波の行方──
第62回カンヌ映画祭報告

瀬尾尚史

マノエル・デ・オリヴェイラは、その100歳を祝う昨年のカンヌ映画祭のイヴェントで、「作家の映画」を飛行機に喩えたフェリーニの言葉を引用しつつ、「映画祭とは空港であり、カンヌは最も美しい空港である」と述べた。 ケン・ローチ、マルコ・ベロッキオ、ミヒャエル・ハネケ、ラース・フォン・トリアー、ペドロ・アルモドバル、クエンティン・タランティーノ、ジェーン・カンピオン、アン・リーらの新作が並ぶ、今年のコンペティションの豪華な顔ぶれを見れば、今日のカンヌ映画祭が「最も美しい空港」の名に相応しい格式を持った映画祭であることに疑いの余地は無い。しかし一方で、映画祭には「発見の場」としての役割が課されていることを考えると、コンペティション20本の内、初コンペはイザベル・コイシェのみという、常連ばかりが目に付いた今年のカンヌ、少なくともコンペにおいては「発見」は皆無であったし、そもそもカンヌのコンペにそれを期待するのは間違いなのかもしれない。

イザベル・ユペール審査員長がミヒャエル・ハネケにパルム・ドールを与えるという、その受賞結果までもが予定調和的であった今年のカンヌにおいて、最も異彩を放ったのが86歳のアラン・レネであった。処女長編『二十四時間の情事』(1959)以来、『ジュ・テーム、ジュ・テーム』(1968)、『薔薇のスタビスキー』(1974)と、何度かコンペティションに選ばれていることを考えれば、カンヌの常連と言えなくも無いだろうが、前回のコンペは『アメリカの伯父さん』(1980)というのだから、実に19年ぶりの登場である。

LES HERBES FOLLES
新作の『LES HERBES FOLLES(WILD GRASS)』は、アンドレ・デュソリエ演じる主人公が、財布を拾うことから巻き起こるファンタジー。何よりも、86歳の巨匠とは思えない軽妙さと突飛さに驚かされる。デュソリエ、サビーヌ・アゼマというレネ作品の常連に加えて、今回特筆すべきは、エマニュエル・デュヴォス、マチュー・アマルリック、アンヌ・コンシニーという、現在のフランス映画の中で最も活きの良い俳優たちを起用していることだろう。この3人が揃ってアルノー・デプレシャンの『UN CONTE DE NOEL』(2008)に出演していること、またレネの前作『COEURS』(2006)に続いて今回も撮影はエリック・ゴーティエ(言わずと知れた、デプレシャンとアサイヤスのキャメラマン。ちなみに今年のコンペでは、アン・リー『TAKING WOODSTOCK』でも素晴らしい仕事をしている)であることからも、レネが今尚、フランス映画の現在形の一部を成していることは紛れも無い事実なのだ。そしてそのことは、ヌーヴェルヴァーグが今日でも確固とした形で存在し続けていることを意味する。そう、今年はヌーヴェルヴァーグから50周年だ。

50周年へのオマージュは、旧作、名作のデジタル・リマスター版や修復版を上映する為に、2004年に創設されたカンヌ・クラシックス部門を中心に行われた。まず、ゴダール、レネ、マルケル、ヴァルダ、ルルーシュらが参加した『ベトナムから遠く離れて』(1967)が上映され、その数日後にはシネマテーク・フランセーズの協力で修復された『気狂いピエロ』(1965)がアンナ・カリーナをゲストに迎えてお披露目となった。そして、今年のカンヌ・クラシックスのクロージング上映となったのが、ヌーヴェルヴァーグをめぐるドキュメンタリー『LES DEUX DE LA VAGUE(TWO OF THE NEW WAVE) 』であった。『カイエ・デュ・シネマ』誌の元編集長で歴史家でもあるアントワーヌ・ド・ベックが脚本を書き、シネマテークの最前列で映画を学んだというエマニュエル・ローランが監督したこのフィルムは、タイトル通り、「波」を代表するふたりのシネアスト(ゴダールとトリュフォー)に焦点を当て、イジルド・ル・ベスコを案内人にヌーヴェルヴァーグを振り返るというもの。歴史のお勉強といった側面は見られるものの、時代背景や社会状況が良く判る構成になっている。惜しむらくは、68年以降仲違いしていくふたりの姿が意外にあっさりと描かれてしまうことだろうか。
フィルムは丁度50年前の5月4日にカンヌでプレミア上映された『大人は判ってくれない』(1959)のラストショット、あのジャン=ピエール・レオーの顔のストップ・モーションで終わる。そして、この浜辺のショットから着想して作られたフィルム、それがコンペ部門の終盤に上映された、ツァイ・ミンリャンの『VISAGE(FACE)』なのだ。

