空気人形と変貌する身体/映画
──是枝裕和『空気人形』

film ]  是枝裕和
渡邉大輔

「写真/瀧本幹也」

 是枝裕和の長編劇映画第7作『空気人形』は、突然人間と同じ「心」を持ってしまったラブドール(=「空気人形」)のはかない恋模様をめぐる寓意的な「ファンタジック・ラブストーリー」として、現在話題を集めている。
 レヴューの読者はいささか面食らうかもしれないが、最初にこの映画に関するネガティヴな評価を先に記しておきたい。残念ながら、筆者はこの映画をあまり積極的には評価できなかった。とはいえそれは、韓国の実力派若手女優ペ・ドゥナが演じた主人公の空気人形が、いわゆる──作中でも彼女自身が幾度か繰り返すフレーズで言うと──いわゆる「性欲処理の代用品」として、登場する複数の男性たちに抑圧的に扱われる主題や演出へのPC的な批判意識ゆえではない(筆者の周りを見る限り、これは当然ながら女性観客をはじめこの作品に関する否定的評価の一般的な傾向のようだが)。むしろ、この作品の主題や物語構造それじたいに濃厚に反映している、いかにも90年代的な「疎外論」の図式の素朴さや反動性に対してである。

 この映画の物語は、都会の川沿いに並ぶ古びたアパートで暮らすしがない中年フリーターの秀雄(板尾創路)がマスターベーションの道具として使用している「空気人形」が、ある日主人が仕事に出た後の部屋の中で突然、人間の「心」を持ってしまうところから始まる。その後、生まれて初めて一人で彷徨い出た街中のレンタルビデオ店で働く青年・純一(ARATA)に一目惚れをした彼女は、「人間」の振りをして、純一の店でアルバイトを始めることになる。この空気人形のイメージは、言うまでもなく、「未来のイヴ」から「鉄腕アトム」まで、古今東西のSFやファンタジーで数多く描かれてきたような、いわゆる「人間になることを欲する『亜=人間』」というロマン主義経由の設定を忠実に踏襲している。そもそも空気人形というイメージ自体、固有の実質ある「内面」(近代市民社会的な主体像)を欠如した空っぽの存在という、いかにもモダニズム以降のニヒリスティックな人間像に対する隠喩的機能を効果的に備えている。また、そうしたヒロイン・空気人形の「亜=人間性」のメタファーは、「僕も君と同じ空気人形だ」と彼女に語りかける孤独な魂を抱えた青年・純一をはじめ、母親の帰りを待ち続ける父娘や、過食症に陥るOL、自らの死の訪れを静かに受け入れる老人など、彼女の周囲に配置したさまざまな空虚さを抱える現代の都市生活者の姿との対比において、いっそう寓意的で、紋切り型のリアリティを強めるだろう。いずれにせよ、「(単独的な意味を担った)『人間』になること」を希求しながらも*1] 、その本来性には永遠に到達しえない(「疎遠 fremd」なものに留まる)という、一種の否定神学的な不可能性(「人間」と「人間ならざるもの」の間の宙吊り状態に耐えること)に物語のすべての倫理的強度を集約させているという点において、『空気人形』は一貫して疎外論的な調子を抱え込んでいると言ってよい。

 以上のような近代主義的な物語構造のフレーム(例えば共同体主義やハイデガー/小林秀雄的な「故郷喪失」の主題)がそれじたいでイデオロギー的にいささか退屈であることは言うまでもない。しかも、こうした図式の思想的な保守性は、ここ最近、評論家の宇野常寛がサブカルチャー評論の文脈で少なからず説得的に論じたように(「ゼロ年代の想像力」)、かつて90年代を通して強いリアリティを持っていた、もはや反動的な「物語」でもあることでいっそう強い印象を帯びざるをえない。宇野が詳しく整理したように、90年代は大ヒットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』をはじめ、野島伸司のテレビドラマや、アメリカン・サイコサスペンス小説、岩井俊二の映画、幻冬舎系文学など、プレーンな日常の中で肥大化した自意識が本来の自分をトラウマ的に追い求めては、その不可能性に直面する(がゆえに、「いまここ」の自分に逆説的に没入する)という物語がジャンルの別を問わず氾濫していた。例えば、是枝が『空気人形』に先んじて発表したドキュメンタリー映画『大丈夫であるように―Cocco 終わらない旅』(2008)もまたそうしたリアリティを周回遅れで反復している。

