『鉄男 THE BULLET MAN』におけるアナログ特撮とCG

film ]  塚本晋也
藤田直哉

 産業の世界に機械が現れてから、生物(オーガニズム)に対する機械(メカニズム)の脅威というものは、労働と関連し、疎外論的な形で何度も語られてきた。ハリウッド映画で何度も語られる「人間vs機械」というテーマは、近代の始まりにまで由来する一つのクリシェのような恐怖と疎外感を反映している。『ターミネーター』(1984-)シリーズのように、スカイネットと機械が人間を支配するビジョンや、『マトリックス』(1999-2003)シリーズで描かれたような機械と人間の関係がそのようなハリウッド映画的なクリシェの一つの典型であろう。

 『マトリックス』三部作で辿り着いた結論が「機械と人間の共存」だとすれば、塚本晋也監督の『鉄男』は、1989年において既にその認識に達していた。巽孝之の指摘に拠れば、このテクノロジーと一体化することのメタファーである「鉄と一体化する」という物語には、小松左京『日本アパッチ族』(1964)のミームが関わっている(「『鉄男』『鉄男Ⅱ/BODY HAMMER』にみる現代鉄男族――日本アパッチ族の末裔」)。塚本監督本人は直接の影響を否定しているが、日本のサブカルチャーの水脈に息づいているミームの影響は疑うことが出来ない。

 廃墟のような場所に見捨てられ、汚物の混ざった水を飲み、餓死寸前で鉄を食べることによって鉄人間=アパッチ族と化す『日本アパッチ族』の物語は、敗戦後の日本のメタファーとして読めるものである。テクノロジーによる敗戦と廃墟の凄まじさの中から、日本がテクノロジーを導入して重工業を中心とした工業国家となっていくというルサンチマンのものすごさを、意識的、無意識的に確かにこの作品は象徴してしまっている。そして、アレハンドロ・ホドロフスキー監督に絶賛されて1989年のローマ国際ファンタスティック映画祭でグランプリを、実質的な商業デビュー作『鉄男』で受賞した塚本晋也監督もその系譜に繋がる。

 そもそもが、映画において機械を悪者にするということには一つの矛盾がある。映画そのものがテクノロジーと密接に結びついた娯楽であり、撮影機も映写機も古典的な意味で「機械」である。襲ってくるターミネーターなどの「機械」っぷりには、恐怖だけではなく、映画という装置そのものの快楽も含まれているのではないだろうか。それらの「機械」の表象は、撮影装置と映写装置の快楽をスクリーン上に現そうとしたものなのではないだろうか。観客が気づかず、不可視にしがちなその二つの装置の快楽/恐怖を、スクリーン上に表現しているのだ。それは映画というイリュージョンの夢の中に、その基盤となる無機質なものを突きつけるからこそ「恐怖」と接続しやすい部分があるのではないか。

 塚本監督の描く「鉄男」というサイボーグのテーマは、彼の映画制作の態度とも通じている。商業的体制での製作を何度か経験しながらも違和感を持ち、16mmのスクーピックなどのカメラを常に振り回し続けているその姿には、「カメラ」という装置への偏愛にも似た意識が感じられる。さらに、彼は常に手ブレを効果的に用いる。海外の作家にどういう装置で撮ったのかと訊かれて「気合で」と答えたエピソードなどは象徴的だが、塚本は撮影の際に「カメラ=身体」という装置と化しており、それによって身体を装置化すると同時にカメラを身体化している。特にフィルムの手持ちカメラへの偏愛が彼にはある。それは、歯車が回ったりする、古典的な意味での「機械」への偏愛である。  2010年に公開された『鉄男 THE BULLET MAN』(以下『鉄男TBM』)において注目するべきなのは、この時代におけるSF映画であるのに、作中ではほとんどCGが使われていないということである。その問題に入る前に、『鉄男TBM』の物語を簡単に要約する必要があるだろう。

 最愛の息子を殺された主人公アンソニーは、怒りで突然体が「鋼鉄の銃器」と化していき、自分の身体が、生物と機械の両方によって作られた存在であると知る。怒りによって、東京を丸ごと破壊してしまえる兵器と化していくアンソニーを、世界の滅亡を望んでいる塚本演じる「ヤツ」が挑発していく。息子を殺され、妻を誘拐され、自らが兵器であることを知ったアンソニーは、世界を破壊するのか、それともそうしないのか…… 結論から言うと、アンソニーは破壊をしない。一瞬、都市破壊のシーンが現れるが、それは夢想であるということがわかる。そして、ここに唯一CGが現れているのだ。

 このCGの数秒を問題にしてみたい。このシーンは、CGで作られた映像を映写し、それをさらに撮影していると監督は述べている。CGの「質感」に対して異様なこだわりや違和感が存在しているようである。そして、このシーン以外にCGはほとんど登場しない。全編は、本人が「根性特撮」と呼ぶアナログな特撮である。塚本監督は決してCGを使用しない作家ではない。その証拠に、前二作『悪夢探偵』(2007)『悪夢探偵2』(2008)ではCGが多用されていた。その撮影の詳細を知ると途方に暮れるようなこの「アナログ」への偏愛はいかなることだろうか。

