ヨコハマ国際映像祭フォーラム・レポート vol.2

三浦哲哉

【セッション1】装置間の争い ── 映像メディアの混淆とその体験

 基調講演に続く「セッション1」では、堀潤之の司会のもと、コメンテーターの武田潔とトロン・ルンデモによって、ベルールが提起した問題への応答と展開がなされた。
 武田潔は、かつてクリスチャン・メッツのもとで学び、フランスを中心とした映像理論を日本に紹介する画期的な訳業でも知られるこの分野の第一人者である。映画における自己反省作用を研究の主題としており、近著には『ルネ・クレールの謎』がある。
 トロン・ルンデモは、映画およびメディアの研究者であるが、テクノロジーの問題を専門としており、とりわけ最近はアーカイブについての研究を進めている。

 武田のコメントは、「古典的な映画の観客寄りで」という堀の要望通り、映画からメディア・アートへ分析の対象を移したベルールに対してある意味で「待った」をかける、「映画の見出せなさ」再考というべきものになった。その内容は、次の三点に分けられる。

 1.映画の参照可能性について。ことフィルムに関していえば、やはり映画には根本的な「見出せなさ」があり、それはベルールの発言から35年経ってもまったく変わっていないと武田は指摘する。それは法定納入(legal deposit)の制度を考えてみればはっきりする。日本であれば1948年に施行された国会図書館法により、国内で刊行されたあらゆる書籍は国会図書館に収蔵されることになっている。ところが映画のフィルムはその対象として定められつつも、「当面の間、この実施は保留する」という補足がつけられ、要するに、制度の対象から外されたままである。ちなみにフランスでは1963年からフィルムも法定納入の対象になっている。したがって、少なくとも日本のフィルム、また1963年以前のフランスのフィルムに関しては、参照と引用の行為は最終的に誰によっても保証されていないことになる。制度の不在によって、いまも「見出せない」フィルムが数限りなくあるのは事実であり、DVD等の普及という大状況によって映画が参照可能な「見出せる」ものになったと一般化することは到底できず、留保が必要であるというのが武田の考えである。

 2.映画体験の質的変化について。DVD等の普及は「残念な」変化をも、もたらしたのではないかと武田は問う。映画がフィルム上映だけを意味していた時代、それは他者と上映体験を共有することを意味し、映画と自分が想像的な関係を生きる前に、多くの物理的な手間と言語的手続き、そして他者たちとの関係──精神分析の用語でいえば「象徴界」──を経由する必要があった。ところで、DVD観賞の場合、あたかも映画のほうが思い通りに、自分を楽しませてくれるかのようである。映画体験は100%想像的快楽に転化してしまったかのようでさえある。以上を踏まえて武田が示唆するのは、ベルールが映画からメディア・アートへというとき、そこでは「思い通りにいかないもの」の移動が問題だったのではないかということである。メディア・アートは多くの場合、否応なしにその「思い通りにいかないもの」を観客に突きつけるからである。

 3.映像体験におけるコミットメントについて。メディア・アートは、ベルールのいうとおり、その一回的な状況と、観客の能動的参加とに結びついた特異な経験を与える。そうした観客のコミットメントに関して、映画のなかにもすでに同質の試みはなされていたのではないか。その例としてマイケル・スノウの『中央地帯』に武田は言及する。3時間もの間、カメラでひたすら風景を記述するこのフィルムには、とりもなおさず観客のコミットメントを促すものがあったはずである。実験映画と呼ばれる一群のフィルムにおけるコミットメントの経験と、メディア・アートのそれを分けるとすれば、それはどのようにしてか。

 以上3つの論点に加えて、補足の問いが掲げられたが、それは上記のどれにも劣らず重要だと思われた。それは記憶についての問いである。かつて、映画が通ってきた道のりを辿ることによってはじめて映画について語ることができるという常識があったと武田は述べる。ところがそのような「映画的記憶」なしで映画を受容する世代が出てきている。ひるがえって、メディア・アートの場合はどうか。ベルールが例示したメディア・アートの作品は、それ自体が引用を拒むものであるから、当然ながら集団的記憶は形成され難い。メディア・アートにおいて記憶の蓄積、そして共有はどのようにして可能か。「映画的自己形成(formation cinématographique)」の代替物は、メディア・アートにあるのだろうか。

 次になされたルンデモの発言は、「映画の抵抗」を主題としている。彼はまず、70年代の映画の記号論の諸問題が、昨今の映像をめぐる言説において繰り返されている事実を指摘する。映像を記号へ還元しようする欲望は、現在、デジタル・テクノロジーによって実現されたかのように見える。すべては「0」と「1」のデジタル・コードへ還元・通約され、自在なサーチ・コピー・ペーストを許すという楽観論がある。ベルールが一貫してそのような幻想をテクストの「見出せなさ」において批判してきた点をルンデモは確認したうえで、その「見出せなさ」を、間メディア的環境における「映画の抵抗」として分析することを提案する。そのことで、「映画と映像」「アナログとデジタル」等という従来の二分法に囚われない、様々な力のせめぎ合いが理解されるだろうというのだ。

