「語り」の時間が呼び覚ますもの──石井裕也『ばけもの模様』

film ]  石井裕也
渡邉大輔

 『ばけもの模様』は、今年6月に劇場公開された石井裕也監督の第4作にして最新長編である。さらに製作じたいは昨年(2007年)のことであり、日本での一般公開に先駆けて海外の国際映画祭での上映歴もあるので、レヴューとしてはかなり時期はずれの作品になるだろう。とはいえ、現在の日本映画では最も若い世代に属するだろうこの注目すべき作家について、管見の及ぶ限りで、現在のところいまだ充分な議論がなされているとも思えない。そうした意味でもここでは通常のレヴューの範囲を超えて、石井の映画世界全体の内実を踏まえつつ、少し大きな文脈でこの長編をめぐる議論を展開してみたい。
 『ばけもの模様』は、冒頭に登場するキャプションでも示される通り、「人はばけもの。世にないものはなし」という井原西鶴の言葉をモティーフとした、シュールでコミカル、そしてどこか物悲しい群像劇である。物語の概要を紹介しておこう。主人公は、主婦の高松順子(大鳥れい)。IT関連と思しき企業に勤め、多忙をきわめる夫・喜一(潮見諭)と暮らす、一見、ごく普通の専業主婦にも見える彼女は、実はかつて旅行先の海で幼い一人息子の清を不慮の事故で亡くして以来、そのショックから時折、奇行を見せるようになっていた。数週間前からの便秘にも悩まされているそんな彼女を、夫の喜一もまたどこか疎ましく感じるようになっている。ある日、パチンコ店に出掛けた順子は、駐車場を暴走している車に危うく轢かれそうになる。車の運転手は、近くのスーパーでメロンパンの移動販売員をやっている、見るからにうだつのあがらない青年・世之介(桂都んぼ)。たいした怪我はなかった順子だったが、一方で喜一とのあいだの溝は日増しに深まっていく。
 順子との生活に疲れた喜一は、ついに会社の若いOL・川本弘美(井川あゆこ)と不倫旅行に出掛けてしまう。とはいえ、一方の順子も自分を轢いた世之介とばったり会い、ひたすら謝る彼を半ば強引に強迫し、世之介とともにメロンパン販売用のバンに乗って、あてのない旅行に出る。片や不倫相手の弘美と、片やへタレ青年世之介と連れ立って旅に出た喜一と順子は、その後、あの息子を亡くした海辺で偶然にも巡り会う。愛する息子への共通の思いを確認し、家路に着いたふたり。だが、いまだどこか胸中にわだかまりを感じ続けていた順子は、衝動的に喜一をバットで殴りつけてしまう……。
──以上が、本作のあらましだ。
 監督のほか、脚本・編集・共同製作を担当した石井裕也は、1983年生まれの若手映画作家だ。大阪芸術大学芸術学部在学中から精力的に映画製作を行い、その卒業制作として発表した処女長編『剥き出しにっぽん』(2005)が、日本大学大学院芸術学研究科在籍中の2007年、第29回ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを受賞し、一躍注目を集めた。その後も、『反逆次郎の恋』(2006)、『ガール・スパークス』(2007)と、驚異的なペースで長編や短編を発表し、今年(2008年)には、ロッテルダム国際映画祭や香港国際映画祭で異例の特集上映が組まれ、さらにアジアン・フィルム・アワードでは第1回エドワード・ヤン記念アジア新人監督大賞を獲得。現在は、石井作品の常連キャスト・スタッフと自身の映像制作プロダクション<Chavez's Cinema>を主宰、新作長編となる『君と歩こう』の製作に着手している。
 さて、元宝塚少女歌劇団の花組トップスターであった女優・大鳥れいを主演に迎えた本作は、これまでの石井の仕事の総決算的な意味あいも持つ作品だといっていい。事実、現在の若手映画作家の中でも随一といっていいほど初期からその独特な作家性を示している石井だが、この『ばけもの模様』でも、それが全編にわたって濃厚に表れているからだ。

