階段・映画・身体──
D・フィンチャー『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』

渡邉大輔

I 歴史

 個人的にお気に入りの女優のひとりであるケイト・ブランシェットを目当てに、デビッド・フィンチャー監督の新作『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を少々遅ればせながら観た。最初に映画のあらましをざっと確認しておこう。今年度のアカデミー賞にも13部門でノミネートされている話題作なので、ご存知の方も多いだろうが、原作はF・スコット・フィツジェラルドの短編小説。主な舞台はニューオーリンズ。80歳の老人として生まれ、その後歳を経るごとに若返っていくという、数奇な宿命を背負った男・ベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)と、彼が幼い頃に出会って以来、生涯を通じて愛し続け、別れと再会を繰り返す美しい女性デイジー(ケイト・ブランシェット)の関係を綴った一風変わった人生ドラマである。特徴的なのは、アレゴリカルな設定を付与された主人公の人生の物語を彩る20世紀の壮大なクロニクル──フィツジェラルドが活躍した「ジャズ・エイジ」の1920年代から21世紀の現代まで、およそ100年近くに及ぶアメリカ現代史がその背景として描かれることだ。まず、ここから考えよう。
 一般的には感動的なヒューマンドラマとして喧伝され、消費されているこの作品だが、ひとまず以上のような作品の趣向の中に、現代ハリウッド映画と、それのみならず、21世紀のポストモダンな物語的想像力の類型を見出すことはそれほど困難なことではない。そもそもユニークな設定を備えた男を主人公にして、いささかのファンタジー色を交えつつ、彼をめぐる心温まる人生ドラマを展開させるという主題じたいは、1930年代に制度化された古典的ハリウッド映画のひとつのクリシェ(紋切り型)であったことは誰もが知るところだが、とはいえ例えば、そうしたミニマルな人生譚が、一方で高度なSFX技術や特殊メイキャップ技術の浸透によって実現されたきわめて長大な大文字の「歴史」の精密な映像化(視覚化)と相即的に重ね合わされて物語られるという、新たな物語/イメージのフォーマットが確立されるのは、だいたい90年代以降のことだと思われる。少なくとも、そうしたパラダイムを大衆レヴェルで認知させる決定的な契機のひとつとなったのが、『フォレスト・ガンプ 一期一会』(1994)であったことはほぼ間違いないだろう(ちなみに、この映画でアカデミー賞脚本賞を獲得したのは、本作の脚本を手掛けたエリック・ロス)。かつてこの作品においてロバート・ゼメキスが描いたような、主人公フォレスト・ガンプの極私的な日常と恋愛ドラマがそのまま一足跳びに最新映像テクノロジーによって甦ったジョン・F・ケネディやジョン・レノン(のイメージ)とダイレクトに隣り合うことになるようなイメージは、現在のイメージ文化の典型的な傾向のひとつを端的に形象化している。現代アメリカ映画としての本作を評価する場合、大枠として指摘すべき重要なポイントはまずここだろう。というのも取りも直さず、ここには、70年代以降に始まる映像の「スペクタクル化」の過剰、現代ハリウッドのメジャー大作の孕むいわばイメージの生態系が、現代の先端的な物語的リアリティとの関連において示す新しい志向性を明確に確認できると思われるからだ。
 いうまでもなく、現代のハリウッド映画は、時に「ニュー・ハリウッド」とも呼ばれる70年代以降のハイコンセプト化とブロックバスター化が進んだハリウッドで精力的に活動を開始し始めた監督たちの映画に顕著に見られるように、視覚的な特殊効果の圧倒的奔流と拡散化を特徴としている。こうした現代のポスト古典的ハリウッド映画の示す「イメージの優位」は、単に映画表現のみならず、ユーザがアクセスしたいと思う視覚的情報を極限まで提供可能なものとしたウェブという新しい情報環境の整備によって、もはや現代人にとっての主要なハビトゥスを形成しているといってよいだろう。いずれにしても、ここで再度指摘しておくべきは、そうしたポスト古典的ハリウッド映画の備える高度な制度的かつ技術的資産が長らく傾注してきた非現実的な物語ジャンル(SFやファンタジー、ホラーなど)のスムースな視覚化だけでなく、むしろここ最近では、もはや自明のものにもなった旧来の「歴史」の孕む素朴な「記憶」のイメージこそを忠実に再現しようとすることに向けられている点だ。それはここ数年の日本においては、いわゆる「昭和30年代ブーム」に後押しされて大ヒットしたいかにも醜悪な『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ(2005, 2007)に顕著だろう。

