プシュケーの探求──
E・ロメール『我が至上の愛』

この映画の冒頭を飾る一連のシークエンスは、まさしく「ロメールの署名」と呼ぶにふさわしいものだ。『我が至上の愛』の原作であるオノレ・デュルフェ(1568-1625)の長編小説『アストレ』は、現在ロワールと呼ばれる旧フォレ地方を舞台としている。しかし昨今の都市開発にともなう雑音の問題から、この地での同時録音による撮影は困難であると考え、別の地方で撮影を敢行せざるをえなかった——以上のような「断り書き」が提示されたのち、スタンダード・サイズの画面上には青々とした草原の上に腰を落ち着けたアストレ(ステファニー・クレイヤンクール)の姿が映し出される。
こうした「断り書き」を目にする観客の反応は、おそらく次のふたつに大別されるだろう。まずロメールの映画に馴染みのない者たちは、この「断り書き」に少なからぬ戸惑いを覚えるに違いない。一体なぜそのようなことをわざわざ冒頭で説明する必要があるのか。実際の撮影場所こそ明示されていないものの、この映画が撮影されたのがオーベルニュ地方、およびショーモン城とその周辺一帯の庭園であることはすでにインタヴューなどで明らかにされている。だとすれば、原作通りの場所ではないとはいえ、この映画がフランス国内で撮影されたことに変わりはない。そもそも原作『アストレ』の舞台は、紀元5世紀という現代から遥か遠く隔たった時代であるはずだ。そうであれば、撮影された場所が原作から数百キロメートル離れた場所であることなど、些細なことではないか──。
しかし、これまで彼の映画を見つづけてきた者たちにとって、これほどロメールらしい身振りもない。改めて確認するまでもなく、ヌーヴェルヴァーグの作家たちの中でもとりわけアンドレ・バザン(1918-58)から強い影響を受けたロメールは、これまでにも「自然」に対する「写真映像」の驚くべき忠実さによって何度もわれわれを驚かせてきた。『夏物語』(1996)における「映画内の日付」と「撮影された日付」との徹底した一致をはじめとして、彼ほど「自然に属する美」をそのまま奪い取ることに腐心してきた作家はいない。そのようなロメールにとって、この映画が旧フォレ地方以外の場所で撮影されたという事実は紛れもない「一大事」なのであり、それゆえ彼が冒頭でそのことに言及するのも至極当然の帰結にすぎない。
とはいえ他方で、本作『我が至上の愛』が、フランス革命期の物語を原作とした『グレースと公爵』(2001)が引き起こしたものと同質の戸惑いを引き起こすだろうということも想像に難くない。「四季のコント」や「喜劇と格言劇」のような現代劇を撮りつづけてきたロメールが、晩年になって立て続けに映画発明以前の「時代物」に着手したのはなぜなのか。もちろんこれまでにも、『O公爵夫人』(1976)や『聖杯伝説』(1978)といった例外は存在した。しかし、なぜいまデュルフェなのか。ロメールはおそらく涼しい顔で次のように答えるだろう。これは元々ピエール・ズッカ(1943-95)がレ・フィルム・デュ・ロザンジュに持ち込んだ企画であり、自分は彼の没後にこの原作を読み返してその映画化を思い立ったにすぎない、と。
かつてパスカル・ボニゼール、梅本洋一らが指摘したように、映画(ないし写真)誕生以前の時代を舞台とするロメールの映画には、ある共通項を見いだすことができる。すなわち、タピスリやタブローといった「写真映像の代替物」に言及することがそれである。たとえば『聖杯伝説』においてロメールは、中世のタピスリを再現した書き割りを用いることによってパースペクティヴを欠いた中世の世界観を「再現」し、『グレースと公爵』においてはドゥ=マシー的な民衆不在のタブローと俳優たちのCGによる合成という手段によって、革命期の民衆による「画面への暴力的な介入」を見事に「再現」してみせた。いまだ写真映像が存在しなかったこれらの時代を映像化するにあたって、ロメールが参照するのは活字資料ではなく、まずもってタピスリやタブローのような視覚的資料なのだ。

このアナクロニズムによって生じる奇妙な印象は、冒頭でのアストレとセラドン(アンディー・ジレ)の会話にも見て取れるだろう。浮気を疑い彼を避けるアストレに対して、「美しい羊飼いよ(belle bergère)」と呼びかけるセラドンの言葉遣い、およびそこから繰り広げられる一連の会話は明らかに羊飼いのものではなく、17世紀に生きた貴族のそれである。しかしこれは、デュルフェの小説を受容していた宮廷貴族にとって異質なものとは見なされなかったに違いない。なぜなら彼らが『アストレ』に求めていたのは、5世紀の羊飼いを題材としたリアリズム小説ではなく、あくまでも彼ら貴族が自己を投影するための物語だったからだ。ロメールは、こうした言葉遣いを含め、「プレシオジテ」をたっぷりと含んだ原作の台詞にほとんど手を加えていない。そのことは、5世紀のガリアにおいてこうした高貴な言い回しがなされていなかった(というよりはむしろ、いまだフランス語そのものが話されていなかった)という「史実」ではなく、17世紀の宮廷文化においてこの作品が好意をもって受け入れられた、という「史実」に対するロメールの忠実さを示している。

たとえば次のような場面。セラドンが行方不明になってからしばらくして、アストレたちは僧侶たちの祭典へと赴くために、途上の森の中で一夜を過ごす。翌朝その一行に偶然遭遇したセラドンは、無防備に眠っているアストレにその身を近づけ、一瞬彼女にその姿を見られてしまう。しかしアストレは、自身が見たセラドンが彼の「亡霊(âme)」に違いないと思い、彼の生存を喜ぶどころかその身を震え上がらせる。セラドンの「心(âme)」の不実さをなじり、彼を死に追いやったと思い込んでいるアストレは、皮肉にもみずからが欲した彼の「心=霊」そのものに苛まれることになるのだ。「魂(プシュケー)」は肉体の死後も残存する──そのような旧来の霊魂論にもとづく世界観の中で、彼女はセラドン=アレクシの姿を眼差している。それゆえ、彼女がセラドンの面影をもつアレクシの正体に気づかないのも、無理からぬことであるのかもしれない。

監督・脚本:エリック・ロメール
撮影:ディアーヌ・バラティエ
編集:マリー・ステファン
衣装:ピエール・ジャン=ラローク
出演:ステファニー・クレイヤンクール、アンディー・ジレ、セシル・カッセル、セルジュ・レンコ、ジョスラン・キヴラン、ロドルフ・ポリー
2007年/フランス・イタリア・スペイン/109分
1月17日(土)、銀座テアトルシネマ他にて全国順次公開
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