 CGを使わない本作と対比するために、CGを使った『悪夢探偵』『悪夢探偵2』の内容を確認しておきたい。ベネチア国際映画祭で、「夢」をテーマに撮られた北野武の『TAKESHIS‘』(2005)を塚本が激賞したことと、「夢」をテーマにした多重構造の『悪夢探偵』の製作には、なんらかの関係が存在している。『TAKESHIS‘』から続く三部作の『監督・ばんざい!』(2007)において、ニコニコ動画を意識したシーンや、チープなCGの表現を多用していることも重要である。インターネットの世界は「夢の論理」(無意識)との類似で語られるが、データの論理でもあるその世界を、「夢とCG」で表現しようとしている部分が、『監督・ばんざい!』や『悪夢探偵』には濃厚である。特に、『悪夢探偵』は、携帯電話による通信の中に「ゼロ」という死をもたらす怪物が発生する物語でもあるうえに、CGで携帯電話が溶けるシーンがある。以上を踏まえると、本作におけるCGのなさには大きな意図が込められていると考えるべきであろう。ではその意図とは一体何なのであろうか。

 作中に現れるのは、もはや古典と化した機械である。家電ショップに行けば誰でもわかるように、今ではこんなおどろおどろしい機械を目にすることは日常生活レベルでは殆どない。ソフィスティケートされ、ブラックボックス化され、つるっとした滑らかな電化製品に我々の「生活」は覆われている。そこでは情報環境的なリアリティが濃厚である。

 80年代、ポストモダンの記号操作的なリアリティの中で、それら全てをぶちこわす「破局」の物語が現れた。『鉄男』『鉄男Ⅱ/BODY HAMMER』(1993 以下『鉄男Ⅱ』)はそのような時代風潮の中に現れていた。「もう怖がることはない。美しいと感じた気持ちのままに、ムチャクチャにやってくれ、いちばんでかいものを壊してくれ」として、都市の破壊に向かって突っ走る衝動が『鉄男』『鉄男Ⅱ』にはあった。しかし、『鉄男』の三作目である本作では認識が大きく変更されている。

「現在は仮想現実と思ってボーンと壊してしまうと、それこそすべてを壊滅させてしまってもう元には戻らないという怖さがある」「今の世の中は、たったひとりの無意識の暴力が、世界を崩壊させる力を持っていると感じます」(『塚本晋也読本 SUPER REMIX VERSION』)と述べられている。そしてその発言どおり、本作では『鉄男』『鉄男Ⅱ』に対する反省のような結末が描かれる。「すべてをぶっ壊す」という衝動のみで突っ走った全ニ作のように、「すべてを破壊」し、東京という人工空間で生の感覚を忘れて生きているバーチャル・リアルな人々に生を突きつけてやれという挑発に、応じるか否かが本作の肝となっていた。以前の塚本であったら、その「破壊」の解放感で「生」が回復すると思っていたかもしれない。しかし本作では、既にその認識では足りないことが自覚されている。さらに、「無意識」が情報環境やCGと結びついて描かれていたことを思い出すならば、明瞭に「無意識=夢=CG」を排除しようとした意図が見えてくるのではないか。

 浅田彰は2006年の「「現在」を考える――こどもたちに語るモダン/ポストモダン」という対談で、ポストモダン的な、バラバラに遊戯的・解離的になってしまう主体について否定的な意見を述べている。塚本の『鉄男』『鉄男Ⅱ』にあったのも、ディシプリンから解放されるインディシプリンな喜びだろう。「美」によって「破壊」するという幼児的な自由がそこでは希求されているからだ。しかしその結果、インディシプリンになった主体は、「剥き出しの生」として、電子情報網に管理される「出口なし」になってしまい、その反動としてアポカリプティックな議論に陥ると浅田は言う。この「アポカリプティック」は、『鉄男』や『AKIRA』(1982-1990)などにあった破局衝動と同じものであり、その原因が80年代には遊戯的な記号であったものが、現代では電子ネットワークに変化している。浅田は言う。「情報システムとポジティヴな結合を果たしたとき、新たな力能をもったサイボーグが生まれることさえ考えられる」と。それには、晩年のフーコーが考えたような、ディシプリン(他律)でもインディシプリンでもない、セルフ・ファッションとしての自律であり、「自分自身を美しい芸術作品のように磨きあげていく」自律が可能性として考えられると言う。

 本作品で、アポカリプティックな世界の破壊の力を持ちながらそれを抑制し、家族のために生きるアンソニーのラストシーンにおける「凄み」の演出はその意味で理解しなければいけないだろう。アンソニーは破壊の衝動を抑え込み、「生」を感じさせない無機質な労働へと赴き、家族を支えるサラリーマンと化した。しかしそのサラリーマンは、『鉄男』の田口トモロヲが演じていたような、弱弱しいサラリーマンとは違う。アンソニーは会社に向かう途中に若者の集団に絡まれるが、エリックの佇まいや表情からは、怒りや攻撃の予兆がなくても、若者の集団が威圧され、圧倒されるような、そんな凄みが存在している。これは先ほど述べたような、後期フーコーの考えた「自律」の映像化のようである(役者のエリックはその演技を「悟り」と理解していたと述べているが、そのような日本的なものとの結びつきも興味深い)。『鉄男』『鉄男Ⅱ』で語った衝動の帰結として生じた情報網による管理と、それによってもうひとつの破局衝動が生じるとしたら、それに対応するために、この三作目の結末は存在している。

