失敗なき賭け
──ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ『ロルナの祈り』

中村真人

 『ロルナの祈り』に2008年のカンヌ国際映画祭が脚本賞を与えたのは、率直に言って悪くない判断なのではないか、と勝手に思っていた。賞が質を保証するというのはまやかしには違いないのだけれど、カンヌ4作連続主要賞受賞という「失敗のなさ」は、何かにつけ話の矛先が向かいがちな「社会派」的なモチーフやドキュメンタリー的と言われもする撮影手法というよりは、入念に準備されたシナリオにある、というのがこれまでの作品からの印象だったからだ。

 手持ちカメラなだけにルックだけでは眼前の「出来事」を即興的に捉えたとも見えかねず、ストーリーの語り口もかなりあっさりとシンプルなので見落とされがちだが、ダルデンヌ兄弟は周到かつ繊細な演出家だ。じっさい、せりふや象徴の配置のようなテクスト内のレベルから、カメラワークと俳優たちの演技、光やカメラの選択、カット割りまで、すべてはふたりのシナリオによってコントロールされている。『ロゼッタ』(1999)や『息子のまなざし』(2002)に顕著な、至近距離から俳優の背中に張り付く撮影は、両者の動き、スピードの微妙な調整がなければ成立しないだろうし、迫真性があるとすれば、すべて決められた動きをカメラマンと俳優とがダンスのような近さで同調させなければならないという緊張感からくるものであって、ドキュメンタリーとかリアリズムとはなにも関係がないものだろう。その認識は『ロルナの祈り』を見てもまったく変わらないどころか、相対的に撮影対象との距離がとられた──したがってドキュメンタリー・タッチと呼ばれるものの根拠となっていると思われる「臨場感」だとか「当事者性」はやや薄まっている──本作によってむしろ強められた。

 『ロルナの祈り』で顕著なのは、より複雑に配された細部の象徴的なつながりだ。前半なかほどの場面、ごく殺風景な病室のベッドをテーブル代わりに、ふたりの男女がトランプに興じている。大きな窓の前におかれたベッドの上で、麻薬中毒患者のクローディ(ジェレミー・レニエ)は胡坐をかき、ロルナ(アルタ・ドブロシ)は上半身をひねったかたちで軽く腰をかけている。窓外は明るいが、やや逆光で捉えられたふたりにフォーカスしたカメラは被写界深度が浅く、その奥に開けた風景はぼんやりとしか映らない。ごく限定された細部はベッドの上だ。手に持ち札、中央の山、場には表にされた幾枚かのカード。観客にはすでに冒頭近くのシーンで、クローディにとってトランプがロルナといるための口実に過ぎないことが示されている。一方「次の夫」のために戸籍の欄を空ける必要があるロルナは、離婚成立を急がなければクローディの命を見捨てることになってしまう。急ぐ女に引き伸ばす男、スピードの駆け引きという主題が、ふたりの姿勢、トランプという象徴でさりげなく簡潔に演出されているのだが、そこで演じられているゲーム、あれは、どちらがより速く持ち札を処理し中央の山に捨てられるか、ふたりのプレイヤーでその速さを競うゲームではないだろうか。日本では文字通り「スピード」と呼ばれるこのゲームが欧米圏では spit といい、この英単語が「(つばなどを)吐き出す」や「串刺しにする」という意味を持つとともに「性交」の隠語でもあることは確認しておいてもよいかもしれない。この仮面夫婦の代償行為としてのトランプ、そしてのちのロルナが体験する想像妊娠の予兆としての想像的な射精。とまでは深読みに過ぎる感はあるが、それが可能なほどには出来すぎた光、出来すぎたフォーカスではあるのだ。