I アレゴリーとしての語り

 ある場面では、裏さびた駐車場の隅にふてぶてしく腰掛け、しつこく難詰する女性を前にして、見るからに臆病そうな小柄の青年は、大き目の着ぐるみをすっぽりと着込む彼自身のシルエットと同様の滑稽さでもって、もじもじと身体を揺すりながら小刻みに頭を下げ続ける。また別のシークエンスでは、倦怠が蓄積した日常を抜け出し、同僚の女性とつかの間の小旅行に出た男の前で、宿泊先の部屋に通した中年の仲居は、ふたりの気まずい雰囲気をどこかで察しているかのように、あからさまな物腰で世間話に水を向ける。……そのほか無数にある同様の場面から任意にどれを採り上げても構わないだろうが、『ばけもの模様』──ひいては、石井裕也の諸々の作品群においては、おしなべて江戸期の戯作を髣髴とさせる滑稽でシュールなシチュエーションの中、それに輪をかけるようにして、数多くの登場人物たちのジェスチャーが時に鼻白むほどの大仰さで描かれている。石井の映画を規定づけるのは、まず第一に、物語の論理的均衡を飛び越えて蠢く、こうした人物たちの特異な造型にあるといってよいだろう。では、それは一体何なのか。まず、ここから考えよう。

