暗号と時間──
リチャード・カーティス『パイレーツ・ロック』

工藤 鑑

 作品はいつの間にか始まっている。この作品の制作会社などのロゴが表示され、しばしの黒画面が映し出されている時点で、ラジオのチャンネルが何度か切り替えられる音が聞こえてくる。この音は、すでに映画の中の音であり、それを観客は映画の中へと入り込むちょっと前から聞かされることになる。
 黒画面からイギリスの街並みへと移り、ある家の中ではひとりの少年が、両親に「お休み」を言って自分の寝室に入る。ベッドに横たわって電気を消し、手の届くところにある引きだしからラジオを取り出す。早く寝るように、とうるさい両親にばれないように、枕の下に挟んで、スイッチを入れる。ラジオからは海賊たちの声が聞こえてくる──。ブリティッシュ・ロック全盛期、1960年代後半に実在した海賊ラジオ番組「RADIO ROCK」を舞台に、その海賊=DJたちの叫びとささやきを目一杯盛り込んだ映画『パイレーツ・ロック』の冒頭である。

 ラジオの音に導かれていつの間にか始まるこの映画ではまた、物語もいつの間にか幕を開け、いつの間にか進んでいる。冒頭の少年による導入が終わると、RADIO ROCKを収録する船内のスタジオでDJをしている伯爵(フィリップ・シーモア・ホフマン)が、曲に合わせて激しくギターを掻き鳴らす真似をしている様子と、それを聞くイギリス各所のリスナーたちの映像の素早いモンタージュが続く。その中に、ひとりタクシーに乗り込んだ青年(トム・スターリッジ)が、陰気そうな面持ちをして座っているショットが紛れ込む。モンタージュの最後にタイトルが表示され、場面は、嵐の中、先ほどタクシーに乗っていた青年が、RADIO ROCK号を小型船で目指しているシーンへと移る。青年が、本当にこの方角であっているのかと不安そうに船員に問うや否や、RADIO ROCK号が姿を現す。しかし、その船を見て青年がどのようなリアクションを取り、またどのように船員たちに迎え入れられ、船に乗り込んだかは、ショットとして提示されることはない。小型船の側からRADIO ROCK号を捉えたショットの後には、青年はいつの間にかRADIO ROCK号の客室内にたどりついており、この青年の名付け親でもある船長のクエンティン(ビル・ナイ)に迎えられている。いつの間にか、青年は──そして彼に導かれて私たち観客も──物語の中へと踏み込んでいる。

 このシーンで青年を迎えたクエンティンは、青年の母(エマ・トンプソン)が若い頃、彼や彼の仲間内でセックス・シンボルのような存在であった、と口にする。この台詞は確かに、後に青年が自分の本当の父親探しをする際に物語と関わりを持つ要素として配置されてはいるだろう。意味のない台詞ではない。しかし、では、母親がなぜ彼らとともにいたのか、何をしていたのか、ということには、映画が進んでも一切触れられない。そして、どうしてこういう展開になり、この台詞が口にされたのか、この物語が始まる以前に各登場人物同士がどのような関係を持っていたのか、どうしてそれぞれRADIO ROCK号に乗り込むことになったのかは、私たちにはっきりと明かされないのだ。この例が最も端的に現れるのは、青年が船内での生活に慣れてきたころ、食卓に、どの船員も見たことのないひげ面の男・ボブ(ラルフ・ブラウン)が、自分がここにいるのはあたかも当然である、といった風情で紛れ込んでいたことだろう。とにかく、映画を見ている者たちにとって、各登場人物の行動には常に把握しきれない部分が存在している。彼らがこの船に乗るに至った経緯は知らされることがない。彼らはみな、いつの間にか船の上にいる。そして、RADIO ROCK号は、そうした無断乗船を拒みはしない。いつの間にか、船の上で自分の番組を持ち、仲間として馴染んでいるのだ。