 そして、宇野によれば、こうした傾向は、2000年代に入り、アニメやコミック、ライトノベルといったオタク系文化の中で、鏡像的な他者への想像的な同一化によってナルシスティックに肥大化した自己愛を充足するという非倫理的で自堕落な物語類型(彼はこれをひきこもり/心理主義的な想像力としての「セカイ系」と呼ぶ)へとさらに洗練を遂げる。『空気人形』では空気人形にメイド服やナース服のコスプレをさせ、実際に美少女メイドのフィギュアを部屋に置いた柄本祐演じるオタク青年も登場させた是枝が(無意識の演出にもせよ)こうした文脈を知らないわけがないだろう。例えば、2002年から連載が続いている相田裕の近未来SF漫画「GUNSLINGER GIRL」などは、一方で身体をサイボーグ化されながら、他方で生身の人間への擬似血縁/恋愛的な感情移入を強要される少女(義体)たちの葛藤を物語の中心に据えている点で、『空気人形』の主題や物語構造に先行している。そもそも『空気人形』も業田良家の漫画作品(「ゴーダ哲学堂」)を原作としているが、ジャンル的差異に関係なく比較すると、是枝の今回の新作はどこか素朴さを感じてしまう(主題や物語展開だけで単純に両者の優劣を語ることはできないにしても)。したがって、この『空気人形』もまた、ひとまずそうした90年代的なクリシェの時代遅れの再演であるばかりか、作中で空気人形が自らを語る「型遅れの安物」といったような印象も拭えないのだ。

「写真/瀧本幹也」
 ──と、ここまでだいぶ否定的な言葉を書き連ねてきたが、一方で『空気人形』は、また別の読みの可能性をいくつも孕んだ興味深いフィルムであることも確かである。いろいろ論じるべきことはあるのだが、ここではまず是枝のキャリアに即してこの作品を語るところから始めたい。もともとドキュメンタリー作家から劇映画の監督に転向し、またテレビの演出家から映画監督に進出した是枝は、おそらく「映画」というメディアに対する強い反省意識を伴った映画作家である。例えば、それは映画そのものを作中に印象的なガジェットとして導入してきたことからもはっきりと窺える。よく知られるように、監督第2作の『ワンダフルライフ』(1998)は、廃校めいた趣の施設に集められたあの世に行く前の新米の死者たちが、その施設の職員たちの手によって、生前の最も印象的な体験を映画として再演するという奇妙な通過儀礼を描いたメタ映画的な物語だった。この作品の施設=密室は、いわば「映画館」の比喩であり、死者たちの人生を観察し映画撮影を行う施設職員はいわば「観察者=映画作家」としての二重性を背負う是枝自身の寓意と理解することができるだろう。

 もとよりこの『ワンダフルライフ』もまた、「人間」(生者)と「人間ならざるもの」(完全な死者)との間に宙吊りになった存在を主役にしている点で、ほぼ十年後の『空気人形』とはるかに呼応する作品だと見ることができるが、実際、今回の『空気人形』においても「映画」をめぐる構成要素は物語の中に頻出している。それはとりあえず言うまでもなく、空気人形と彼女が恋をする青年が働く「レンタルビデオ店」に象徴的に表れていると言ってよい。ここを舞台として、物語の中に登場する数多くの映画のタイトルや映画作家の名前は、「映画」そのものに対する自己言及的な意識に満ちみちている。