 そもそも彼らの身振りの奇妙さは、通常考えられるような、個々の登場人物の内面のエモーショナルな振幅の直截な発露などとは当然思われない。むしろ、それは時に無意味とさえ思えるほどに当の状況のリアリティからは遊離した過剰さや冗長さを帯びることにある。また、彼らの言動をことさら大仰なものにするシチュエーションはやはり、おうおうにして切迫したものであるのだが、それはたいして実質のない、きわめて瑣末で馬鹿馬鹿しい理由に基づいているため、それが示すある種の形式性(無意味さ)はさらに際立つことにもなるわけだ(この点で、連想としては安易なようだが、川島雄三的な感性にも接近しているといえるだろう)。さらに、彼らを取り巻き、その諸言動を枠づける物語のほうも、どこか統一的な中心点のない、挿話の散漫な連なりのようにも配置されているため、石井的人物の示す造型のフォルムはいっそう前景化して観る者の眼に映ることになる。
 その意味で、確かに、石井的人物のいわば濃密なほどの「空虚さ」は、有象無象の表層的な変人たちが、超越的な視点(近代的な「大きな物語」)の効果を持たない表象空間の中で勝手気ままに事件を起こしていくという物語構造の主眼において、明らかにダンテからラブレー、ドストエフスキーにまでいたる、(広義の)ルネサンス的な物語感覚(グロテスク・リアリズム)にも通底している。確かに、文学の世界に目を転じれば、星野智幸から舞城王太郎、池上永一まで同様な造型や想像力を駆使した作家が一定の存在感を発揮しているように(あるいはライトノベル的な世界観を思い出してもよい)、こうした石井作品のスタンスを、形式だけ取り出せば(プレ・モダン的な価値観の反転としての)「ポストモダン」の一語のもとに批評的に意味づけることも、さほど困難ではないだろう。
 とはいえ、一方で注意しておかなければならないのは、以上のような石井の演出が、彼と同世代の映画作家の中へ置くと、少なからず特異なポジションを占めているようにも思えることだ。というのも、現代の若手映画作家の諸作品を一通り俯瞰してみる時、そこではむしろ石井のように、露悪的なニュアンスも含めてある程度作りこまれた演出が明確に認められる作品よりも、むしろ撮影スタイルそれ自体とも相関する形で、撮影対象/撮影主体の「リアルさ」(自然さ)がことさらに強調されたいわゆる「擬似ドキュメンタリー的」な傾向を持つフィルムが増えつつあるような印象があるからである。断っておけば、ここには若手作家による習作ならではの製作予算の低廉性といったありふれた指摘には容易に還元しえないものがある。なぜなら、やはり同様の条件下で撮られた『剥き出しにっぽん』をはじめとする石井の初期作を観ても、明らかにそうしたドキュメンタリー風の諸作品とは背反する、いわば虚構世界の「密室」をそれなりに作り込もうとする意志を感じるからだ。いずれにせよ、現在の、ミニマルな日常性や肌感覚をことさら強調しようとする傾向には、ひとまず撮影機材の簡易化(Xactiをはじめとするデジタルムービーキャメラの普及)や広義の「ドキュメンタリー的」な想像力(AVから90年代以降の一連のドキュメント・バラエティ番組まで)の拡散と浸透、そして何より映画やテレビなどの映像環境の流通圏を大枠で囲い込みつつあるウェブの新たなコンテンツサービス(UGC)の台頭など、さまざまな複層的要因が考えられる。昨今のドキュメンタリー・ブームの一端はおそらく、そうした映画界に限らぬ大域的な文化的環境の動きとも密接にリンクしているはずだ。何にせよ、そうした若手を中心とした近年の趨勢を比較して見るとき、石井の映画世界は対照的に、むしろ物語映画としての一定の構築性(通常の演出的な企図)を非常に伴った保守的作品としても見えてしまう。すなわち、こうした現代の間テクスト的な環境においても、石井の映画はきわめて個性的な(むしろ反動的な?)風貌を示しているわけだ。だとすれば、以上のような石井の演出のユニークさは、同時代/同世代的な関係性のもとにも、考えられねばならないだろう。
 とはいえ、石井が登場人物たちに施す身振りの奇妙さは、これだけではない。それは、彼らの身振り(動き)以上に、ある意味でその「語り方」にあるといえる。その作品を一見しておそらく誰もが感じるように、石井の映画のキャラクターたちは、老若男女を問わず、とにかくよく喋る。意味のない独り言からコミカルなじゃれ合い、たわいのない口喧嘩まで、彼らはまるで映画の中で沈黙の瞬間が不意に到来するのを互いに恐れてでもいるかのように、徹底して喋り続けるのだ。この作品でも大鳥以下、ほぼあらゆるキャラクターたちが、歌い、怒鳴り、囁き、独りごちる。とはいえ、問題はその語りのスタイルや内容にある。そして、ここでの文脈上、その内実について言及しておくことは、おそらくきわめて有益である。どういうことだろうか。  まずそれは、石井が描こうとする人物たちの語りが、ひとしなみに、彼らの行動、あるいは、画面に描かれるその場面で起こる事態(観客の目に映じるイメージ)を、あたかもそのまま説明するような内容(言明)であることだ。うまい表現がなかなか見つからないが、それは例えば、いまのテレビのバラエティ番組でシーンの状況や演者の発言をそのままなぞって強調するように画面下部にテロップが出るような感じ、といえばいいだろうか。