 こうした傾向は、普通に考えれば、やはりかつてジャン=フランソワ・リオタールが指摘したような、近代以降の市民社会や科学的合理主義が前提としてきた大文字の象徴秩序(「大きな物語」)が軒並み失効して情報や価値の断片的な林立が残るだけとなった「ポストモダンの条件」を担った現代社会が、半ば不可避的かつ素朴にかつてあった大文字の「歴史性」の幻影をナルシスティックに仮構しようとする欲望的な所作を見出すことができるように思う。ついでにいっておけば、こうしたシミュラークル化した「歴史」や「記憶」の召還は、何も映画に限らず、いまのテクスト文化一般に広く認められる傾向であり、例えば文学の世界で思いつくまま挙げてみても、桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』(2007)や古川日出男の『聖家族』(2008)などの大作やお馴染みのリリー・フランキーの『東京タワー ボクとオカンと、時々、オトン』(2005)などがあるし、浦沢直樹の『20世紀少年』(1999-2006)など、サブカルチャーにも広がっている。私自身は以前、こうした「歴史性」の物語への想像的なリサイクルについて批判的に触れたことがあるが(渡邉大輔「自生する知と自壊する謎──森博嗣論」、本格ミステリ作家クラブ編『本格ミステリ08』講談社、2008年、367頁以下)、いずれにしろ『ベンジャミン・バトン』が表象する物語やイメージもまた、以上のような大域的な文化史的流れの中に位置づけられると見てよいだろう。それは、例えば現代アメリカにおける最も優れた若手作家のひとりだろうポール・トーマス・アンダーソンがマーティン・スコセッシからロバート・アルトマンまで70年代映画の再帰的なパスティーシュを経て、自己破壊的な否定性のもとにせよ、ようやくある種の「作家性」を獲得しえた『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)が、本作同様、アプトン・シンクレアの20年代の短編を原作としていたことともどこか通じているような気がする。いまは詳述する余裕がないが、ここに現代アメリカ映画が孕む最も切実な問題があることは指摘しておいて損はない。また、註釈程度に付言しておけば、こうした主人公の私的な小状況と大文字の「歴史」(大状況)が具体的な中間項を媒介せずに短絡してしまうという物語的想像力は俗に「セカイ系」とも呼ばれ、2000年代のサブカルチャー評論や文芸批評、社会学的言説の重要な参照項となった(セカイ系をめぐる詳細は、映画を主題とする拙論が収録された近刊の評論集『社会は存在しない』を参照されたい)。
 ひとまず、このように文脈を立てるなら、『ベンジャミン・バトン』の作品世界にどこか横溢する、往年のハリウッド映画のイメージもまたより鮮明に感じられるに相違ない。もちろん、たいして誇れるほどの数の映画を観ているわけではないので、もしかしたら、もっと適切な喩えがあるのかもしれないが、私が観た限りでは本作を彩る諸々のイメージの断片は、まず紛れもなく『若き日のリンカーン』(1939)やウィル・ロジャース三部作を撮っていた30年代のジョン・フォードのフィルム群を強烈に思い起こさせる。そう考えると、仰角で撮られた壮年期のベンジャミンを演じるピットの顎や口元のラインが何となくケイリー・グラントに見えてきたり、そこまで来ると一方のブランシェットは、ハワード・ホークス監督の『赤ちゃん教育』(1938)で共演していたキャサリン・ヘプバーンに見えてきたりもするのだが(……と思っていたら、ブランシェットは『アビエイター』[2004]で実際にヘプバーン役を演じていたのだった)、とにかく、このフィンチャーの新作がかつての「ハリウッド映画」へのある種の目配せを行っていることは確かなように思える。