 とはいえ、おそらくそれは『ワンダフルライフ』に込められた映画に対するメタファーとはまた違った意味合いを帯びているだろう。そして、このことは現代において映画(映像)を受容する私たちの「身体性」の様相を考える時に非常に示唆的な意味を持っている気がする。どういうことか。そのことを間接的に示しているのが、まさに空気人形が「心」を持ってしまうことを映像として伝える、作品冒頭の印象的なシークエンスである。まず、持ち主の秀雄が出て行った部屋の中に置かれたベッドに上半身を起こして寝かされている裸体の空気人形を足元から少しローアングル気味で捉えたショットで始まるその場面は、その後、幽霊のように音もなく動き出した空気人形がそのまま静かにベッドから降り、ベッドの足もとを回り込んで、画面右側に開かれた窓のほうへ向かっていくのをパンで追う。ショットが切り替わり、朝の空気が入る窓辺に立った空気人形の上半身のほぼ左側面にキャメラはまっすぐに構えられる。一瞬の間を置いて、空気人形の右腕がすうっと持ちあがると、キャメラはその先の掌に焦点を合わせて行き、そこに窓外の物干し竿からしたたる雨垂れがボトッ、ボトッ、と、ビニールに当たって硬質な響きを聴かせるのを写す。そのまま再びキャメラは、空気人形の上半身のある右側にパンしていくのだが、そこには先ほどまであったビニール製の半透明の身体ではなく、ほのかな温かみを持って朝日を浴びるペ・ドゥナのヌードの身体に変わっている。そして、また再度キャメラは伸ばされた右腕を伝って掌のほうへパンしていくと、そこにもいつの間にか生身の掌があり、雨垂れは、先ほどの音とは違った人間の皮膚に当たって弾ける微かな音を立てる……。

 空気人形のビニール製の身体が生身の身体に変わる──つまり、無機物のモノが「心」を持ってしまったことを観客に鮮烈に語る、リー・ピンビン撮影のこの短いながらも重要なシークエンスは、ある意味で『空気人形』というフィルムが持つ特異なメッセージを端的に伝えている。というのも言い換えれば、ここではまず、空気人形の内面(主観)の変化がほかならぬ物質(モノ)としての身体性によって暗示的に示されていることであり、さらにその身体の独特の表象は、現代の映像を受容する主体性のありようをメタフォリカルに描いているのではないか、ということだ。

 例えば、このシークエンスの映像は、空気人形の身体性の表象が孕む意味について、実は先ほど要約したこの作品の物語の疎外論的な構図とは別種の文脈をも呼び込むことになるだろう。もとより右に述べた疎外論の図式では、いわば客体としての経験的かつ私的な身体性を消去した形而上的な主観性=「内面」の獲得に人間性の全体的かつ本来的な回復が夢見られることとなる。しかし、実はよく知られるように、近代以降の人間(主体)をめぐるイメージは、むしろ主にそうした私的な「身体」そのものが発散する欲求や機能の十全な解放にこそその人間本来の理想が託されてきた。それは具体的にはマルクスによって最も精緻に定式化されたプロレタリアート=「労働する身体」というイメージである。例えば、この点について社会哲学の観点から膨大な思考を展開しているのが、ハンナ・アレントだろう。彼女は主著の『人間の条件』の中で、よく知られるように人間の活動的生活の位相を、「活動 action」と「仕事 work」と「労働 labor」に区分し、近代における「労働」の上昇の意味を分析した。そのうえでアレントは、古代ギリシャの哲学者が(アレントの先の区分では「活動」に属する)公的領域=「現われの空間」を組織するために一貫して重視していた「言論」もまた、それが最終的には万人の使用対象となる「生産物」として外化=モノ化されることが重要であると指摘している。「……世界性という点から見ると、活動と言論と思考は、これらのうちの一つが仕事あるいは労働と共有している以上に多くのものを相互に共有している。……人間事象の事実的世界全体は、まず第一に、それを見、聞き、記憶する他人が存在し、第二に、触知できないものを触知できる物に変形することによって、はじめてリアリティを得、持続する存在となる。……人間世界のリアリティと信頼性は、なによりもまず、私たちが、物によって囲まれているという事実に依存している」*2] 。