例えば、『ばけもの模様』でも、車に轢かれた順子は、ただ「痛い、痛いよ」とくどいほど叫ぶだけだし、世之介の上司であるメロンパン販売員のおばちゃんはせかせかと慌てて作業する時には、「大変、大変」と連呼する。自分が置かれている状況を律儀に、もしくは稚拙に言葉に置き換えていくかのような彼らの様子は滑稽である以上に、きわめてシュールだ。ようするに石井は、彼らの「痛い」状況=イメージを示しつつ、彼ら自身に「痛い」と語らせ(説明させ)、あるいはいかにも「大変」な状況=イメージを描きつつ、「大変」だと語らせている。すなわち、石井においては、画面の映像が提示する具体的イメージ(個物)と、その類的観念(タイプ)の表現となっているそこにいる人物たちの語る言葉は、内容的には(後述するように、この限定は重要である)ぴったりと対応しており、圧縮されたひとつの「意味」だけが観客の前に露呈している。そして、それがことさら観る者に対して強調されるのは、彼らの口吻がまるで下手な小芝居をしているかと思うほどに、執拗に反復され、フラットな調子を与えられるからだ。あたかもそこでは、近代的な意味での「内面性」は雲散霧消しているようにも感じられる。
 こうした表現は、たぶんもう少し大きな文脈に繋げることもできる。素直に考えれば、おそらくそうした字義通り「ポジティヴ」な感性は、通常の、いい換えれば近代的な小説や映画も含めたテクスト文化が自明の前提としてきた美学的なパラダイムとは対立的な位置にある。
 かつてベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』などでドイツ・ロマン主義者の概念系(象徴や崇高美)を用いて詳細に例示したように、近代の芸術思想は、一方の、現実にある瑣末な個物の特殊性(イメージ)と、他方の、世俗的には経験・認識不可能な超越性(普遍性)という本来は背反する対極的な位相を、区別しつつも同時に二重写しにさせるというアクロバティック(アイロニカル)な緊張関係のもとに置いた。例えば、映画史の始原的イメージとしてしばしば引き合いに出される、『散り行く花』(1919)でのリリアン・ギッシュの微笑を思い出せば分かりやすい。ここで観客に対して示されるのは、スクリーン上の具体的表象として示されたギッシュの「微笑」のイメージである。ところが、同時にここでは普通に見ればまったく対照的な感情であるはずの主人公の「悲哀」という美学的普遍性(観念)の表現が鮮烈に観客に対して伝達される。つまり、ここでは、具体的個物(微笑)を否定する決定的な「余白」=ズレが存在することにより、同時にその否定性それ自体が媒介となって、意味がネガのように派生しているのだ。何にせよ、モダンの価値観ではオブジェクトレヴェル(具体的表象)とメタレヴェル(類的観念や記号作用)との、互いを否定し合うような拮抗関係が意味を派生させるプロセスが問題となっている。映画でいえば、対称な意味を持つショットを衝突(アトラクト)させることで、弁証法的な意味作用の生成過程を理論化したエイゼンシュテインや、画面上のイメージとそれと並置する記号群(オフボイスやキャプション)を意味論的に拮抗させる実験を初期から断続的に続けているゴダールの試みもまた、基本的にはこうした流れの延長上にあると考えてよい(このゴダールによるイメージと記号の扱いが、先の現代日本のテレビバラエティのテロップの特性と対照的な関係にあることに注意されたい)。  話を戻せば、画面上のイメージ(状況)とそれに対する当該の人物たちの説明(台詞)を右から左へ過不足なく一致させてしまう石井の感性は、以上のようなパラダイムともまた、明確に一線を画している。そこには、先のような「否定」の契機はまったくない。むしろ、それは先のドイツ・ロマン主義者たちが一様に乗り超えようとした中世バロック悲劇が備えるアレゴリーと呼ばれる形式とも類比的だ(ここらへんの議論の詳細は、柄谷行人の「大江健三郎のアレゴリー」及び「村上春樹の『風景』」、『終焉をめぐって』所収などの固有名論に即した一連の文芸的エッセイが分かりやすい)。アレゴリーは個物と類的本質(観念や記号)を完全な等号で結んでしまう。逆に、近代の象徴作用は個物と類的本質が絶対に交わらない「がゆえに」結びつくという逆説で繋がっている。
 あえて喩えるなら、平凡な日常をそのまま肯定し、「そうかい」「ええ、そうよ」「ふーん、そうなのかい」という小津安二郎が描くあの人物たちのように、石井のキャラクターもその作品世界の中で「AはAである」(固=類)というある種の同語反復(トートロジー)を繰り返し演じ続けているようにも思える。しかも詳しく後述するが、石井映画の常連俳優で本作にも主要キャストとして登場する桂都んぼは、とりわけ独特の焦燥感にかられたコミカルな語り口で同じ文句を何度も何度もどもりながら繰り返したりするので、時に石井の映画は奇妙にリズムが脱臼し、イメージの展開がだぶつくことにもなる。いい換えれば、石井の映画世界では、近代のロマン主義者たちが採用した複層的な広がりを持つ虚構世界とは、また別種の「時空」が立ち上げられているように思えるのだ。ただし、それはこれまでの映画史の蓄積ともまったく無関係でもありえないだろう。