II 階段

 とはいえ、こうした「(ハリウッド)映画」に対する自意識というポイントは、何も観念的な分析の次元だけでなく、フィルムに写されたきわめて具体的なイメージの中にも認められるだろう。そのことが明瞭に感じられる兆候的な細部を指摘するとすれば、映画が始まってしばらくすると、この作品がひとまず紛れもなく「階段」をめぐる物語であることに気づかされる点だろう。実際、このフィルムの全編を通じて、物語のほとんどすべての重要な局面において決まって観客の瞳に映ることになるのは、いささか構図の緊密なバランスを曖昧に弛緩させる現代アメリカ映画特有のシネマスコープ・サイズ画面を幾何学的な配列によってさりげなく横切る、あの昇降を目的とする見馴れた建築通路であるからだ。それは、そもそも物語の主人公であるベンジャミンが産まれるシーン、父親トーマス・バトン役を演じるジェイソン・フレミングが落ちつかなげに妻のいる自宅に入っていったあと、俯瞰で捉えたショットが、彼女と医師や助産婦たちが待つ家の2階へ駆け上がってくる彼とともに写す階段、そして、その生命と引き替えに妻が産み落としたわが子の異様な姿に驚愕した彼が、ベンジャミンをそのまま車へ乗せ、半ば捨てるように置き去りにしていくときに選んだ場所としての慈善施設の暗い室内に伸びる長い階段の立て続けの登場によって、すでに明確に暗示されていたといってよい。
 これ以降も、フィンチャーは偏執的とさえ思える頻度で階段を画面に挿入させ続けることになる。しかもそれが恣意的でなく、観客にとって何らかの説話的必然性に裏打ちされた特権的な符牒としか思えないのは、繰り返すように物語の中で大きな起伏を示すようなシークエンスの直前にシグナルを鳴らすように顔を見せるからだ。例えば、1930年の感謝祭の日に初めて出会った瞬間からお互いにひとかたならぬ感情を覚えた少女時代のデイジーに真夜中に起こされたベンジャミンが、彼女と深夜に小さな蝋燭の灯りを挟んで最初にふたりだけで静かに顔を向き合わせる場面の前にふたりが一緒に降りて行き、あるいは、その後に知り合った曳き船の船長に連れられて行った売春宿を出たあとに密かに再会を果たすことになる父親トーマスが成長したベンジャミンを見つける瞬間に軽やかな足取りで降りつつある階段、また一方で、世界各国を旅したのちに数年ぶりにニューオーリンズの施設に帰ったベンジャミンの一段と若返った姿を眼にしたデイジーがそのうえに立っているのも、いささか急な傾斜を伴った階段なのだ。したがって、物語の後半、パリで自動車事故に遭遇しバレエダンサーとしての栄光ある日々が絶たれてしまうデイジーの悲劇を目の当たりにするときも、観客はおそらくさほど驚きはしないだろう。なぜなら、この重要なシークエンスにも、その直前に病院の真っ白な壁を背後に木製の重厚な作りの螺旋階段を抑制された面持ちで昇っていくベンジャミンの姿をひとは確かに眼にしているからだ。このフィルムにおいて、主人公のベンジャミンやヒロインのデイジー以上に観客を一貫して安堵させ、また不安を覚えさせるのは、間違いなくこの巧みに仕込まれた舞台装置としての「階段」なのである。以上のような具体的な細部から本作が字義通り「階段」の映画であると指摘することに、ひとまず疑いを挟む者はいないだろう。
 しかしながら、一方でそうした指摘は現代映画をめぐるいささか複雑な問題系へとひとを向かわせざるをえない。どういうことか。例えば、ここで仮に『ベンジャミン・バトン』を「階段」の映画だと規定してみせた場合、それが従来のオーソドックスなハリウッド映画史的記憶の連鎖に連なるものだと直観するのは、さほど無理なことではない。例えば、ウィリアム・ワイラー。あるいは、アルフレッド・ヒッチコック。セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』(1925)でのあまりに名高いオデッサの虐殺シーン以来、世界の映画史において「階段」は特権的な表象となったのは誰もが知るところだが、うえに挙げた巨匠たちはいわばそうした伝統的な映画的感性の系譜を受け継ぐようにして、緊密な「階段」の主題系を織り上げて見せたシネアストとして記憶されているだろう(忘れずにつけ加えれば、こうした「階段」の作家たちの正確な反転形として、作中からほとんど完全に「階段」を排除してしまった恐るべき存在として小津安二郎がいる)。では、『ベンジャミン・バトン』のフィンチャーもまた、こうした彼らの系譜の延長上にシームレスに据えられることになるのだろうか。おそらく、そうではない、ところに21世紀の現代映画が抱えている特殊な条件が内在しているだろう。というのも、一見して明らかなように、『ベンジャミン・バトン』においてひとまず特権的な機能を果たしていると思しき「階段」は、しかし、先の巨匠たちの形象化するそれのようなイメージとしての凝集度を残念ながらほとんど持ちえてはいないからだ。

