零度の画面 2──厳かな冷たさに向けて

舩橋 淳

tokyosonata

前回、「零度の画面」という語彙をとりあえず特徴付けてみるとして、

1 )曇天の荒廃した土地やスラムで撮影。
2 )少人数(もしくはたったひとりの)クルーで、被写体の生活環境を乱さないまま、記録するように撮影を試みる。
3 )物語の連続性が希薄で、画面の説明的要素、つまり物語が要請する期待への応答が画面にほとんど閾入しない。
4 )話者が不在である。

という要素を挙げた。これはそもそも画面がいつ途絶えてラストショットになるかもしれぬコスタやジャ・ジャンクーの画面のある厳格さを言い表すことができまいか、と思索の末に捻り出したタームであったのだが、今回はどこか類似する画面の魅力を湛えた現代映画を採り上げてみたい。図らずも2本の日本映画なのだが、国籍を超越して前回言及した画面のある厳格さを、コスタとは異なる身振りで画面に定着させているともいえるふたりの日本人作家の近作が、同年に封切りされた。そのふたつの新作とは、万田邦敏『接吻』(2008)と黒沢清『トウキョウソナタ』(2008)である。

金槌を携えた豊川悦司のジーパン姿がひたすら恐ろしく、『アデルの恋の物語』(フランソワ・トリュフォー、1975)よろしく、延々と恋文を書き付けてゆく小池栄子の集中力とひたむきさが、美しいというより切実な緊張として見るものに迫ってくる『接吻』。作家のダンディズムゆえに本人は決して口にしないだろうが、くすぶる若者たちの思想の極端化(ときに右傾化した破壊衝動)、中年夫婦の「人生やりなおしたい」という悔悟など、現代日本の格差社会の負の情念を見事に救いとり、かつ女優の存在を輝かせることに成功した『トウキョウソナタ』。このふたつの傑作が2008年以降の日本映画に与える影響は計り知れないと考えるのだが、コスタの処女作『血』(1989年)などに、観察されうる「零度の画面」が、この2作に見られるのか否か、考えてみたい。

もちろん、劇映画として撮られたわけだから、インディペンデントとして数年がかりで撮影したコスタの作品とは、制度との距離において明らかな違いがあり、比較する意味がないという批判はあるだろう。フィクションとドキュメンタリーという差違でもなく(そのような従来のクラシフィケーションを排除してゆくのが、この連載論考のひとつの重要な姿勢だ)、ここでは撮影クルーの規模、撮影期間、報酬の有無などが、制度として画面内の人物の存在に少なからず影響を与えているという意味で、相違があるということはまず確認すべきだろう。コスタやワン・ビンが少人数(またはたったひとり)でコミュニティに溶け込み、長い時間をかけ、人物たちの呼吸のリズムまで記録するように、キャメラを廻してゆく姿勢と、脚本というたたき台に基づいて撮影を段取りしてゆくアプローチとの違いということだ。

しかし、『トウキョウソナタ』の小泉今日子が夫・香川照之を見つめる視線が、『コロッサル・ユース』(2007)で巨体の老人が、リスボン郊外の曇天の路地で見せた、厳しくかつ落ち着きを払った眼差しを想起させたとき、私ははっとした。かつてヴェンダースは、小津のごとくひとつの形式を淡々と貫ぬく演出の作家と、ロッセリーニのように現場で生起する刺激をすべて取り込み、キャメラ・アングルをその場で決めてゆく撮影の作家とが、その高みに達したとき、同じような人物の迫真性、画面の充実が見られ、アプローチする方向が違えども、実は映画というものが同じ地点へ辿り着くということを指摘した。ここでは、そのヴェンダースの直観を信じてみるという意味でも、黒沢・万田の作品と「零度の画面」が肌を接し合う臨界点を探ってみたい。

●『接吻』──孤独の視覚化

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所謂ネタバレは避けるべきだろうから、万田邦敏『接吻』のラスト、主人公たちの身に起こる震撼すべき事件には触れはしまい。獄中の殺人犯と結婚したいという女性と、その女性の求婚を不可解な笑みとともに受け入れる殺人犯、さらにそんな女性を一方的に心配し続ける弁護士。三者三様、ひとりで生きることに慣れてしまった人間たちが、獄中という極限状況で愛を遂げる。そこに至る心理的抑圧が、視覚映像として切り詰められ極まってゆくプロセスがスリリングな作品である。

