ウェブの見る夢=映画──
ジェームズ・キャメロン『アバター』

渡邉大輔

 ジェームズ・キャメロンの実に12年ぶりの監督作『アバター』は、最先端の3D(立体)映像技術による圧倒的な視覚体験を堪能できる超大作として、昨年末の公開後、世界的な大ヒットを続けている。その勢いは凄まじく、つい先日は、自らの前作『タイタニック』(1997)が保持していた映画史上最高の興行収入記録をあっさりと塗り替えてしまった。先日開催された第82回アカデミー賞でも作品賞以下9部門にノミネートされ、撮影・美術・視覚効果賞の3部門で受賞した。本作は西暦2154年の未来に、地球から約5光年離れた衛星パンドラを舞台に繰り広げられる、人類とパンドラの先住民族ナヴィ族との攻防を描いたキャメロンらしいスペクタクルSFである。
 素朴な感想から入ると、すでに各所で指摘されているようだが、私が劇場で本作の映像を観た時に真っ先に連想したのは、実は宮崎駿の諸作品だった。例えば、太古の原生林が残る秘境に暮らす野性的な美しさを持った少女と、その自然を破壊する側の近代的人間(人類)の青年が出会い、最初は反発しながらも恋や深い連帯で結ばれていくという基本的な物語は、明瞭に『もののけ姫』(1997)のサンとアシタカの邂逅を思わせるし(主人公の青年が身体に宿命的な傷を負っているという設定も似通っている)、他方で具体的なイメージに即しても、クライマックス近く、パンドラのひとの手の入っていない緑の大地に、突如山影を縫うようにして、人類の乗った怪しく黒光りする鋼鉄の巨大空母が姿を現すシークエンスなどは、小さなナヴィの人々と巨大な空母との強烈な対比を示す画面の構図、またメカのデザインの細部にいたるまで『風の谷のナウシカ』(1984)における、風の谷に大国トルメキアの航空母艦が侵入してくる冒頭のシークエンスと実によく似ている。本作に数多く登場する奇妙な姿のクリーチャーたちも『ナウシカ』の腐海に出てくる巨大な昆虫たちそっくりだ[*1]。
 そういえば、処女作『殺人魚フライングキラー』(1981)以来、その作品に濃密な「水」のイメージをまとわせてきたことで知られるキャメロンにしては珍しく(?)、強烈な「風」(大気の流れ)を伴った空中飛行のシークエンスが全編を占めている点も、そうした連想をことさら働かせたのかもしれない。キャメロンが押井守から決定的な影響を受けているのは周知の事実だから、ジャパニメーションの代表的な作家としてどこかでインスパイアされた部分があるのではないか……と思っていたら、どうやらキャメロンは宮崎アニメのファンらしく、さらに『アバター』には『もののけ姫』にオマージュを捧げた箇所もあるとのこと [*2]。
 ところで、この作品については、すでにアメリカ国内において宗教右派や保守派の知識人などから「反米・反軍」映画という批判が噴出し、一部で監督を巻き込んだ論争に発展しているらしい [*3]。確かに、瀕死の状態となった地球の燃料危機の解決に繋がるパンドラの稀少鉱物「アンオブタニウム」を採掘・研究する「アバター・プロジェクト」のために、パンドラの美しい自然とナヴィの生活を圧倒的な軍事力によって脅かしていく、本作の合衆国海兵隊員などの軍服姿の人類の姿や言動は、実際に長期化と混迷を深める合衆国政府の軍事行動に対するある種の「政治的」な含意を帯びているといえなくもない。
 例えば、映画の冒頭部分で、パンドラ侵攻の軍事的指揮を執る大佐役のスティーヴン・ラングが「手段は選ばん。結果を出すんだ」と高らかに宣言したり、その後、彼らの空襲や機銃掃射によって破壊された「ホームツリー」と呼ばれる高層ビルのようなパンドラの巨大な大樹が轟音や煙とともに倒壊する様子(明瞭にWTC倒壊のニュース映像を髣髴とさせる)などは、「9・11」から始まるアメリカの一連の悲劇と軍事行動の軌跡をどうしても想起させてしまう。それゆえに、そうした具体的細部を、現代ハリウッド映画にいまなお現れるいわゆる「ポスト9・11」的な表象として指摘することも可能だろう。スティーヴン・スピルバーグ『宇宙戦争』(2005)、マイケル・ベイ『トランスフォーマー』(2007)、マット・リーヴス『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008)……などなど、「9・11」を思わせる兆候的要素を伴ったSF大作がここ数年目立ってハリウッドで製作されてきたことを思えば、保守層の『アバター』批判にも一定の説得力はある。