II 「時機」を逸した時間

 前節で記したように、石井裕也が描く登場人物たちは、物語の一連の流れに対して、つねに過剰なリアクションを返す。時にそれは常識的な物語の論理の範囲すら逸脱する。さらにそうした態度は、ある側面において一般的(近代的)な美学的統御の規則すら吹き飛ばしているようにも思える。彼らが語る状況(画面上に生起しつつあるイメージ)についての徹頭徹尾「説明的」で正確で、ある意味では状況に対して「語りすぎる」、ポジティヴな言葉の繰り出しは、それと対極にある、世俗的(物質的)レヴェルと超越的(認識的)レヴェルの位相的な格差をアクロバティックに繋げ、その一瞬のズレの中に多様な意義を見出そうとしてきた近代的価値観を跡形もなく蒸発させてしまっているからだ。確かに、ここには異様な「リアリズム」の手触りがある。とはいえ、こうした議論を受けて、何も石井がいわば「ポスト歴史の映画作家」であるなどと即断するつもりはない。だが思うに、こうした石井的人物の特性を手掛かりとして現代映画の表象空間の内実をめぐってある程度批評的な見取り図を提示することはできるだろう。

 その場合、おそらく石井的人物の行動パターンの問題を出発点として、彼の映画を駆動させている「時間」のありように視点をシフトさせることはきわめて有効だと思われる。繰り返すように、石井的人物の生態は、一方で空間=物語に対して「空虚」に振る舞う(常軌を逸した行動が整合的意味の充実さを欠いているため)が、時間=映画的リアリティに対してはいわば「過剰」に振る舞っていると定義することができるだろう。なぜならば、先の桂や、同じく常連キャスト・とんとろとんの演技に代表されるように、石井にあってはキャラクターがしばしば自らや周囲の状況を執拗かつ冗漫なペースで反復的に「説明」することで、その言葉の持つペースは、言葉が発されている状況(イメージ)に付随する「説明」として収まるはずであったのが、形式的な枠組みにおいて映画全体のペースから外れ、それだけ孤立して遅延していくように感じられるからだ。つまり、ワンショットにせよ一連のシークエンスにせよ、一定の編集的なリズムを刻む映画の安定的な時間的推移の中で、彼らの言葉(説明)のペースは、徹底して冗長かつ過剰であることで、通常、イメージの推移と的確に符合することで生じる言葉のスムーズな意味的整合性が抜け落ちていくとともに、そこで生じる時間的落差(遅れ)がどこか人物たちの発する言葉に一種の物質性(いわばシニフィエなきシニフィアン)として徐々にまといつくことになる(それは、比較的ショットを割らず、フィックスで人物の対話場面を構成していくことの多い撮影プランによって相対的に強調される)。
 いってみれば、石井はイメージと音声(言葉)といった多様な映画的マテリアを自然に「同期」させることに懐疑的に振る舞う作家であるといってよい。それは、物語的なモティーフにおいても裏づけられる。いつか来るだろう退屈な日常世界からの脱出を切望する女子高生を描いた『ガール・スパークス』にせよ、全編に主人公夫婦の死んだ子供の面影(と彼の語るナレーション)が支配する『ばけもの模様』と同様、主人公の青年の中でかつて仲のよかった祖父の記憶が反復的に回帰する(それは映画の中で祖父の「遺影」として慎ましく挿入される)『剥き出しにっぽん』にせよ、石井の映画ではもはや/いまだ到達しえないシンギュラ(単一)な時点からの打ち消し難い距離の意識が物語をドライヴさせている。石井的人物は、つねに(あるいはすでに)「時機を逸したひとびと」として提示されるといって間違いではない。そしてそれは繰り返すように、通常は諸々の映画を構成する要素が等しく「同期」することによって、それらの物質性(メディア性)が後景に退くと同時に虚構世界への円滑な感情移入を観客に促す(デイヴィッド・ボードウェルふうにいえば叙述の「透明性」を獲得する)はずであるにも拘らず、彼らがきわめて過剰に行使する「語り」の量とそれに伴う速度が、映画の表象空間、というよりも表象時間全体に一種の異化作用をもたらし、いわば「映画の時間性」の虚構性と現実性の均衡を微細に動揺させ続けることになる。
 ついでに確認しておくと、私たちはかつて石井とほとんど似たような作家的特性を示した特権的なシネアストを知っている。しかもそのひとは、史上最も優れた映画批評家のひとりによってまさに「時機を失する天才である」と形容されているのである。いうまでもなく、ジャック・タチがそのひとだ。石井裕也とジャック・タチ。一見すると、唐突な取り合わせだ。しかし、よく考えると、このふたりこそぴったりとした取り合わせもないだろう。『ぼくの伯父さんの休暇』(1953)や『プレイタイム』(1967)の作家は、よく知られるように、トーキー時代の黄金期にほとんど言葉を発しないサイレント喜劇のような人物=「ムッシュ・ユロ」を演じ続け、また彼はつねに適度なロングショットで撮られた独特のモブシーンの中に紛れ込みながら、周囲のひとびととは異なったペースで動き回り、それが原因でいつしか周りも非日常的な大混乱に見舞われる。こうして見ると、タチの映画のスタイルは、石井作品がまとう雰囲気とも決定的に対応づけられることが分かる。あまつさえ注目すべきは、タチについて先の評言を記したアンドレ・バザンの以下のような記述だろう。


 すべての偉大な喜劇映画と同様に、タチは、われわれを笑わせる以前に、一つの世界を創造している。(中略)
 ユロ氏にとっては≪シナリオ≫というものがあり得ないのは、そのためだ。物語は意味を前提とし、「時間」の方向は原因から結果へ、初めから終わりへと行く。『ぼくの伯父さんの休暇』は、それとは逆に、意味は一貫しているけれども同時に劇的には独立した、多くの出来事の連続にすぎない。(中略)恐らく時間は、その点で、この映画の素材では決してなく、この映画のほとんど目的そのものだったろう。行為の時間そのものの続くいくつかの実験的な映画における以上に、それらよりずっと、ユロ氏は、われわれの運動の時間的次元についてわれわれを啓発してくれる。
(邦訳「ユロ氏と時間」『映画とは何か I 』小海永二訳、美術出版社、150‐153頁)