 ただ、私たちは、海賊たちが破天荒ではあるものの緩やかな時間を送る生活の合間にときおり交わしあう言動から、彼らが船の外でどのような生活を送っているか/いたかを断片的に推測することはできる。夜のデッキで行われる「告白ゲーム」で、恰幅の良い眼鏡のDJ(ニック・フロスト)が「ビチグソ」の話を告白しているときに、ふと彼が妻帯者である(あった?)らしいことを計り知り、どちらがより高くマストを登れるか競争する、伝説のDJことギャヴィン・カヴァナ(リス・エヴァンス)と伯爵のやり取りから、ふたりの長年のライバル関係を読み取ることは、何ら不可能ではない。むしろ、そうして私たちの憶測を招こうとしているかのようにさえ思える。したがって、彼らが乗船したいきさつも、物語上存在しないことになっているのではなく、ちょっとしたきっかけによって、いつの間にか物語の後ろに息を潜めていることが明らかになる。

 むろん、〈いつの間にか〉の演出が見られるのは、それだけではない。RADIO ROCKのリスナーを船に招待するイヴェントに、海賊局を潰そうとする政府のスパイが紛れ込んでおり、クエンティンにばれて殴られるのだが、その後このスパイがどのように船から降ろされたかは示されず、いつの間にか物語の関心は、船上からいつの間にか消えた多くの女性リスナーたちを探す伯爵たちの側に移っている。あるいは、タバコとドラッグで停学処分をくらって船に送り込まれたはずの青年はいつの間にか船室でタバコをふかしているし、いつの間にか船員たちや船の様子を撮った写真を大量に撮り貯めている、という例を思い出すこともできる。つまり、この映画における登場人物たちの行動や物語の展開の多くが、〈いつの間にか〉のリズムに則って行われているのである。一体何故だろうか。

 別の角度から踏み込んでみよう。この映画の中盤以降、物語の起動装置のひとつとなる青年の父親探しと、青年による父親の救出、というモティーフについて考えたい。この映画の物語は、『ライトシップ』(イエジー・スコリモフスキー監督、1985)のように、息子が父の死を見届ける物語でもなければ、『ライフ・アクアティック』(ウェス・アンダーソン監督、2003)のように、父が息子の死を見届ける物語でもない。また、『ライフ・アクアティック』では、ビル・マーレイ演じる船長と、乗組員としてやってくるオーウェン・ウィルソンが本当に親子であるかは分からないものの、子が父を「パパ・スティーヴ」と呼ぶことに同意し、また父が子を息子であるとはっきり認め、握手する、という契機が存在していた。

 しかし、『パイレーツ・ロック』においては、そのような契機は存在しない。それに最も近い箇所があるとすれば、それは、青年の母がクリスマスを祝いに船にやってくる場面の最後の部分だろう。青年は母に、「マディ・ウォーターズはロックしている」という、意味も分からないままボブから唐突に託された母宛の伝言を告げる。すると母親は、「ボブはそんなことまであなたに喋ったのか」と青年に向かって驚いた反応を示す。「そんなこと」が何を意味するか、それは私たちにも、青年にも分からない。さらなる説明を求めようとしても、母親はさっさと船を去っていってしまう。去り際に、母親の口から、ボブとセックスをした時期から考えれば、この青年がボブとの間に生まれた子供であるとしてもおかしくはない、といったことが聞かされはする。だが、先ほど確認したように、かつて彼女がセックス・シンボルであったとまで言われていたことを思えば、この発言の真偽は定かではない。青年がルームメイトに唆されて最初に疑ったように、クエンティンが父親であるかも知れないし、舳先でクエンティンを父親であると仮定して見つめる青年の様子を眺め、後ろの方でパイプをくゆらして座っている伯爵が父親かも知れない。それは明らかではない。かつて彼ら/彼女らがどのような関係を持っていたか、私たちは憶測することしかできないのだから。第一、青年自身が、本当の父親が誰であるのかを積極的に明らかにしようともしない。ルームメイトなり、母親なりによって暗示された仮の父親を、素直に信じてしまう。

