Q & A with Julien Hirsch(ジュリアン・イルシュ)vol.2

インタビュー

『NOVO』(2002) ©Unifrance Film International

目次

5. 現代映画は映像の可能性のパレット
──光とフレームを極める──

6. 事物と俳優の存在感を引き出す
──印象的な「顔」とフレーム──

7. 日本人は日常の演出家
──ジャン=ピエール・リモザンのドキュメンタリー撮影──


5. 現代映画は映像の可能性のパレット
──光とフレームを極める──

──スピードや切迫感といえば、ジャン=ピエール・リモザンの名が浮かんできますが、彼もまた他の監督たちとは違ったやり方なんでしょうね……

JH 全然違う!(笑)まったく異なるとはいえ、おそらく共通の──彼ら自身は、こんな風にはいわないだろうけど──、一緒に仕事ができて本当によかった監督たちには、共通点があるように思える。一種の疑い、少なくとも、フランス映画に対する疑問を持ってるんじゃないかな。彼らは、スイス国籍のゴダールを含めて、フランス映画に属していながら、同時にそこから抜け出そうと……

──フランス映画はこうあるべきといったクリシェから……

JH フランスでは珍しいことで、彼らは勇気があるともいえる。そんな態度は、フランスでは、いい印象を与えないからね。フランス人は、アメリカ映画やアジア映画にはオープンだけど、フランス人の監督となると、「自分たちが一番」的な映画の考え方におちいる。ジャン=ピエールやアンドレ・テシネのような人達は、そこから出ようとしている。それには心を動かされるね。

──同じ欲求を抱いていますか?

JH その欲求はある。しかし同時に、それはミステリアスでもある。なぜなら、具体的なものでは表現できない、ひとつの概念だから。

──その欲求は、かつてヌーヴェルヴァーグの作品をたくさん見たことと何か関係が?

JH ヌーヴェルヴァーグをひとつのブロックとして語れないな。あまりにも異なる監督たちだから。例えば僕はシャブロルを、"これぞフランスの"シネアスト、"まさにフランス的な"クオリティーだと考えているけど、一般的には、フランスの社会で押すと痛いような場所を突く人物だと思われている。彼は確かにそういうツボを押さえるけど、人々が気持ちいいようにやってみせるんだ。

──まさにそうですね。

JH 人々が本当に痛みを感じるようにツボを押す監督たちとは、何の関係もない。彼らは、映画を見終わった観客が、「何はともあれ、ここはいい国だ」ではなく「何かが変わらなければ、何かをしなければ」と感じて欲しいと考えている。おまけに僕にとって、ヌーヴェルヴァーグは、フランス映画というものにひと蹴り食わせる一種の挿入句に思える。もちろんヌーヴェルヴァーグから出てきた人、ヌーヴェルヴァーグの「後継者」はたくさんいる。でもゴダールに触発されるのと、トリュフォーにインスパイアされるのでさえ同じことじゃない。シャブロルは……人々が彼にインスパイアされるとは思えない。自分のテリトリーを持っているからね……トリュフォーが一番微妙だと思う。僕にはちょっと問題がある映画作家なんだ。あまりにも多くの監督からみて、おそろしく重要なシネアストだから。デプレシャンやテシネのような監督にとって、トリュフォーは大切な指標で、彼らの役に立っている。個人的には、本当に好きなトリュフォー作品はあまりない。数本かな。

──どの作品ですか?

JH 例えば『恋のエチュード』(1971)。『突然炎のごとく』(1962)や『大人は判ってくれない』(1959)、『華氏451』(1966)も大好きな作品だけど、それぞれまったく違うと思うんだ。どうしてこれらに心が動くのかは説明できないけど……多分、フォルムに対する際だった関係性があるからかもしれない……『隣の女』(1981)や『終電車』(1980)は苦手だね。

──映像的なフォルムということでしょうか?

JH 映像的またはエクリチュールの、あるいは俳優の演技だね。特に『恋のエチュード』は演技が特徴的だと思う。映像に関してインスピレーションを与えてくれるシネアストはたくさんいる。そのほとんどがフランス人じゃないけど……

──現代の監督ですか?

JH みんな現代だね。

──例えばリンチ?

JH リンチをはじめ、他にも大勢。けれども、映画監督やその作品全部にインスパイアされるのではなくて、自分が混ぜることができる可能性を示してくれるパレットのような存在なんだ。リンチが、夕陽や静物へのコンプレックスから解放してくれたようにね。

──夕陽ですか?