1.分身の増殖

 しかし、ここではそうした社会情勢とリンクさせた読みとは別のアプローチをしてみたい。例えば、この作品は『アバター』──現代の大規模なネットコミュニティでユーザのウェブ上でのアイデンティティを肩代わりするバーチャルなキャラクターを意味し、それ以前に、ヒンドゥー教の教義で「化身」を表す「アヴァターラ」に由来する──という題名や設定に象徴されるように、いわば「分身」の主題に憑かれたフィルムだということができる。

 それはむろん、後述するように主人公たち人類がパンドラを探索するさいに科学技術によって生成した、彼らのもう一つの身体=「アバター」を操作するという物語の中心的な設定に最も示されているものだ。しかし、そのほかにも例えば、サム・ワーシントン演じる主人公の両脚を負傷した元海兵隊員ジェイク・サリーには、トムという双子の兄がいたという設定も見逃せない。トムは優秀な科学者であり、パンドラの生態研究に長らく従事してきたが、物語に描かれているパンドラ派遣の一週間前に事故で急死してしまった。したがって、今回の主人公のパンドラ行きは、そもそもDNAデータが限りなく一致する不肖の弟を優秀な兄の存在のとりあえずの「身代わり」として送り出す措置だったのであり、その意味でこの作品は、「アバター」というSF的設定による「分身」の物語である以上に、「兄」という存在のシミュラークル(模造)と化した弟が活躍する、もう一つの「分身」の物語としても読むことができるわけだ。実際に、パンドラに向かう宇宙船の、アバターを作り出すバイオ・ラボの中で先輩研究員のジョエル・デイヴィッド・ムーアに彼専用のアバターを初めて見せられた車椅子のワーシントンは「トムに似ている」と呟くのだが、すぐさま彼の横のムーアから「君に似てるんだよ」と言葉を返される。
 こうした「分身」の主題は、その後の主人公の物語にも一貫して付き纏っていく。兄の「分身」としてパンドラやナヴィ族の生態を調査する任務を負ったワーシントンは、シガーニー・ウィーヴァー演じる女性科学者グレース・オーガスティンのもとに配属される。しかし、元軍人であり科学者共同体に馴染めないでいるワーシントンは、大佐のスティーヴン・ラングに目をつけられ、ある極秘任務を帯びることになる。ラングは、科学調査の名目でアバターになりナヴィ族の実際の生活に触れることのできるワーシントンに、彼らの信用をえてパンドラの未知なる資源についての情報を攫むことで鉱石獲得のためのパンドラ侵略をより円滑に進めるスパイ役を彼に与えたのだ。成功すれば、早急に地球に帰還させ、さらに新しい脚も与えることを約束するラングは、ワーシントンにこのような台詞を吐く。「(お前はグレースのもとで働いているふりをしなければならない)だが実際は俺の部下だ」。すなわち、ワーシントンはこの物語で、一方でウィーヴァー演じる科学者の部下として振る舞い行動しながら、他方でラング演じる大佐の部下(でありナヴィ族に対する人類のスパイ)として任務を遂行しなければならないことになる。仮に「分身」という存在を何らかのアイデンティティ(同一性)の複数化、分裂状態として敷衍するならば、ここでもまたワーシントンのキャラクターは極度の「分身化」を施されていることになるだろう。兄の身代わり=「アバター」となった主人公が遺伝子操作によって作られた彼のもう一つの身体である分身の「アバター」に双子の兄と彼自身の姿(アバター?)をさらに重ね合わせ、同時に職業上の「分身」(二重生活)も背負うことになる……。
 このように、『アバター』にはいくつもの「分身」(アバター)が幾重にも重なり合い、相互にオーヴァーラップする要素がある。それは、この2時間半以上に及ぶ大作のオープニングとエンディングを占める映像によっても示されているかもしれない。というのも、『アバター』はまるで「双子」のようにそっくりな同一のシークエンス──シネマスコープ・サイズの画面をキャメラが白い薄靄と霧が立ち込めるパンドラの暗く鬱蒼とした森林や山々のあいだを縫うように流麗な動きで進んでいくショットによって挟まれているからだ。しかも、このそれぞれのショットのあとに続く(先立つ)のも、これまたほとんど同じ構図の対照的な二つのショット──それぞれ人間の状態とアバターの状態の時のワーシントンの眼のワイドアップなのである。いってみれば、『アバター』は映像のレヴェルにおいても、「分身」(対照性)の主題に貫かれた映画なのだ。このフィルムをその映像表現以上に「立体的」にしているのは、ほかならぬこうした物語、主題、映像の各レイヤーで「分身の増殖」という主題がいわば「重層的」(立体的)に積み重なっているその作品の構造によっている。

