THEY LIVE BY NIGHT──
ジェームズ・グレイ『アンダーカヴァー』

三宅 唱

1.
 開巻早々、どうやら実際の警察記録らしいモノクロ写真がスライドされる。便器に捨てられた注射針。連行される男。横たわる死体。そこに写った警察官の肩のワッペンから、原題("We own the night")の由来が判る。画面は暗転して、ブロンディーの"Heart of glass"がゆっくりとフェードインし、「Brooklyn, New York 1988」という字幕が出る。『リトル・オデッサ』(1994)『裏切り者』(2000)に続く、ジェームズ・グレイの脚本・監督3作目である。

 男が女に近づいて言葉もなくキスを交わし、脚から胸、股間へと愛撫をはじめる──暗闇からゆっくりと姿を現した男(ホアキン・フェニックス)が、下着姿で横たわる女(エヴァ・メンデス)に近づく。金色に輝くソファの上でふたりが身を重ねつつあるとき、無造作にドアをノックする音が背後で響く。女はその音を掻き消そうとするかのように強く喘ぎ、男の唇をぐいと引き寄せて彼の口を閉ざそうとするのだが、結局のところ、彼らの行為はそこで中断してしまう。ボビーと呼ばれたその男は、まだ火照ったままの恋人アマダをひとり残して部屋を出る。
 恋人たちの熱い前戯を前に、いましがた映画が始まったばかりであることも忘れ息を潜めて見つめていた観客は、濃厚だったはずの空気がまるで嘘か幻だったかのように消え失せ、かすかに、しかし確実に危うげなものに変わりつつあるのを了解するだろう。すでに画面は部屋の外に立つ邪魔者ジャンボ(ダニー・ホック)を映し出してあっさりとふたりを離れ、劇伴として心地よく響いていた"Heart of glass"はいつのまにか、遠くから聞こえてくる劇中音楽に切り替わっている。
 しかし、彼らのセックスの<中断>は、単に無遠慮な邪魔者のせいという訳でもないらしい。そればかりか、ボビーは自ら用事を思い出し、「またあとで会おう」と呟いて彼女をひとり残して部屋を出るのだから、セックスの<中断>はむしろ、まるで自らが招き寄せた宿命のようにも思われてくる。実際、この夜の彼の足取りは、その行く先々で目的を<中断>したままに無理矢理次の場所へと行っているようであり、とにかく慌ただしい。彼女の部屋を出るやいなや自分が仕切るクラブを見下ろし、客をもてなすべくラウンジをまわる。だが、フロアで起きた乱痴気騒ぎの収集はジャンボに任せ、混雑をすりぬけて去る。早足でクラブを出て道を渡り、向かいに構えるボス(アントニー・コローネ)の自宅へ向かう。しかし、ボスとの談笑もそこそこに、差し出されたケーキの歓迎は「もう満腹だ」といって断り、まるで逃げるように立ち去る。
 「そんなに急いでどこにいくの?」というボスの妻の呼びかけも無視し、恋人と連れ立って次の場所へと向かったボビーを迎えるのは、「厄介者がきた」という父(ロバート・デュヴァル)の呟きである。警察官の兄ジョセフ(マーク・ウォルバーグ)の昇進パーティーに、妙にご機嫌なカップル──しかも真っ赤なシャツにブラックタイを合わせた弟と派手に露出した大柄なプエルトリコ系の女である──が現れれば、身内の者ならなおいっそう場違いだと感じるだろう。無論、約束の時間も構わず、ドラッグで一息ついてから場内に入ったボビーも、重々それを承知しているらしい。互いに複雑な思いを抱えつつも、そのすれ違いを避けるように兄弟はかるく抱擁し、ひとまずは無事に再会と初対面を果たす。