VISAGE

ジャン=ピエール・レオー、ファニー・アルダンに加え、ジャンヌ・モロー、ナタリー・バイまでもが顔を揃えるこのフィルムこそが、ヌーヴェルヴァーグ50周年を総括するに相応しい作品であった。
ルーブル美術館が共同プロデューサーに名を連ね、その全面協力の下で撮影されたこのフィルムは、ツァイ・ミンリャン版の『アメリカの夜』(1973)だ。リー・カンション演じる、台湾人映画監督はチュイルリー公園で「サロメ」を映画化しようとするが、撮影は困難を極める。王を演じるアントワーヌ(演じるのはもちろんジャン=ピエール・レオー)は撮影現場から逃げ出し、プロデューサーの女性(ファニー・アルダン)は自ら妃を演じるべく衣装を着始める。フィルムは、「映画」と「現実」と「夢」という、不可分では在りえない3つの領域を縦横無尽に行き来しながら展開していく。そこには単なる「メタ映画」と呼ぶだけでは収まりがつかない自由奔放さと巧みな仕掛けが散りばめられている。
このフィルムでツァイ・ミンリャンは自らの分身であるリー・カンションと、トリュフォーの分身であったアントワーヌ・ドワネル、つまりジャン=ピエール・レオーのふたつの「顔」を巡り会わせることに成功している。しかも、途中にはリー・カンションとマチュー・アマルリック(言わずと知れたアルノー・デプレシャンの分身)とのラヴ・シーンまでも挿入する念の入れようで、言わば、ヌーヴェルヴァーグから始まった現代映画の過去と現在をひとつのフィルムの中でダイナミックに融合させているのである。
これはトリュフォーへの単なるオマージュではない。紛れも無いツァイ・ミンリャンのフィルムとして仕上がっていると同時に、現代作家から見たヌーヴェルヴァーグという批評性が込められている点において、先述したドキュメンタリー作品とは一線を画している。そして、こうしたフィルムこそが、50年後に波は何処にあるのかを知らしめてくれるのである。

先述した『ベトナムから遠く離れて』に参加したフランスの5人の監督たちが、ことごとく現役であることは驚きに値する。ゴダールの新作『SOCIALISME』は完成間近とのことで、この6つの場所(エジプト、パレスチナ、オデッサ、ヘラス、ナポリ、バルセロナ)を叉に掛けた三部構成の映像交響詩は、その一部がプロモ・リールとして、今年のマーケット部門で上映された。ただし、50年経ってもヌーヴェルヴァーグは元気であるということを確認することなど、カンヌ映画祭が本来担うべき役割とは掛け離れているであろう。公式部門、平行部門、マーケット部門を含めると、毎日百数十本のフィルムが上映される世界最大の映画祭は、今日の映画世界の縮図に他ならず、そこに2週間滞在するだけで、映画の現在の大まかな動きが見えてくるような密度の濃さを持っている。

今年のコンペティションには発見が少なかったことは先に述べた通りだが、新しい作家の発見は無くとも、トリアーとギャスパー・ノエのように自らの映像表現を徹底的に突き詰めようとする姿勢は賞賛されるべきであるし(実際は多くのブーイングを浴びていたが)、中国政府から活動禁止命令を受けながらゲイ・カップルの人間模様を丁寧に描いたロウ・イエや、パレスチナの三代に渡る家族の物語をユーモアと巧みな空間設計でまとめ上げたエリア・スレイマンのフィルムは、社会背景を抜きにしてもその高い価値を認められるべきものだ。
そして今日の「波」について言えば、近年表れた幾つかの潮流を今年のカンヌでも感じることができた。東南アジアからは、2年連続のコンペとなったフィリピンのブリランテ・メンドーサ(『KINATAY』)が過剰な表現で賛否を二分。ある視点部門では、同じくフィリピンのラヤ・マーティン(『INDEPENDENCIA』)が独特の映像表現で20世紀初頭のアメリカ占領下のフィリピンを表象し、タイのペンエーグ・ラッタナルアーン(『NYMPH』)が妖気溢れる森の姿を映し出した。また、ここ数年話題のルーマニアからは、一昨年のパルム・ドール監督であるクリスティアン・ムンギウが参加したオムニバス『TALES FROM THE GOLDEN AGE』と、2006年にカメラ・ドールを受賞したコルネリウ・ポルンボユの新作『POLICE, ADJECTIVE』がある視点部門で上映され、特に言葉と映像を考察する個性的な刑事ものである後者は強い印象を残した。そして、近年目覚ましい隆盛を見せる南米映画からも、コロンビアのシロ・グエラ(『THE WIND OF JOURNEYS』ある視点部門)とミシェル・フランコ(『DANIEL & ANA』監督週間)というふたりの若い監督がその才気を示していた。
結局のところ、50年前の波も、現在の波も感じられるという意味では、カンヌは映画にとって最も美しい空港で在り続けているということなのだろう。あとは、そこを離陸した作品が、1本でも多く日本にまで辿り着くことを願うばかりである。



23 Jun 2009
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