漁夫の利──
ジョニー・トー『エグザイル/絆』

film ]  J・トー
三宅 唱

 男がドアをノックする。女がドアを開ける。ウーはいるか? と男が尋ねると、女は知らないと答えてドアを閉める。するとまた別の男が現れ、ウーはいるか? と尋ねる──まずはここから撮ろう。その先は? と誰かが尋ねると、そんなことはわからない、まずはこれを撮ってからだ、と答える。
 決まった脚本も無いままに本作の制作を進めていく間、ジョニー・トーがその都度何をどう言って進めたのだろうかとつい勝手に想像してしまうが、そうした即興の日々にあるに違いない楽天的な愉しみは、物語そのものに反映され、やがて形を変えて観客にも伝播するだろう。誰でも結末はおおよそ見当がつく──いずれ現場は終わるはずだし、物語にはなにかオチがあり、人は順々に死ぬものだ、と。しかし、そこに至るまでどう転がり進んでいくのかは、誰にもわからない。実際、男たちのリーダー、ブレイズ(アンソニー・ウォン)はある時点から半ば諦めの表情でコインを放り投げ、その裏表で自分たちの行き先を決めていく。香港の喧騒を離れたどこか陽気なマカオを舞台に、ある晩は暗闇の銃撃戦、翌日はお気楽なハイキングと、出たとこ勝負でつきすすむ男たちが、「今から、どんなところで、何をするのか?」というミッションをいかに処理していくのか。本作の賭けは、ひとまずこの一点にある。
 では、ドア越しの男女の会話に始まる冒頭のロケーション、ここは一体どんな空間なのか? 街路樹のある広場、広場に面したアパートメント、その前を走る一本の坂道。そこで何が起きるのか? 男たちは広場にたむろして葉巻を吸い、ウーを待つ。それを二階の窓から女が窺っていると、坂道の向こうから一台の青い軽トラックがやってくる。運転席からウー本人が現れ、ゆっくりとすれ違う。男たちは無言のままウーの背後に近づいていく。その様子を、道の反対側に止まった警察車輌の中から老警官が傍観していると、二階から銃撃の音が聞こえ、割れた窓ガラスが降ってくる。警官は機をみて逃げるように走り去っていく。

 ジョニー・トーはその一切を隠さない。距離、遮蔽物、隙間を正確に把握して、そこに俳優たちの堂々たる姿をいたってクールに配置する。そして自ら率いる「MILKYWAY IMAGE(銀河映像)」が誇る、職人芸ともいうべき技術力で見事に見せ切る。なぜあんなにも、デフォルメと厳密さが調和するのだろうか。中盤のとある場面は、その絶妙なバランスの真骨頂のひとつだろう。闇医者の一室で、男たちが敵と鉢合わせする羽目になるシークエンス。ご都合主義同然の筋で、しかも甚だリアリティに欠けた室内美術、くわえてエロとギャグまであるのだが、「男たちがどこに隠れ、そしていつ身を晒して銃を撃ち始めるのか」という手続きのディティール描写には、かなり引き込まれるものがある。
 即興が延々と繰り返される博徒的撮影が進むにつれて、実際に役者たちも以前以上に仲を深めていったという。男たちが河のほとりで焚火を囲み無邪気に戯れる姿は、たしかに現場の空気そのものと地続きなのだろうと思わせる。ときに無言ときに饒舌な男たちのやりとりは勿論のこと、彼ら全員をフルで入れこみ、まるで「全員で一人」かのようにみせるロングショットの多用をみれば、原題にはない「絆」という単語を連想するのも無理はないかもしれない。最も印象に残るのはおそらく、男たち全員が「同じ方を向く」あるいは「同じものを見る」というアクションだろう。むしろそのお揃いのアクションの強調こそが、物語展開や即興的芝居以上に、古くからの仲間だという彼らを「彼ら」たらしめる、決定的な芝居演出の型になっている。みなで同じ方を向く記念撮影が二度ある。色褪せた記念写真──若かりし彼らが映っている──が度々挿入される。同時に立ち同時に動くという振り付けがリズムを生む。誰かひとりが娼婦や金塊を見つければ、同時に、他の男たちも見つけている(それぞれの顔のショットと、見ているモノのショットを交互に繋いでいる)。彼らが同時に戦闘体制に入る瞬間に、ひとりが銃を抜き、ひとりが撃鉄を起し、ひとりが構え、ひとりが撃つ、というそれぞれのカットを一連の流れでみせてしまう編集に至っては、まるで四人で一丁の銃を撃っているかのようで、さすがに唖然としてしまう。そして、無数の弾着をつけ安全度外視で暴れ回る役者たちの熱演、至近距離で撃ち合う男たちの銃撃戦に、ただ呆然とするのである。