 ジェームズ・グレイは、このいたって表面的なやりとりに応じて、いわばごく形式的に、<ホアキン・フェニックスとエヴァ・メンデスのウエストサイズショット>、<マーク・ウォルバーグのバストサイズショット>、<ロバート・デュバルのバストサイズショット>を3方向から捉え、話者とリアクションを拾った切返しで繋ぐ。しかし、挨拶もそこそこに「話したいことがあるから場所を移ろう」という父の合図で男たちが立ち去っていくとき、<ホアキンとエヴァ>を映していた側のカメラはポジションを変え、取り残された<エヴァ>をバストサイズショットで中心に捉える。観客はそのとき、何も言えずに一瞬彼らの去ったほうを見たあと、すぐに逆へと目を伏せてしまう彼女をみて、冒頭から感じつつあった危うさを確信するだろう(ボビーの背中を目で追ったボスの妻と同じ画面でありながら、対照的なアクションである)。カメラポジションを変えたこの画面は、単純な構図/逆構図による滑らかな繋ぎを<中断>する。
 父たちは弟を教会へ連れ出す。クラブやパーティー会場の喧騒とはうってかわり、ひっそりとした静けさが支配している。徽章付きの揃いの制服に身を包んだ男たちは、真っ赤なシャツの前をはだけたボビーを真ん中に座らせ、取り囲む。兄は弟の前に立って見下ろし、実直な警察官らしく「おまえのクラブでドラッグが取引されている」と責める。しかしどうやらこの兄弟の「上下関係」は脆いらしく、ふたりは大声で口論し始める。制止に入った父が兄と部下たちを追いやり、ふたりきりになったところでおもむろにボビーの隣に座る。父は、ロシアンマフィアへの潜入捜査に協力するよう静かに説得を試みるのだが、長椅子に並んで顔を並べる親子の会話はしかし、平行線を辿り続ける(前シーンにあったボビーとボスとの2ショットの切返しにあった親密さとは対照的に、ここでは視線のすれ違いが強調された1ショットの切返しである)。ホアキンは立ち上がって会話を断ち、先ほど兄が立っていた場所から父を見下ろし、その場を立ち去る。ここでのジェームズ・グレイは、セノグラフィーや衣裳の選択のみならず(例えば、父の部下のひとりがかける眼鏡は極めて効果的な造型である)、一連の芝居における配置演出、特に視線の高さの違いに自覚的である。男たちのもどかしさが単なる図式的な対立を超えて生々しく息衝くのは、彼らを上や下から捉えた画面に、その視線を異にする男たちの表情が絶妙に収まるからである。
 理不尽な内偵を要求されたボビーは、恋人アマダを連れ立って表彰式を抜け出す。警察官が殉職した同僚に追悼の沈黙を捧げる一方、恋人たちはキスをし、夜の外へと去っていく。画面はゆっくりとフェードアウトして、セックスの中断に始まった「ある一夜」という冒頭のシークエンスが締めくくられる。ここまでおよそ15分。ジェームズ・グレイは、ぞくぞくするほど見事な語りの速度でもって、ホアキン・フェニックス演じるボビーの慌ただしい移動を軸に主要な人物の紹介を全て済ませ、かつ彼らのキャラクターやそれぞれの関係性をコントラストとして描きながら、警察とロシアンマフィアの闘いに巻き込まれつつある「兄弟と父の物語」と「恋人たちの物語」のはじまりを提示する。去り際のボビーにかけた父の言葉が、このふたつの物語の行方を予告する──「おまえはいずれ、警察の側かマフィアの側か、どちらかにつくことになる」。