 映画には、第一に、「固定化への抵抗」がある。映画は時間的持続を持った表現形式であり、美術館におけるタブローを前にした観客のように、それを好きなように観想し、言語化し、自由連想を働かせようとする営みに抵抗する。ルンデモは1920年代のロシアの映画作家、ジガ・ヴェルトフがいかにして映画の動きを再現しようとしたかを例として取り上げる。ヴェルトフは、ある種のチャートとテーブルを用いて、動きの記譜を作る試みをしていた。それはある種、デジタル的な映像把握の先駆的例でもある。ただしヴェルトフがそこで意識していたのは、撮影と編集の相互依存性であり、分析的思考と総合的思考、フォトグラムとフィルム・ストリップがいわば弁証法的に出会う可能性が模索されていたという。つまり映像の固定化に対する極めて意識的な戦略がヴェルトフによってとられていたということだ。

 第二に、「ナヴィガビリティー(操作可能性)」の問題が語られる。美術館では、映画館におけるフィルムの受容とは異なり、観客の自由なコミットメントが許され、したがって、映像作品はディレクターズ・カットならぬ「スペクテイターズ・カット」になる、と語られることがあるが、ルンデモはそのような言説に留保をつける。美術館にもまた、観賞の経験をプログラムする力の構造がある。社会、民族、ジェンダー的なヒエラルキーがいまだに存在し、観賞の全面的な自由があるわけではない。また、映画においてある種の「ナヴィガビリティー」を問題にした例として、ルンデモはアンドレ・バザンの議論を参照する。バザンは、古典映画においてはモンタージュの操作性のために観客は受け身に観賞する傾向があったが、ディープ・フォーカスを用いた新たな「曖昧さ」の映画、あるいは「リアリズム」の映画においては、観客が画面の細部を能動的に見る自由を獲得するのだと語った。つまり、「ナヴィガビリティー」の問題は、必ずしも「美術館と映画館」という二分法に自動的に画されるわけではない。

 第三に、ギャラリーにおける映画の抵抗についてルンデモは語る。現在、美術館では時間的持続に規定される映像作品が増加する傾向にあるが、そこでは、観客が自由に移動し観照するという従来の観賞経験と、映像の持続に制約される観賞経験との葛藤が起きている。それはつまり、美術館の制度に対する「映画の抵抗」であり、そこではじめてあきらかになる映画の時間性がある。このように、「メディア間の葛藤」の場においてはじめて、他と通約されない「映画」の姿が再考されうる点をルンデモは強調する。

 以上のコメントに対し、再度、ベルールが発言する時間が設けられた。武田の発言のなかでベルールがとくに注目したのは、映画の象徴的次元の問題であり、すなわち他者との共有によってはじめて映画が映画になるという事実である。武田の言うように、受容環境の変化とともに、映画体験の質は変わってきた。ところが、驚くべきことに、それでも50年前の自分たちと同じように、映画を受容する若者がいるとベルールは述べる。また、これだけメディア環境が変わっているにもかかわらず、映画はあいかわらず映画として存続している。これは逆に驚愕すべきひとつの謎ではないかとベルールは言う。複数の美学的混淆が進むなかで、改めて、映画を映画たらしめる力が理解され始めているのであり、それが今後、検討すべき課題になるだろうとベルールは示唆するのである。

 次にルンデモのコメントについて、ヴェルトフが「プレ・デジタル」の思考を展開したという視点は非常に興味深いと述べつつも、70年代の「映画の分析」とそれを同じ水準で語ることはできないのではないか、とベルールは述べる。20年代のロシアの映画作家にとっては、映画の動きをいかに構成し生成させるかが問題だったのに対し、70年代の分析家は、フォトグラムと運動状態のイメージをつき合わせることで、むしろ映画的表象の限界を問題にしていたからである。ただし、「映画の抵抗」というルンデモの論点には全面的に賛同し、そのように、性急な一般化にいかに抵抗するかが探られなければならないと述べた。

 その後、議論が会場へ開かれると、会場にいたレフ・マノヴィッチが口火を切った。単純化するならば、彼はニュー・メディアにおける諸メディアの「包括」を語ることで、壇上でその「争い」を語った論者たちと真っ向から対立する立場にいるともいえる。そのマノヴィッチ曰く、真に問題なのは引用の不可能性ではなく、とりもなおさず引用されてしまったもの(YouTube、Amazonでの映像消費)がいかに経験されているかではないか。また、オリジナルな経験への到達可能性(attainability)ではなく、超・到達可能性(meta-attainability)こそがいまや問われるべきではないか。マノヴィッチはそのように問いを返す。革新派の面目躍如というべきか、ニュー・メディアは、議論が拠って立つところのカテゴリーさえ書き換えたと主張するのだ。それに対する再・応答は、すでにこれまでの要約のなかに書き込まれているともいえる。いずれにせよ、このような再・包括は、ただちに再・抵抗を呼ぶだろうし、その「間」が絶えず生産されることで、映像論はその言説の場を開いていくだろう。いかなる結論もまだ必要とされてはいないということだ。

27 Nov 2009

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