2.人工と(しての)自然

 このように、『アバター』を「分身」の映画だと規定した場合、さらにその先に見えてくるものは何なのか。冒頭で私は、本作を宮崎駿の作品と比較してみた。その繋がりでというわけでもないが、ここで『アバター』を宮崎の『ハウルの動く城』(2004)の当初の監督候補でもあり、傑作『時をかける少女』(2006)で「ポスト宮崎駿」の声を決定的なものにした細田守のアニメ映画『サマーウォーズ』(2009)との類比で考えることは、それほど的を外れた行為ではないだろう。昨年のアニメ界の話題をさらった細田のこの長編については、私自身もすでにいくつかの場所で記しているが[*4] 、インターネット上の自立的な仮想世界(OZ)の中に登場人物たちが現実世界とは異なるバーチャルな仮想キャラクター(文字通りの「アバター」)となって活躍するという点において、言うまでもなく『アバター』の物語世界ときわめて近似している。『アバター』では、人類にとって非常に有害なパンドラの大気の中で活動を行えるよう、人々は人類とナヴィ族のDNAを遺伝子操作によって合成して生み出した「アバター」と呼ばれるハイブリッドの身体を持っている。ワーシントンやウィーヴァーらは、作中で特殊な装置によって現実的な身体にリンクされたパンドラの「アバター」を意識下で遠隔操作することで、もう一つの身体(アバター)を動かすことができるのだ。
 以上のように『アバター』において、人類の住む世界とアバターやナヴィがいるパンドラの世界とは繋がっていながらもどこか位相(レイヤー)の違う領域であることがつねにほのめかされるわけだが、取りも直さず、こうした『アバター』における諸々の設定は、『サマーウォーズ』と同様、パンドラやナヴィ族といった存在をある種の「サイバースペース」的なものに仮託していることを示している。それは、アバターになるために頭に多くのコードを取りつける姿が『マトリックス』シリーズを思わせたり、アバターたちの姿が高度なCG技術で作りだされていたり、何よりも「アバター」というネット用語が使われていることからも端的に明らかだ。また、作中でパンドラの生態学的な貴重さを訴える科学者のウィーヴァーが、パンドラの自然(植物は)「根と根で交信し合っており、それは星全体を網羅的にネットワーク化している」「ナヴィはそのネットワークにアクセスしている」「(人類の軍隊は)そうしたサイトの一つを破壊してしまったのよ」……というふうに語る時、そこには演出側のパンドラ世界をウェブ的なメタファーと結びつける強い意志が働いていると見てよいだろう。何にせよ、『サマーウォーズ』にしてもそうだが、こうした世界設定はSF的な夢想というよりも、よく知られているように、MMORPGから「セカンドライフ」にいたる、メタバースとアバターを組み合わせた大規模なネット上の3D仮想空間がここ数年ほどを経て私たちの日常に広範に浸透した現実を前提にしていることは間違いない。主人公の存在は、いわばセカンドライフを楽しむネットユーザの隠喩なのだ。
 例えば、それは彼のキャラクター設定にも如実に反映されていると思われる。映画のオープニング部分、やや俯瞰の深い縦の構図で捉えられた、パンドラに向かう広大な宇宙船の中に蜂の巣穴のように列をなして並んでいるカプセル型の寝台に横たわるワーシントンの身体と、それに重ねられるように聞こえてくる彼のモノローグにあるように、主人公は兵役中の戦闘で足を負傷し、人間の姿でいるあいだは始終車椅子に乗っている。彼はその後、宇宙船内でパンドラでの任務のために初めてアバターとしての身体を手に入れるのだが、アバターになったあとすぐに起き上がってはいけないという周囲の研究員の制止を半ば強引に振り切ると、リンク・ルーム内の設備を壊しながらパンドラの大地に降り立ち、宇宙船の外でバスケットボールをしている仲間のアバターたちのあいだをすり抜けるようにして疾走する。画面はその走るジェイクをローアングルで斜め前方からフォローしていき、その足元をクロースアップで捉えたショットが挿入され、続いて彼はアバターとなったウィーヴァーに行く手を阻まれるまで無我夢中で駆け回るのだ。このように、『アバター』では現実の主人公の身体の不全性──車椅子に乗る彼の屈強な上半身とは対照的なか細い両足──と、アバターになったときの彼の身体の超人的な能運動力が全編にわたって幾度となく強調して描かれる。何にせよ、仮に右の文脈に立つならば、こうしたワーシントンの身体の二重性は、現実世界において部屋の中でデスクトップの前に座りながら身体をほとんど動かさずにネットに興じるユーザの姿と、メタバースで自由自在に動き回る彼のアバターとの対照性に比することが可能だろう。実際、ナヴィたちは人間の頭髪にあたるだろう、フィーラーと呼ばれる後頭部にある尻尾のような細長い巻毛を動物から植物までパンドラのあらゆる自然物に接触させ結びつけることによって、他の生命体の多様な「魂の声」を知ることができるが、これはまさに私たちが生きる「エイジ・オブ・アクセス」(ジェレミー・リフキン)やら「≪繋がり≫の社会性」(北田暁大)やらといったいたって世俗的な事態を少し戯画的に体現するような設定だ。いずれにしろ、『アバター』とはすなわち、本来は現実世界(自然)とサイバースペース(人工的アーキテクチャ)とのあいだの戦いとして捉えるべき作品なのである。