 そもそもこのトランプの札自体、この映画のそこかしこに偏在するユーロ紙幣のヴァリアントのひとつにすぎない。冒頭からして、手の中で数えられる紙幣が大写しで登場する。340ユーロを銀行の窓口に預け、ロルナは貸付の相談のため支店長とアポイントをとろうとする。その足で買い物を済ませ、帰宅するとクローディに商品を渡しその代金を受け取る。貨幣は交換と流通を繰り返し、さまざまな手を渡っていく。流通とそのスピードをめぐる主題は、開巻から一貫しているわけだ。とすれば、タクシードライバーの傍ら移民のブローカーを請け負うファビオ(ファブリツィオ・ロンジョーネ)はさしずめディーラーだろうか。circulation(流通=交通)のプロフェッショナルとして、ロルナから国籍取得の手数料を徴収し、またロシア人の顧客のためにロルナが果たす役割に対価を支払う。ロルナの離婚とクローディの死のスピードもこの男のアクセル次第でどうとでもなる。緻密な演出とコントロール、まるでダルデンヌの分身である。
 さらにこの紙幣=カードの系列でも特異なのが、麻薬をやめようと決心したクローディがロルナに預ける、札束の入った封筒だ。煙草代や夕食を用意するための買い物の代金をそのたびにロルナから返してもらうというやり方は、交換や流通のスピードをコントロールするための手段といえるが、これはむしろそのスピードを限りなくゼロにすることだろう。流通の回路を遮断するこの態度は、自室の鍵(この象徴も別のかたちで巧みに配置されている)を内側から閉め、窓から放り投げるクローディの動作につながる。そしてまたこの運動を反復するロルナもまた、そのとき流通の回路から外に出てしまう。だから、クローディの死後、この封筒が誰の手にも渡らないのは当然だ。同じく回路をはみ出したロルナはタクシーを降ろされ、ヨーロッパの外部、どことも知れず森の中の隠れ家(refuge)で文字通り亡命者(refugee)として終幕を迎えることになる。
 これまで使われることのなかった音楽がエンドロールで流れるというのも、この流通の主題から解釈できる。流通の回路から外れたロルナは、しかし最後にたどり着いた小屋の鍵をこじ開けたのだ。壊れた鍵は、別の回路への可能性を残している。今は休息のために閉じられた開口部からは、じきにそよ風(arietta)が流れてくるだろう。ベートーヴェン最後のピアノソナタ、その第2楽章の冒頭。主題部がこの先スピードを変えて変奏されていくように、ロルナの流浪もまだコーダを迎えていない。このフィルムの運動に、フェルマータは似つかわしくない、というわけだ。このエンドロールに流れるアリエッタこそ、演出家が用意した至高の運動だったのだ。

 象徴的なイメージを読むことがすなわち物語を読むこととなり、その連結でもって語りに説得力を加えることにもなるこの演出には、いちいち納得がいくものだ。過不足なく細部はコントロールされ、力強く雄弁に物語っていくダルデンヌは、まさに「失敗しない」演出家(metteur en sceène=舞台に配置する者)である。

 しかし、と言われるかもしれない。とはいえ、賭けはあるのではないか? 俳優とカメラの共同作業の中に、まさにその両者のダンスを輝かせる演出(réalisation=実現)があるのではないか? となると、ここでもうひとりの登場人物ともいえるカメラマンの運動にも触れないわけにはいかない。ダルデンヌ兄弟にとってカメラは非人称的な視線を自動的に記録する機械ではなく、その動きは俳優とともに演出されるものであることは上で既に述べた。あるインタヴューで、今作品ではじめて試みられた35ミリ撮影が夜間撮影の光を考慮してのものだと明らかにしたのち、ジャン=ピエールはデジタルHDを選択しなかった理由をこう弁解している。「『長江哀歌』の撮影に感銘を受けたのですが、ジャ・ジャンクーは標準的なHDにサイズも重量もあるレンズを付けていました。35ミリに<仕立てる>のにデジタル初期に使われていたものです。それで撮影するには、脚台に載せなければなりません。わたしたちのカメラは肩の上ですから、デジタルを使うには至らなかったのです」。画面と同様の重要度で、カメラマンが持てるか否かが問題となっているわけだ。カメラは人が持つものであり、コントロールすべきは俳優と同様にカメラマンの動きなのである。

