サディストとしての観客──
ミヒャエル・ハネケ『ファニーゲーム U.S.A.』

大谷昌之

 アメリカ人の一家が湖畔の別荘へと車を走らせている。彼らはそこで夏のヴァカンスを過ごすのだろう。一家は車内でクラシック音楽の曲当てクイズを楽しんでいる。作品はボートを牽引する4WD車を上空から捉えた俯瞰ショットと、ヘンデルのオペラによって幕を開ける。車が別荘に近づくとカメラは車内へと移るのだが、一家の顔はまだ見えない。一家の顔が初めてスクリーンに現れたとき、クラシック音楽は山塚アイの絶叫によって断ち切られる。画面内の幸福な一家の映像と画面外に流れるハードコアミュージック。映像と音の不釣合いが、これから起こる惨劇を予告する。

 別荘に到着した一家のもとにふたりの訪問者が訪れる。半袖・半ズボンに白い手袋という出で立ちがすでにしてこの訪問者たちの異質さを示しているのだが、彼らははじめのうちは常識人を装っている。しかし、卵を渡す渡さないの小競り合いに端を発し、彼らの理不尽な暴力行為が始まる。何の非もない人物に加えられる非合理的な暴力、これはサスペンス映画の定石といっていいだろう。いうまでもなく、一家は常識的な存在として、訪問者は彼らを苦しめる非常識な存在として描かれている。だが、彼らは人間性を異にするだけではなく、映画内における行動図式をも異にしている。というのは、一家は行動と行動の間に感情的な紐帯を持っているのだが、訪問者の側にはそうした紐帯が存在しないのである。たとえば、ナオミ・ワッツははじめ訪問者に対し友好的な態度をとり、継いで敵対的な態度をとるが、これらふたつの行動は怒りの感情によって結ばれている。一方で訪問者の行動はそうしたつながりを欠いている。それゆえ観客の目には、一家の行動は理解可能なものに、訪問者の行動は突拍子もないものに映るのである。したがって、多くの観客は必然的に一家の側に感情移入してこの映画を見ることになるだろう。

 一家は映画内世界のリアリズムを構築し、訪問者はそれを破壊する。言い換えるなら、前者は映画の内部に位置し、後者は映画の外部に位置する。この内部/外部という言葉は抽象的な意味だけではなく、彼らの各ショット内における具体的な立ち位置を示してもいる。注意して映画を見れば、ほとんどのショットに一家のうち誰かひとりが映り込んでいるのがわかるだろう。もちろん、一家と訪問者が会話をしているシークエンスで訪問者がクロースアップされる場合などは別であるが、たいていの場合一家はショットの内部か少なくともそのすぐ隣に位置している。逆に訪問者はキッチンに食事を取りに行ったり、果ては家を出たりと、ショットの内外を自由に行き来できる。この映画においてカメラのフレームは映画内世界の境界であり、ショットの内/外はそのまま世界の内/外と重なっている。つまり、ショットの内部に必ず位置してしまうこの一家には、この不条理な世界から脱出することも適わないのである。だからこそ、一家は何度脱出を図っても失敗してしまうし、逆に訪問者はあっさり彼らを捕まえることができる。ただ一度だけ例外があり、一家がショットの外に、訪問者がショットの内に位置するシーンがある。それは、子供が殺害されるシーンである。子供の死は直接には描かれず、ショット外の音として表現される。つまり、一家はただひとつだけ映画内世界から抜け出す方法を有しており、それは死なのである。
 一家にとって死が唯一の救済であるのとは反対に、訪問者にとって死は最悪の事態である。なぜなら、映画内世界で死んでしまうと、彼らはそこから抜け出すことができなくなってしまうからだ。ナオミ・ワッツがブラディ・コーベットを撃ち殺したとき、マイケル・ピットが尋常でないほどの焦りを見せたのはそのためである。観客はこの瞬間一家の暴力からの解放を確信することだろう。しかし、マイケル・ピットはある反則的な手段でもってブラディ・コーベットを生き返らせてしまう。そして、ついに一家は皆殺しにされる。もちろん、彼らの死の瞬間は直接的に画面に表れることはない。最後のひとりであったナオミ・ワッツが湖に突き落とされるとき、このあまりの救いのなさに観客は唖然とするだろう。このサスペンス映画は、文字通りサスペンド(宙づり)状態のまま終わるのである。

 このラストが私たち観客の傲慢さを浮き彫りにする。サスペンド状態は終わらなければならないなどと、何を根拠にしていえるのだろうか。多くのサスペンス映画が事件の解決や被害者の救済でもって終わるのは、それが映画の必然だからではなく、少なからず観客の望みに答えた結果なのである。さらにいえば、サスペンス映画というものが作られること自体、観客がそれを望むためである。誰もそれを見なければ、これ以上サスペンス映画は作られないだろう。つまり、サスペンス映画の観客は被害者側に位置しているのではなく、理不尽な暴力や恐怖を望んでいるという意味では加害者の側に位置している。一家に味方しているように思っている観客たちは、その実訪問者と同じ種類の存在なのである。マイケル・ピットがしばしば画面外の観客に向かって話しかけるのは、自分が観客と同じ存在であることを示している。また、彼らが映画内世界を自由に抜け出せるのも、彼らが観客たちと同じ映画外世界に位置する存在であるからだ。つまり、このふたりの訪問者は観客に代わって映画内世界へと赴き、暴力が見たいという彼らの欲望に答える存在なのである。

 映画内世界と映画外世界への同時所属──この彼らの立ち位置の両義性は私たち観客のそれと重なっている。はたして観客とは映画にとって何なのか? 観客とは単に与えられた映像を見るだけの受動的な存在、すなわち完全に映画の外部に位置する存在なのだろうか。それとも、積極的に映画を見ているという意味では、映画の内側に位置する存在なのだろうか。この問いに答えることは難しいが、ただひとつミヒャエル・ハネケが明らかにしたことは、観客とは少なからずサディスティックな存在であるということだ。観客は映画の登場人物たちに何らかの困難や悲劇が起こることを期待する。彼らは何も起こらない映画など見ようとしないのだ。このことは映画の舞台がオーストリアからアメリカに移されたことで一層明らかになるだろう。はたしてどれだけの観客が、この後味の悪い結末が自分たちの内なるサディズムに起因するということに気づくだろうか?

『ファニーゲーム U.S.A.』 FUNNY GAMES U.S.

監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ
撮影:ダリウス・コンジ
編集:モニカ・ヴィッリ
録音:トム・ヴァルガ
出演:ナオミ・ワッツ、ティム・ロス、マイケル・ピット、ブラディ・コーベット、デヴォン・ギアハート

2007年/アメリカ・フランス・イギリス・オーストリア・ドイツ/111分

12 Jan 2009
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