無限に拡散する自己「像」を肯定できるのか?
——D・アロノフスキー『ブラック・スワン』

藤田直哉

 『ブラック・スワン』は、ナタリー・ポートマン演じるニナが、プリマドンナに選ばれ、不安と苦悩を乗り越え、大成功する話である。 ……と要約しても間違いではないといえば間違いがないのだが、それは所謂一般向けの惹句に過ぎない。確かにストーリーラインだけを見ればその通りであるが、それを期待して観に行くと大いに裏切られる。
 ニナの母親は元ダンサーで、夢を娘に託している。ニナは人生のほとんどをバレエに捧げている。ニナ自身は不安の強い神経症的な性格であり、ふたりの関係は典型的な「過剰に密着した母娘関係」である。ニナはほとんど潔癖症か強迫神経症ではないかと思われるほどであり、快楽や娯楽をほとんど忌避し、禁欲によって目標へ接近しなければいけないという精神状態になっている(これはマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じた、資本主義を駆動させる心的態度のようである)。

 とはいえ、この両者の関係はいささか図式的過ぎる。この「母娘」の関係は、密着しすぎた「母娘」関係に関する専門書や新書などを手に取れば、そこで描かれている内容と映画で描かれている母娘関係とにそんなに違いがないことが分かるはずだ。すなわち、非常に類型的なのである。ただし、この責任は監督のアロノフスキーにあるというよりは、脚本家にあると言える。15年以上構想を練ったと言われる『ファウンテン 永遠に続く愛』(2006)以来、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した『レスラー』(2008)も本作も、アロノフスキーは脚本に名前がクレジットされていない。そして彼が脚本にタッチしていない作品は、極度に単純な内容ばかりなのだ。
 有名バレエ団に所属しているニナは、そこで主役の候補に選ばれる。主役である「スワン・クイーン」を演じるためには、純真無垢な「ホワイト・スワン」と同時に邪悪で官能的な「ブラック・スワン」も演じなければいけない。「スワン・クイーン」に一度は選ばれたニナが「ブラック・スワン」の演技力不足を指摘され、役を奪われるのではないかと不安に駆られ、そして「ブラック・スワン」を演じるのに必要な快楽や悪を覚えていく。
 彼女を「ブラック・スワン」を演じることに目覚めさせるのは、ミラ・クニス演じるリリーである。枕営業(?)も厭わず、快楽主義的で、邪悪な印象を与える彼女との交流が、潔癖なニナに性衝動などを芽生えさせ、母娘関係から脱却させ、そして「ホワイト・スワン」と「ブラック・スワン」を両方演じられる強さを与える……。

 だが、リリーは、ほとんどニナの幻想のような存在である。ある場面までは彼女は実在だったと思うが、ニナは自分自身の鏡として幻覚のリリーを見ていたのだ。しかし、このような「分身」の話も非常に類型的である。本作で期待されていたのは、その「分身」や「像」の問題系を扱いながら、どこまで未知の領域を見せてくれるのか、というところであった。そのことを示すのが、タイトルと同時に現れる、フレームの外では無限遠にまで自己の像が連なっているだろうと思わせるニナの像である。合わせ鏡の中で反射する自己の像、そして本番の舞台で、合わせ鏡の中に映っていた像とほぼ同じ構図で並ぶ他のダンサーたち。自己の鏡像と、取替可能な「主役」である自分と他のダンサーとが重なっていることが図像的に示されている。この両者の絡み合いが本作の最も肝となる部分である筈であった。
 一瞬、ニナの精神状態が悪化して、鏡の中の像が自律的に動き出すシーンがある(このシーンがおそらくこの映画で一番スリリングな瞬間で、それ以降は失速するのみである)。虚実の区別を失ったニナは「鏡」を破壊し、その破片を突き刺すことで非実在のリリーを殺害するのだが、それは自分を殺害することでもある。ニナは腹部にガラスが刺さったまま舞台を演じきり「スワン・クイーン」として成功する。歓声の中、「スワン・クイーン」の演技を完成させたニナは「パーフェクト」と呟きながら(おそらく)死を迎える。「鏡像」と重ねあわされた「他のダンサー」との取替可能性の問題が、舞台上でのパーフェクトな死という唯一性の獲得という、あまりにも安易な解決を迎えてしまうのだ。おそらく、これが「取替可能性」を克服するものだと考えられているのは、壮絶な演技を行ったあとに舞台で実際に死を迎えた「伝説」として唯一性を獲得するからだと思われる。

