本人志。ともするとその「否定的」「秩序破壊的」な側面を強調されがちな松本の笑いは、むしろ、"肯定" と "ユーモア" の観点から語り直されなければならない。ここから、特にその方法論に焦点を絞り、松本の笑いを再検証してみたい。
 松本のユーモアの性質を語るにあたり、まず注目したいのは、"命名" と "実演" と仮に名づけうる営みであり、その組み合わせである。松本の笑いは、まず名前を付けるところから始まる。例えば本作の主人公に名づけられた「大佐藤大(だいさとう・まさる)」という名前は、等身大と大巨人との落差を簡潔に示し、敢えて命名の意図を丸見えにすることで滑稽な印象を生んでいる。それは、タイトルの「大日本人」についても同様である。

 そして松本のユーモアの真価は、"命名" がただちに "実演" という次の段階に発展する時に現れる。"命名" されることで肉体性を帯びてしまった架空の存在が、さらにそこからどのような顛末を辿っていくのか、松本は具体的に転がして見守っていこうとする。俗に、一度嘘をつくと、それを守り通すために、新たな嘘を100回もつかなければならないという。だがある意味でそれは、非常に冒険心に溢れた創造行為となりうる。松本は、自ら立ち上げた「大日本人」という嘘(フィクション)を実演するにあたって、現場の流れを慎重に見極めながら順撮りしていったという。つまり、嘘を新たな嘘で展開させるには、その過程に柔軟に対応できる順撮りという方法が最も相応しかったといえる。そして、もともと松本は、このように架空の設定を真に受け、我が身を持って実演してみるというやり方のスペシャリストだった。
 例えば、『ガキの使いやあらへんで』のフリートークは、視聴者から寄せられた奇抜な質問を、松本が徹底して "真に受ける" ことから始まる。例を挙げると、「悪魔から三叉の槍を取り上げるとどうなるか?」「食べてすぐ寝ると牛になるというが、具体的にどう牛に変化するのか?」「ドラキュラは十字架を何と勘違いしてあれほど恐れるのか?」など、そもそもトークの出発点となる質問それ自体が嘘(フィクション)の側から提出される。それに対して松本は、さらなる嘘の上塗りで応じるのだ。例えば、「カーナビの案内を永遠に無視すると最後にどうなるか?」という質問に対しては、モニターから『リング』の貞子に似た悪霊が出現すると答える。しかし、そもそもモニターが小型なので、その中から這い出してきた悪霊も小人サイズでまったく迫力がないという。
 嘘の設定も、いったん真に受けなければ出てこない発想である。言ってみればこれは、実際に "臍で茶を沸かす" とどうなるか、敢えて実演することで生じる笑いである。本作でも、このような方法によって、自ら立ち上げた「大日本人」という大きな虚構に肉体性を与えている。そして、いたる場面で奇妙な生々しさが獲得されることになるのだ。
 例えば、大佐藤が古びたスクーターに跨って、第二電変場に向う場面。自ら施設の重たいゲートを開け、バイクに跨り、曲がりくねった坂道をノロノロと登り続ける。カメラは執拗に、大佐藤の横顔を、あるいは背中を長回しの1カットで追いかける。移動だけを示すならほんの数秒で事足りるカットに、実に2分以上もの長尺を割いている。この理不尽な長さが、大佐藤の孤独な内面を深く抉り出しながらも、どこか滑稽なニュアンスを纏わせている。
 また、大佐藤が巨大化する過程を律儀に描いた三河電変場の場面がある。まるで巨大な国旗のごとくポールに掲揚され、高らかに風にはためく謎の紫色の布。それが次のカットで、巨大化する大佐藤のためにあらかじめ用意されたパンツだと示される。大佐藤は、その巨大なパンツにすっぽり全身を包まれて変身するのだ。あるいは逆に、等身大に戻る場面では、「大日本人誘致認定旅館」なる建物の大広間に大佐藤が横たわり、2〜3日かけて静かに縮んでいく様の一齣が描かれている。他にも、電変場の施設で働く中年の従業員たちや、UAが扮する、自らの営利目的に従って大佐藤を利用する商売上手なマネージャーも含め、通常なら描かれないヒーローの舞台裏を拾い上げている。それが、「大日本人」というフィクションにユーモア溢れる現実味を与えているのである。


5. "真顔" と "はにかみ"

