第63回国際フィルム・アーカイヴ連盟東京大会報告

編集部

 2007年4月、第63回国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF=Fédération Internationale des Archives du Film)の東京大会が開催された。1938年に仏独米英の4カ国で設立されたFIAFは、以来、文化遺産および歴史資料としての映画の蒐集・保存・復元・上映を目指す諸団体の交流の場として、技術的あるいは芸術的な知見を広く共有すべく活動してきた。現在では、65カ国をこえる120の団体が名を連ねている。初めての日本開催となった今回、会場となった東京国立近代美術館フィルムセンター(1993年よりFIAF正会員)には、30数カ国から150名を超えるアーキヴィストが集った。大会シンポジウムのテーマは、「短命映画規格の保存学的研究」である。

 「短命映画規格」というといかにも専門用語然として響くかもしれないが、これは要するにスタンダード化されることなく終わったすべての規格のことを指す。例えば、9.5mmや28mmといったサイズのフィルム、あるいは1コマにつきひとつのパーフォレーションというような規格のフィルムもそうだし、また、国際博覧会の呼び物としてそのとき限り公開された超巨大立体映像などもそれにあたる。本会議ではそうした長命たりえなかった様々な規格の調査結果が報告され、それら特殊なフィルムたちの保存と上映にまつわる具体的かつ技術的な諸問題が検討されたわけだが、しかし、ここでの議論は専門家同士の技術談義に終止するものではなく、より根本的な「映画とはなにか」という問いを、そうでありえたかもしれない他の可能性をその具体例とともに提示しつつ探る点で極めて刺激的なものであったといえる。

 例えばジャン=ピエール・ヴェルシュールは基調講演において、これまでに確認されただけで映画史には94以上のサウンドシステムがあったのだと報告している。また、FIAFテクニカル・コミッションのポール・リードによれば、商業用として開発されたものだけで、150以上の色彩フィルムの現像方式があったのだという。そしてもちろん、ヴェルシュールが述べるように、これら「形式」と映画の「内容(=コンテンツ)」は不可分であり、形式そのものの再現がなされなければそのオリジナルにおける「内容」なるものも正確には理解されようがない。また、だからこそ、とヴェルシュールは言うのだが、昨今のデジタル・メディア一元主義、すなわち、あらゆる映像資料を一様にデジタルに書き換えて保管すればよいという主張とは距離を置かねばならない。色彩と音響とが、ある歴史の一時点において、どのように見られ、聞かれていたか、そのニュアンスは厳密にそのときどきのメディアに依存するからであり、ただデジタル化しさえすればよいという発想は、そうしたニュアンスを永遠に奪いさってしまうからだ。したがって、本会議の掲げるスローガンは、デジタル・グローバリズムとそれを支えるコンテンツ至上主義への抵抗である、といえるだろう。

 大会初日は、「さまざまな映画フィルム」と題されたセッションにあてられ、フィルムセンターの上映室に設置された5種類もの映写機から、多くの稀少なフォーマットの映像作品が投射された。それは例えば、19世紀末ドイツのブロード・ゲージ・フィルムであり、あるいは縦横比の異なる複数のヴァージョンにおける『ベン・ハー』(1959-)であり、複数の異なるサウンドシステムの『市民ケーン』(1941)である(低音域の聞こえ方がそれぞれまったく違う)。これら比較上映では、単一のコンテンツとして流通しているかに見えるフィルムでさえ、いかに多様な表情を持ちうるのかが鮮やかに示された。また、香港における手彩色フィルム(カンフーの達人の手から出る波動がフィルムに直接書き込まれる)や、1945〜1970年の間にドイツで、主に映画の上映に先立って主に広告目的で投影されていたというスライド映像も、なによりメディア自身の特性と結びついた表現の好例であった。他にも日本の特殊大型映像など、上映の機会を奪われた映像についての資料等が広く紹介される機会を得た。

 大会2日目は、「日本における短命映画規格」の報告がなされた。フィルムセンター自身が認めるように、海外のアーカイヴと比較した場合、この分野で日本は先進的であるとは言い難い状況にある。フィルムセンターの活動はほとんどもっぱら35mmフィルムに限られており、8mmや9.5mm、17.5mmフィルムなどの蒐集はキャリアも浅く、大型映画やプレシネマに関してはほとんど手付かずであるという。そのため、本セッションには、民間のコレクターや大学の研究者なども招かれていた。大正、昭和期に家庭での使用のため普及した「紙フィルム」や、「ベビートーキー」(蓄音機のうえにゾーエトロープを据えたもの)、「おもちゃ映画」など、映画館という公的な場所ではなく、映画を家庭で私的に楽しむ装置についての報告が目立った。紙フィルムについては、「大人の科学」の付録として目にされた向きもあるかと思う。それらの装置は公共空間での集団的な鑑賞という通常の上映形態とは異なる、私的な空間での鑑賞——エジソンのキネトスコープから昨今のホームシアターへと至る——の系譜へと位置づけられるとともに、映画と印刷技術、蓄音機などの装置の類縁性や融合を示す興味深い事例でもあるだろう。そうした上映装置についての報告の一方で、35mmのフィルムそのものの製造に関する「もうひとつの歴史」についての報告もなされた。使用済みフィルムの感光剤を剥がし新たに塗布する「再生フィルム」は、富士フイルムやコニシロクなどによる主流のフィルム製造とは異なる「もうひとつのフィルム製造の歴史」へと光をあてる。それは、30年代における日本映画黄金時代の物質的な支えというポジの部分と、映画が保存されなかった歴史というネガの部分とを同時に含む歴史である。セッションは、日本における映画以前の映像装置である「写し絵」についての発表と実演で幕を閉じた。18世紀にオランダから伝来した幻燈はその後、独自の進歩を遂げた。その特徴は、機動性ある小型の木製幻燈機を複数台同時に使用する点にある。今後、民間のコレクター、大学の研究者、アーカイヴの協力のもとに進展するであろう、日本における短命規格の保存・復元・伝承の成果にも注目していきたい。「モノとしての多様な映画規格」と題された第3セッションでは、幻燈やパノラマなどの映画以前の映像装置、ポスターなど映画関連の資料、標準規格化以前の初期の可燃性フィルム、手描きや写真によるグラフィックを利用した独自のサウンドシステムなど、さまざまな映画規格・資料の保存やカタログ化について、技術的、考古学的観点から充実した報告がなされた。その中で、スピノグラフという上映装置について報告したエルキ・フータモが、自らの研究を「敗者たちの考古学」と名づけていたのがとりわけ印象的だった。産業的な観点からは「敗者」であっても、これらマイナーな規格で撮られた作品たちは、わたしたちが想像だにしなかった多様なニュアンスを見せてくれ、通常想定する映画の概念をさまざまな次元において揺るがせてくる。こうした野心的ながらも産業としての映画において「敗者」となった規格を、それらの微細な肌理とともに保存・復元・上映してゆくことは、「映画を見る」という経験の豊饒さを救い出すことなのだ。