 アレントによれば、元来人間にとって動物とは異なる次元、つまり、超越的なイデアの世界について思考する言論や理性的な活動も、結局は世界内部において一定の永続性と耐久性を保持するためには、労働やそれを行う身体と同様の物質的な加工=モノ化を必要とせざるをえない。ここで、身体=労働=物質という、西欧世界が長らくないがしろにしてきた領域が近代以降の世界において人間性の獲得を考えるうえで積極的な意味を持つようになる。その意味で、『空気人形』における空気人形の「人間性」=「心」の獲得がある種の身体性(フィジカル/物質的なもの)の変質によってこそ兆候的に示されたのは、きわめて興味深かったと言えるだろう。言ってみれば、先に示した一連のフッテージで観客の耳に鳴り響いた対照的な二つの音──「ボツッ、…ボツッ…」というビニールに雨垂れが当たる音と、「ピタッ、ピタッ」という皮膚に落ちる雨垂れの音の鋭い対立は、きわめて「物質的」なテクスチュアを帯びて、このフィルムが描こうとしている世界を官能的に形象化していたのだ。端的に言って、筆者が『空気人形』で最も感動的だったのはこの場面である。しかも、その身体の部位の中でもとりわけ「手」の仕種がクロースアップで強調されたのも、ロックやアレント、ハイデガーらがいわゆる最も「仕事をする」(世界を人間化する)部位として手を捉えていた一連の議論とも遠く共鳴していると看做せるかもしれない。

 いずれにしろ、こうしたタイプの身体論や人間論は、近代文学以降に現われた、『空気人形』に先行する、数々の「亜=人間」をめぐる物語の主題にも大きな影響を与えていることは疑いを容れまい。例えば、カレル・チャペックの「R.U.R.」(「ロボット」)にせよ、フリッツ・ラングの『メトロポリス』(1926)にせよ、20世紀前半の高度資本主義社会成立までに作られた無数のロボットSFでは、亜=人間(ロボットやアンドロイド)たちは、「労働する身体」としての人間の類的本質を模倣(再演)しつつも、それを撹乱し搾取する無気味な存在としてはっきりと描かれている。

 しかし、ここで面白いのは、一方でアレントが、人間の私的身体の可能性を強調したマルクスは、そうした近代の「労働する身体」のさらなる徹底化=私的領域化が、反対にその性質を希釈させてもいくと考えていたと指摘していることだ。彼女はこう書いている。「むしろ、事実として残るのは、マルクスが、どの時代の作品においても、人間を<労働する動物>と定義づけておきながら、次いで、労働というマルクスによれば最も人間的で最大の力をもはや必要としない社会に、ほかならぬ<労働する動物>である人間を導いているということである」*3] 。アレントによれば、マルクスの提示したプロレタリアートの身体=「労働する身体」は、近代そのものの持つ再帰的な形式化の果てに、自壊してしまうことになる。とはいえ、こうした彼女の図式は、現代に生きる私たちにとっても、すでに馴染みの深いものになっているはずだ。例えば、アレントがすでに指摘しているように、資本主義の発達に伴い個々の労働が日増しに分業化し、タスクの流動性が過剰に上昇する結果、現代人の身体はもはや高度経済成長時代の中流サラリーマンのように労働=「生産/生殖する身体」という国民国家的要請に紐付けされてはいない。それは、21世紀社会に増大するフリーターや非正規雇用者のような、一方で淡々とその日をサヴァイヴしていく「無為の身体」であり、他方ではこれまた淡々と本能的欲求を効率的に解消しうる「欲望する身体」である。