 そのようにして作られた本作で、松本人志が映画界に第一歩を刻んだ日、北野武の13作目『監督 ばんざい!』(2007)が、いかにも意味深な巡り合せで同日公開を迎えている。メディアが煽り立てたふたりの対決構図に倣うわけではないが、本項では特にふたりの "顔" を比較することで、松本の表情が生み出す様々な効果について考える。とはいえ、松本の1作目とたけしの13作目を比べるのは公平性を欠くので、互いの1作目を中心に見ていく。
 それぞれで主演を務めているふたりだが、『その男、凶暴につき』(1989)でたけしが晒した、TVの親しみやすい笑顔から完全に逸脱した "真顔" は、自制のきかないやけくそ気味の凶暴性を漂わせ、仇役・白竜の狂気漂う能面と併せて私たちを驚かせた。また、『HANA-BI』(1997)で起用した薬師寺保栄までもが、TV的とは言い難い凶悪な犯罪者面を晒していたことを考慮すると、たけしはTVと映画を別物として演出していることが分かる。それに対して、松本が演じた大佐藤は、終始その顔に恥らうような笑みを浮かべている。この表情は、たけしの真顔と違って、松本が普段からTVで見せている "はにかみ" その通りである。もちろん、各々の顔がTVのイメージを纏っていようとなかろうと、本来映画の質とは関係ない。しかし観客に対して、それ自体独立した物語を映画で見せるにあたり、TVで定着したイメージからいかに距離を計るか、その匙加減は、ふたりにとって大きな問題だったはずだ。
 たけしの場合、どこか自殺衝動を思わせる開き直りで、あっさりとTVの自己像を葬り去っている。芸能界にも、映画界にも、あるいは人生そのものにすら属さない、あるいは属せない、そんな属性を欠いた傍観者的な淋しさがたけしの危うい魅力であり、その孤独が真顔によって晒されている。開き直ったその顔の強度は、もはやいかなるものによっても相対化され得ない。もし本気で死を覚悟してしまった人間がいたなら、我々は何と言って彼を呼び止めたらよいか。そこに有効な言葉など見当たらない。そんな没コミュニケーションの真空地帯へ、前倒しされたデスマスクのようにたけしの真顔が幽々と漂っている。実際、『その男、凶暴につき』でたけしが演じた我妻刑事は、ほとんど自殺行為といっていい銃撃戦に自らを追い詰め、無残に散る。それは、フライデー襲撃事件や原付事故で禁断の一線を超えてみせた、現実のたけしの死生観と重なり合うかのようだ。言葉で繋ぎとめられない没コミュニケーションの真顔、それは相対化されない絶対的な虚無と孤独を表している。
 対して、『大日本人』における松本の顔はどうか。彼はTVで見せる "はにかみ" を、ほとんどそのまま反復している。相対化しえない顔をたけしが目指したのだとすれば、松本のはにかみとは、自己を相対化した瞬間に反射する含羞の運動である。ここで注目すべきは、ファーストシーンからほぼ全編に渡って大佐藤に密着し続けるインタビュアーの存在である。この取材者は、大日本人不要論を唱える世間の代弁者として、悪意に偏った質問ばかり大佐藤にぶつけ続ける。つまり、このインタビュアーが、大佐藤の惨めな姿を映し出す鏡になっている。松本は、自虐的ともいえる歪んだ鏡を己の手前に配置することで、笑いと哀しみを生み出していたわけである。
 そうした、自分を他者として眺めるような感覚が、照れを含んだ "はにかみ" として顔に表れているのだが、その感覚が強まると、劇中の "彼" がはにかんだ瞬間、ふと我に返って素に戻るような、あるいは演技そのものが浮き彫りになるような印象が生まれ、それを観ている観客の我々にも、その "彼" が大佐藤のなのか、松本人志なのか、奇妙に曖昧に思われてくる。はにかみによる距離の導入が、彼の顔を素に戻らせたり、フィクションに傾けたりしているのだ。なるほど、この映画が松本の自己言及的な作品ならば、演じている松本そのものがメタレベルから対象化されなければならない。そして、劇中の大佐藤に対して、現実の松本人志が上位に立ったり、下位に回ったりする、その主体を巡る上下感覚が、うらぶれた私生活と大巨人の虚構を往還する、本作の主題に還流されているといえるだろう。
 従って、松本のはにかみを、単なる照れや恥じらいといったナイーブな心理的側面とは別な視点から捉えることも可能である。つまり、"照れている自分" すらをもう一捻り相対化し、自己批評しようとする構造であり、そこで照れと同居する逞しさである。一見すると怖いもの知らずの『その男、凶暴につき』におけるたけしが、むしろ鋭敏すぎる臆病さゆえか、心を塞いで没コミュニケーションの死地へ身投げしているように見えるのに対して、本作でインタビュー形式を採用した松本は、逆に臆病に見えながらも、その対話形式によって自分の真っ当な権利を主張し、社会に対して頑なにコミュニケーションの回路を開き続けている。だから松本のはにかみは、言葉以上のメッセージを多彩なニュアンスで観客に訴えかけてくる。時には明瞭に、内面の声が聞こえそうなほどである。いってみれば、このはにかみとは、ややもするとたけし的な絶対的孤独へと暴走しかねない自分に対する、良識的なストッパーの発動である。別な言い方をすれば、他者の視線を取り込んだ自己の客体化であり、自己批評である。そして自己批評である限り、そこには言葉を介したコミュニケーションの余地が保たれ続けるのだ。