 本作においてCGの出現が、東京が破壊されると言う「幻想」のシーンに限られている理由もここで明らかになるのではないか。CGは情報を操作する技術である。そして、それは本作が否定しようとしている情報による管理の問題と繋がってしまう。剥き出しの肉体と、それが都市と一体化し、大勢の人間と接続されるビジョンが『鉄男Ⅱ』のラストで描かれたが、そのような事態の具現化したような現在の情報環境に対して、塚本は敢えてアナログで勝負している。天井に張り付くシーンを撮るためにセットを逆さまに作ったり、車を破壊していくシーンを撮るために、一度撮ったら解体屋にレッカー車で運んで少し潰して、持って帰ってきて、再度撮影して、レッカー車で持って行き……という、気の遠くなるアナログ特撮を、効率の悪さも無視して敢えて行った意味もその辺りにある。本作には都市疾走などのいくつもの印象的な画面効果のあるシーンがあるが、あれも監督がカメラを持って街を走って、原始的なコマ撮りをしただけのようである(カメラはデジタルを導入しているが)。

 素早い速度のカットと、手ブレは塚本監督の特徴であるが、「身体」をテーマにした『ヴィタール』(2004)では、35mmフィルムカメラの影響か、それは抑制されていた。本作は細かく切り刻み、バラバラである映像と手ブレが「身体」と「テクノロジー」というテーマと、映画撮影という仕組みと見事に一致している。2000年代に入ってから、塚本は撮影機材や手法を様々に実験し続けていた。その実験の成果として、「身体とテクノロジー」の融合した主体を描くこの『鉄男TBM』という作品において、カメラ=身体となって融合して得られた映像素材という点でも手法と主題が噛み合っている。さらに、素材を切り刻み繋ぎ合わせる編集という人工的な操作によって作品=鉄男を生み出そうとするフランケンシュタイン的行為もまた、サイボーグという自然=人工の存在を作り出そうとする作中の欲望と呼応しているだろう。

 『鉄男』『鉄男Ⅱ』においてもコマ撮りなどは多用されていたが、それは人々の身体が融合する際の神秘的なビジョンとして現れることが多かった。今回のコマ撮りの都市描写はただひたすら鋭角の都市とカッティングによって、ただ「切断」することのみを志向しているようである。それは先ほどの「自律」として、破壊衝動や破局を自らの内に矯めこむ、ディシプリンでもインディシプリンでもない主体というテーマと関係しているだろう。それはロマン主義=生気論的な他者との融合を志向しない、切断を要求するものである。

 とはいえ、この映画のあまりにも視覚的に刺激的で、ほとんど生理的・神経的・身体的レベルにまで影響する映像と、音圧と音量を極端に上げるように監督から劇場に指示されたという石川忠の音楽とが、切りつけるように観客の身体内部に入り込んで、映画=観客のサイボーグのような状態にさせられることも確かなのである。それはかつて『鉄男』で現していた、破壊と同一化を同時に求めるような衝動を全身で味わっているかのようである。ここには、『鉄男』をポルノ映画として構想したという塚本の発言から鑑みて、破壊=同一化という、括弧付きの意味で「男性的」と呼ばれるような性的欲望が関わっているだろう。

 だがそんな、映画=観客という幸福な没入のサイボーグ状態もまた、スタッフロール終了後の闇と、客電が灯る瞬間によって切断されざるを得ない。『鉄男』『鉄男Ⅱ』が、映画と言う機械仕掛けの夢の中に一体化したいという、映画への夢の物語であったとしたら、『鉄男TBM』は、家に帰らなければいけないということを学ぶ物語である。そして、本論では触れなかったが、最近の塚本の重要なテーマである「家族」が家には待っている。『鉄男』のラストシーンのように、奥へ奥へ、スクリーンの奥へ、没入の奥の奥へと進みたい欲望は、絶対に断念せざるをえない。映画という装置と一体化し、そのことで都市や世界と一体化するという夢を諦めて家に帰らなければいけないという、映画の観客が何度も味わう断念が、本作では映画そのもので描かれている。我々はサイボーグのユートピアには辿り着けず、一人で劇場を後にして帰らなければいけないのだ。

鉄男 THE BULLET MAN

監督・脚本・撮影監督:塚本晋也
脚本:黒木久勝
撮影:志田貴之、林啓史
音楽:石川正
出演:エリック・ボシック、桃生亜希子、中村優子、ステファン・サラザン、塚本晋也

2009年/日本/71分

5月22日(土) シネマライズ他全国ロードショー 配給:アスミック・エース
公式サイトURL:http://tetsuo-project.jp/

05 Jul 2010
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