 繰り返すが、本作で問題になっているのは、「鏡」「像」「分裂」「取替可能性」である。まず、ニナ自身が、母親の敗れた夢を実現させるための操り人形に他ならない。バレエ団にとってプリマドンナは簡単に交代させられるものである。ダンサーは顔や服が著しく類似しており、図像的に取替可能であるようにしか見えない上に、歳をとったダンサーがあっさりと捨てられるシーンでそのことは明白に描かれている。他者と自己が重なって理解されると同時に、彼女自身が分裂していく。バレエ団の団長のマスターべーションを行えという指導が、芸術的意図(ブラック・スワンを演じるのに必要な指導)なのか、ただのセクハラなのかその区別もニナにとっては難しい。その心理的負荷が増すにつれて分身であるリリーの出現が増えていく。
 だが、この映画の結末はあまりにも陳腐である。分身の殺害と、それが自分であったという結末に驚きは無い。死によって唯一性や、超越(的なもの)を獲得するという(アロノフスキーお得意の)結末はあまりにも安易、かつ陳腐である。それは彼の作品と比較してもそうだし、同時代のほかの監督と比較してもそうである。

 例えばアロノフスキー監督に強い影響を与えた塚本晋也の場合を見てみよう。鏡に向かい合うシーンは塚本晋也の作品に頻出し、アロノフスキーの『π』(1998)でもオマージュが捧げられていたが、本作はそのテーマの延長線上にあるようにも見える。神経症的な女性が身体的な快楽を目覚めさせるというテーマは塚本監督の『六月の蛇』(2003)を思い起こさせるが、ここで比較したいのは2010年の『鉄男 THE BULLET MAN』である。大量破壊、都市破壊、世界の終わりという形で訪れる「超越」(的なもの)への誘惑を断念するこの作品の強さと比べると、『ブラック・スワン』が如何に自堕落に「死」を利用したかが良く分かる。
 その「死」の扱いは、アロノフスキー自身の『ファウンテン』と比較しても明らかに後退している。アロノフスキー映画は、なんらかの「直線的な構図の向こう」にあるものを求める人間を描くことが多い。仮にその求める対象を「超越(的なもの)」と呼ぶが、それは『π』では数学的にカバラの秘密を知ることであり、『レクイエム・フォー・ドリーム』(2000)では麻薬の陶酔の向こうにあるものだった。『ファウンテン』では、16世紀スペインでの「永遠の生命」の探求や、マヤ神話における死と復活の地への宇宙船(ツリーシップ)での航海、そして新薬の開発を巡る科学的な探求、映画自体の完成などと、その「超越(的なもの)」を目指す行為が「重ね合わせ」られていた。そしてそれは図像的にも様々に表現されていた。中心から外に向けて放射される光、靄、天井の模様、装飾品、照明、などなど……。「旅」をテーマにした本作は、手前から奥へのシンメトリーな構図が多用されるが、一方で主人公は「loosing perspective」、つまり、遠近法を失っていると言われる。実際に目的地に到達した瞬間が映画では描かれるが、時間軸や作中作などと巧みに入れ子にされた構造になっている本作では、その「到達」によって拡散した「黄色い光」が、過去や未来に飛び散っていることが明らかになる。照明や装飾によって、黄色い光や、光の粒は、主人公が「到達」する前から既に世界に満ちていて、主人公が気づいていないだけである。生まれてから、死ぬ。この直線が、遠近法が、映画の構造自体で崩壊させられており、そのことが図像的にも表現されていた(この設計については、メイキングを参照いただきたい)。

 『ブラック・スワン』もまた『ファウンテン』と同じ撮影監督であるマシュー・リバティークが担当しているために、図像的な企みとしては同じレベルを期待してもいいはずである。実際、『ファウンテン』でのフィックスの多用とは違い、手持ちカメラでアシンメトリーな構図を連発する本作は、ニナの心理の不安や恐怖、そして「白」と「黒」の鬩ぎ合いを図像的に現しており、一定の緊迫感はある。図像の持つメタファー的な効果を計算し、主題の図像化を行おうとする意図は明白であるが、「図像」の増殖を食い止め、「唯一」である自分を獲得しようとする意図を物語が見せ始めてからこの「図像」の効果も混乱する。「白」と「黒」の不安に満ちた葛藤は、ラストの真っ白な光に包まれ、「白」の「パーフェクト」に飲み込まれてしまうのだ。『ファウンテン』では、映画の進行と共に暗い色調から光を増加させるという設計がテーマと共鳴して効果をもたらしていたが、これはどうだろうか。「黒」との葛藤の末にそれを受け入れたようには見えない。むしろ、その葛藤が全く無意味で、ニナは最初と何も変わっていない、という印象を受ける。
 そもそもの失敗は、無限に増殖している「像」の暴走を「止めなくてはいけない」と、ニナが、あるいは脚本家・監督が思ったことにある。その「像」の増殖を止めるという行為が映画それ自体に抵抗してしまっている。映画とはそもそも複製される自己の「像」が無限に増殖していく可能性を止めることができないどころか、むしろそれこそが映画を映画たらしめる本質であり、快楽の源泉である。それを映画内で食い止めようとすることは、映画の無意識に抵抗する強い摩擦となってしまう。