6. フィクション化された自己、それ自体が素顔であるということ

 冒頭からずっと大佐藤に付き纏い、悪意的な質問を繰り返すインタビュアーは、たとえ大佐藤が誠実に答えても揚げ足を取ってみせる。例えば、大佐藤が三河電変場へ向う新幹線の中で、以下のようなインタビュアーとのやり取りがある。

── "獣"って言われてますよね? 大佐藤さん。怪獣のことですか? 一般的には怪獣って言ってますけど。

大佐藤:要するにその、我々にとって "怪" 獣ではないんだよね。だから、怪しくはないんだよ。現実に僕たちは戦っていかなくちゃいけないんだから、何を怪しがるんだっていうね。そういう意味も込めて、代々 "獣" って呼んでたんじゃないかなって。高校ぐらいの時にそんなこと思ったんだよね。

──確認はしてないんですか? そうなのかどうか、思っただけで。

大佐藤:…………

このやり取りは、誠実に答える大佐藤と、その言葉尻を捉えるインタビュアーの滑稽さを伝えているが、一歩引いてみると、「2ちゃんねる」のような匿名の電子掲示板に見られる類の、揚げ足取りに近い感性がインタビュアーの言葉に漂っている。なるほど彼は、全編に渡ってカメラの後ろに留まり、顔も名前も明かさない匿名的な存在である。
 本作が松本の自己言及的な映画である限り、大佐藤(=松本人志)を客体化させる役割が何らかの形で必要だったはずである。そしてこのインタビュアーは、劇中の大佐藤と現実の松本人志に対する "世間の声" を重ね合わせながら、その役割を果たしている。また本作において松本は、たけし的な没コミュニケーションに陥るのを回避し、インタビュー形式を利用しながら社会への対話を固持していると先述した。しかしこのインタビュー形式は、最終的に、世間との正常な双方向的コミュニケーションの限界へと松本を追い込むことになる。
 ファーストシーンでインタビュアーは、雨も降らないのに折り畳み傘を手にしている大佐藤へ、馬鹿にするような態度で「降らなかったですねぇ」と言う。しかし、その傘は大佐藤にとって、必要な時だけ大きくなるという、自分と似た者同士の存在であり、大袈裟に言えば分身である。空模様と関係なく片身離さず持ち歩いている、大切なものなのだ。それをインタビュアーが馬鹿にするファーストシーンは、やがてラストシーン間際に訪れる以下の決定的場面を、すでに予告していたかのようにも思われる。

 小雨降るアーケード街の安居酒屋で、大佐藤が酒を飲んでいる。インタビュアーはすでに敬語を捨て、タメ口で失礼な質問を畳み掛けている。気分を害した大佐藤は、「もう帰る」と言い、いつもの折り畳み傘を手に取って、千鳥足で店の外へ踏み出す。その傘を見たインタビュアーが、「今日も持ってきてたの? マメだねぇ」とからかう。その瞬間、大佐藤はすかさず半身を翻し、捨て台詞を大声で叫ぶ。

