訥弁の抵抗──
矢部真弓『月夜のバニー』[桃まつり presents]

三浦哲哉

 すでに小さな話題になっているようであるが、『月夜のバニー』の主人公の母親役に私もいたく感銘を受けた。皺の刻まれた夏木マリ系の相貌が未だにひとまわり年下の男と寝もする女性の深い業を感じさせ、また、相手への半ば軽蔑の色をたたえたその眼差しは長い年月をかけてあらゆる幻滅に馴れていった年増女の凄みを感じさせずにおかないのだが、その説得力に満ち満ちたヴィジュアルに合わせて、台詞がいちいち頓狂な茨城弁という奇跡のアンバランスなのである。
 たとえば映画の冒頭のこんな台詞。

「なんであんたそんなに無愛想なの。笑ってごらん。愛嬌があれば愛されるものさ。わたしを見習えばいいんだよ。あんたもわたしの子なら、もうちょっと人間らしい顔をしてごらん」

 画面はいたってシリアスで、また、鏡を用いたタイトなフレームもとても安定感がある。さて、薄暗い家屋の洗面所で、寂しげに少女が歯を磨き、その音が暗闇の中に響くなかで、少女の背後から母親がやってくる。少女の後方から忍び寄り、その髪をむんずと掴み、少女の耳元で上述の言葉が浴びせかけられるのだ。このとき母親の顔は夏木マリを通り越して晩年のセルジュ・ゲンスブールのような不動性を帯びていて、視覚的に心底圧倒されてしまうのだが、しかし、繰り返すが、このすべての台詞はどこかのどかな茨城弁なのである。その正確なニュアンスについては、実際にこの作品を見ていただくしかないが、つまりは「なんであんたそんな無愛想なの〜」の「なの〜」にあたる語尾の音程がすべて上がるのだ。

 かくいう私は福島県出身なので、この母親のイントネーション自体には違和感よりも親近感を覚える次第なのだが、問題なのはイントネーションそれ自体のおかしさではなくて、想定されているだろう劇状況と発声のアンバランスである。そしてこのアンバランスが素晴らしいといいたいのだ。というより、この母親役の立ち居振る舞いを受け入れた作り手たちが素晴らしい。
 さて、ではどう素晴らしいのか。それはさしあたり、この母親が、作り手の幻想の詰まった劇映画の青写真を実現させるうえでの「抵抗」にほかならなず、しかしこの「抵抗」を、作り手たちは排除することなく、ある一定の緊張を保ちながらも実在の風景、家屋のなかに潔く放り出しているところだといえばいいだろうか。もちろん実際は、撮影現場において、少しでも台詞が違和感なく響くようにと、できるかぎりの演技指導がなされたのかもしれない。しかしあきらかに、どこかで作り手たちはそれが完全には不可能だと悟り、撮影期間などの様々な物理的制約のなかで、着地点を見つけ出さざるを得なかったはずだ。そこで展開したであろう母親役と作り手たちの悲喜こもごもをいやおうなしに想像させる点でも、この「抵抗」は素晴らしい。
 キャスト・クレジットから察するに、この母親役を演じた方は、監督の実際のご家族ではないか。ちなみに、自主映画において自分の家族を使うのは常套であるが、もちろん、家族の即席俳優たちはプロではないので足を引っ張ることになる場合が多いだろう。監督は、はじめは家族に甘えるつもりでも、途中で家族が理想の映画を作るうえでの邪魔になることを悟る。矢部家の場合(本当にご家族だったとして)、母親役の方のリアルな茨城弁が、台本に書き込まれた夏木マリ的な舞台がかった言葉遣いと完全なミスマッチを起こしていることを撮影現場で思い知らされたのではないか。ではリアル茨城スタイルで全ての台詞を書き直すべきか? いや、でもこれはこれでおいしい……そして「ま、いっか」に至る。以上、勝手な想像に過ぎないが、しかし画面と音響に漲るアンバランスそのものにこの無数の肯定的な「ま、いっか」を聞き取らざるを得ない。というより、作り手たちは、ある程度は、母親役の訥弁をあえて覚悟の上で使ったのだろう。少なくとも、この作品に漲る「抵抗するもの」への感受性がそう思わせるのである。
 端的に述べて、造形的な場における「抵抗」は、物語のなかで語られる「抵抗」の主題と通底している。具体的にそれは、生まれ育った家に縛られ、しかしながら常に決定的な解放を選び取ろうとしない主人公の兄妹のポジションと通じている。「田舎の家を燃やす」という類いの破壊的幻想が語られ、実際にそのいくつかは演じられもするのだが、ことは思い通りにいかない。解放の幻想に対する「思い通りにならないもの」、それがこの短編の主題であることに気付くとき、母親役の常に場違いな茨城弁は、いつのまにか戦慄すべきノイズへと変貌しているだろう。