JH そう、夕陽が苦手だったんだ(笑)。

──いかにも紋切り型だから? 技術的な問題ではないですよね……

JH そうじゃない。普通は美しいと思われているけど、夕陽は——夕焼けを撮るのではなくて、夕陽自体のことを言ってるんだけど——、夕陽はあまりにもコード化されすぎたイメージだから、瞬間的にあらゆるエモーションを殺してしまうんだ。

──絵葉書的ですよね……

JH そうだね。それも夕陽にまつわる観念的なもの、ロマン主義や何かの終わり、といったことが原因で……

──では、フランソワ・オゾンの前々作[夕焼けのビーチで終わる『ふたりの5つの分かれ路』(2004)]は、好きではない作品?(笑)

JH フランソワ・オゾンについてはよく知らない。もしかしたら、リンチが大好きかもしれない。そんなこともあって、映画作家を前にして、これが参考になるとは言えない。間違って解釈される危険があるから。例えばジャン=ピエール・リモザンに、ジョン・ウーが好きだとは言えるけど、ゴダールやテシネには通じないだろうね。ゴダールは、リンチのことを耐えられないと思う。彼にとって、リンチは広告にすぎない。だからゴダールに、いくつかのショットに関しては、リンチをイメージしていたとは言えない。事実だけど。

──着想を与えてくれる要素が、自分の中で混ざり合っていて、あれを参考にこれを撮った、と言い切れないということ?

JH それでも大抵は、興味のあるシネアストのどの部分が刺激的なのかは分かってる……。フレームに関していえば、絶対外せないのはマイケル・マン。

──『コラテラル』(2004)?

JH 『コラテラル』は、フレーミングの新たなモニュメントだね。でも参考になるのはシネアストであって、撮影監督じゃない。キャメラマンの名前は出てこない……

──先ほど、撮影監督のふたつのグループが話題になりましたが、独自の映像世界を持ったキャメラマンには、触発されないのでは?

JH それは撮影する本人にとって快適な映像世界で、しばしば一種の技巧性、仕掛けと関係してくる。そうしたものは嫌いじゃないし、感動することもある。でも彼らはすでにあるヴィジョン、決まった視覚的世界を持っていて、ある作品のために起用されるのは、その世界が必要とされるから。

──撮影監督がそのように決定されると、完成した映像を予想できる気がします。

JH 僕はそう思う。いずれにせよ、何が出てくるのか、見る前から分かる。

──あまり面白そうな感じはしません……

JH とはいえ、彼らは自分たちの仕事をきっちりこなすことができる……。このタイプのキャメラマンの大部分がやっていることは、自分にはできないと思う。どうすればいいのか、よく分からないし、いろいろ調べたり、話を聞くほど興味がわかない……。1本のフィルムの映像に関わる部分は——ここではフレームと光は切り離せない。僕はふたつでひとつとして取り組んでいるからね——、自分の役に立つと思えると心が動く。でも僕の意味する映像を、すべての作品にあてはめて語ることはできない気がする。例えば『ロード・オブ・ザ・リング』の3部作(2001-03)には、まったく食指が動かない。大嫌いなんだ。視覚に訴えるもののことを言ってるんだけど、この作品に限らず、ヴィジュアル的な要素には本当に困ってしまう。香港映画のように、巧妙な仕掛けは好きなんだけどね。

──デジタル映像は?

JH それと分からないように使われているなら、大丈夫。何しろ『コラテラル』の約95%はHD映像[5]だから、HDへの興味が持てそうな気がしてくるね。そもそも『コラテラル』のおかげで、これまで避けてきたシネマスコープフォーマットへの見方が変わったんだ。関わってきた作品でシネマスコープの話が出て、最終的にボツになったのも、自分の責任じゃないとはいえない。シネスコのせいで、ショットのつなぎが曖昧になるし、締まりのない画面になると思っていた。ところが『コラテラル』は、鮮やかにその逆を証明してくれた。テシネの新作はシネスコになるよ。

──ご自身にとって映像とは、やはりフレームと光?

JH 本質的に光とフレーム。それが僕の仕事だからね。1本のフィルムが醜いものである理由はどこにもない。それを正当化するものは何もない。もちろん美醜の基準は主観的だけど、映画を見て、映像の仕事が醜いとなると、弁解の余地はないと思う。それを演出や語りのせいにはできない。ドキュメンタリーであっても、フィクションであっても、作品の醜さの責任転嫁はできない。セットの失敗や他の部分での間違った選択が原因ということもあるけど、美しくない画は主にキャメラマンの責任だ。

── 編集によって、ここぞというカットが切られて、がっかりした経験は?