 そのことをめぐる歴史的な比較検討はいまは措く。とまれ、ここで私がいいたいことは、人間の上下移動を目的とするありふれた舞台装置=「記号」が、同時にひとを(とりあえずエイゼンシュテイン以来といっておいてよいだろう)、その表象空間の「起源」(トラウマ)への事後的な遡行を反復強迫的に媒介する特権的な痕跡となるという点で、いわば「昇降」としての「症候」といいうる機能を帯びていると思しき「階段」という表象が呼び寄せているように、この『ベンジャミン・バトン』というフィルムが一貫して表明している、「映画」への自己言及的な主題系に注目すべきだという点だ。いうなれば、『ベンジャミン・バトン』とは、宣伝コピーやジャーナリスティックなコメントの多くに顔を出す「人間」やら「人生」やらといったものを実は少しも描いてなどいず、むしろかつて『言葉と物』のミシェル・フーコーによって、それらが「波打ちぎわの砂の表情のように消滅する」と書かれた時代の代表的なメディア装置であった「映画」を主題としたメタ映画と呼べる作品なのである。

III 映画

 『ベンジャミン・バトン』は、「映画」をめぐる映画である。そのことをはっきりと指摘できる具体的な細部(主題系)をフィルムの中でここでも見定めるとすれば、おそらくそれは先の「階段」の主題とともに物語の全編にわたって頻出する「視覚」をめぐるイメージと隠喩の連なりではないだろうか。視覚的な隠喩系といえば、何といっても、70年代のデビュー当初からアメリカ映画史への自己言及的な参照を絶えず自作の中に取り込んできた巨匠スティーヴン・スピルバーグの仕事がまず真っ先に思い出されるが、フィンチャーの『ベンジャミン・バトン』は、そうしたスピルバーグ的身振りに倣うかのごとく、同様な趣向をスクリーンに氾濫させている。
 例えば、それはこの映画のオープニング・シーンから明らかだ。そもそも『ベンジャミン・バトン』は、ベンジャミンの人生と、それを彼自身が綴っていた日記を、現在の時点から余命いくばくもない年老いたデイジーとその娘が読み返すという入れ子構造で展開される。そして、映画のファースト・シーンは、ほのかに外光が窓から差し込む病室で白いベッドに横たわっているデイジーのほかならぬ「眼」のクロースアップから徐々にズームアウトしていくというショットなのである。その後も、デイジーはことあるごとに「眼を開けているのも辛い」と口にし、またベンジャミンの日記を見つけた娘に向かって、「キャロライン、何を見ているの?」と尋ねるなど、どうもこの映画には「眼」あるいは「見ること」への反復強迫的なまなざしがそこかしこに形象化している。ほかにも物語の重要な隠喩的要素を構成する地元の駅構内に設置された針が逆に回る大時計の製作者である職人のムッシュ・ガトーは「盲目」であり、1930年の感謝祭のパーティーで出会ったデイジーの最初の印象について、ベンジャミンは何よりもまず彼女の「青い瞳が忘れられない」ことを強調する。さらに、ベンジャミンは自身の成長の自覚を「見えるものと見えないもの」の違いの判別で表現するし、また歳を重ね、少年になったベンジャミンはそのかつての自分の言葉を辿り直すかのように、自宅の屋根のうえから街を見下ろしつつ「全部見えるよ」という何やら意味深い台詞を吐きもするだろう。現在のシークエンスに戻るならば、急速に視力を失いつつあるデイジーの病室に設置されているテレビ画面にはいままさに窓外で威力を増しつつあるハリケーンの「眼」のイメージ映像が繰り返しインサートされてくることにも注意を促したい(実際、本作を撮影中のニューオーリンズでは直前までハリケーン・カトリーナが大規模な被害をもたらしていた)。

