ポケットの中のシネマ・ユートピア──第2回Pocket Films Festival @ Centre Pompidou

石橋今日美

 10月6日〜8日、パリのポンピドゥー・センターで「Pocket Films Festival」が開催された。Forum des images主催のこのイベントは、仏携帯電話会社SFRをスポンサーに、高画質・長時間の動画の録画・再生が可能な「3G(第三世代)」の携帯電話を参加者に無料で貸し出し、作品を募るフェスティバルだ。第2回目を迎えた今年は、1分足らずの超ショートフィルムから数十分の中編、1時間を超える長編まで、約350本のエントリーのうち、15 作品が選出されたコンペティション部門の他、「オン・ライン」「告白」「実験」などのテーマに沿った特集上映、FEMIS等、フランス国内外から招かれた教育機関のプレゼンテーションが行われ、10月7日の「Nuit Blanche」(パリ市をあげて早朝まで徹夜で開催される現代アートのお祭り)には、夕刻から午前1時過ぎまで多くの観客を集めた。

 ケータイによる「ケータイのための」フェスティバル、という表現にはいささか語弊があるだろう。確かにコミュニケーション・ツールで撮影することが原則という意味では、一見「新しい」。だか、編集されたフィルムは、小型の液晶画面ではなく、映画のスクリーンに投影されて鑑賞される。つまり、携帯電話の使用は、大掛かりで骨の折れるクラシカルな映画制作の垣根を取っ払ってはくれるが、最終的な作品は、不動の観客を前にした上映という儀式的な鑑賞形態に収まってしまう。フィルムを見るという行為は、メディアの通信機能や移動性と結びついて変化しない。逆に、あえて古典的な上映形式にこだわることで、YouTube的なデジタル・メディアネットワークによるbroadcastingの世界との差別化をはかり、projection によるシネマの「ノーブルさ」をつなぎとめようとしているのか……。
 とはいえ、こうしたことは、作り手として映画祭に参加しない者のぼやきにすぎないのかもしれない。気軽に映画作家気分を味わうこと、映画作りの「民主化」。応募された作品の大半は、まずそんな喜びを率直に享受・表明する。DVが登場した頃の議論が思い出されるが、上映のセクションを問わず、ひときわ目立った題材は、旅(飛行機の中、異国での撮影)や、プライヴェートなシーン(自室、モスケの女性専用浴場から恋人たちのベッドの中まで)。キャメラの極度の小型化、容易な操作という、撮影の物理的制約の軽減が、ダイレクトに反映された結果だ。極端な話、旅先で撮った映像に、架空の人物の日記風のテクストを挿入すれば、ひとつのフィクションとして成立する。実際、この種の物語はいくつか散見されたが、昨年から引き続き参加したジャン=クロード・タキの『Le Cahier froid』(24 min)は、雪原のロング・ショット、ミステリアスなロシア女性のモチーフをはじめ、巧みな撮影と独自のリズムを確立した編集でグランプリを獲得した。通常のキャメラのように、レンズをのぞきながらフレームを決めることができない、という携帯電話を持った撮影者と対象の距離のとり方の難しさを克服した点が、作品の「映画的な」クオリティーとしてとらえられた好例であった。準グランプリ作品、マルグリット・ランツの『Perle』(4 min 47)は、作り手と観客の対になった、安易な露出狂的/覗き見の興味から優美に身を引き離した瞬間を見せてくれる。固定携帯カメラの前で、本人がフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の衣装をひとつひとつ身にまとい、白いパウダーを肌にのせ、こちら側を見つめる。シンディー・シャーマンではないか、という批判は十分予測される。しかし、シャーマン作品がイメージの不動性によって、「決定的瞬間」の虚構とサスペンスを切り取ってみせるなら、ここではまさに絵画のモデルに変身するまでの時間をそのまま見せることで(バザン的「変化するミイラ」)、彼女のまなざしと仕草は、恥じらいとナルシシズムの危うい均衡を、克明かつ密やかに伝えてくれる。さらに、フェルメールに特徴的な窓から差し込む光に代わって、どこか遠くで行われている工事の音のようなノイズが薄暗い部屋に流れ込み、その場の静謐さと親密さと興味深い対照を奏でていた。

 携帯電話に制作手段を限定した以上、当然といえば当然だが、見る側は超小型カメラの「ホーム・ムーヴィー」ではなく、このツールでしか撮れない何かを期待する。だが、残念ながら、媒体の意義を鮮烈に感じさせる作品を見出すのは難しい。上述のフィルムのように、携帯電話の存在を極力払拭し、本来のキャメラ・ワークを達成すること。もしくは画質が向上したとはいえ、フルスクリーンに拡大されたときに生じるイメージの粒子の粗さ、色彩の揺らめき、焦点の甘さに、「印象派」や「シュールレアリズム」を重ねてみること。それが作者、観客の双方の欲望と感受性が向かっている方向として実感された。ポケットサイズのシネマのユートピア、あるいは最新のテクノロジーによる絵画史のエステティックの再訪。それらを痛快に笑い飛ばして見せたのが、ル・フレノワ国立現代芸術スタジオのディレクターかつアーティスト、小説家アラン・フレッシャーの『Chinese Tracks』(60 min)だ。北京の下町を歩きながら目にする事物は、撮影しながら何が映っているのか確認できない携帯電話の画像よりも、想像上の電話の相手に語って聞かせる内容により正確に一致する、という事実を出発点に、彼はあてどなく散策し、まなざしの先にあるものを語ってみせる。けれども、映像はどう見ても携帯電話で撮られたとは考えられないクオリティーであり、周囲の騒音にもかかわらず明晰に聞き取れる彼の言葉そのものが、アフレコであることを告白している。「携帯電話で撮られたフィルムのフェスティバル」、と銘打ったところに、なんとも不敵な(失礼な?)一撃である本作は同時に、携帯で映画を撮るという「フィクション」の恐ろしくシニカルな映像化、とも言える。



Pocket Films Festival: http://www.festivalpocketfilms.fr/
(昨年度の作品の動画配信。仏語・英語)

Cahiers du cinéma: http://www.cahiersducinema.com/
(ACCUEIL >> rendez-vous >> Avec les Cahiers du cinéma でグランプリ受賞作を含む今年度の作品の一部が見られる)

08 Nov 2006
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