2.
 <邪魔者>は邪魔される──ジェームズ・グレイはこれまで、主人公のひとりを<邪魔者>として描いてきた。『リトル・オデッサ』のティム・ロスの帰郷は、彼が不在の間なにごともなく過ごしていた家族や街の人々にとって望ましくない再会であった。戸惑いを隠さないかつての恋人や真っ向から否定してくる実の父こそ<邪魔者>に感じもする。だがそれ以上に、過去の自分に非があるにもかかわらず裏稼業のボスの命令を飲んで戻ってきたのだから、皆から誹りを受ける<邪魔者>としての存在を自身で認め、その身で引き受けざるを得ない。しかし、だからといってそれを解消できるすべも一切なく、ティム・ロスは強張った身体をもてあましながら、いまや危険な場所となった故郷を転々と移動する。『裏切り者』も同様、出所して実家に戻ったマーク・ウォルバーグがやがて居場所を求めて彷徨い続ける物語である。身を隠すように暗闇にとけ込み、またふっと明かりの下に現われる彼の姿が反復される。観客は、冒頭の歓迎会の暖かな空気がやがてどうにもならないほど重苦しいものに変わっていくのを肌身で感じながら、とりかえしのつかない幾多の裏切りの果てに彼がにがい勝利を収めるのに立ち会うことになる。
 このグレイ的人物の宿命はボビーにも受け継がれている。既に名字も捨て距離を置いたはずの家族に再会したばかりに、彼は「街の腐敗に責任を感じないのか」となじられ、クラブへの抜き打ち捜査を予告される。しかし、いったん離れてしまえば、父に告げられた選択の言葉も忘れ、仲間たちとドラッグパーティーに嵩じ、いまやボス一家の厚い信頼を受けてクラブの拡大を任され、愛すべき恋人と愉しい未来を語り合うことができる。ジェームズ・グレイはそうした日常を描くのに、ゲームやレッスン、トレーニングのような、緊張とは無縁の場を積み重ねる。ボビーはボスの妻と気軽にダンスのまねごとをし、「俺だって警官になれた」とうそぶいて、恋人と逮捕ごっこをしてじゃれあう。兄ジョセフまで、同僚とボクシングの真似をしてリラックスしているし、父も部下たちとシカ猟の出来を談笑している。いつのまにか誰もが、<本番>などいつやってくるのか知れたものでないというように、それが<レッスン>であることも忘れて笑顔を見せる。不意打ちは、何気なく恋人のイヤリングを触った瞬間に、休日をとるべく自宅に戻った瞬間に、いつもどおりジムで汗をかいているときに、トランプゲームの賭けに勝って騒いでいるときにやってくる。
 たしかに予告されていたはずの手入れが、それでもなお不意打ちとしてふたりを驚かすのは、クラブのカウンターによりかかったボビーが、アマダの耳元に何気なく手を伸ばした瞬間である。ズドンとドアを突き破る音の衝撃とともにクラブの音楽がさっと止む。はっと顔を上げるふたりを捉えた画面はすぐに、既に警官たちが突入を果し一気になだれ込むのを捉えたロングショットになる。「既に突入しおえている」という<遅れ>の描写が、致命的な事態を直感させる。ジェームズ・グレイの画面が息衝くのは、事件が生起する瞬間の呼吸のみならず、その後に続く、延々と終わらないような持続の時間にもある。ボビーは、冒頭のキスに次いで再び彼女との触れ合いを邪魔され、抵抗する間もなく訳もわからず真っ黒な液体を口に突っ込まれる。喉元を流血のように汚した彼を、アマダが遠くから見つめる。遅れてやってきたボスは、後ろ手に連行されていく彼と遠くから視線を交わして口をつぐむ。こうした物語のディティールの執拗な積み重ねや距離の配置演出以上に、遠くからみつめる人物を遠くに捉えるとき(レンズ選択)、あるいは遠くに離れたふたりの人物の視線のやりとりを切返しで何度か反復して同じアクションを重ねるとき(編集)、何もできずに見ている他ないこの時間が引き延ばされたような感覚が生じる。観客はこの異様に持続するアクションを固唾を飲んで見守り終えたところではじめて、いま目撃したばかりの一瞬がもはやとりかえしのつかない事態になったことをようやく了解し呆然と息をつく。<中断>の瞬間は、あくまで次に持続する<再開>の始点を形づくるのであり、頂点ではない。観客が脅えるのは、その後の持続のすえで、とりかえしのつかなさが後から到来してくるからである。
 ボビーは警察署へと連行される。青みがかった壁に、無機質に並んだ蛍光灯が緑色の光を落としている。これまで、クラブや教会といった物語上対照的な舞台であれどこも暖色に統一されていたのだが、この唐突に導入されたブルーやグリーンといった寒色は、のちにわかるように、物語の影に応じるようにして次第に画面を覆うことになる。実際ここでの男たちは、パーティー会場での再会にあった抑制を捨て、言葉以上のすれ違いを演じる。憮然とした表情で牢の中にしゃがみこむボビーの前に父が現われる。息子の釈放を部下に命じる口ぶりにはいまだ父の情がみられるものの、だが最後まで牢越しに見下ろしたままなのだから、教会で隣に座ってみせたときの態度は既にない。その父に中指を立て、兄に罵詈雑言を浴びせるボビーも同様、いつもの余裕はこの見慣れぬ寒色の「敵地」では微塵もない。返す刀でやりかえす兄ジョセフも、ともするとそれが兄の正体かというほどの残忍さで、無様な姿を晒す。マーク・ウォルバークの鼻にかかった高い声やその早口、額によせる皺が、あるいは灰色のトレーナーがなんともいえぬ頼りなさを漂わせる。