 さて、当初は鉱石獲得のためにナヴィ族殲滅も辞さない地球軍の使命に忠実に従っていたはずのワーシントンはいつしかナヴィのオマティカヤ族の一員として遇されるとともに、次第に人間でいるあいだが現実なのかアバターでいる時が夢なのかその区別が曖昧になっていき、さらにゾーエ・サルダナ演じるオマティカヤ族族長の娘ネイティリ(押切もえと神田うのを足して二で割ったような顔をしている)と恋仲になるに及んで、一転してナヴィ族とパンドラの自然を守るために人類を敵に回して戦い、物語の最後ではアバター=ナヴィとして生まれ変わり、パンドラの世界に残る決意をすることになる。……こうして文章に書くと、あまりに素朴な展開というか、作中でも主人公は周りの人物たちからバカバカといわれているのだが、主人公の突っ走り具合にやはり笑いを押さえずにはいられない一方、これでこそハリウッド映画のヒーローだという頼もしい気がしてくる。しかし、だとすると、『アバター』は、「現実世界」の秩序に対する、「電脳空間」の勝利を描いた映画としても捉えることができる。ワーシントンの台詞に倣えば、「現実」に対する「夢」の勝利を描いているともいえるだろう。『ターミネーター』(1984)をはじめ、これまでにも80年代「サイバーパンク的」な感性を反映した作品を手掛けてきた[*5]キャメロンのキャリアから考えれば、こうした判断も少なからずリアリティを帯びていると思うのだが、ここで私が改めて注意しておきたいのは、そうしたメッセージの倫理的な正否ではない。それは、いってみれば、この作品が示すサイバースペース(人工世界)と現実世界(自然世界)との独特の関係性のあり方である。そのことを説明するために、再び先ほどの『サマーウォーズ』を参照しよう。というのは、ここでも二つの作品は鮮やかな対照性をなしているからだ。
 先にも記したように、『サマーウォーズ』が描く物語世界のほとんどは、『アバター』と同様に、現実世界の登場人物が彼らのいる世界とは位相の違う仮想世界──ウェブ上のメタバースを舞台にして、彼らのバーチャルな分身であるアバターを動かしていくことで展開する。しかし、この作品の特徴は、(監督の細田自身も公言する通り)そうした最先端の仮想世界の電子的ネットワークが、他方で、現実の登場人物(家族)の住む長閑な地方の山村(舞台は長野県上田市)と、彼らの伝統的な慣習や濃密な地縁・血縁の結びつきという、もう一つのネットワークと明確に二層構造をもって対比されている点だ。すでに多くの指摘があるように、『サマーウォーズ』の物語世界の持つこうした(「現実=共同体」と「サイバースペース=負荷なき個人」という)二重性は、いわば現代世界の社会秩序を大枠で規定する二つの潮流――グローバリゼーションとローカリゼーションにぴったりと対応していると見ることができる。高い流動性とフラットな匿名的空間の中でアナーキーな闘争ゲームを絶え間なく続けていくほかないポストモダン的ネオリベ世界と、「家族」(血)と「ジモト」(地)というミニマムな共感可能性とソーシャルキャピタルによってゆるやかに繋がるプレモダンな共同体空間。とはいえ、私たちの社会においてグローバルとローカルの対立が決して相互排他的な関係にはないように、この作品の現実世界とサイバースペース世界もまた、完全に対立した領域として提示されているわけではない。それは例えば、物語のクライマックスであるメタバース上でのアバターたちの戦いの道具に、現実の地域共同体で登場人物たちによって遊ばれているきわめてアナクロニックな道具=「花札」が用いられることからも明らかである。こうした現代社会の複雑な二極性を『モナリザ・オーヴァドライヴ』以来のサイバーパンク的感性によって描き出したところに『サマーウォーズ』のアクチュアリティはあった。