 これらはいずれも、『アウシュヴィッツの残りのもの』や『開かれ』などの著作において、ジョルジョ・アガンベンが連綿と語ってきた問題系だし、ここ数年の日本の言論界では、東浩紀が「動物化」という用語で論じてきたそれであることは自明だろう。さて、もはや断るまでもないだろうが、こうしたポスト・フォーディズム的な、いわば「下流化」(三浦展)した新しい身体のイメージとは、もちろん、『空気人形』において、不器用なファミレスのウェイターをしながら、ラブドールとのナルシスティックな情事に耽溺する秀雄の表象する身体性のことである。秀雄の身体の零落したプレザンスは、すべてを生産物として外化=モノ化することで、人間としての類的本質を獲得する近代のプロレタリアート=「労働する身体」とは、明らかに別物の構造をまとっているのだ。

 以上のように秀雄の身体を媒介として、モダンの身体(「労働する身体」)とポストモダンの身体(「無為の/欲望する身体」)との対照性を設定する時、翻って秀雄の身体と接続する空気人形の身体も、再び別種の位相を含まざるをえなくなる。では、ここで改めて問おう。空気人形の身体が表象するものとは何だろうか? おそらく、ここで再び思い出さなければならないのが、彼女が勤めるレンタルビデオ店の存在である。周知のように、80年代以降のレンタルビデオの普及が促した新しい映像受容の環境は、それまでの中心的な映像メディアであった映画やテレビが人々に与えてきた映像受容の形態を根本的に変質させてしまった。例えば、それは映画のように映画館の暗闇の中で大勢の他の観客に囲まれながら黙って目前の映像に感情移入しつつそれが構成するストーリーを追っていく(象徴的な意味賦与を受け取っていく)というあり方とも、かつてのテレビのように家族全員が茶の間に座り、同じ時刻に始まる国民的番組を揃って観賞するというあり方とも決定的に異なる。

 レンタルビデオ的な文化が可能にした映像環境とは、いわば現在の若いネットユーザのそれにも通じていく、各人の多種多様な趣味や嗜好に合致したコンテンツをそれぞれが単独で孤独に観賞=消費していくという細分化・タコツボ化したスタイルだろう。敷衍しておけば、かつての映画(映画館)やテレビの構成した身体性とは、第一に学校や病院と同様、いわゆる微視的で主体構成的な権力によって主体の内面を潜在的に管理していく「規律訓練的」(フーコー)的な身体性であり、また第二にイデオロギー装置としてのメディアを通じて社会成員の身体性や行動を同期させ、同一の「主体」(国民)としてアイデンティファイしつつ束ねていく「国民国家的」な身体性である*4] 。言ってみれば、それらは産業社会において工場の大量生産に従事するプロレタリアートの身体──まさに、マルクス=アレントが注目した労働(規律訓練)への身体の従属によって、身体の解放(主体化)を果たすモダンの身体性と等しい。

「写真/瀧本幹也」
 何にせよ、こう言ってよければ80年代以降に登場した「ビデオ的身体性」とは、そうした映画やテレビに象徴されるモダンの身体性をなし崩しにし、より多様な分子的記号のセリーが映像を受容する主体を刺し貫き、主体はきわめて流動的かつ効率的に──「動物的」に──映像から快楽を備給される存在へと変容していった。さて、ここで前に触れた問いに再び戻ろう。空気人形が表象している身体性とは何だったのだろうか。それはおそらく、こうした現代の、無為でありながらも高度に多様化した快楽の形態を不断に欲望してやまない新たな「視覚的人間」が消費するいわば「レンタルビデオ的」な、つまりポストモダン的文化装置として変質を遂げつつある21世紀の「映画」そのものの隠喩ではないだろうか。例えば、彼女の空気で膨らんだ身体が何かのきっかけで萎んでしまう時、ことさらに観客の目に強調されざるをえないビニール製の薄い表皮は、まさしく映画のイメージを刻印する「薄い被膜 film」を容易に想起させるだろう。また、そのことを暗に示唆するかのようなシークエンスが『空気人形』には存在することを観客は覚えているはずだ。それは映画の後半、秀雄に隠れてレンタルビデオ店でのアルバイトをこなしていた空気人形の前に、突然客として秀雄が訪れるシークエンスだ。秀雄はアダルトビデオのコーナーで数本のDVDを借り、それをレジにいる空気人形の前に差し出す。勘定を待つ間、手持無沙汰に茫洋と佇む秀雄と、彼に気づかれないように顔を俯けながら応対する空気人形をほぼ側面から捉えるショットは、秀雄と空気人形のぎこちない動作ゆえに、いっそう強烈に彼らの「身体性」の隠喩的な関連を浮き立たせていると言える。すなわち、秀雄という下流化する現代の「ビデオ的身体」(「ヒデオ」は「ビデオ」の隠喩にも読める)にとって、アダルトビデオも、また空気人形も等しく自身の欲望する身体の需要を満たすカジュアルな「コンテンツ」なのであり、その意味においてここでの空気人形の表象は、「人間になることを希求しながらなれない『亜=人間』」であるとともに、ビデオから動画共有サービス、携帯電話まで縦横に細分化・多層化しつつ広大なネットワークを構成する変質した現代映画(もはやそれは映画ですらないのかもしれないが)の姿としても理解できるのである。