 不意打ちはなおも続く。弟と殴り合いの喧嘩を演じたその夜、自宅についたばかりの兄がうっかり荷物を落としたとき、何者かが背後に現われる。兄は覆面の男を見上げるやいなやまともに顔面を撃たれ、車に火が放たれる。凶報はすぐさま父に届く。カメラは奇妙な遅さでパンしながら警察署内のジムを映し、ゆっくりとズームしたその先に隅でサンドバックを持つロバート・デュヴァルの顔を捉えると、彼はふと何かに気付いたようにその手を中断して振り返る。父は、近づいてくるふたりの部下を確認するなり、平然と「どっちの息子だ?」と問う。痛ましそうに状況を伝える部下に、不幸な事件など日常的なことだと無言で振る舞ってみせる父はしかし、部下が去るなり思い切り前のめりに倒れる。画面は、部下の去るアクションののちふっと俯瞰目のロングショットになった瞬間、それまでのバストサイズショットの切り返しにあった緊張から解き放たれたかのように力を失って足元から崩れ落ちる父を捉える。
 一方その頃、トランプゲームの勝利に機嫌をよくしたボビーのもとにも、兄の事件を知らせる電話がかかる。一度恋人が電話に出るというワンクッションの挿入や、テーブルの上に揺れるランプの光という照明効果、あるいは「ジャマイカ病院に入院した」と告げる電話のこちら側でレゲエが流れているという笑えない乖離にも増して、ここでのホアキン・フェニックスの痛ましさが、単に芝居を超えて、その存在そのものとして生々しい。真っ暗な廊下に力なく立ち尽くし、その表情は影のなかでうっすらとしか見えず、もはや何を喋っているのかほとんどわからないことに、観客は深く動揺する。  その晩、兄への襲撃はやはり手入れに対するロシアンマフィアの復讐であり、父の命も狙われているらしいことが判る。囮を断ったばかりに自分が招いてしまった兄の致命傷、そして次に待ち受ける父の危機。予断を許さない状況を前にして、誰もが<レッスン>のときにみせた笑顔を失い、しばし慌てて口論し、静かに頭を抱える。
 明くる日、まだ目を赤くし青ざめたままのボビーは、既になにかを決心したらしい表情で父の部下を待ち伏せし、マフィアの内偵の協力を申し出る。冒頭、ゆっくりと暗闇から姿を現したボビーは再び、だがその表情はまったく異にして、暗闇から姿を現す。
 潜入捜査に向かう直前、ボビーは震えるような目で、なんとか遠くからアマダの姿を見つめる。だが、のちにわかるように、この後彼がまともに恋人の姿を捉えることはない。これまでほとんど恋人への眼差しとしてあったPOV[point of view]ショットの役割は、マフィアの車の中でいったん布袋を被せられて視界を奪われるのを機に、彼を襲う事件の目撃のためにとって代わられる。マスクの上で不自然なまでに弱々しいボビーの目は、はじめてアメリカ人が足を踏み入れると言われた麻薬の製造現場の鈍い緑色の光を目にし、やがてなだれ込んでくる警察官たちの銃撃が暗闇で光るのを目撃するだろう。布袋や、到着後に付けられるマスクといった小道具と同時に、マスクの下で強調される呼吸音やマフィアの聞こえない足音が、ボビーの正体が明かされるまでのサスペンスを盛り上げる。
 アマチュアの潜入捜査など、うまくいくはずがない。変わり果てた兄の姿を見たあの夜、まるで自分が背負ってしまった負債の重みに耐えかねたかのように恋人の膝元でゆっくりと崩れ落ちたように、ボビーの身体は再び落下する。駆けつけた捜査員が「味方か? 誰だ?」と大声で確認するほど、その顔は一面黒々とした血である。ボビーはもはやクラブの支配人でもなければ家族の一員にもなりきれていない、正体不明のただのみじめな男として地面に横たわる。

