ブレット・ゲイラー インタビュー
──『RiP! リミックス宣言』

インタビュー

Photo by Kat Baulu © 2008 National Film Board of Canada

Introduction

 著作権に縛られた映像を解放せよ。『RiP! リミックス宣言』はその明快なメッセージを、既存の映像をめまぐるしく 「リミックス」する手法で身をもって示す映像作品だ 。ローレンス・レッシグを引きつつ、ヴィデオ文化と音楽文化で生まれているのと同様の、新しい「クリエーション」の姿を鮮烈に示した本作は、また、そのあまりに大胆な盗作ぶりによって賛否両論を引き起こしたことでも記憶に新しい。カナダ出身の監督ブレッド・ゲイラーに、作品について、その主題である著作権について、また、わたしたちを取り巻く文化状況について語ってもらった。
(インタビュー:三浦哲哉、アレックス・ツァールテン/構成:三浦哲哉)

映像と音のミキシング

──『リミックス』は、著作権と盗作という主題の面白さもさることながら、その主題をめぐってどのようにイメージを組み立てるかという点でもとても興味深い映画でした。形式的な側面について、まずお話を伺いたいと思います。

 うん。聞かれるのはいつも主題のことばっかりだったから、自分の映画の形式について話せるのはありがたい。そうだね、まずこれまでのキャリアについて話そうか。学生時代には短編の実験映画を作っていた。それから、映画の編集者として、イメージの配置についていろいろな実験をしたりした。同時に、音楽についてもたとえばネガティブランド[*1]のように音響のコラージュを試していた。そこではコラージュという形式が、同時に語られる主題そのものでもあるわけだ。ネガティブランドは同時に活動家でもあって、法律的に使用するのを禁じられていた音源を積極的に使っていた。そういう活動を通して、古い素材のコラージュが、新しいものを生み出すという考えを身をもって示したんだ。僕も、映像を使って同じことをしたいと思った。

──音響設計や作曲もされるんですか。

 いや、僕はしていない。

──でも音楽から着想を得られるのですね。

 うん。DJカルチャーは大きな発想源だね。そこでは、芸術的なクリエーションがどこにあるのか言うことは容易じゃない。それが作曲者にあるのか、楽曲を組み合わせるDJにあるのか、それとも頭のなかで音を連合させるリスナーにあるのか。僕の映画で取り上げたアーティスト、ガールトークの場合、クリエーションは聴衆の頭で起きているんだ。なぜなら、ガールトークは楽曲を通して聴衆の記憶を演奏しているから。たとえばエルトン・ジョンの一節とビッギー・スモールズの一節を掛け合わせたとする。すると、その曲が喚起する記憶、その曲と結びついている文化的だったり社会的だったりする様々な背景、それらも掛け合わされるんだ。エルトン・ジョンは、白人で、アッパークラスで、ゲイでっていう文脈がある。それが他のものと掛け合わされることで、なにか別の意味が生じるんだ。それは、映画の最初のパイオニアたちがすでに考えていたことと同じだと思う。クレショフ効果がまさにそうで、同じ素材から別の新しい意味をクリエーションするという試みが、早くから試されていたんだ。

──クレショフの時代はフィルムによるアナログ編集だったわけですが、現在はデジタル編集です。両者の間に違いがあると思いますか。

 僕が学校で最初に編集を学んだのは、16ミリだった。あとビデオ編集では、リニアー編集もやった。一から順につなぐことしかできないから、一箇所間違えたら全部やり直すしかないんだ。そのあとでパソコンのノンリニアー編集ができるようになった。当然、あらゆることが速く、しかも試行錯誤しながらできるようになる。つまり僕はそのすべてを経験しているんだけど、その間に本質的な違いがあるとは思わない。たとえばジガ・ヴェルトフからなにかが本当に変わっているとは思えない。ただ、編集手段が普及して民主化したということは言えると思う。リミックスということは、新しいことじゃないけれど、技術の民主化によってその重要さが増したということだ。決定的な変化だと思う。でも形式に関してはなにか本質的な変更があったとは思えないね。

──デジタル編集の可能性について、あなたの作品で刺激的だったのは、音と映像の組み合わせでした。

 確かにそれはデジタル・ノンリニア編集の強みだね。映像を作ってから音をつけるのではなくて、その両方を同時に模索しながら作っていくことができる。

参加型の映画

──この映画がどう配給されどう見られるかについては、制作の当初、どのように考えていたのですか。あなたの映画は、デジタル技術の新たな使用法や、参加型カルチャーを扱ったものですが、今回の山形国際ドキュメンタリー映画祭では、従来型の映画館の大スクリーンで大勢の観客を集めて上映されましたが。

Photo by Andrew Strasser © 2008 EyeSteelFilm
 最初にあったのは、オープンソース映画というアイディアだった。参加型の、皆でどんどん膨らませていけるようなフィルムを構想していた。だけど、資金面や企画の進め方に関しては、従来型の映画と同じ面もあった。海外の映画祭で見てもらえるというのは基本的にいいチャンスではあるね。これまではクラブやバーでも上映してきた。上映が終わったらイスをどかしてそこがまたダンスフロアーになるんだ。映像を楽しんだ後で、そこでディスカッションもする。
 この映画を作るとき一番、気をつかったのは、エモーショナルな側面において成功させることだった。つまり、観客が笑ってくれて、楽しんでくれて、刺激を受けるということだ。著作権という主題にはじめから興味を持っている観客ばかりじゃないからね。エモーショナルな面から入っていって、それで議論が生まれればいい。そういう意味では、今回の山形もとてもいい機会だと思っている。