 ひとまず以上に列挙しただけでも、本作が「階段」と同様、「視覚」(眼)の主題に貫かれることで映画たりえているという仮説が成り立ちうると思うのだが、それでは、これがどのようにして、より「映画」そのものの隠喩的なネットワークを強靭に形成することができるか。
 その例証となるシークエンスやガジェットは、ここでもさまざまに挙げることができるが(例えば、ベンジャミンがデイジーの許へと送る膨大な数の「絵葉書」もそのひとつだろう。周知のように、かつてゴダールはこれを『カラビニエ』[1963]においてきわめて「映画的」な隠喩系として扱っていた)、その最も顕著なひとつは、しかるべく年齢を重ねたのちにようやくふたりだけの落ち着いた愛の時間を獲得したベンジャミンとデイジーが、旅行先のスウィートルームのベッドのうえで言葉を交し合うシークエンスである。キャメラは、最初にベッドのうえのピットとブランシェットの顔をカットバックして見せるのだが、ふたりの会話が一通り終わり、いよいよこれから愛の情緒的進捗に伴う行為をほのかに暗示しつつふたりがキスを交わした直後、キャメラは一挙にふたりから身を引き離すと、ベッドを真横からほぼ水平に捉える高さに目線を合わし、そのうえに重なって横たわる恋人たちを映し出す。そして、このときに注意しておいてよいのは、ふたりの横たわっているベッドの周囲に、その四方を囲んだ木枠から掛けられた白い布が降りていて、背後から差し込む日の光を通してベンジャミンとデイジーの身体の輪郭が淡いシルエットとなって浮かび上がっていることである。このシークエンスのイメージは、もはや明らかなように、まさにスクリーン画面に対して並行に置かれたもうひとつのスクリーン(=白い布)に映写される人物たちの影──すなわち、入れ子構造になった「映画内映画」そのものである。そうした象徴的なショットが、この物語の主人公であるベンジャミンとデイジーの愛の最も高まる局面において示されたという点にこそ、私は本作における「映画的」な隠喩系の内実を見たいと思う。

IV 身体

 何にしても、以上のような諸点から、私には『ベンジャミン・バトン』が21世紀の現代に「映画」にまつわるさまざまな目配せをちりばめているフィルムだというふうに思われた。このことを最後にもう少しだけ掘り下げておきたい。この作品は、いうまでもなく、それが物語の重要なキーワードになっていることからも明らかなように、そもそも「身体」をめぐる映画でもあった。映画の中では一貫して、歳月を重ねるごとに皺が増え、身体能力が低下していくデイジーの身体と、対照的に日々若々しく、逞しさを増していくベンジャミンの肉体とがことあるごとに比較され、強調されていく。ここでの身体性──表面に皺や亀裂が走り、磨耗し衰えていく表層としての身体のイメージもまた、実は優れて「映画的」なのではないだろうか? 実際、ジャン・ヴィゴ監督の『アタラント号』(1934)に登場する愛すべきミシェル・シモンの姿を思い出さずにはいられない、マイク船長の上半身に描かれた無数の刺青の模様もまた、どこかスクリーンという薄い肌のうえに投影される数々の映像に思えてくる。