ここでのバザンによれば、ようはタチは、人物の振る舞いを通して何よりも映画の「時間性」、そしてその本来的な「複数性」(通常の時間とユロ氏の属する「休暇中の時間」)こそを相手にしている。さらにバザンは続けて「映像よりはずっと録音帯の方が、この映画に時間的な厚みを与えている」(153頁)ことが、映画表現にタチがもたらした新発見なのだと記す。タチの映画を特徴づける会話の断片やらさまざまな音響効果の誇張された使用法を挙げながら、「恐らく、言葉の肉体面、その解剖学的構造が、これほどに情容赦なく暴露されたことは、いまだかつてなかったことだろう。われわれは、何らの意味をも持っていない言葉に対してさえ意味を付与することに慣れているので、目に見えるものに対してならわれわれが持ちうる判断のための一定の距離を──一歩退いて物を見るアイロニカルな態度を──、言葉に対しては持つことがない。ところがここでは、単語が、それを錯覚にすぎぬ品位で包んでいる社会的共謀という着物をはぎとられて、真っ裸のままグロテスクな下品さで歩き回っている」(154‐155頁)と彼が書くのを読む時、読者はそれが石井が試みている「語り」の効果と驚くほど重なり合うことに気づく。おそらく、ここにおいてタチと石井は、映画が備えるメディア的特性のひとつのリミットに立っているのだ。とはいえ、また別の箇所で、バザンが「休暇中の時間」にどこからともなく現れるユロ氏の小型自動車はおそらく「時間」の中から出てくるのだ、という意味のことを書きつける時、その言葉が避けようもなくまとってしまうドゥルーズ的な響きを感じ取ったとしても、それをここではことさら強調すべきでもないだろう。重要なのは、「時機を合わせる」=「同期させる」という志向性が映画に限らず、国民国家統合の急速な整備を伴う近代社会に生まれたあらゆるメディア装置にとっての普遍的なミッションであったのであり、およそ半世紀を隔てたふたりの映画作家がそうした志向性にどこか無言の抵抗を共通して示しているように見える、という事実のほうだ。

 いずれにしろ、以上のように石井の特異な映画世界への理解をイメージと音声との関係における「時間性」の側面から組み立ててみることは、半ば必然的に映画史的な反省へと導かれるだろう。技術史的な側面から見れば、サイレントからトーキーへの移行、もっといえばアフレコからシンクロ(同時録音)への技術的進展に伴うイメージと音声、それ以外の諸要素を「同期」させることによる映画的リアリズムの更新のプロセスが改めて想起させられることになるだろうし、ジャンル史的な記憶を遡行すれば、ここで石井的人物の「語り」の過剰さ、冗長さ、フラットさを指摘した時に、おそらく誰もが思い及んだように、いわゆるスクリューボール・コメディの描く人物の特異な「語り」や振る舞いの機能の歴史性が思わぬ形で炙り出されてくるのを見るだろう。そもそも一般的に古典的なハリウッド映画成立期である1930〜40年代にかけて発達したこの独特のコメディスタイルは、元来その当時に成立を見た過激な性や暴力表現を規制する映画製作倫理規定、いわゆる「ヘイズ・コード」との関連で語られることが多かった。しかし、あえて不用意に敷衍すれば、それは文字通りトーキー=「語り」という新たな要素を獲得した物語映画が、サイレントが本来持っていた「映像の時間」に加えて登場した「声の時間」という新種の「時間性」を何とかリアルに「同期」させようとする試みの過程で逸脱的に生まれた異形のジャンルだったのではないか、という突発的な夢想も湧く(むろん、サイレント映画にしても観客論的には実際はいささかも「サイレント」などではなかった、という初期映画の事情も知っているが、そのへんの話はいまは措く)。
 ともかく、ここで重要だと思うことは、石井作品のこうした「時間」の特異性に観る者を注目させる作風が、現代映画を考える時のある種の「空間性」から「時間性」へのシフトともいえる動きとも連動していると思える点だ。おおざっぱにまとめてしまえば、これまでの映画をはじめとする多くの視覚メディア研究や映像批評のアプローチは、90年代のカルチュラル・スタディーズが典型的だったように、いわば諸々の問題をいったん空間的(地理的)な隠喩やマッピングに還元してそこで機能しているイデオロギー効果や他者性の痕跡に注目するというやり方が主流だった(もっとも、空間的=視覚的な隠喩に対する親和性はアリストテレス以降、西欧形而上学の伝統でもある)。映画の分野においてもクロード・ランズマンの『ショアー』(1985)や王兵の『鳳鳴──中国の記憶』(2007)などで連綿と繰り返される「表象不可能性」(見えるもの/見えないものという対立)という「問題」は、まさに歴史性(時間性)の問題を空間性(表象)の問題に置き換えるという作業にほかならない。むろん、そうしたやり方の有効性を言下に否定したいのではない。しかし、最近、佐藤雄一が的確に示唆したように(「徴候としての水面」『映画芸術』第425号、編集プロダクション映芸、23頁以下)、そうしたプロブレマティックにおいては、映画の本来的なリアリティの可能性──その「時間」による映像の継起が、それによってしか示しえない微細なズレの徴候を永久に取り逃してしまうことにもなるだろう。それは、原理的に空間化=可視化できないのだから。佐藤はその「映画的時間」の可能性を土本典昭のドキュメンタリーに見ていたが、同じように私はここで石井の映画に認めたいという気がする。そこにおいては、既存の「表象」の意味もまた変わる。その意味で、石井的人物の「語り」や言動が生起させる「時間」のありようは、映画それ自体のリテラルな歴史性=制度性を21世紀の映像空間の中で計らずも批評的に形象化しているのである。