JH そんな風に考えないように努力してる。編集の場にはちょくちょく顔を出すんだ。作品の進化を見るのが好きだし、大切な過程であるカラー・コレクションの準備になるからね。もっといいカットがあるはずなのに、どうしてこのカットを選ぶのかって口出しするためじゃない。編集する側は、ちゃんとした理由があってそのカットを選んでいるのだろうから。

── 色補正は非常に重要?

JH デジタルのカラー・コレクションによって、より多くのことができるようになった。とりわけ映像の質感を直接操作したりね。また完全にマスターしていないけど、すごく興味はある。これまでのところ、カラー・コレクションは撮影時に意図した映像を得るためのものだった。その作業はかなり時間がかかる。デジタルによって、撮影のミスが完全に挽回できるわけじゃないけど、画像の補正の可能性は広がったね。テシネの新作のために、いろいろテストをやっているところなんだ。『Les Témoins』が完成したら、デジタルの色彩補正について、もっといろんなアイディアが浮かぶと思う。

──ジャン=ピエール・リモザンに話を戻すと、彼と組んだ最初の作品が『NOVO/ノボ』で、やはり連絡は彼の方から?

JH そう、僕が撮影した短編、ほとんど知られていないんだけど個人的には大好きな『Anywhere out of the world』(フレデリック・ボワ監督、2000)という作品を見て、その中の1カットを気に入ってくれたんだ。ブレッソン的なショットだったんだけど。『NOVO/ノボ』の後、いくつかの短編やドキュメンタリーを一緒にやった。『カルメン』(2005)は参加できなかった。パスカル・フェランの『Lady Chatterley』(2006)があったから。『カルメン』の撮影についたのはキャロリーヌ。

──フランス映画の規範から脱したいという欲求の他に、リモザンに共感できる点は?

JH ジャン=ピエールは、感覚的なものに賭けている。仕事をした監督の中で、最もミステリアスなシネアストのひとりだと思う。彼の場合、最初から最後まで、片時も気を抜かないでついていく必要がある。誰かに何か言ったら、自分に関係がないことでも聞き逃せない。それが役に立つからね。どんなささいなことでも、行き当たりばったりで映画を作ろうとしてるんじゃないんだと信じて撮影するために役に立つんだよ(笑)。彼もモニターは使わない。だから撮影しながら説明していく。

──モニターがあると、監督が自作の第一の観客と化しませんか?

JH モニターを使うことに反対はしない。モニターを見ながら映像について語らないなら。モニターを見ているときに問題になるのはフレームだけ。初めて撮影につく監督のときは、僕はモニターを使うように勧める。でもパスカル・フェランのように、モニターなしがいいと言う人もいる。ゴダールも、ジャン=ピエールもモニターを使わない。アンドレ・テシネの場合は、モニターが故障したら、撮影できなくなる。絶対無理だね。アンドレとは、僕が狂った犬のように突き進んだこともあって、間違った方向にいっていないか、もっと動いた方がいいのか、控えめにした方がいいのか、何か見逃していないか、彼にすぐに言ってもらう必要があった。まあ彼は一種の感情の震えのようなものをとらえようとするシネアストで、そうしたものはすべてのテイクで起こるわけじゃない。その震えが伝わるカットがふたつあればパーフェクトだね。

──いわゆる「巨匠」と若手監督との違いを感じますか?

JH ゴダールとテシネの間には、パスカル・フェランとゴダールと同じくらいの違いがあると思う。あまりにも異なる世界で……。違いを生むのは経験のあるなしじゃない。

──撮影がないときに映画を見る方の経験は、今でも充実していますか?

JH 映画は本当にたくさん見る。映画館でもDVDでも。いくつかの作品に関しては、「見る」といえば、もうほとんどワンカット単位で見てるね。『コラテラル』は完全に頭に入っている。シナリオはもっと良くなる余地があるとしても、俳優についてはあれ以上を望むのは難しい。何といっても知性とフレームの自由が……。コヨーテが通りすぎるショット、正確にいえばコヨーテのふたつのショット、ここに作品のすべてがあるといっても過言じゃない……。あの場面だけで、僕にとってマイケル・マンは偉大な映画作家になった。

──『マイアミ・バイス』(2006)は?