 したがって青年が、そのように曖昧な何人かの父親候補のうちで、他でもなくボブを父親であると信じることになるのは、ほとんど偶然に近いとも考えられる。しかし青年は、母親とのやり取りの後、自分の番組を収録中のボブを訪ね、母親がボブを自分の父親であるというようなことを言っていた、とボブに伝える(ボブは、「そうか、良かった」と答える以上の行動は起こさないのだが)。そして、政府の攻撃によって沈没しかけた船にひとり取り残されたボブを救うために、水中へと潜る。ここで彼は、ボブが父親であることをいつの間にか信じているのだ。そしてそれは、「マディ・ウォーターズはロックしている」という、それ自体では意味を持たない曖昧な伝言が、ボブから母親へと通じたのを目の当たりにしたからではないか。つまり、青年はその言葉と、それに対する母親のリアクションの間に読み取れる飛躍から、母親とボブが過ごした時間の密度を逆算し得たと言えるのではないか。ここには一種の暗号が交わされており、青年はそれを解読できたということなのではないか。ではここで、暗号とは何を指すのだろうか。

 リチャード・カーティス監督の前作『ラヴ・アクチュアリー』(2003)において、‘Love’は言葉を通じたコミュニケーションの問題として描かれていた。親友の妻に恋する男。イギリスの首相と秘書。妻を失った男と息子。上司と部下。落ちぶれたロック歌手とマネージャー。少年と、間もなく転校してしまう少女。作家と、言葉が通じないスペイン人の家政婦。このいずれの関係においても、誰かに対してあるメッセージを伝えたいが、いざ伝えようとするとそれができない(理由は何でも良い——照れでも、その時々の状況によるタイミングの逸失でも、言葉が通じないからでも)者が、そのメッセージを自分と相手との関係においてのみ通用する、固有の言動へと翻訳=暗号化するプロセスが問題となっていた。では、ここで交わされる暗号と、現実の恋愛関係でしばしば交わされるかも知れない、恋人同士の秘密のやり取りのようなものとは、どのように異なっているのだろうか?

 ここでさらに、リチャード・カーティスが脚本家として関わった作品に目を移してみたい。『フォー・ウェディング』(マイク・ニューウェル監督、1994)では、男から女への告白はデヴィッド・キャシディーの歌詞の引用に託されていた。あるいは、『ノッティングヒルの恋人』(ロジャー・ミッシェル監督、1999)では、記者になりきった男から女への記者会見での質問が、プロポーズになっていた。歌詞の引用も、記者の質問も、通常の(現実的な)使用方法から考えるならば愛の告白に使うのは難しい一方で、『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督、1953)に代表されるように、映画の演出としては、お約束と言ってしまえるほどに使い古されている種類の言葉である。しかし、この2本の映画では、それぞれのカップルにとって最も信じられるような、鮮烈な言葉として発せられていた。それが可能なのは、ここでは歌詞の引用なり、記者の質問なりが、ふたりの間でのみ共有された文脈で発せられる最も親密な言語、いわば暗号として機能していながら、それが、ポピュラー・ミュージックの歌詞であったり、記者会見場での質問のやり取りであったりという、ある公的──ここでは、大多数の他人にとっても理解されうる、という意味だが──な言語に託されているからである。『フォー・ウェディング』しかり、『ノッティングヒルの恋人』しかり、ラスト近くでふたりが告白を交わし合った後には、ふたりの友人たちの間にもまた、カップルが成立する、というショットが挟まれていたことを思い出そう。『フォー・ウェディング』では友人たちの結婚式の写真が次々と映し出されるし、『ノッティングヒルの恋人』では、それまで最悪にもてない人生を送ってきた友人が、たまたま隣にいた女性記者と見つめ合う。あるふたりの間で暗号の交換が成立した後には、そのふたりの周囲にいる友人らもまた、結ばれる。つまり、これが可能なのは、暗号が密かに、いつの間にか、暗号を開発した当事者以外の間でも、公的な言葉に紛れて取り交わし合われているからだ。そのやり取りを複数の関係に拡張したのが『ラヴ・アクチュアリー』であり、さらに、電波に乗せて無数の(映画内の表現で言えば「ものすげえ数の」)関係へと拡張したのが『パイレーツ・ロック』であると言える。