3.
 おまえを守る(I'm gonna have to protect you, now.)──捜査現場に遅れてやってきた父が、搬送される無言の息子にそう語りかける。その言葉はそのまま、「あなたがたは父を守れない。だから私が守る」と父の部下に申し出て潜入捜査に向かった息子への応答となるはずである。
 画面は唐突に4ヶ月後に切り替わり、兄ジョセフの復帰祝いパーティーとなる。既に警察の保護プラグラム下にいるらしい弟ボビーも、兄と再会すべく無理をして訪れている。父は、揃って顔面に傷を負った兄弟の間を取り持つべく振る舞うのだが、ふたりはいまだ距離を縮めようとしない。兄はなおも、頑なに警察と一般市民との間の線引きを主張して、自分のために潜入捜査に挑んだ弟を追いやろうとする。それを聞いてあっさり背を向けた弟も、目を離した隙にいなくなった恋人を探すべく家を出てしまう。「どこに行くんだ?」と呼びかけたまま足をとめる父の姿には、「おまえを守る」といった言葉とは裏腹に、老いにも似た無力感が露呈しつつある。
 実際、「守る」ことの困難は既に、同じ言葉を口にしたボビーが身を以て示している。たしかにマフィア逮捕の目的は果たしたものの、それと引き換えに致命傷を負い、そればかりか、覚悟の上とはいえ仕事での地位や仲間たちとの生活を完全に失った。敵に居所を把握されないよう隠れながら移動する日々はアマダを押しつぶし、かつてあんなにも幸福に浸ることができた恋人たちはいま、モーテルのベッドの上でキスをすることもできず、横になって見つめ合うことぐらいしかできなくなっている。
 再び、画面のクロスフェードを経て、唐突に物語が新たな展開をみせる。まんまと脱獄したロシアンマフィアに、あっさりとふたりの宿泊場所が漏れたことがわかる。父が再び、一度目よりも深刻さをもって、「おまえを守る」と息子の隣に座って口にする時、既にそのモーテルの薄緑色の壁には影が落ち、降りしきる雨の青黒い景色が窓の外を遮っているのを目にしている観客は、その言葉が引き受ける困難に覚悟を決めて身を引き締める。
 父が乗った車が飛沫をあげて先頭を走り、ふたりを乗せた車がその後ろにつく。だが、モーテルを最後に出たアマダが(どうして警官は誰もその後ろにつかないのだろうか!)、車のなかで「あら、あなたにもらった時計を忘れてきたわ」と口にした直後、観客はたしかにその事態を覚悟していたにもかかわらず、右手に並んだ車の窓からライフルがのびてくるのが目に入った瞬間、震撼する。ボビーはなんとか運転席に身をうつし、訳もわからぬままハンドルを握って絶叫し続ける。にわかには信じ難い豪雨のなかを激走する車の列を並走して捉えたロングショットが、目も口も開いたままハンドルを握るボビーのクロースアップショットが、前方を走る父の車の右手に敵の車が近づくのを捉え続けるボビーのPOVショットが畳み掛けるように繋がられる。そのPOVショットの画面が、前方に走る巨大なトラックがスリップしてこちらに向かってくるのを映し出し、なんとか正面衝突を避けて道路に戻ったその視線の先で、再び右手の車からライフルが伸びるのを捉えたとき、観客の身体は震えを止めて硬直する。ボビーが絶叫しながら父の車を追走し、だが停止を試みながらも距離を縮めることができず、父の車が対向車と突き当たってようやく止まるのを全て目撃する。