JH 前作ほどじゃないね。TVシリーズに寄りすぎていて、TVの要素がどうしても目につく。コリン・ファレルがそんなに好きじゃないっていうこともあるし。それでも、最初の20分は素晴らしい……。前作にはかなわないけど興味深い。


6. 事物と俳優の存在感を引き出す
——印象的な「顔」とフレーム——

──撮影のときに、強い印象を受けた俳優や女優は? キャストへの個人的な好みは抑えている?

JH 撮影の現場は何しろ、全員が密閉された圧力鍋に入れられた状態だから(笑)……みんな良好な人間関係を保とうとするよね。でも印象的だった俳優となると、話は違ってくる。それは映像として、どれだけ存在感があるか、深みがあるかないか、ということと関係があって……

──具体的には?

JH 例えばアシスタント時代、初めてそういう体験をしたのは、ヴィルジニー・ルドワイヤンが主演のときだった。

──『シングル・ガール』(ブノワ・ジャコー監督、1995)?

JH その通り。この作品の彼女が一番だと思う。それは彼女の力だけではないけど、キャメラが回っていないときとキャメラが回り始めたときのヴィルジニー・ルドワイヤンの変化は鮮烈だった。それからナタリー・リシャール[『NOVO/ノボ』の社長サビーヌ役]。その優美さはもちろん、集中力、彼女と撮影中の作品との関係には感銘を受けた。役にどれだけ没頭できるかも重要。『アワーミュージック』のナード・デュー[女子学生オルガ役]は、『Zéro défaut』(ピエール・シェレー監督、2003)というTV映画で撮影していたんだけど、彼女には本当に驚いた。ゴダールにも言ったんだけど、黙ったままの顔のショットひとつで、見る人にいろんなことを喚起するんだ。彼女には大げさな演技はいらない。観客の方がその顔にさまざまなものを見て取るからね。そんな彼女を撮るとなると……

──事実、『アワーミュージック』はゴダールにおける顔の回帰を感じさせます。

JH それは彼女によるところが大きいね。

──女優の特別な存在感によって、キャメラでもっと寄りたいという気になりますか?

JH 必ずしも近くから撮るとは限らない。存在感が強烈であれば当然、イメージはより美しくなる。ブルース・ウィリスを初めて見たとき、同じような印象を受けたことを覚えてる。残念ながら今のブルース・ウィリスは、駄作続きで見たいとは思わないけど、『ダイ・ハード』(ジョン・マクティアナン監督、1988)で彼を発見したときには——この作品も大好きなんだけど、どの監督にも言えないね(笑)——、見知らぬ俳優がひとりでフレームを占めているという気がした。ドパルデューもたったひとりでフレーム内の空間を支配する。クロースアップでなくてもね。『Les Temps qui changent』のミモザの木の下の一場面で、彼はドヌーヴの後ろにいて、一瞬寄りのショットがあって、後は引きの画面になるけど、あそこではふたり揃って見る者を圧倒してしまう……。だから存在感は、距離の問題じゃない。ミステリアスなものだね。

──だとすると、むしろキャメラマンの方が、存在感をとらえるのに適切な距離を見つける必要がある。

JH そう、でも存在感は、とらえないではいられないものなんだ。見逃すことはないと思うよ。だから大切なんだけど、実際にはそんなによくあることじゃない。存在感が必要とされないこともある。単に演技のテクニックがあれば十分なときとか……。俳優の存在感が際だっているときには、構図がうまく決まってる。僕がフレームに求めるのも、ものと役者の存在感を引き出すことなんだ。


7. 日本人は日常の演出家
——ジャン=ピエール・リモザンのドキュメンタリー撮影——

──今回はリモザンのドキュメンタリー作品のために、日本人を撮ってるんですよね?

JH どこにでもいる日本人じゃないけどね……。存在感の問題は無視できない。まあ僕はこれまで日本に来たことはなかったし、なじみのある日本映画を通して見た日本しか知らなかった。日本映画は大好きで、古典的な作品から現代のものまで、自分にとって大きな意味を持っている。日本に来てみると、溝口や黒澤、大島、今村、深作、北野のようなシネアストを通して抱いていたこの国のイメージを、現実にたくさん見つけることができた。もちろん映画の中の日本人とは違うだろうけど、映画と対応するものはいろいろある。特に今言った監督たちの作品にどうして形式的な特徴、すごく目立つと同時にごく自然なフォルムの存在感があるのか、分かってきたような気がする。なぜって、日本人はみんな日常生活において演出家[metteur en scène、仏語では文字通り「シーンにする人」]なんだ。すべてがシーンとして構成されているから、簡単に構図におさめることができる。

──それは意外です。見た目に四角い、幾何学的なものが多いから……?