──上映前に、あなたは自分の映画を「シンプルな善と悪の闘い」の物語だと語っていましたが、たしかに題材の新しさに対して、語り口はむしろ見事に保守的だったとも言えます。実際、今日の観客たちも映画にのめり込み、おおいに楽しんでいたように見受けられました。

 そう、その通り。かなりわかりやすい方法で、現在ぼくらの周りで何が起きているかを伝えるのが目的だから。問題は、それを見て観客がどうリアクションするかなんだ。

──古典的な物語を語る側面と、パブリック・ドメインであることを最大に利用しようという側面とが混ざり合っているわけですが、そこに困難はありませんでしたか。

 常にあったよ。編集は僕ともうひとりがやるんだけど、僕はデジタル映像を最大限に駆使した実験的なことをやろうとするんだけど、もうひとりのほうは常にストーリーテリングを気にかけている。その両方が分裂したまま、編集はすごく長期間に及んだ。最初にも言ったけど、リミックスが具体的になにをできるかを自らの形式において示すことが重要だったし、でも同時に、メッセージを伝えることも重要だったからね。形式的な実験、保守的なストーリーテリング、それから大勢の人間が参加できること、収益をあげること、議論として真実であること、観客を笑わせること。それら全部を考える必要があった。

Photo by Bridget Maniaci © EyeSteelFilm

クリエイティヴィティーについて

──クリエイティヴィティーについてお聞きします。あなたの議論の中心にこの言葉があって、たしかにこれは素晴らしい言葉ですが、しかし過度に用いられているようにも思います。産業におけるコントロールの問題や、権力構造の問題、それから芸術的な新しさの問題など、複数の意味が重ねられていると思うのですが。

 ここでクリエイティヴィティーといっているのは、まずもって、創作の主体のことだ。かつて、一握りのクリエーターに対して一方的な作品の消費者がいるという構図あったけど、それが変わり、いまや皆が作る側に回ったことを、クリエイティヴィティーが増えたと表現したんだよ。ここ5年ほどで状況は本当に変わったと思う。とくに20世紀型のテレビ文化と比べたら、みながアマチュア・クリエーターになったと言えると思う。アマチュアというのは悪い意味でそういうんじゃなくて、本来の愛好家という意味だ。

──あなたの映画の議論は、アメリカの著作権法についてのもので、アメリカを特権視しています。あなたの作品とアメリカ文化との関係はいかなるものでしょうか。

 そこは、僕がカナダ人だということと切り離せないと思う。カナダ人は、アメリカに反対することに文字通り取り憑かれてるから(笑)。アメリカは世界最大の文化輸出国だ。著作権は、だから彼らの利益になるように作られているのであって、輸入する側の利益のためではないということがある。

──著作権と同時に、著作権を批判する議論まで輸出していますね。

 たしかにその通り。

──あなたの映画は、観客を楽しませる点ではとても成功していると思いますし、意識的な選択だと思うのですが、しかしそのことでこの映画がとてもベタなプロパガンダになっているとも思います。あなたの立場が、完全に肯定的に語られていますが、問題があるとは思われませんか。

 その話をすると一晩かかるね。この主題は、モラルの問題として、とても込み入っているし、様々な立場がありうることはわかってる。でももちろん基本的には、自分の立場、いま変わろうとしているものをポジティブに提示したいと考えている。それでたくさんのいいことが起きると信じているよ。ただ一点、自分の映画が完全に、参加型のコラボレーティブなフィルムだといったら言い過ぎになるとは思っている。たしかにいろいろな協力関係があったし、オープンソースを使っているし、あらゆる側面が公開されている。でも脚本と監督は僕の名前がクレジットされているし、それが必要とされているんだ。もちろんこれを素材にしてほかのクリエーターが別のものを作るのは大歓迎だけど、これが僕のヴァージョンだということもはっきりしてる。

──クリエイティヴ・コモンズという考えに従うと、映画制作が金にならないという事態にはなりませんか? 映画制作の目的意識はどうなってしまうのでしょう。

 クリエイティブ・コモンズのやり方で、きちんといい生活を送っているアーティストの例はたくさんある。作品がダウンロードされれば収入になる。音楽産業ではすでに大きな変革があった。かつての伝統的なモデルでは、ごくごくわずかなミュージシャンが億万長者になってその他大勢は生活もままならないということだったわけだけど、インターネットはそういう状況を変えたんだ。つまりここでも民主化がなされつつあって、クリエーターはもう億万長者になることはないけれど、まともな生活を送ることができる可能性が増えたんだ。映画の場合でも、これは起こりうると思う。映画制作の目的意識は、僕の場合、金銭面では、まともな生活が送れればそれでいい。ドキュメンタリー映画作家としては、もちろん世界を変えることだね(笑)。多くのひとが、世界を違うしかたで見るようになることが目的だ。

──ところで、日本はリージョン2なので、アメリカのDVDは再生できないんですよ。基本的に日本版を買わないといけない。

 え!? そうなのか。シット! いい加減にしろと思う。少なくとも僕の映画に関しては、アメリカ版がよその国で見れないことは、なんの得にもならないな。


[脚注]
1.ネガティブランド
1970年代後半に結成された実験音楽グループ。

27 Feb 2010
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