 観客が深く動揺するのは、<中断>の衝撃と、そのあともなお、いつ終わるともしれずに<再開>し、持続する時間である。この<再開>の時間がボビーに突きつけるのは、目前の出来事があまりにも自分に関係しながら、しかしそれ以上に、介入したくともあまりにも無関係であることへの無力感であり疎外感である。観客は、運転席に座ったまま何もできずにいる他なかったボビーに二重化するものの、だがこのシークエンスは、スームズに感情移入するにはその閾をはるかに超えている。冷たい路面に倒れた父に駆け寄ったボビーが、吐き気をもよおしてゆっくりと崩れ落ちるのをただ見ているうちに、画面はゆっくりと暗転する。
 映画がそこで終わるはずもない。フェードインした画面が明らかにするのは、どこかのベッドの上でボビーが目覚め、すぐにふと全てを思い出したようにまた目を閉じようとする姿である。枕に顔をうずめようとしたそのとき、隣の部屋に兄の姿を認めて立ち上がり、父の死を確認する。ボビーは、生き延びたというよりもむしろ死に損なったとでも言うべきお互いの身体を確認するかのように、強く抱きしめて泣き続ける。冒頭のキスの最中にボビーが口にした「今死んだとしても、おれは世界一の幸せ者だ」という言葉は、いまや宙に浮いてしまっている。死ぬこともできずに、その後を生きざるを得ないこと。不断に<再開>し続ける他ない現在は、彼の身を耐え難い宙づり状態に放置する。
 高架線路の脇に広がる墓地で父の葬式が厳かに進行する。「おまえを守る」という言葉は父の最期の言葉となり、その正義とは裏腹の無力さを残酷に明らかにする。葬式の終盤、若者たちが遠くからあざ笑っているようにみえるカットが一瞬挿入されたのち、画面はゆっくりとボビーにズームする。かつて警官たちが殉職した同僚に沈黙を捧げるのも無視して恋人とキスすることができたボビーは、いまや尊敬に値しないばかりか嘲笑される警官の側にいて、あの時点にひき返すことはできない。
 ボビーは、だれにも言わずに警官登用試験の勉強をはじめ、兄が勤める部署に臨時採用される。だが、その表情が晴れ晴れしいはずはなく、筋肉質の一見強そうな身体は単にただ大きくて重いだけなのか、ボビーはどこかにもたれかかり、あるいはゆっくりと歩く。冒頭で「もうお腹いっぱいだ」と差し出されたケーキを断ったのは、やがて耐えきれなくなるその重みを既に自覚していたためかもしれない。だが、仲間との生活も約束された将来も失い、帰る家も失い、いまや恋人にまで去られようとしているホアキンにいったい何が残されているというのか。父の死をまえに嘔吐したボビーの身体に、いったい何が残っているというのか。ボビーの一見重そうな身体の動作は、実のところ、葬式以後黒い服を着続けるせいか、ただ虚しさだけが充満したからっぽの身体の<軽さ>に押しつぶされそうになっているからのようにも見える。ID登録の証明写真に写るのは、あのくっきりとした輪郭をもつ精悍な容貌ではなく、あまりに弱々しくかすんだ表情である。
 その<弱さ>がことさらに強調されるのは、警察官になることを阻止しようとするエヴァ・メンデスの首をしめ、だがすぐにその手を止めて背を向けるときであり、また無抵抗のまま謝罪する友人を叫びながら蹴り続けるときである。暴力をふるう者の圧倒的な<弱さ>を自覚しつつ、どうにもならずにその<弱さ>に屈してしまうこと。ホアキン・フェニックスのこのいたたまれなさは、『孤独な場所で』(ニコラス・レイ監督, 1950)のハンフリー・ボガードを思わせる。
 かつて「守る」と口にした男が一転して弱い者に暴力をふるうとき、ジェームズ・グレイは残酷に距離をとってみせる。ホアキンが恋人の首をしめる最中、カメラはいったん部屋の外を捉える。散々邪魔されてきたこの恋人たちに、いまはもう誰の仲裁も入ることはできない(ドアのすぐ横に座る警官は傍観を決め込んでしまう)。友人を蹴り続けるホアキンの姿は最後、薄暗い路地裏を捉えたロングショットの右隅の影で小さく見えるだけである。観客は、安易な感情移入を許されぬまま、この男の敗北を目にする。