 しかし、『サマーウォーズ』の場合、そのサイバースペース世界のデザインがあくまでフラットかつ無機的な設計物(システム)であり、また、そこでの「ゲームの規則」を決定する「花札」という(現実世界=共同体を象徴する)伝統的な遊びも定型的な規則性の束に沿って扱われるきわめてアーティフィシャルな小道具だったのに対して、他方の『アバター』はそれとは対照的なイメージを打ち出している。もはやいうまでもないが、この映画では先に示したサイバースペース的な世界としてのパンドラやそこに住むナヴィ族たちは深い自然とそこでの原初的な生活を営んでいるような存在として描かれていた。鬱蒼とした森林に覆われ、その中を大小さまざまな動植物たちが生息し、ナヴィたちはそれらの動物や弓矢を用いて自然と共生して暮らしている。軍隊に象徴される人為的な構築物や近代的価値観は、そこでは忌避すべき存在として徹底して強調的に描かれている。その光景は、『サマーウォーズ』のメタバース空間とは好対照をなしている。すなわち、『サマーウォーズ』の現実=自然とサイバースペース=人工の二層構造の表象や設定が、ある種の「人工物」(=ゲームとしての「花札」)によって結びつけられていたのに対し、『アバター』においてそれらは、まるで(現実の)「自然物」のようなイメージにおいて通じ合っているといえるのだ。
 以上のようなキャメロンによる『アバター』世界の設定は、実はさほど荒唐無稽な発想に基づくものでもない。例えば、おそらくそれは「いかなる適応システムも──それが人間であれ、コンピュータであれ、さらにはまた社会組織であれ、自然物と人工物との調和的混合物にほかならない」[*6] というハーバート・A・サイモンの言葉と正確に響き合っている。かつてサイモンが組織経営や社会設計といった多様な人工(人為的)構築物を、蟻の行動のような生体秩序や自然法則と類比的に扱える「システムの科学」(エンジニアリングの科学)を構想したように、彼も深く依拠していた20世紀の情報科学はそもそも人工的な記号システムやアーキテクチャを生命論(全体論)的な隠喩で考えるアプローチに高い親和性を持っていた。スティーヴ・ジョンソン(『創発』)などを挙げるまでもなく、インターネットの構造もまた、最初期から一種の自律分散型の「生態系」(エコシステム)に準えられてきたのである。なぜならば、個々の主体の「認知限界」(サイモン)を超える膨大な量の情報財を絶え間なく蓄積・提供し続けるネット環境は一種の自然のような「自生的秩序」を備えているとイメージできるからだ。いま何かと話題の「フリーミアム」(クリス・アンダーソン)やクラウドソーシングのロジックにしても、基本的にはこうした人工的資材を一種の「自然環境」と看做す発想(ロングテール)が根底にあるといえる。
 以上の文脈を踏まえるならば、『アバター』のパンドラ世界が紛れもなくサイバースペースのよくできたメタファー的表象であることは疑いえない。アーキテクチャとはもともとギリシャ語で「原初」(アルケー)の「技術」(テクネー)を意味した。おそらく本来これはプラトン的な意味(建築への意志)で捉えるべきなのだろうが、私はゾーエ・サルダナがサム・ワーシントンにパンドラで生きるために教える数々の技術を見る時、あえてそこにはまさに「自然」としてのアーキテクチャが一つのイメージをまとって描かれていると思いたい。そして、こうした人工物(的な表象)を自然物のように描く『アバター』の世界観もまた、一種の「分身」の主題を共有していると見ることができるだろう。もはやここでは、人工と自然は相対立する存在では少しもなく、互いが互いの身代わり=「分身」のように存在し、描かれているのだから。