 先にも短く触れたが、同じように「映画」への批評意識を織り込んでいながら、90年代に製作された『ワンダフルライフ』と『空気人形』の決定的な差異はここにあると言ってよい。前者の「映画」のイメージがいまだ映画館的な従来のイメージに留まっていたとするならば、今回の是枝の新作のそれは、明らかに映画をめぐるラディカルな変化の文脈をはっきりと汲み取っている。例えば、『ワンダフルライフ』の主な舞台は廃校めいた施設だったが、これは明白に映画館や病院のような規律訓練的な空間を想起させた。しかし、今回の『空気人形』で是枝が物語の冒頭からラストまで、私たちの眼に幾度も印象的に映し出したのは、一見して明らかなように、箱庭を思わせる密集する都会の家並みと、その合間にのっぺりと佇立する高層ビルやマンションのロングショットである。この絶えず「エアリー」に揺れ動くキャメラによる奥行きや陰影が極度に圧縮されたフラットな風景のショットは、どこか空気人形や純一が働くレンタルビデオ店の店内に敷き詰められた棚の風景と絶妙に重なり合い、作品世界の基調をなしているのだ。筆者にとって、『空気人形』というフィルムのポジティヴな読みの可能性はここにある。であるならば、私たちは、秀雄と同様、この「空気人形としての映画」に不可避的に寄り添いつつ、そのさらなる変容の兆候を見届けなければならないのかもしれない。

空気人形

監督・脚本・編集:是枝裕和
原作:業田良家「ゴーダ哲学堂 空気人形」(小学館ビッグコミックススペシャル刊)
企画:安田匡裕
プロデューサー:浦谷年良、是枝裕和
撮影監督:李屏賓
美術監督 種田陽平
録音:弦巻裕
音楽:World's end Girlfriend
出演:ペ・ドゥナ、ARATA、板尾創路、高橋昌也、余貴美子、岩松了、星野真里、丸山智己、奈良木未羽、柄本佑、寺島進、 オダギリジョー、富司純子

9月26日(土)、シネマライズ、新宿バルト9ほか 全国順次ロードショー

2009年/日本/116分

(配給・宣伝:アスミック・エース エンタテインメント)

[脚注]

*1.
その意味で、空気人形が秀雄に「のぞみ」という名前で呼ばれているのは暗示的である。蛇足ながら、これはペルシャ語で「理想」を意味するヴィリエ・ド・リラダンの小説『未来のイヴ』(1886年)の女性アンドロイド・ハダリーを容易に想起させる。
*2.
ハンナ・アレント『人間の条件』(志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1994年)149~150頁。
*3.
前掲書, 161頁.
*4.
メディアやアーキテクチャの同期/非同期性に関する現代的なコミュニケーションをめぐる議論については、濱野智史『アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版、2008年)第6章を参照のこと。

23 Oct 2009

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