4.
 「すべては終わったのよ」──『孤独な場所で』のグロリア・グレアムが、ハンフリー・ボガードに突きつける言葉である。たしかにその言葉を最後に、ハンフリー・ボガードは自ら背を向けて去り、彼がふと立ち止まったところでエンドマークがでるのだから、「すべては終わった」のだ。だが、その言葉はなお観客のなかで響き続けて消えることがないように、この「すべては終わった」は反語的である。つまり、何も終わってはいない。
 父の死後、兄弟がぎこちなくも距離を縮めるそのオフィスの窓の彼方に、ツインタワーがはっきりとみえる。映画はこれまで、より一目瞭然なように、全編に渡って時代風俗に応じたデコールを徹底して描写してきた。いたるところでみられる壁に描かれたグラフィティーは、80年代に全盛を極めたストリートカルチャーのアイコンである。だがその後あらゆる都市でストリート文化は街の「清掃」とともに衰退した。舞台の1988年からおよそ20年後の現在を生きる観客は、この極めて具体的なはずの風景がすでにどこにもないことを知っている。この20年にいったい何があったのか? 東西対立の境界線はなくなり、高度な資本主義社会がほとんどあらゆる国境を超えて発展した。グロバールスタンダードにむけてあらゆる対立の排除と統一に邁進するこの世界は、既にこの映画の風景を喪失している──。だが、ツインタワーのイメージが喚起するのは、窓の風景に目を奪われるという意味で、単にその喪失感というよりも、なくなった今もなお、場合によってはより強くある、「存在」感である。いまもなお強く「存在」し続けるツインタワーのイメージ。過去のイメージは、とりかえしのつかなさとして現在にとりこまれ続ける。
 繰り返すが、何も終わってはいない。ジェームズ・グレイをみることとは、おそらくその感覚にある。死に損なって生き続けるボビー、あるいは<中断>と<再開>のサイクルに閉じ込められた物語、またツインタワーの「存在」感は、すべからくその感覚に奉仕する。この感覚は、いかにカットし(中断)、いかに繋ぐのか(再開)ということの基底となり、ジェームズ・グレイの映画を映画たらしめる。幾度も反復しては現われる不断の現在。それが映画の本質に無縁であるはずもないし(それはサスペンスや活劇と名付けられもする)、また映画体験そのものとなる。
 夜は何度もやってくる。We own the night.

 映画はその後、逮捕劇と警察学校の卒業式で一応の幕を閉じるのだが、そこでは、単に苛酷というには済まない愛のやりとりが演じられる。簡潔な愛のひと言が、ボビーとボスとの間で無言のうちに留められ、また兄との間であまりにも弱々しく交わされる。映画が終わったあともなお残酷に響き続けるその愛の言葉は、この後いかなる形で再開されるのだろうか。ジェームズ・グレイの次作は『Two Lovers』(2008)と題されている。

『アンダーカヴァー』 WE OWN THE NIGHT

監督・脚本:ジェームズ・グレイ
製作:マーク・ウォルバーグ、ホアキン・フェニックス、ニック・ウェクスラー、マーク・バタン
撮影:ホアキン・バカ=アセイ
編集:ジョン・アクセルラッド
出演:ホアキン・フェニックス、マーク・ウォルバーグ、ロバート・デュヴァル、エヴァ・メンデス、ダニー・ホック、アントニー・コローネ

2007年/アメリカ/117分

お正月第一弾12月27日 渋谷東急ほか全国順次ロードショー
(配給:ムービー・アイ)

23 Jan 2009
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