3.ウェブの見る夢=映画

──これが『アバター』についての私のひととおりの感想なのだが、最後にもう一点、きわめて重要な論点を簡単につけ加えておきたいと思う。それは、場合によっては月並みな指摘に映るかもしれないが、この映画が「分身」の主題とともに終始、「視覚」(見ること)と「夢」の隠喩にも憑かれた作品であるということだ。どういうことか。例えば、それは先にも記していたように、映画の冒頭(と終幕)部分において、印象的な主人公の目覚めのショット──眼のクロースアップが挿入されていたことからも早速窺える。ワーシントン演じる主人公は地球から衛星パンドラまでの長い行程のあいだ宇宙船の中で眠らされていたのだ。さらにいえば、そうした目のショットに被さるようにして、「宇宙船で眠らされている時には夢など見ないにも拘らず、空を飛ぶ夢を見た」と語るワーシントンのモノローグが入る。だとすれば、オープニングのパンドラの森の上空を浮遊する不可思議なショットは、主人公の夢の中での主観の光景だったとも看做せるわけだ。そもそもこの作品では、主人公たちがアバターの身体にリンクしている状態を、「夢を見る行為」に明確に比している。したがって、ワーシントンやウィーヴァーはアバターになったり戻ったりするさいにつねに眠りに落ちたりそこから覚めたりするようになるのだが、そうしたシークエンスでは画面は決まって俳優たちの眼のクロースアップと彼らのPOV(視点)ショットに切り替わるのである(しかも、人間世界に戻った時には外界がぼやけたようになっているので、その印象はさらに強まる)。
 眼と夢にまつわる要素はそればかりではない。アバターと化したワーシントンがパンドラの森で出会ったサルダナに連れられてオマティカヤ族(ナヴィ)の村を訪れた時、彼女の母である司祭役の族長の妻は、ワーシントンを一瞥して「スカイ・ピープルは盲目だ」と呟く(「スカイ・ピープル」とはナヴィによる人類の呼び名)。その後、ナヴィの使う言語(ナヴィ語)での挨拶が「あなたが見える、心の中まで」という意味の語句だと説明されることからも知れるように、『アバター』の物語において、「見ること」、視覚的な表現とは、一方でコミュニケーションのネットワークが円滑に成立していることの最たる証明として用いられているといってよい。事実、互いに心を通わせたワーシントンとサルダナは、何度も「君が見える」「あなたが見える」と視覚的な表現を用いている。と同時に、他方で、その視覚的隠喩はすでに述べたように、「夢を見ること」ともぴったりと重ね合わせられる。だからこそ、物語のラスト、「見ること」の隠喩においてナヴィ族やサルダナとの心の交流を保ってきたワーシントンは、深い諦念に満ちた口吻で「夢は終わり、いつか目覚める」と呟くのだし、また一方でそんな人類たち(スカイ・ピープル)をナヴィ族の族長はなぜか「ドリーム・ウォーカー」というもう一つの呼び名で呼ぶだろう。
 「分身」、そして、「見ること」と「夢」──『アバター』とはいうなれば、互いが互いを必須の依代とするような、以上の三つの主題によって支えられたフィルムだということができよう。しかし、だとするならば、私たちはこの三つの主題の重なる焦点に、一つの象徴的なメディアを見出しうるのではないだろうか。もはや明らかなように、この『アバター』という作品そのものがその一つとして含まれる、「映画」こそそのメタフォリカルに指示されるべき存在にほかならない。ここで精神分析、という単語を口走るとあまりに陳腐になってしまうが、いずれにせよ、「分身」「視覚性」「夢」というキーワードがその草創期から現在まで一貫して映画史とその中の言説を広範に覆ってきたことはすでによく知られた事実だろう。

