タブラ・ラサの地獄
──松本人志『しんぼる』

film ]  松本人志
三浦哲哉

 『シネマ坊主』シリーズとして単行本化された松本人志の映画コラムは、既存の映画がいかに無意味な約束事にしばられているかをその都度、指摘していくことによって延々と書き継がれていた。不自然なハッピーエンドやお約束のセリフ、どうして映画だとこれらが許されるのか。そう語ってきた松本は、自分で撮る側にまわったときに「映画を壊す」という目標を掲げることになる。あの松本にならば、なにか勝算があるに違いない。これまでの彼の活躍には、そう思わせるだけの実績があった。では実際、その成果はどのようなものであったか。第二作『しんぼる』が発表されたいま、考えてみることにしたい。

 前作『大日本人』(2007)は、実のところ、なにかを壊すというよりも、松本がすでに実証済みの方法論を用いて手堅くまとめられた作品だった。主人公がドキュメンタリー番組の取材を受けるパートは、「ガキの使いやあらへんで!!」における「なりきり」疑似ドキュメンタリーのフォーマットを用いて構成されている。映画館の暗闇と沈黙のなかでそれを注視するのはいささか妙な気分だったが、驚きよりは安定感を感じさせる構成だった。「映画を壊す」発言との関わりで、見るべきものがあったとしたら、特撮怪獣ものの部分のほうだろう。ここでは、『シネマ坊主』さながらに、ジャンル表現の様々な不整合を指摘し裏返そうという試みがなされている。たとえば、ヒーローが巨大化するときパンツも一緒に巨大化するのか、という昔年の疑問。松本は最初から巨大なパンツがなければおかしいと考え、それを映像化してみせた。確かに可笑しい。だがそういうツッコミをもってして、「映画を壊す」といえるかどうかは疑問である。結局、裏返すにしても、全てはそうした約束事の上に、つまり映像表現の遺産の上に成り立っているように見えるからだ。結局『大日本人』は、過激さよりも、穏当さによって評価すべき作品になった。もちろん処女作を手堅くまとめるのは、その後のステップのために、決して悪いことではない。

 さて、そこでこの度の『しんぼる』である。『大日本人』から持ち越された松本の約束は、前作以上に斬新かつ実験的だと噂された本作において、なんらかのかたちで果たされることになるだろうか。
 本作は、メキシコを舞台にプロレスラーとその家族の一日が描かれるパートと、松本がパジャマ姿で謎の白い部屋にひとり閉じこめられるという独演のパート、そのふたつが交互に並行して進むという構成を取る。
 メキシコパートはその冒頭、大望遠で捉えられたどこか中南米らしい植物が散見される辺境の一本道を、おおぶりな自動車が砂埃を舞上げて疾走するショットから始まる。そこでは、既視感を帯びたいかにも映画的とひとに思わせる類の画面が無難に連続していくことになる。
 ところが、もう一方の白い部屋の独演パートは180度趣向が異なる。10数メートルほどの白い壁面に四方を囲まれた密室に、松本演じる主人公がパジャマを着て、ただひとり理由もなく佇んでいる。彼自身、なぜそこにいるのかわからず、「ここはどこですか」と独り言をつぶやく。何の物音もしない完全な密室。一見して壁には傷一つなく、出口もなさそうである。が、ふと見ると、ひとつの突起物がある。松本が顔を近づけてみるとその幾何学的造形はあきらかにチンコである、というのがひとつめのギャグ。このチンコ型突起は実は部屋中を無数に埋め尽くしており、松本がそのひとつをボタンのようにして押すと、使い道の不明な様々なオブジェが飛び出してくる。以後、松本はチンコを押し、オブジェを受け取り、そのオブジェを使ってパフォーマンスを見せる、という展開が続く。

 これはなにか。もちろん見たままなのだが、メキシコパートのいかにも「映画みたいな」と意識した画面に比べ、こちらは実験室のように、まっさらな何もない空間である。つまりここはタブラ・ラサの空間だ。何もない場所で、文字通り独りでなにごとかを産出すること──いわば無からの創造を自分に課すかのような状況なのである。『大日本人』のように、他人の創作物にあぐらを欠いたパロディではなく、本当にゼロからなにかを産出すること。密室の内部へ自らを追い込むことで、松本は自らの発想力のみ恃んでフィルムを持続させようとするかのようだ。