「大日本人だよ!!」

この、ほとんど文脈を欠いた声が、店の外から叫んだため、アーケードに跳ね返って意味深長に残響する。ふたりはこれ以降、映画の中でひと言も言葉を交わさない。大佐藤とインタビュアーの、最後のやり取りである。乗り越えられなかった誤解・偏見・差別が生み出す、どうにもならない断絶の彼岸で、それでも大佐藤は自分の存在を精一杯に叫ばなければならなかった。その切実な声が、世間(=インタビュアー)と大佐藤との間にぽっかり空いた空洞へ、虚ろに木霊したのである。
 もちろんこの切実な響きは、松本人志自身の肉声でもある。この瞬間、自身の存在を闇雲に叫ぶという身振りにおいて、劇中の大佐藤に対し、現実の松本人志が最も深く同化しているともいえるだろう。しかし皮肉なのは、松本人志が自分の存在を主張するときに、"大日本人" という自ら命名した虚構の名を叫んでしまう事態である。渾然一体となったかにみえる大佐藤と松本は、その瞬間さえ実は断ち切れており、「自分は自分である」と言うことすらできない。どうあがいても、堂々巡りし続ける現実とフィクションの円環から逃れられない。それが松本人志の宿命だからこそ、「大日本人だよ!!」という叫びは、極めて本質的に切実なのである。
 またこの切実さは、そっくりそのままラストシーンにも持ち越されている。居酒屋でインタビュアーと別れた後、間もなくして、ミドンという最大の強敵と大佐藤が対決する。圧倒的な力の差から窮地に追い込まれる大佐藤だが、そのとき突如、映画の終幕を告げるかのようなブザーが鳴り響き、「ここからは実写でご覧ください」という字幕が画面いっぱいに示される。何のことか戸惑う観客をよそに、以下のようなラストシーンが展開する。  戦意喪失した大佐藤の前に、どこからともなく唐突に登場するウルトラマン似の一家。これまでの物語と一切関係ないスーパージャスティスと名乗るその謎の一家は、大佐藤の見守る前でミドンに執拗なリンチを延々と繰り広げ、容赦なく葬り去ったあと、大佐藤を連れて空の彼方へと飛び立って行くのである。問題なのは、この場面において物語が切断されているだけでなく、撮り方においてもそれまでの文法が捨て去られ、CGではなく、着ぐるみの実写で描かれている点だ。
 この飛躍したラストシーンに、多くの観客が言葉を失ったという。しかし先ほどの視点から見ると、ここでもまた現実とフィクションとの二重化が、より野蛮に示されているのが分かる。あからさまな着ぐるみを纏った主人公は、大佐藤というよりも、もうほとんど松本人志であり、実際、巨人というよりも等身大である。しかもそれは、CGというフィクションのヴェールを剥ぎ取られた、剥き出しの実写(現実)で描かれている。だが、物語上の大佐藤はまだスクリーンの中に留まり続け、フィクションの名残りを着ぐるみとして身体に纏わせている。いったい物語は、まだ続いているのだろうか。仮に続いているとしても、フィクションと現実のどちら側に属しているのか。乱れた遠近法の中で、違和感だけが飛び出している。虚と実の両義性は高められているが、決して止揚されず、矛盾したまま放り出されている。この飛躍的なラストは、これまで丁寧に築き上げてきた『大日本人』の物語をどの地上にも着地させず、さらなるメタレベルの高みへと一挙にインフレーションさせて、破裂している。これまで幾つもの二項対立で自らを現実/フィクションの振幅に晒し続けてきた松本だが、もはやその針が振り切れてしまって、どちらを指しているか分からない。そんな異常な事態であるといえる。あのたけしの真顔とは別の意味で、松本もまた言語の届かない没コミュニケーションへと突き抜けてしまったのだろうか。だが、それでもなお、この場面においてさえはにかみ続けている松本、あるいは大佐藤……。  考えてみれば、自分の真顔を絶対零度に凍結させたたけしに対し、間断なき "はにかみ" で自己を解凍し続けてきたのが松本である。その点で、行きすぎに見えるラストシーンもまた松本がこれまで繰り返してきたのと同じ身振りであるというべきだろう。その顔は、物語に定着することを恥じ入るかのように、さらなるメタ化を目指して揺れ動く。あたかも浜辺の波跡ように、虚と実の波が延々と交錯し、互いに互いを洗い流し続けるカンバス、それこそが松本人志の "素顔" である。

『大日本人』

監督・企画:松本人志
脚本:松本人志、高須光聖
企画協力:高須光聖、長谷川朝二、倉本美津留
撮影:山本英夫
音楽:テイ・トウワ、川井憲次(スーパージャスティス音楽)
プロデューサー:岡本昭彦
製作総指揮:白岩久弥
配給:松竹
出演:松本人志、竹内力、UA、神木隆之介、海原はるか、板尾創路、街田しおん

2007年/日本/113分

2007年11月28日DVD発売(発売元:よしもとアール・アンド・シー)

12 Feb 2008

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