 ともかく、右に蜿蜒示してきたように、全編にわたって現代の先端的な「ウェブ」の隠喩や形象を本作の細部に込めてきたキャメロンが、三つの主題とともに翻って自らが出自とする「映画」にまつわるイメージをもその作品の物語構造に導入していたことこそ、おそらくはこの『アバター』をひときわ興味深いフィルムにしている理由の一端なのだ。そして、その兆候こそ、物語のそこここで挿入される、ワーシントンによる「ビデオログ」を自画撮りする一連のシークエンスである。彼をはじめとするバイオ・ラボの研究員はパンドラで体験したことを逐一船内に備え付けのビデオキャメラで撮影することを義務づけられている。したがって、映画の中ではワーシントンがパンドラでの出来事を語る様子をPOVショットで──つまり、彼が記録しているキャメラの目線から映した肌理の粗い画像のショットが度々挿入される。しかし、『アバター』を観る観客が息を飲むのは、映画の終盤、何度目かのビデオログをするワーシントンがキャメラ目線で「これでビデオログは終わりだ」と小さく呟く瞬間である。というのも、この映画ではオープニング直後から絶えずワーシントンの情況説明や彼の心情を語るモノローグが聞こえていたからだ(しかも、先述したように、そこでは「視覚」のイメージも併せて挿入されていたことにも注意したい)。
 だとするならば、この『アバター』という映画は、その全体が、まるごとワーシントンが撮影していた「ビデオログ」の集積(記録)から仮構されたものだったのではないか、とも考えることができる。すなわち、この地点において、それまで長らくウェブ的な隠喩系や主題系の周りを廻っていた本作の物語は、まるで世界がひっくり返ったかのように、(それとはある意味では対照的な)ビデオ撮影に象徴される「映画的」な世界へと反転してしまう。より具体的にいい換えれば、それは、膨大な情報財を互換的に組織し一元的に接続する21世紀的な新技術としての「ウェブ的なもの」を寓意化していた物語が、そのラストで、まさにその「ウェブ的なもの」がアップデートしつつある20世紀の「映画的なもの」(投射や表象作用)を体現する要素によって、実はメタレヴェルで「入れ子」のように包まれていた、という構造を遡行的(事後的)に確認するという体験にほかならない。それは少々詩的な言い方をすれば、ウェブという新時代の技術が、実はいまだに映画という夢を見ていたと気づかされるような体験に等しいかもしれない。本作において「視覚的」(見ること)の隠喩が、一方でコミュニケーションネットワークの整備(ウェブ的なもの)、他方で夢(映画的なもの)との類比に分裂しながらあったように、『アバター』とはいわば「ウェブが見る映画の夢」、すなわち、「ウェブ的なもの」と「映画的なもの」とが、どちらが「現実」でどちらが「夢」かの決定的な区別がつかないまま、相互に反転と分裂を何度も繰り返す、奇妙な構造を持ったフィルムなのだ。「ビデオログ」(=映画的なもの)を手にする人類と「ネットワーク」(=ウェブ的なもの)を操るナヴィ族が物語の終幕で結婚(統合)し、さらに人類がナヴィに生まれ変わる(反転する)、というように。
 思えば、ここ数年のあいだ、『マトリックス』シリーズに象徴されるように、「ウェブ的なもの」を内容・形式の両面でさまざまに活用する映画作品がハリウッドを問わず、数多く現われている。しかし、20世紀と21世紀を象徴する(だろう)二つの技術──映画とウェブ(インターネット)とは、(かつての印刷技術と映画の関係がそうであったように)まったく親和的ではないだろうが、相互に排他的でもない(携帯電話で撮った映像が映画館や動画共有サービスで上映/アップロードされ、あるいは過去の映画がネットで鑑賞されるように)。そして、その関係性はメディア相互を結びつける構造化(フラット化)が進む現在、さらに強まっているともいえるだろう。いま、「ウェブ的」な論理は、映画をはじめあらゆるものを飲み込もうとしている。しかし一方で、「ウェブ的なもの」もまだ「映画的なもの」の夢から完全に自由でもない。そして、私たちはその曖昧な関係性をポジティヴに捉え返すべきだろう。少なくとも、ひとまずそう考えることは、「ポストモダン」と呼ばれる時代に映画を撮り始め、『タイタニック』をめぐる狂騒後、いまなおハリウッドの先端で果敢に新作に取り組む「世界の王」たるキャメロンに相応しい態度なのではないかと思える。
 ……とはいえ、そうした本作の構造を指して、「ウェブ的なもの」と「映画的なもの」とが相互に「アバター」=分身としてある、と書いてはあまりにうまくまとめ過ぎかもしれないけれど。


