映画を信じるために
──第63回カンヌ映画祭報告

瀬尾尚史

 今年の閉幕セレモニーの冒頭、司会のクリスティン・スコット・トーマスは、「カンヌ映画祭は映画を護る要塞である」というスティーヴン・スピルバーグの言葉を引用した。映像をめぐる技術革新や、情報ネットワーク環境の変化が映画の在り方を大きく変容させつつあることは言うまでも無く、カンヌ映画祭もまた、そうした現状とは当然無関係ではいられない。今日、如何に映画を信じ、そして護ることが出来るのか、「教団としての映画祭」に集った者たちは、その事を何度も問いかけられることになる。

 映画公開をめぐるの二つの出来事が、そうした現状を端的に表していた。先ず、コンペティション部門に有力とされていたオリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』が、テレビ放映用に撮影されたことを理由に、コンペ外の特別上映に回される。実在のテロリストの5時間半を超える伝記映画は、公式上映の夜にその第一部が有料チャンネルのカナル・プリュスで放映された。7月には2時間半の短縮版が劇場公開されるが、映画製作がテレビ局の支援無しには成り立たないという現状も含め、様々な議論を呼んでいた。  また、今年の目玉の一つとされたジャン=リュック・ゴダールの最新作『Film Socialisme』は、公式上映と同時にビデオ・オン・デマンドの形でインターネット配信された。作品の中身よりも、ゴダールがカンヌに来るのか来ないのかということばかりにメディアの注目が集まったのも、ゴダールならではの出来事であったが(結局は「ギリシャ的問題によりカンヌ行きは不可能」との不可解な直筆メッセージがゴダール自身により事務局に送付された)、1968年にトリュフォーらと共に、映画祭の解体を求めたゴダールが、今年はワールド・プレミアという映画祭の特権性を無効化してしまったと言えるだろう。
 35ミリのシネマスコープで撮られた『カルロス』も、あまりにもゴダール的な音と言葉と映像の交響詩である『Film Socialisme』も、如何なる形で公開されるにせよ、作り手の側の映画作家としての姿勢に何ら変化は無いのだろう。ただ、映画は映画館で観るべきという「劇場至上主義」の崩壊を改めて印象付けられたことは確かだ。

 映画祭が、映画の潮流や多様性を発見する場であるとすれば、今年のカンヌもまた、その役割を十全に果たしていた。そして、その役割の多くは監督週間と批評家週間という二つの平行部門が担った。公式部門には、ルーマニア、ハンガリー、ロシアといった東欧映画の秀作が並んでいたのに対して、今年の平行部門で目立ったのは、東南アジアと南米の更なる躍進であった。
 ラテンアメリカ映画が世界中の映画祭を席巻するようになって久しいが、今年は改めてその勢いを感じた。処女長編『ある日、突然。』が日本公開されたアルゼンチンのディエゴ・レルマンは、『The Invisible Eye』(監督週間)で、規律厳しい学校を舞台に、女性の孤独と抑圧された性を描き出す。軍事独裁末期の閉塞した社会という外部と通低させつつ、学校という閉鎖空間に、緊張感の漲るドラマを巧みに作り上げていた。
 同じく監督週間で上映された二本のメキシコ映画は、この国の映画環境の豊かさを示していた。父親を失って途方にくれる食人家族を描いたJorge Michel Grauの『Somos lo que hay』と、孤独な女性のエスカレートする性欲を描いたMichael Roweの『Año bisiesto』(新人賞のカメラ・ドールを受賞)は、共に題材はジャンル映画に他ならず、その展開には唖然とさせられるのだが、丁寧な人物描写と、才気の感じられる画面作りによって観客を引き込んでいく力は注目に値する。
 カルロス・レイガダスが新星のように現れて以降、メキシコ映画は豊かな才能を持った監督を次々と輩出しているが、それを概観できるのが、批評家週間で特別上映されたオムニバス『Revolucion』で、ここではレイガダスを始め、フェルナンド・エインビッケ(『ダック・シーズン』『レイク・タホ』)、アマト・エスカランテ(『サングレ』)といった若手監督に、ガエル・ガルシア・ベルナル、ディエゴ・ルナという二人の人気俳優を含めた十人が、メキシコ革命を題材に、それぞれが個性豊かな短編を監督していた。
 一方、東南アジアで注目されたのが、ウー・ミンジンの『Tiger Factory』(監督週間)だろう。日本に行って働くことを夢見る19歳の少女を主人公に、過剰な説明を加えようとせず、状況を積み重ねることで物語を紡ぎ出していくスタイルは、この監督の豊かな将来性を感じさせた。その他にも、批評家週間にはベトナムからPhan Dang Diの『Bi, dung so!』、シンガポールからはブー・ジュンフェンの『Sandcastle』(エリック・クーがプロデューサーに名を連ねる)が出品され、二作ともストレートな作りながら、好感を持って迎えられた。
 そうした東南アジア映画の勢いを最も端的に表していたのが、アピチャッポン・ウィーラセタクンの『Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives』が最高賞のパルム・ドール受賞したことだろう。