 フィナーレには、男たちよさらば!といわんばかりの一枚の写真が花びらのように舞い落ち、心地よい涙を誘うこともあるだろう。その高揚を、男たちのように誰かと分かち合いたい気分にもなる──しかし、これだけは付け加えておく必要がある。親しい友人と連なって興奮に身を任せた一方で、少なくとも私は、気のせいではないと思える程度には、どこか遠くの話のようにも思え、また自分の存在すらまるで居心地の悪いものとして感じてしまうような、<隔たり>の実感を持ってしまっている。その感覚は果たして何に依るものなのだろうか。
 結論からいえば、ジョニー・トーの即興性とは、じつのところ、「この次、なにがおこるのか?」という宙づり状態を、見ることのサスペンスの快楽としてそのまま提示するものではない。ジョニー・トーにおいては、すべてはやがて最後に失われるものである。そこに至るまでは、すべてこの次どうなるかわからないものであるが、その経緯は視覚的な語りによって「かつて、なにがおこったのか?」という意識に反転し、すべてはすでに失われたものである、という感覚をもたらすのである(この感覚は、しばしば引き合いに出されるサム・ペキンパーの映画ではなく、マックス・オフュルスの映画を見たときのそれに似ているかもしれない)。男たちに絞ったフレーミングは、却ってそこに映されなかった数々のものを意識させるという意味で排他的な<隔たり>を感じさせ、またそれ以上に、そこに映っているすべてのものをそれ自体で完結したもの=既に終わっているものとして意識させるという意味でも、強く<隔たり>を感じさせるだろう。即興的なアクションにあったはずの野蛮さや危険さは、高度な撮影技術によって、安定したものとして捉えられている。
 返還目前のマカオという既にどこにもない失われた場所という舞台設定も、そこでたびたび繰り返され、時間的にも引き延ばされる経緯の物語も、おなじ感覚に奉仕するだろう。勝負に出た男たちの傍らには、彼らと無縁であることを決め込んで体よく生き延びたある者や、彼らと敵との間であっさりと天佑を得て立ち去っていったある者の姿が描かれる。賭けにでた者が利益を得るとは限らないし、利益を得た者もこの後どうなるかはわからない──ジョニー・トーがしばしば扱ってきたこの<漁夫の利>という物語的モチーフは、まさにその感覚を提示するのにふさわしい語りではないだろうか。
 ジョニー・トーの映画にあっては、どんなに興奮するエピソードがあったとしても、それが視覚的な<隔たり>をもって語られることで、「すべてはすでに失われたものである」という感覚が強く際立つこととなる。男たちが映った記念写真は、この映画そのものである。その感覚はおそらく、ジョニー・トーがもたらすものであると同時に、刻一刻と失われていくのをただ見る他ない観客の存在そのものがあらかじめ内包しているものでもあるだろう。

『エグザイル/絆』 放遂

監督・製作:ジョニー・トー
脚本:セット・カムイェン、イップ・ティンシン
撮影:チェン・シウキョン
出演:アンソニー・ウォン、フランシス・ン、ニック・チョン、ラム・シュ、ロイ・チョン

2006年/香港/109分

17 Dec 2008
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