[脚注]
1.
偶然だが、『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』の公開年には、キャメロンの代表作である『ターミネーター』と『タイタニック』も公開されている。

2.
http://news.walkerplus.com/2009/1221/43/及びhttp://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/movie/339769/ 蛇足ながら、ライターの飯田一史氏は本作から河森正治監督のOVA『マクロス ゼロ』(2002~2004)を想起したと述べていた。本作がさまざまな要素で濃密なジャパニメーション的な想像力に基づいているのは確かなようだ。

3.
例えば、http://fblog.n1e.jp/2010/01/post_639.htmlを参照。これによると、保守派の論客ジョン・ポドホレッツは自身のサイトで「観客は米兵の敗北に声援を送るようになる。強烈な反米的内容だ」と批判。また、現役海兵隊員のブライアン・サラス大佐は「軍の未熟さや凶暴さが異常に強調され、誤解を与えている」などとコメントしているという。

4.
「佐々木敦×限界小説研究会トークショー」http://www.cinra.net/interview/2009/08/26/000000.php、笠井潔・小森健太朗との鼎談「ロスジェネ世代の『リアル』とミステリーへの違和、新しい共同体への眼差し」、『本格ミステリー・ワールド2010』、南雲堂、2009年、191頁以下を参照。

5.
念のために断っておくと、SF分野における「サイバーパンク」は、ウィリアム・ギブソンの小説『ニューロマンサー』の刊行に始まるが、同書刊行と『ターミネーター』公開が同じ84年なので、『ターミネーター』じたいは厳密にはサイバーパンクではない。

6.
ハーバート・A・サイモン『システムの科学 第3版』、稲葉元吉・吉原英樹訳、パーソナルメディア、1999年、v。

『アバター』  AVATAR

監督・脚本・製作:ジェームズ・キャメロン
製作:ジョン・ランドー
撮影:マウロ・フィオーレ
音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:サム・ワーシントン、ゾーイ・サルダナ、シガニー・ウィーバー、スティヴン・ラング、ミシェル・ロドリゲス

2009年/アメリカ/カラー/3D/162分

TOHOシネマズ日劇他にて全国大ヒット上映中!
公式サイト:http://www.avatarmovie.jp 配給:20世紀フォックス映画

02 Mar 2010
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