 だがしかし、笑いに関して百戦錬磨を誇ってきた松本といえども、この試みが容易でありえようはずはなかった。アイディアが続かない、ということよりも、まったくのひとりであるために、生まれたアイディアが反響してゆかない、という苦しさが強く印象に残る。たとえばここに浜田がいれば、と考えてもしかたがないのだが、ガイド役を欠いた状況で、伏線も物語の枠もなにもないタブラ・ラサの苦痛がいやがおうにも際立つのである。密室の独演がはげしくすべる危険性をはらんでいたことは松本自身が一番よくわかっていただろう。なにしろ笑わせる技術において、業界で誰も敵うものがいないプロ中のプロなのだから。テレビ空間のようないかなるフォローもありえず、ライブ・パフォーマンスにおけるリアクションもない、一方的な観察の対象となるしかない映画において、松本はこれ以上ない裸に剥かれるのである。松本は、あえて自分をほとんどマゾヒスティックに孤独な場所へと追い込み、苦しそうに顔を強ばらせる。そしてほとんど必然的に、笑いから遠ざかっていく。

 結果、なにが映ったのか。それは「映画を壊す」と語った松本の試みの困難と苦痛のドキュメントではなかったか。とりわけ印象に残ったのは、その持続の長さであり、間が持たない苦痛である。松本は、それを編集で弥縫することをほとんどしなかった。その技量がなかっただけなのかもしれないが、苦痛をそのまま引き延ばそうという意図があったのも確かだろう。たとえば、寿司を次々と口に含んでいく場面。マグロの寿司を壁から飛び出させるボタン(=チンコ)を発見した松本は、寿司を何貫も手に入れていくのだが、途中で醤油がないことに気付き、でもしかたがないので味気ない思いをしながら醤油なしでもくもくと食べてゆくのだが、ようやく食べ終わったと思ったときにかたわらのボタン(=チンコ)をふと押すと、まんまと醤油が飛び出てくる、というギャグなのだが、松本はカットなしで、もぐもぐとかなりの数の寿司を実際に食べていく。このような痛ましいロング・テイクが『しんぼる』には散見される。それを受け止める浜田もいなければ、松本を取り囲むスタッフもそこで助け船を出すことはない。テレビであれば「公共の電波でこんな過激なことを」という落差が生まれもするが、映画館では苦痛が続くだけである。映画館において観客は、チャンネルを変えることもできず、携帯電話に逃避することもできず、ひたすら画面を見続けなければいけない。笑えようが、すべっていようが、ともかく観察しつづけなければいけない。

 おそらく、松本がほかならぬ映画館において、自分の芸のドキュメント、それも最も困難な状況におけるドキュメントを晒すことの効果は以下の点にあった。すなわち、これまで成立してきたと思われていたものが、「実は」どんな習慣に支えられていたのか、また、その習慣をはぎ取られたときにどんな裸の姿をさらすのか、それが文字通りパフォーマンスとして表現されたのは確かである。タブラ・ラサは、安逸な自由の境地などではなく、習慣を奪われた人間の地獄だったのだ。それが『しんぼる』の最大の教訓ではないか。だから「映画を壊す」という試みは、ある意味では成功を収めたといえる。というより、そもそも「映画を」と括る必要はなかったのだと思う。松本はただ自分が映像で表現してきたに笑い──笑いを支えるもの、を壊したのである。そして映画は、その試みのために必要とされた。あらゆるものをそれだけで自律した観察の対象に変え裸に剥く映画という装置を使って、松本はそれまで自分を支えてきたものを壊そうとしたのではないか。

 そのように考えるならば、映画の終盤における白い密室の装置の飛躍には留保をつけたくなる。前半で使われた密室に続いて現れる第二の密室は、白い壁面に無数に飛び出したチンコ型のボタンが、それぞれ実世界におけるなんらかの動作(たとえばある花が咲く、など)と対になり、いわば世界のコックピットとして現れる。自分の脳の中とその外の世界が、無数のボタンによって対応しているかのようなこの独我論的装置は、ほとんどコンセプチュアル・アートの様相を呈する(メキシコ人レスラーの世界も、ボタンひと押しの介入であっけなくうやむやになる)。しかし、その「テレビでは実現しようのない自由自在な造形」とでも言いたげなこの映像こそが、一番、既視感のこびりついたありがちな映像ではなかったか。そちらで勝負するならやっぱりウォシャオスキー兄弟ら(すらもはや古い)「先端」とのつばぜり合いに終始するしかないように思う。その点では「たけしの誰でもピカソ」を経て『アキレスと亀』(2008)を作った北野武の達観ぶりを参考にすべきだろう。無制限に自由で斬新なアートなど信じるなということだ。少なくとも、松本がこれまで作ってきた二本の映画のなかで、もっともありがちでなかったものは、自由とか解放とは逆の、マズヒスト的な破壊衝動のなかにあったように思う。つまり、自分もろとも、一切の習慣や秩序を破壊してしまおうという意志である。

『しんぼる』

企画・監督・主演:松本人志
プロデューサー:岡本昭彦
脚本:松本人志、高須光聖
撮影:遠山康之
美術:愛甲悦子、平井淳郎
編集:本田吉孝
音楽:清水靖晃
録音:安藤邦男

2009年/日本/93分

03 Oct 2009

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