 常連監督達が名を連ねた去年に比べると、地味な印象の否めなかった今年のコンペティション部門は、実際、過去の作品に比べると明らかにインパクトに欠けたケン・ローチとイ・チャンドン、作り手のあざとさばかりが目に付いたアッバス・キアロスタミのように、巨匠級の監督達の低迷が感じられた。一方で、暴力描写が海外メディアの酷評をもたらしたものの、男たちの「顔の映画」として高い完成度を示した北野武の『アウトレイジ』や、一見すると優しさと穏やかさに満ちているが、人間の孤独を残酷なまでに描き出した騙し絵のようなマイク・リーの『Another Year』のように、著名監督の秀作も並んでいた。
 しかし、今年のコンペ部門の収穫は40歳前後の監督たちが、映画史を想起させつつ、映画の未来をも感じさせるような作品を作り出していたことだろう。先ず、今日のフランス映画を代表する俳優であると同時に、監督としても質の高い作品を作り続けているマチュー・アマルリック。彼自身が興行師を演じた『Tournée』は、ジョン・カサヴェテスやジャン・ルノワールを想起させつつ、人物の感情の機微を丁寧に掬い取り奥深い後味を残す、ユーモアと優しさと愛に溢れた佳作で、見事監督賞を受賞した。
 グザヴィエ・ボーヴォワの『『Des Hommes et des Dieux』は、1996年にアルジェリアでフランス人修道士7人が誘拐された実在の事件を映画化した作品。ブレッソン、ロッセリーニの「聖なる映画」の系譜に連なるような、崇高さと力強さに満ちた傑作で、グランプリを受賞。  そして、最高賞パルム・ドールを受賞したのが、アピチャッポン・ウィーラセタクンの『Uncle Boonmee』。死を目前にしたブンミおじさんのもとへ、死んだ妻の幽霊と、失踪した息子が類人猿となって現れるという、荒唐無稽とも言える物語ながら、彼の卓越した映像作りによって、審美的かつ深い味わいを残す作品に仕上がっている。独自の神秘的な世界観を画面全体に漲らせる様は見事で、こうした作品をリュミエール大劇場の大スクリーンで味わうことができることこそが、カンヌ映画祭の醍醐味なのだろう。

 スクリーンに映し出された映像に驚愕することこそ、リュミエール兄弟以来の映画原初の力だろう。それを感じさせた二本の作品こそが、今年のカンヌ映画祭最大の収穫であった。
 その一つが、Michelangelo Frammartinoの『Le Quattro volte』(監督週間)である。イタリアの山村を舞台に、老いた羊飼いの死、新しい生命、モミの木の四季、炭焼き、という四つのエピソードが、互いに緩やかな繋がりを保ちつつ、自然の輪廻転生を鮮やかに描き出す。ドキュメンタリーかフィクションか、といった分類を完全に無効化してしまう程に、このフィルムには映画が生まれながらに持ちえた生々しさが息づいている。まさにリュミエール的な映画の驚きが満ちているのだ。
 例えばフィルムの中盤、牧羊犬が驚くべき出来事を次々と引き起こしていくワン・ショットには、映画のキャメラだけが作り出すことの出来る奇跡がしっかりと捉えられている。たとえそれが入念に準備されたものにせよ、映画が生み出す奇跡を記録し、観客をそれに立ち合わせてくれる監督こそが、特権的な才能を持った映画作家なのだろう。

 そして、「ある視点」部門のオープニング作品として上映された、マノエル・デ・オリヴェイラの『The Strange Case of Angelica』は、一本のフィルムの中に、映画のあらゆる歴史と可能性とが凝縮された、恐るべき傑作であった。
 若き写真家である主人公は、ある大地主から、死んだばかりの娘の姿を写真に撮るように依頼される。そのことで、彼は写真の中で死者が甦る姿を目撃し、死に取り付かれてしまう。
 写真映像の本質を、人間が死に抵抗しようとする意思「ミイラ・コンプレックス」に基づいて巧みに分析したのはアンドレ・バザンであるが、半世紀前のカンヌ映画祭で出会った映画批評家の主張に抗うように、オリヴェイラが描くのは映像によって死に至る病に冒された男の姿である。
 公式上映に際して行われたインタヴューで、「映画は変わったと思うか」と訊かれたオリヴェイラは、「映画は変わらない、変わるのはテクニックだけだ」と答えていた。映画とは過ぎ去る時間を記録すると共に、死者を甦らせる力を持つ。軽やかにそうした映画の恐ろしさを表象し、ジョルジュ・メリエス的な幻想映画にまで回帰してしまうオリヴェイラは映画史そのものと言って良いだろう。

 今年のカンヌ映画祭は、映画の原初的な力と、新たな可能性を同時に感じることの出来るという意味で、例年以上の充実ぶりであった。映画の最先端に触れ、映画を信じ続ける為の根拠を与えてくれるという意味でも、カンヌ映画祭は世界最大の映画祭と言えるのだろう。

02 Jul 2010

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