III 家族/ゲーム

 意味作用の「象徴性」から「アレゴリー(寓意)性」へ。「空間性=視覚性」の可能性の拡張(スペクタクル化や擬似ドキュメンタリー化)から「時間性」の可能性の拡張(映画的リアリティの複層化?)へ。石井裕也の描く独特の「語り」の効果は、以上のようにかなり複雑な問題系を抱え込んでいる。もちろん、そうした石井の表現がこれまでの映画史的な蓄積と鑑みて有益な進展を伴っているかは確言できないし、また、(ジャック・タチとの類比性で明らかなように)それがさして「映画の未来」を予示するまったく新しいスタイルだというわけでもないだろう。ただ、はっきりといえることは、石井の映画世界がある一定のユニークな特性によって強靭に貫かれているという事実だけだ。そして、そこから新世紀の新しい映画空間が現れてくることを否定する理由もまた何もない。何にせよ、そうした彼の映画世界が垣間見せる多様な内実の一端を、最後にもう少し示唆的に述べることにしたい。
 繰り返しているように、石井は映画における特異な「時間性」の効果を相手にしている。その場合、問題をより抽象化してみれば、半ば必然的に「コミュニケーション」の問題が争点となることは、おそらく誰しも察しがつくだろう。「空間性=視覚性」の動向に特化した映画世界の構築や読解が映像の「内容」に着目するのだとすれば、そうした「空間性=視覚性」の立ち上がりの場そのものをコントロールする「時間」の複数性と係わり合いを問題にするアプローチは、むしろ「形式」の側面、つまり多数の「空間性=視覚性」の優劣の度合いを判定し、効率的に消費するコミュニケーションのありようが問われることになってくる。こうした論点は、冒頭のほうでも触れたように、現代の映画を含めたコンテンツ文化や映像消費のあり方とも密接に相即している。確認程度に留めておくが、最近の社会学や情報社会論の分野では、日増しに台頭しつつあるウェブ上の動画共有サービス(UGC)や携帯電話などの消費行動においては、鑑賞するコンテンツそのものの精査よりも、それをいわば「ネタ的」にコミュニケーションのツールとして消費するユーザ同士の関係性と、そこで生起している独特の「時間性」(リアリティの構築)が目下の話題となっているのだ(例えば、鈴木謙介『暴走するインターネット』や濱野智史『アーキテクチャの生態系』などを参照)。とすれば、石井による「映画の時間」の拡張も、そうした同時代的なコミュニケーションの多様化の進捗と無関係に考えることはできないのではないか。
 そして、石井は自作の中でこうしたコミュニケーションの問題系にもきわめて自覚的に対処していると思われる、ひとつのモティーフを繰り返し導入している。それは、ある意味で物語の最も古典的な主題、すなわち「家族」というモティーフである。『剥き出しにっぽん』以降の石井のほとんどの長短編は、いずれも判で押したように、「家族関係」を執拗に扱っている。『剥き出しにっぽん』や短編『グレートブリテン』は「父子」の関係を扱った話だし、『ガール・スパークス』は「父娘」のそれを主題にしている。そして、ほかならぬこの『ばけもの模様』もまた、すでに書いたように「母子」(とそこに介在する「父」)の関係を描いたドラマだった。また、それは『剥き出しにっぽん』のように、実際の血縁関係に混じって本来は血の繋がっていない他者との、一種の「擬似家族」構築の試みも含まれているだろう。
 少し考えてみると、現代は映画に限らず小説やコミック、テレビドラマ、ゲームなど物語文化のさまざまな局面で「家族」が重要なメタファーや主題になっていることが分かるが、以上のような文脈を噛ませて考えるならば、──おそらく、石井に限らずいまの多くの「ファミリー・ロマンス」がそうであるように──「家族」とは、そうしたひととひととの根源的な「関係性」、広い意味でのコミュニケーションのパターンを効果的にシミュレートする実験場として要請されていると捉えることができるだろう。確かに、家族というのは、人間のあらゆる関係性を縮約したようなところがある。