 暗号を交わし合う者同士の間で、暗号がある意味を伴ったメッセージとして流通するのは、暗号が形成される以前にお互いの間で築かれた時間が存在するからだ。暗号のやり取り、例えば問いA→応答Xというやり取りによって成り立つ暗号の間には、A=B→B=C→C=D・・・・・・=Xという一連のやり取りが圧縮され、〈A=X〉になるまでの無数の言い換えによって紡がれてきた時間がある。『パイレーツ・ロック』で、とりわけ先ほどの例における青年の母親とボブの間で交わされるのも、こうした意味での暗号に他ならない。しかし、暗号は、映画とそれが持つ物語の内部で取り交わされるに留まらず、この映画の時間の流れにも隠されていて、それが、私たちに〈いつの間にか〉の感覚をもたらす。観客も、〈いつの間にか〉という感覚を手がかりにして、『パイレーツ・ロック』というひとつの暗号の解読に参加している。この映画で繰り返される〈いつの間にか〉の演出は、私たち観客に、その〈いつの間にか〉の間にあったはずのいくつかのやり取りを補わせようとし、あるいは補うことなど到底できないにしてもそこに存在したはずの時間を想像させようとする、一種の暗号としての作用を持っている。そう、暗号は周囲に波及する──海の底へと沈むRADIO ROCK号が、大量のレコードと青年が撮り貯めた写真を海面へと向かって浮上させていたように。

 ここで、観客の立ち位置がはっきりする。すなわち、〈いつの間にか〉の横溢を目にすることで、この映画の観客は、そこから抜け落ちた時間を自分の頭で補うことができる、ということだ。観客は自らの想像によって、この映画の物語だけでは語りきることのできない多くの時間や、海賊たちが騒ぎ回ったであろういくつもの出来事の存在を回復することができる(こう考えると、この作品が冗長であると批判が出るのももっともだ。何しろこの映画に溢れる暗号は、物語の時間をコンパクトにまとめることを拒んでいるのだから)。ここに現れてくるのは、過去の一時期に熱狂を持って迎えられ、特定の文脈を背負った文化を、現代に生きる私たちがいかにしてノスタルジーとは無縁に受容できるか、という問題であるとも言えるだろう。『パイレーツ・ロック』を見ることは、海賊ラジオという、過去の一時期におけるロックのマイナーな受容のあり方や、そこに携わった人々が、単なる回顧とともに過去形で再現されるのを見ることではない。私たちは〈いつの間にか〉のリズムによって仄めかされる、暗号が形成されるまでに取り交わされたやり取りの積み重ねの時間を想像することができる。それによって、この映画を現在見ている者もまた、海賊たちから送られてくる電波を、今、受信することができるのだ。
 『パイレーツ・ロック』の冒頭、両親の言うことを聞いたふりをして枕の下にラジオを隠し、RADIO ROCKに耳を澄ませる少年は、すでに海賊の一員であると言える。海賊ラジオを聞き、そこから流れてくるロックに喜びをもって反応することで、ラジオを通じた海賊たちの暗号のやり取りにいつの間にか身を浸すことができているからだ。海賊たちは、「ロックしているか?」という暗号を媒介にして、声を交わし合っている。そこにはこの少年ばかりでなく、映画を見ている私たちもまた、参加している。

 もう一度思い出そう。冒頭、映画がまだ黒画面のまま、色付き、動き出し始めるのを待っている間に、すでにラジオの音が聞こえていたことを。あるいは、エンド・ロールが終わって席を立ちかけた観客に、“What's next?”という問いが不意に投げかけられたことを。暗号に変換された叫びとささやきは、この映画を見ているひとりひとりの海賊たちの鼓膜の先へも、いつの間にか届いているのだ。

『パイレーツ・ロック』 THE BOAT THAT ROCKED

監督・脚本・製作総指揮:リチャード・カーティス
製作:ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、ヒラリー・ビーヴァン・ジョーンズ
撮影:ダニー・コーエン
編集:エマ・E・ヒコックス
配給:東宝東和 出演:フィリップ・シーモア・ホフマン、トム・スターリッジ、ビル・ナイ、ニック・フロスト、ケネス・ブラナー、ラルフ・ブラウン、リス・エヴァンス、エマ・トンプソン

2009年/イギリス・ドイツ/135分

20 Nov 2009

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