 この「抵抗するもの」の主題とその誰にとっても意想外の造形がとりわけ輝いたのは、それが女性監督作品ばかりの作品をランナップした「桃まつり」のなかだからかもしれない。またしても主観的感想に過ぎないのだが、「女性の」ということを自己意識した自主映画作品は、妄想的になる傾向があるようにこれまで思ってきた。たぶん、決闘やチェイスや探索や冒険というような、男子的「行動」の主題との戦略的差別化ということもあるのだろうし、90年代であれば岡崎京子の固有名と結びつくような、「フツーの感性」に対する生理的違和感と憂鬱を主題にした、内省的なマイナー路線を選び取ることが、「女性の映画」ということの意義を支えたのだとも思う。

 ともかく私が見知った範囲では、「女性の」自主映画には特有のマイナー性があり、男性的なものに対する、ということも含めた、メジャーなもの一般に対する慢性的な不適合の経験がそこでは多く語られる。そしてその解決法が多くの場合、妄想的なのである(女性監督たちが劇場デビューしないことの理由の一端もそこに求められるかもしれない)。そこでたとえば決闘で決着、という手段をとったら、それが「女性映画」と意識される必要はなくなってしまうからだ。物理的な行動による闘争の契機をあえて選択しないことによって、「女性映画」はひるがえって妄想的になる。むろん妄想的なものの映像にはそれ固有の魅力がある。しかしながら妄想的であるということは、自分勝手なことが何でも許されるということでは決してない。妄想は必ず現実の「抵抗」にあう。俳優やロケ地の具体的な姿が、妄想の前に立ちはだかるのだ。たとえば、そこは美少女でないと成立しないというキャスティングが、たいして見栄えのしない友人女性になる、という具合。ではなぜその友人になったのか。彼女しか暇じゃなかったから。結局は、「暇」も含めた物理的制約の問題になるわけだ。
 自主制作における「女性監督作品」は、だからそれ以外のメジャー志向の映画とは異なる仕方において、「抵抗」が画面上で独特の振る舞いを見せる映画のことだといえるかもしれない。多くの場合、これら「抵抗」は、女性たちに巣くっていた妄想を逆に食い破ってしまうのかもしれない。そして、それはそれでなんて健康的なことなんだろうと思う。映画という集団制作の意味はそこにあるのだろうと思う。ただ、ごく少数だと思うが、そうした「抵抗」と緊張状態を保ち、「抵抗」によって更に強靱になる妄想というものがありえる。おそらく、ベルトコンベヤー式のキャスティングとプロダクションに委ねられがちな日本のメジャーな映像コンテンツ産業ではなく、自主映画においてこそ、そのような確信的なプロダクションを組むチャンスは多いのではないか。『月夜のバニー』はその証明のひとつである。

 ついでながら指摘しておきたいのだが、女性監督・西川美和のやはり多分に妄想的な『ゆれる』(2006)を自己崩壊から救っていたのは、「抵抗する」伊武雅刀だったと思う。オダギリジョーが最後に映写する8mmのなかの伊武の立ち居振る舞いに注目してほしい。


『月夜のバニー』

監督:矢部真弓
脚本:矢部真弓、隅達昭
編集:矢部真弓
撮影:隅達昭
照明:宮本亮、近藤明範
録音:伯野祥展
衣装:青山あゆみ、粟津慶子
美術・制作:秋山直人
助監督:太田信宏
整音:黄永昌
出演:中村織央、武藤宏明、藤田恵里沙、金子裕一、矢部良子

2009年/日本/30分

31 Mar 2009
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