 我々が見るニナはナタリー・ポートマンの生身の肉体でも唯一の存在でもなく、複製された像である。複製された像であるニナが複製を拒んだところで、それは奇妙な逆説を生むだけである。「複製」の自走に脅えるニナ自身が、「複製」である映画の中で「複製」であることを拒もうとする「自走」を行っているように見えるのだ。そして、それは「映画」という装置の中では抵抗にならざるを得ない。映画の与える快楽の条件そのものに抗おうとしている彼女の「パーフェクト」からは、結局それもまた複製のフェイクに過ぎないという印象を最終的に我々は受ける。作中現実では唯一の「舞台」であるが、我々が見るのはあくまでも「映画」である。この齟齬が、結末やその前後に対して白々しい思いを我々が感じざるを得ない大きな理由のひとつなのではないかと思う。(もちろん、そのような映画というメディアの条件に意図的に挑戦した作品であると好意的に見ることも出来るが、そうだとしても成功しているとは言い難い。まず、「舞台」という、一回性による「いま・ここ」のメディアを映画で描く時点で間違いなくその倒錯は始まっているのだから)
 この映画の可能性は、むしろ「像」を暴走させることにあったのではないか。自己の「像」の暴走を許さず制御しようとするニナは、自分の分身である娘をコントロールして意志を認めない母親の姿に重なると同時に、「映画」を統括する製作者とも重なる。母親の夢の代理人として育てられた娘が、母親と同じことを反復してしまうトラウマから脱出できないという悲劇性を受け取るにせよ、そこには「支配」の欲望が見え隠れする。この「支配」から「死」以外の形で脱出するには、まず自己の「像」を支配から解放することが必要であった。そのことによって、母親の「像」である自己の解放を行うという可能性があった。

 もし本作が「像」の暴走や自走を肯定していたならば、まだ私たちが誰も見たことが無い新しい「映画的自己」を見られたかもしれないという思いを、本作の鑑賞後に悔しさとして感じずにはいられなかった。「死は病気であり、治すことができる」と呟き、「死」の治療薬を開発するために真っ白な雪原の中で仲間から離れていく黒い点であった『ファウンテン』の主人公を思うと、本作での「死」の扱いは、あまりに安易な悲劇を崇高であるかのように美化しており、圧倒的に後退していると思わざるを得なかった。「loosing perspective」、すなわち「遠近法を失った」主人公が生まれてから死ぬという単線的な時間意識から解き放たれたということを巧みな図像と編集によって示し、「無時間」の世界の一端に時間芸術である映画で触れさせるというところまで到達できたアロノフスキー監督のこの後退には、失望を禁じえない。
 本作を好意的に見て、そのような「死が終わりではない」という認識が底にあるのだと考え、ニナの死は悲しむべきことではないと考えても、それはそれで今度は「死」による「崇高さ」が失われる。確かに、ニナの死は複製の死なので、映画のフィルムを戻せば彼女はいつだって生きているし、何度でも生きている。「死」はない、とすら言える。しかし、そう考えることに違和感を覚えてしまうのは、そう考えてしまうことは、結局芸術の名において娘や団員を狂気に追い込み、死においやることを肯定してしまうことに繋がりかねないからである。

 『ファウンテン』が「死」という目的論を破壊しても大丈夫だったのは「喪」の内観を表現するかのような映画だったからである。基本構造として、愛するものを失った男の心象風景のような「喪」の中で「無時間」や「死が終わりではない」と発見されるからこそ説得力を持っており、そしてそれが映画という何度でも繰り返し再生可能な装置と一致していたことが重要な点なのだ。
 複製可能で死の存在しない像である彼女の死に何故か崇高な悲劇性を感じてしまうという、「フィルムと、フィルム内現実のギャップが生み出すアイロニカルな味わい」こそが本作の醍醐味と言おうとすれば言えるだろう。「像」に死を与えるという不可能性への挑戦をニナと製作者が行ったものと考えることもできる。だが、実際の人間の「死」すら「像」になってしまう「映画」というメディアでそのようなことを行おうという試みの中で、本作が傑出して優れているとは言えないだろう。むしろ、無限に拡散する「像」としての自己を肯定する新しい自己像の構築こそが本作の向かうべき方向であったのではないだろうか。本作にはその可能性の煌きが、一瞬、間違いなく宿っていた。

『ブラック・スワン』 BLACK SWAN

監督:ダーレン・アロノフスキー
原案:アンドレス・ハインツ
撮影:マシュー・レバティーク
プロダクション・デザイン:テレーズ・デプレス
音楽:クリント・マンセル
出演:ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、バーバラ・ハーシー、ウィノナ・ライダー

2010年/アメリカ/108分

大ヒット公開中
配給:20世紀フォックス映画

19 May 2011
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