 そのような営みとして本大会を捉えたとき、スペクタキュラーな水準でもっとも強いインパクトを残したのは、「3D映画に関する講演と上映」のパートであるといってよいと思う。プレゼンテーターは、ドイツのミュンヘン映画博物館の館長を務めるシュテファン・ドレスラー。3D映画の分厚い歴史をアンソロジーとしてまとめるというこの企画について、ドレスラー当人からして「狂気の沙汰」だったと前置きしているのだが、あきらかに困難だったに違いないこの企ては、しかし極めて充実した成果をもたらした。約90分という決して長くはない枠内で、技術解説を平易にテンポよく織り込みつつ、リュミエール兄弟の3D版『列車の到着』(1936)からメリエス作品、フォルクス・ワーゲン社の立体映像広告から最新のアニメーションに至る3D作品が次々と紹介されると、会場のあちこちから驚きの声があがる。例えば、画面奥から手前に向かってボールが投げつけられると、例の立体映像用メガネを装着した観客たちの幾人かは一斉にのけぞり、歓声を上げる。もちろん、現在でも3D映画は比較的容易に見られるし、この立体的接近運動の錯覚そのものは決して珍しくはないはずなのだが、過去におけるその原初の形態を目の当たりにしたことがすっかり観客を武装解除させてしまったということなのかもしれない。ともかく事実として、会場はまさに子供たちがするような、ヴィヴィッドなリアクションで満たされた。

 ところで、これら3D映画の中でもっとも鮮烈な驚異を喚び起こしたのは、いかにも立体視の効果を強調すべく設計された映像作品であるよりも、逆に、単一の視点からある一定の持続をワンショットでただ的確に切り出したリュミエール兄弟の作品だったように思う。海岸から、波打ち際に対し斜め45度に構えた画面の左手奥には山々が霞み、そして右手奥にはどこまでも水平線が遠ざかる。曇りなのか、それとも日没前なのか、鈍く柔らかい光線が手前で海遊びに興じる子供や大人たちを均等に照らしている。これら人物たちは、無防備に捉えられるがままといった風情で、時折カメラへいぶかしげな一瞥をくれる。この映像が与える印象の強烈さは、これら人物たちの絶対的な小ささに由来する。つまり、彼らは、立体として浮かび上がったとき、小人に見える。もちろんスクリーンサイズが変われば彼らは逆に巨人にもなるだろうし、あるいはもっと小さくもなりもするだろうけれど、要するに、ここでは事物の見た目の大きさが、スクリーンサイズと絶対的に結びついてしまうのである。通常の平面映像であれば、たとえばアリのクロースアップを見たとして、巨大なアリだとは誰も感じない。それは認知心理学がいうところの「恒常性の原理」が働くからで、平面映像の場合、絶えず心的な再調整がなされるわけである。また、だからこそ、ロングショットとクロースアップは滑らかに結びつくことができる(したがって、2D作品と同じ流儀のカット割りで撮られた3D作品は、ギクシャクとした齟齬を残してしまう。また、この日ヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ!』[1954]の抜粋が上映されたが、どうしてこの作品のカメラがヒッチコックらしからず静的であるか、その理由の一端もここに求められるのではないか)。ところが、リュミエールが撮った3D映像の人間たちは、観客の主観的な調整とは無縁に、自律的で堅固なヴォリュームを保持し続ける。例えば浜辺を歩くひとりの女性を見ていると、その体の重みまでが正確に測れるだろうと確信してしまう。ある過去のあるひと区切りの持続が、そのままミニチュアセットとして保存されてしまっていることにほとんど畏れにも似た感銘を覚えつつ、リュミエール兄弟にとっての「シネマトグラフ」はここでこそ完成を見たというべきだろうか、などという考えが頭をよぎる。

 3D映画の場合がまさにそうだが、それぞれ異なる形式で作られた映像作品がもたらす鮮烈な驚きは、ひるがえって、現在スタンダード化され、ほぼ単一な形式であると考えられることの多い「普通の映画」の自明性を揺さぶらずにいない。なぜ映画がいま現在見られるように存在するのであって、それ以外ではなかったのか。「短命映画規格」は、そうした経験の条件への遡行さえ促す力を秘めている点で貴重であるし、これら無数のヴィヴィッドな驚異の印象こそがなによりもその価値を保証し続けるだろう。

(取材・文:角井 誠、三浦哲哉)

18 Sep 2007

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