内藤誠、『番格ロック』を語る vol.1

インタビュー

INTRODUCTION

 1973年に制作・公開されたカルトムービー『番格ロック』が、このところ頻繁に名画座やCSで頻繁に上映・放映されている。上映を行った名画座ではレイトショウの動員記録を作ったという噂を聞くし、また、この8月には内藤誠監督の論考を含む書籍『戦う女たち──日本映画の女性アクション』(四方田犬彦・鷲谷花編・作品社刊)が出版された。
 お決まりの東映三角マークが消えると、銀幕には、赤羽の街路の埃っぽい大気が生々しさをもって拡がり出す。その生々しさを映画的虚構で染めるように、ふてぶてしいスケバンたちの一群がセーラー服のリボンをなびかせて闊歩する。1973年夏の暖かな日差しが、実景と虚構に降り注いで、双方を繋ぐ。ジョニー大倉の甘い歌声が、不良少女達を讃えるように響く。ファーストショットにして観客は、いつの間にかこのフィルムの脈動に捕われていることだろう。
 スケバン映画といえば、東映京都撮影所製作による一連の、あばずれ娘達による秩序転覆的なカタルシスの濃厚な作品群の評価が昨今かまびすしいが、この東映東京撮影所製作によるこのスケバン映画はまた違った質感と主題を持っている。
 赤羽百人会と池袋騎兵隊という二つのスケバングループの抗争を軸に、女子特別少年院を出所した二人の番格(番長と同格のスケバングループの用心棒)、カミソリ由紀子(山内えみこ)とアラブの鷹(柴田鋭子)という二人の不良少女の間に芽生える殺意と憧憬、それら二重拘束による緊張感が描かれる。このフィルムが一部に熱狂を呼ぶのは、この微妙な感情の交流を、やや繊細に、きわめて活劇的に、捉えているところからくるのではないか。
 キャットファイトの荒唐無稽なショウの魅力よりは、そこに生ずるエモーションに力点が置かれているのである。クローズアップされた寡黙な由紀子の、アラブの鷹へ注ぐ眼が印象的だ。眼は相手を視界に捕らえ執着を示す。序盤、少年院で二人が逆向きに後ろ手に縛られながら、しかし瞳をさまよわせて相手をみつめるべく求めるというショットがある。鋏の刃を分有しながら傷つけあう二人のフルショットに息を飲まされる。執着の未決状態をたちきって、性急に勝者と敗者に自分たちを分節しようとする姿がせつない。眼と刃、その矛盾の中に拘束された不良少女ふたりの関係の変容をこのフィルムは展開してゆく。
 かつて、内藤誠監督はその著書で、あまり潤沢なロケーション費用を使えない自作に就いて、「町内旅行者の映画」と半ば自嘲的に呼んでいる。だが、この作品では虚構の不良少女たちの跳梁するグラウンドとし登場する数々のロケされた風景が、作品を実にふくよかにしている。ロケされた実景といっても、フィルムの接合によって、池袋の街に、五反田東映付近や、吉祥寺のショッピングビルが接合されて、実際にはないこの映画の中だけの架空の街「池袋」という異空間を形作っているのである。
 このフィルムの1973年9月25日の初公開時は深作欣二監督による『仁義なき闘い・代理戦争』の併映作品であった。70年代までは、このようなメジャー系映画会社の二本立て興行にあって、A面作品のB面としての低予算映画から、数々の新人監督達がきらりと刃を光らせて登場していた。しかし、こうした形式は、80年代に入るとほぼ消滅してしまう。
 このようなフィルムが一体どのようにして作られていたのだろうか。
 日本大学芸術学部に内藤誠監督を訪ねた。

 内藤誠監督は1936年、かつてマキノ映画の撮影所のあった名古屋市南区に生まれた。学生時代には雑誌「学燈」に小説を投稿。その頃、短歌欄には寺山修司が投稿をしていたという。早稲田大学政治経済学部時代には明治文化研究家の木村毅に師事。
 1959年、東映に入社、東京撮影所に配属された。マキノ雅弘、石井輝男、成沢昌茂、瀬川昌治、渡辺祐介らの助監督を経て、1968年、ジャーナリストの大宅壮一監修で記録映画作家・野田真吉と『これがベトナム戦争だ』を共同演出。翌年、梅宮辰夫主演の「不良番長」シリーズ第四作、『送り狼』で劇映画の監督としてデビュー、以後、野田幸男とともに連作する。
 1979年代の内藤監督の活動は多岐に渡る。「不良性感度」濃厚な東映プログラムピクチャーにおいては、『ネオンくらげ』(1973)や梶原一騎原作のカラテ映画『若い貴族たち 十三階段のマキ』(1975)などの傑作を撮る一方、教育映画も多数演出し、学研映画社で撮った『わたんべ』(1979)や桜映画社で撮った『生きものと教室の仲間たち』(1980)では数々の賞を受賞する。また、少年向け特撮テレビドラマ「鉄人タイガーセブン」(1973)の演出や、『仮面ライダーV3』(1973-74)の共同脚本を担当。1977年からは、児童文学を執筆し、『インディアン日本をめざす』(1977)、『友よメキシコよ』(1978)などを発表。ほかに70年代には劇画の原作も手がけているという。テレビでは『プレイガール』(1969-74)や、松田優作主演の『腐食の構造』(1977)などを演出。脚本家としては、深作欣二監督の『血染めの代紋』(1970)、鈴木清順監督の『母に捧げるバラード』、大島渚監督の『日本の黒幕』の脚本を、各々の監督と共同で執筆するが、後の二本の企画が実現しなかったのは残念でならない。
 1979年の『十代・恵子の場合』を最後に、企業のプログラムピクチャーから、インディペンデントな製作体制での制作へとシフトしてゆく。それと併せて監督以外の活動も多様化してゆく。桂千穂とのコンビで数多の脚本を執筆。映画研究と明治文化研究を交錯させた映画史の書物を著し、ゴダールも愛読したというウィリアム・サローヤンをはじめとした多くの翻訳を世に問い、いくつかの大学で教鞭を執る……。
 第一部では、「番格ロック」というフィルムを生産した東映東京撮影所について、そして監督デビューまでのお話を。
 第二部では、プログラムピクチャーに就いて、そして、「番格ロック」に就いて、じっくり語っていただいた。

(インタビュー・構成:寺岡ユウジ 採録:橋本皓平)

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01 Jul 2009
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