 このことをより厳密に考えるには、やはり主に70年代以降の文化批評が整備してきた、いわゆる「表象」の問題系の内実について簡単に振り返っておく必要があるだろう。そもそもは文化論的な近代批判、とりわけ日本においては小林秀雄から丸山眞男までいわゆる「自然主義」への批判として展開されたこの問題は、近代西欧が構築してきた固有の≪現実≫をシームレスに「写生」すると信じられてきた諸々の受像装置(メディア)が、実際は多大な恣意性やエラーを抱えたもの(いわゆる「風景」)であることを丹念に腑分けしてきた。つまり、彼らは近代人が透視図法(遠近法)や自然主義によって描きえたと信じてきた固有の≪現実≫が、実は諸々の記号的な「現実」=リアリティに過ぎなかったと指摘したわけだ。
 とまれ、こうした認識の地平では、誰にでも共通して認識可能でありながら、あらかじめ多量のノイズ/エラーを抱えている「表象」の危うさ、つまり≪現実≫への到達不可能性に対して不断にシグナルを鳴らさなければならないが、それと同時に、そうであるからこそ、その不可能性への自覚ゆえに、人々は「表象」=メディアの解像度を絶えずアップデートし続けうるし、またその表象装置じたいの「物質性」に鋭敏に反応する必要がある。
 以上はごく粗い整理に過ぎないし、ここで現代の「表象」の問題系についてこれ以上具体的に踏み込むのはやめておく。いずれにせよ、指摘しておくべきなのは、そうした「表象」の問題系が不断に注意を促す「表層」=メディアの身も蓋もない残酷ですらある一種の「物質性」、刻一刻と磨耗し、希釈していくスクリーン=肌の物質性へのまなざしが、まさにバレエダンサーとしての理想的な身体から事故や加齢によって不断に磨耗していくヒロイン・デイジーの物質としての「身体」にはっきりと仮託されているように私には思えてならないのだ。もともとフーコーやアレントを読めば分かるように、近代的思考というのは、磨耗し死に行くリテラルな身体というのをいかに管理・維持し、公共的な社会の厚生に繋げていくかという課題にその眼目があったわけだが、その意味では物質性としての身体へのまなざしこそが、真にアクチュアルな映画的思考を駆動させる、という比喩を込めた仮説も成り立つように思われる。
 しかし、だとすれば、問題はそこで終わりではないだろう。映画の表象としての物質性が、半ば比喩的にデイジーの身体に仮託しうるのだとすれば、一方で、そうしたフィジカルな不完全性から出発し、成長するに伴って一切の物理的負荷や歴史的記憶を消失させていわば「身体の零度」に向かっていくベンジャミンの存在は、むしろ今後の映画の未来のありうる姿を確かに「表象」してはいまいか。日々急速に映画をめぐる環境が変質を迫られるいま、少なくとも、そうした読みに自己を赴かせるに足る意義はあるだろう。ベンジャミンの身体は、映画という近代が産み落とした数奇なメディアの「人生」の行く末を、密かに、だがはっきりと、伝えているように思える。


『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON

監督:デビッド・フィンチャー
製作:キャスリーン・ケネディ、フランク・マーシャル、セアン・チャフィン
原作:F・スコット・フィッツジェラルド
原案:エリック・ロス、ロビン・スウィコード
脚本:エリック・ロス
撮影:クラウディオ・ミランダ
編集:カーク・バクスター、アンガス・ウォール
出演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ティルダ・スウィントン、ジェイソン・フレミング、イライアス・コティーズ、ジュリア・オーモンド

2008年/アメリカ/166分

2009年 2月7日(土)より丸の内ピカデリーほか全国ロードショー
公式サイトURL:http://wwws.warnerbros.co.jp/benjaminbutton/
(配給:ワーナー・ブラザース映画)

24 Feb 2009

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