 『ロゼッタ』のスーパー16がその名の少女をひたすら追い続ける(追い立てる、が正しいかもしれない)背後霊的人物に演出されていたとして、『ロルナの祈り』の35ミリ撮影カメラもアルバニアから来た女性の挙動を捉えることに専心してはいるものの、その動きはむしろ後見人というのがふさわしい距離感を維持している。上で触れたトランプのシーンのあと、家庭内暴力を偽装するために自らを傷つけ病室を飛び出すロルナを、もはやカメラは追っていかない。暴走しないと分かっているなら、わざわざついていく必要はないのだ。あるいは森の中をさまようシークエンス。画面の左から右へ、あるいはその逆へと動くロルナをパンで捉え、画面外へ出ようとするとカットを割って先回りしたところでまたフレームに捉えていく。こちらはむしろ、行く先をカメラが指定しているようでもある。緩慢に、しかしつねに見ていることを主張するカメラ。35ミリという重さの問題はあるにしても、ここでは重いから動きが遅いという因果関係よりも、むしろ動きが遅くてもかまわないし、その遅さという態度が強調されるべきだろう。
 不思議なのは、ロゼッタよりも、オリヴィエよりも、つまり至近距離から「見張られて」いたダルデンヌ的人物たちよりも、ロルナのほうがはるかに不自由に見えることである。自転車で走り去るクローディを追う、恩寵のようなショット(しかしこれも縦に抜ける構図のためにそう見えるのだ。演出された自由。このショットはとても素晴らしいのだけれど、わたしは、なんて性格の悪い人たち!と感じてしまった)を除けば、カメラの遅さに合わせるように、というよりもひもでつながれた大型犬のように、あるいは公園で遊ぶ子供のように、カメラが捉えられる範囲で、あるいはひたすら水平移動で(垂直移動は想像上のつわりで中断される)、ロルナは動き回るのである。
 そう、ここから受ける印象は、カメラがロルナの動きを捉えるのではなく、ロルナがカメラによって動かされているというものだ。しかしロルナも人形ではない。肩も広くやや大柄なこのコソヴォ出身の女優が輝くのは、この窮屈な世界を不自由そうに、しかしそのことをまったく悲観的に捉えていないように見える点だろう。ダンスは離れて踊るほうが難しい。テンポが遅いダンスも難しい。それを可能にするのは、演出家の緻密さと俳優のひたむきな献身なのである。カメラを介して両者が手を取り合うとき、失敗の起こりようもない、完璧な流れが生まれる。

 そこに世界があってそれをある視点から切り取る視線をドキュメンタリー的視線とするなら、ダルデンヌの視線は明らかにそうした種類のものではない。その画面に、あまりに世界は映されていないからだ。『ロルナの祈り』でも、舞台となったリエージュはほとんど不可視なまま、ロルナの身体とそれを取り巻く「環境」がこの作品の「世界」となっている。フレームの中になんらかの「世界」を構築しようとする視線、という意味では、むしろフィクション的視線というほうが近いのだ。しかしその定義もまた不十分だろう。世界に介入し、コントロールしようとする視線、世界とともに「世界」を作り上げる視線、それがダルデンヌの視線ではないだろうか。綿密にシナリオを用意し、繊細にそれをフィルムに定着させる、そんなフィクション映画の根本たる作業を、もっとも慎ましく、もっとも失敗の少ないかたちで実現させること。それが手持ちカメラにこだわる最大の理由ではないだろうか。ダルデンヌ兄弟の賭けは、おそらくここにある。労力を尽くして「世界」を最小限にまで縮減することでリスクを限りなくゼロに近づける賭け。それに勝ったとして、それはふつう成功とは、奇跡とは呼ばない。大げさに言う必要はないのだ。正しく「小品の佳作」と呼べばいい。

 ベルギー国内で実現した「ロゼッタ計画」なる若年雇用推進政策とはまったく別の次元で──これは、同名の作品が問題をあぶり出し、政策の必要性へのコンセンサス形成に貢献した、というよりは、政策実現のためにパルムドール受賞作品が象徴的に利用され、それに兄弟自身も積極的に乗っかったというのが実情だろうと思うが──、もっと慎ましやかに、もっと繊細に世界と手を取り合い、コントロールすること。「握手となるような映画を作れたらというのが、わたしの望みです」というのは、リュック・ダルデンヌの至言である。その言葉を小さく肯定し、その手がもっと長くなればいいのに、とまた小さくつぶやき返して、次回作を待ちたい。

『ロルナの祈り』 LE SILENCE DE LORNA

監督・脚本・制作:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
撮影:アラン・マルコァン
録音:ジュリー・ブレンタ
出演:アルタ・ドブロシ、ジェレミー・レニエ、ファブリツィオ・ロンジョーネ、オリヴィエ・グルメ

2008年/ベルギー・フランス・イタリア/105分

1月31日より恵比寿ガーデンシネマ他全国順次ロードショ

12 Jan 2009

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