JH 四角いからじゃないな……調和の問題ではなくて、動作や構図、人々の位置に対するある特殊な関係の問題、つまり演出の問題だね。リモザンのドキュメンタリーのために、日本でワンシーン・ワンショットを撮ってるんだけど、フランスでのドキュメンタリーの撮影では、こういうタイプのショットは絶対できない。不可能だよ。構図を決めていて、改めてそう実感した。というのも、フランスでは人々とキャメラとの距離がうまくとれなくて、すぐにフレームの問題が出てくる。フランスのドキュメンタリーで、人々が適切なポジションにいて、僕がキャメラを構えていたとしても、不意に誰かが一歩横に動いたり、後ろに下がったりして、全然うまくいかなくなってしまう。ここでは一歩動くと、それがちょうどいい具合に決まる。人々が必要以上にランダムに動かない。フレームにぴったり来るんだ。それはラッシュを見ても明らか。そうしたことが日本での発見だね。

──では撮影はそんなに大変ではない?

JH 大変ではないね。日本語はひと言も分からないし、会話の中身を理解しないでフレーミングしてるけど、フレームのガイドになるのは言葉じゃなくて、実生活における演出なんだ。だから、フィクションに限りなく近いドキュメンタリーになると思う。フィクションに近くなるのも、撮影する場所がうまい具合にセットになってるし、無意味な時間がほとんどないから。ドキュメンタリーの中のフィクション性、フィクションの中のドキュメンタリー性を明かしていくこと。それが僕の目指していることなんだ。

──自然な流れの中で撮影が進んでいくという感じでしょうか。

JH 物事が向こうからやってくるときには、自由に、自然な感じで撮るのもずっと簡単になる。逆に、こっちがいつも何かを探しにいかなければいけないとなると……日本では、あらゆるものが何かを物語っていると思う。誰かが何かをするときも、決して行き当たりばったりで無意味な行動じゃない。歩き方ひとつとっても、それぞれ違ってくる。あっと思うようなことが、本当にたくさんある。

[完]


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脚注

5. 『コラテラル』の約95%はHD映像
Sony HDW-F900 CineAltaで撮影。「CineAlta」は初めて全編デジタル撮影を行った『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』(2002)を筆頭に、HDデジタル映画撮影に汎用されている。

6. カラー・コレクション
日本では略称「カラコレ」が一般的。プリントを制作する前のポストプロダクションの段階において、ショット毎の色やコントラストの差を補正し、視覚的な違和感をなくすこと。デジタル技術によるカラー・コレクションでは、作品全体の画調や映像の質感をより自由に変更できるようになった。



ジュリアン・イルシュ主要フィルモグラフィー

『Les Témoins』(アンドレ・テシネ監督、2007)
『Lady Chatterley』(パスカル・フェラン監督、2006)
『Les Temps qui changent』(アンドレ・テシネ監督、2004)
『Somewhere in Between』(ピエール・クリブフ監督、2004)
『Ordo』(ローランス・フェレイラ・バルボサ監督、2004)
『アワーミュージック』(ジャン=リュック・ゴダール監督、2004)
『Clandestino』(ポール・ミュクセル監督、2003)
『Adieu』(アルノー・デ・パリエール監督、2003)
『10ミニッツ・オールダー イデアの森』「時間の闇の中で」(ジャン=リュック・ゴダール監督、2002)
『NOVO/ノボ』(ジャン=ピエール・リモザン監督、2002)
『愛の世紀』(クリストフ・ポロック共同撮影、ジャン=リュック・ゴダール監督、2001)
『Amour d'enfance』(イヴ・コーモン監督、2001)
『Anywhere out of the World』(フレデリック・ボワ監督、2000)
『L'Origine du XXIème siécle』(ジャン=リュック・ゴダール監督、2000)
『Stop』(ルドルフ・マルコーニ監督、1999)
『Marée haute』(キャロリーヌ・シャンプティエ監督、1999)
『Drancy Avenir』(アルノー・デ・パリエール監督、1997)
撮影助手、『シングル・ガール』(撮影キャロリーヌ・シャンプティエ、ブノワ・ジャコー監督、1995)
撮影助手、『ゴダールの決別』(撮影キャロリーヌ・シャンプティエ、ジャン=リュック・ゴダール監督、1993)
『L'Orange amère』 (オリヴィエ・サドック監督、1993)
撮影助手、『魂を救え!』(アルノー・デプレシャン監督、1992)
『L'Annonce faite à Marie』(アラン・キュニー監督、1991)

15 Dec 2006
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