第21回東京国際映画祭レポート vol.4

石橋今日美

 海外アニメーション・夏の陣では、パンダにカンフー、北京五輪、とあまりにも安易すぎる組み合わせではないか、と一瞬思わずにはいられないドリームワークスの新作『カンフー・パンダ』(2008)が、いい意味で予想を裏切る作品だった。主人公は、中国の山深くにある「平和の谷」でラーメン屋を営む父を手伝うパンダのポー。彼は、翡翠城の奥に眠る龍の巻物を得たものは史上最強の「龍の戦士」になれるという伝説を信じ、カンフーの修行に励む、といいたいところだが、なにせ、ぶよんぶよんのお腹、底なしの胃袋と限界を知らない食欲で、カンフーの達人には程遠い。その声優にジャック・ブラックというのが、キャラクター的にもぴったりで楽しめた。だか、メタボパンダの躍動のアクション表現に比して、シナリオのつめが甘すぎた。ポーの仲間となる他の戦士たちのバックグラウンドは、まったくといっていいほど言及されないし、パンダの父親がなぜ鳥なのか、その出自に素直な疑問がわく。シリーズ化も決定されているというから、その辺りは今後明確にされていくことを期待したい。

 豪華な声優陣+ゆるいシナリオに対し、『トイ・ストーリー』(1999)などでお馴染みのディズニー/ピクサーが送り込んだ特別招待作品は、『ファインディング・ニモ』(2003)の監督、アンドリュー・スタンソンの最新作『WALL・E/ウォーリー』(2008、12月5日より全国ロードショー)。エコという言葉を見聞きしない日はない今日。だが単なる時勢に乗ったアニメではなく、一気に時を超え、2700年のまるっきり荒廃した地球で、永遠にゴミ拾いをする孤独なアナログロボット、ウォーリーと、住めなくなった地球を捨てた人間たちが暮らす巨大な宇宙ステーションからやってきた、むき立てのゆで卵のようなハイテクロボット、イヴのSFラブストーリーに仕立ててみせる。『トイ・ストーリー』の頃は、コンピューター上で決定される、いかなるアングルからの画面も理論上可能であるにも関わらず、ハリウッドの古典的なカットつなぎ(見る人→視線の対象など)を大人しく踏襲していたが、本作では、下手な実写のSF作品より格段に洗練された、完全3DCGゆえのカメラワークが堪能できる。さらに、ゴミの山から拾い集めたウォーリーのおもちゃや彼が出会う昆虫など、さまざまなディテールの描写力には、数年の間のテクノロジーの進化を実感せずにはいられない。ただし、デジタル映像技術が発展すれば作品も比例して質が向上する、というわけではない。現実世界の事物を模写するような自然主義ではなく、SFファンタジーとして成立する作品世界固有のリアリズムをいかにさだめるか、がテクノロジーの使い方にかかってくる。作品のリアリティーの方向性の明白な指標となるのが、私たちがフォトリアリスティックな描写かどうか容易に判断できる人間と、その他のキャラクターたちの描かれ方の違いだ。『ニモ』では、魚がやや擬人化され、愛嬌を欠いてアニメ化された人間たちはあまり映し出されなかった。本作では、はっきりと荒れ果てた地球とゴミの山、その中のウォーリーが独自のリアリズムの洗練を極め、彼の擬人化されようのない点灯する瞳と電子音だけで、イヴとの感情のやりとりが伝わってくる。一方、宇宙で暮らす人類はといえば、パンダのポーではないが、もはや歩行することもやめ、完全にメタボ化したユーモラスな姿態を与えられている。彼らはアニメチックでユーモラスであることを隠さない脇役となっている。人間の肌や髪の毛を本物のようにCGで再現しようとする執拗なリアルさの追求から、人間からロボットへの3DCGでのリアリズム創造の重心のシフトを興味深く観察することができる。

 もし自分が映画監督だったら、自作のリメイクなど、決して実行しないだろうと思う。どうしても起用したかったキャストとコラボレーションできることになったとか、テクニカルなリミットを超えて実現したかったヴィジョンに到達できるとか、そのような理由があっても、むしろ過去は振り返らないような気がする。とりわけその作品が高い評価を受けたものであるなら、なおさら。特別招待作品『櫻の園─さくらのその─』(2008、全国ロードショー中)の中原俊監督は、いい意味でも悪い意味でも『櫻の園』(1990)をセルフリメイクする勇気があったと思う。新しい『櫻の園』を目指した、というだけあって、チェーホフの「櫻の園」上演前の2時間前から幕開けまで、女の子たちの体験をリアルタイムで見守るような親密さをもって描いた旧作に対し、新作は主人公の結城桃(福田沙紀)が音楽の道を断念し、地方の名門女子校に転校してくるところから始まる。作品の空間も、女子校内だけではなく、繁華街、クラブの中、公園とあちこちに移動する。そして演劇部の部室は、怪談話のネタになりそうな別棟に設定されている。20年近いギャップ、ということで、女子高生の生活の現代化がはかられているが、例えばたばこの喫煙が妊娠疑惑になろうとも、表層的な記号の変化だけで、作品の本質を支えるにはほど遠い。むしろ何が本作の表現する「今」として目についたかといえば、ある芸能プロダクションの少女・女性タレント総出演の「青春アイドル映画」になっている点であり、加えて都合がいいことに『櫻の園』にはヒロインのアイドルだけでなく、群像劇として主演以外の女の子たちにもそれぞれ出番が用意されている。これは映画ではなく、TVシリーズとして放映してもおかしくなかったのではないか。旧作では、「櫻の園、中止じゃなくなりました!」と叫ぶ宮澤美保の台詞や、上演直前に志水部長役の中島ひろ子が、憧れの白島靖代とふたりで写真を撮っている様子を、部長をひそかに慕っているつみきみほがクールに見守り、上演直前、舞台裏で「志水さん、今日は誕生日でしょう?」とみんなの前でさりげなく言ってのける場面など忘れがたい瞬間がいくつかあったが、アイドルたちの映像をバランスよく視線で消費してゆくTVドラマの説話の経済性を帯びている今回のシナリオには、強く印象に残る部分が残念ながら見いだせなかった。「青春映画」というジャンルを自称する限り、時の経過にびくともせず、記憶に刻み込まれる一瞬を創出することが、「現代化」より重要だったのではないだろうか。

18 Nov 2008
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