いうまでもなく、後期フロイトから吉本隆明まで多くの論者が指摘してきたように、家族とは、個人幻想(私的領域)と共同幻想(公的領域)のあいだのグレーゾーン(吉本隆明ふうにいえば「対幻想」)の派生物である。ひとつの家族のメンバーは、社会的なコミュニケーションを必要としない(以心伝心といったような)生物学的で生理的な要因(遺伝)で繋がっており、しかし、同時に微細な言語的コミュニケーションなしでは互いに何を考えているのかも分からないような、まったくの他者でもありうるという関係性の大幅なグラデーションのうちに生きられる。実際に、亡き息子の面影(幻影)を追い求めつつ、夫の不和を解消できない女性を描いた『ばけもの模様』をはじめ、石井はそうした家族間のコミュニケーション(秩序)が簡単には成立しないこと、それに対するオイディプス的な欲望や反発などの葛藤を執拗に問題化している。ところが、その一方で彼はまた、そうした対幻想(男女)間における、言葉=コミュニケーションツールを排除したコミュニケーションである沈黙と突発的な「暴力」(『反逆次郎の恋』)や、排泄物などの生々しい「生理的行為」(『ばけもの模様』の主人公の腹中に溜まった「うんち」)のイメージを執拗に観客に提示する。おそらく、こうした一連の描写こそ、「家族」という主題を賭け金としたコミュニケーションの多様な形が抽出された結果なのだ。また、「家族」とは本来、その中で複数の「時間」が重層的に生きられている特異な場でもある。例えば、父と息子の関係性(コミュニケーション)は、息子が事実上、生殖を通じ父の遺伝子を受け取って生まれ、その後に一定の期間育てられた以上、彼らには「同期」している時間の連なりがある。しかし、同時に父からの関わりには息子が生まれる以前、あるいは自我を獲得する以前の「時間」がすでに潜在性として折り込まれているのであり、そこで起こるコミュニケーションが持つ「時間」はどうしても非対称的な(「非同期」な)ものともなっている。家族は、コミュニケーションと「時間性」との関わりを物語のレヴェルで象徴的に示している。
 とはいえ、ここではむしろ「物語」というより「ゲーム」という比喩のほうが事態の説明には相応しいかもしれない。なぜなら、ここでの家族というイメージは精神分析などに使われる全体的なまとまりと決められた起伏ある展開を持った「物語」(オイディプス・コンプレックス)というよりも、互いにバラバラの異なる「規則」(時間)を生きるメンバー(項)がコミュニケーションの反復のプロセスを通じて共通の「規則」(後期ウィトゲンシュタインの卓抜な比喩で行けば「家族的類似性」)を見出していく作業こそを反映していると捉えるべきだからだ。いわば、彼の映画は家族という奇妙な関係性をモデルとした「ゲームの規則」を模索した物語群にほかならない。実際、登場人物に「煙草を吸う」「バットを振り回す」など、定型的なポーズを作中でたいした意味もなく繰り返し要求する石井の演出も、まさに『ばけもの模様』で主人公が何度も行う「ジャンケン」や、彼女の息子が好きだったという「野球」と同様、定型的なルールやポジション(函数)を駆使して複数の他者との円滑な関係性を構築していくゲームの持つ本質とどこか似通ってもいる。そして、何度でも繰り返せば、それが彼の映画の、無視できない奇妙な軽薄さや単調さを生んでいるのだ。
 ここでは触れられないが、石井の映画はまた、現代映画との関わり以上に、(インタヴュー記事などを読む限り、本人はまったく意識していないが)ライトノベルやアニメなど、2000年代の若い世代を中心に支持されるサブカルチャーの物語的想像力やイメージとの結びつきも指摘できる。その意味でも、石井の作品は時代と相即した多様な内実を抱えていると思われる。私たちもまた、彼の仕事に見合ったアクチュアルな読解のフレームを見つけ出していくべきだろう。

『ばけもの模様』

監督・脚本・編集:石井裕也
撮影:松井宏樹
脚本:登米裕一
制作:吉田裕亮
出演:大鳥れい、桂都んぼ、潮見諭、稲川実代子、牧野エミ、じんぐうまさひろ

2007年/日本/93分

11 Dec 2008
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