まず冒頭のショットからはっとせずにはいられない。凶器をジーンズの尻ポケットに入れた豊川悦司が、住宅街の階段をゆらりと昇ってゆく。その画面のテーマの絞り方とキレ、そして、上昇という運動によって映画を始めるセンスに、あっけなく感動した。そして、凶器=ハンマーを使った殺人はすべてオフスクリーンで遂行される。「おかえり、早かったじゃない」という主婦ののどかな声が画面外の台所から響く中、男が土足で室内へ入ってゆく、それを俯瞰で捉えたショットの恐ろしさ。土足で他人の家に上がり込むことが、恐怖の最大値を告げるアクションにもなりうるというミニマリズムの視点の確かさ。そして、男の代わりに帰宅するはずであった少女が登場した時の処理(これもまた具体的には言えないが、オフスクリーンを利用したトリックである)。傑作の誕生を予感させるに十分すぎる画面の切れ味である。

殺人犯・豊川悦司とその男に思いを寄せる女性・小池栄子の面会の場面。小池の荷物が警官によってチェックをされる中、彼女の弁護人・仲村トオルがそれなしで通り過ぎてしまうことができるのは何故か、また刑務所所長の一存で禁じられていた面会室外での面会が、控訴中の犯人に許されてしまうのは何故なのか等、細部のリアリズムが気になってしまうものだが、そういった疑問が意識をかすめる寸前に、小池が誕生日の祝儀を刑務所の中で突如執り行い、"Happy Birthday To You"を歌い出してしまう。刑務所の冷たく、暗い地下室(だと思うが)の中に反響する"Happy Birthday to You"の異常さに魅了され、私はあっさりと御都合主義の展開を受け入れ、獄中の愛の儀式を息をのんで見守るしかなくなってしまった。

畏れ入ってしまうのは、獄中の犯人とその犯人に会ったことすらないが彼の境遇に共感を覚える女性との間に、ラブストーリーが成立するはずだという万田邦敏の確信である。映画において、肌を接し合うことのない人間が共感しあい、心を通わせることがはたして可能なのか、この疑問に対し凡庸な返答を差し出すかわりに、万田は獄中の面会室で女の手についた石けんのかおりを男が嗅ぐ、というアクションを描く。こんな恋愛は見たことないでしょう、と言わんばかりに。さらに、あくまで女のことを心配し続ける、唯一の常人・弁護士仲村トオルがいつの間にか彼女に思いを寄せるようになっていて、犯人との婚姻届の件で口論する中で彼女への思慕が浮き彫りになってくる、吹き抜けの階段ホールのシーンが圧巻である。

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天窓からだろうか、上方からスッと鋭い光が差す暗い階段を降りてゆく小池栄子の後ろ姿を、キャメラが捕らえる。次に仲村トオルが後を追うように部屋から出てきて彼女を呼び止めるバストショット。弁護士である仲村は、彼女があまりにも獄中の殺人犯に近づきすぎでないか、と危惧の念を表明する。キャメラは切り返し、仲村の背後から、階段の下方に立つ女性・小池を見下ろすように捕らえる。「長谷川さん、なんで私のことをそんなに心配するんですか」という小池の声が、暗く恐ろしく、がらんどうのホールに響く。現代東京にしては明らかに暗すぎる吹き抜けのホールの天井から差す光に対し、逆光の位置に立つ仲村トオルの表情の闇。それに対峙する白い光に浮かんだ小池の空洞化した表情。そこに、孤独に深く埋もれ生きてきたひとりの女性の覚悟、他人には何も期待も失望もしない渇いた存在が浮き彫りとなる。階段の低い位置に立つ小池が、まるでそこが定位置であるかというように、落ち着きを払い、上方にいる仲村を見上げ、小池を見下げる高い位置にいるはずの仲村は自信なさげに、暗闇の中で視線を泳がせる。人物に光と影を纏わせ、見上げることと見下ろすことの抽象性を際だたせる。茫洋な空間に響く肉声のやりとりにより、その言葉が冷たく重く響く。おせっかいがましい弁護士・仲村トオルと、生来ブレッソンの『少女ムシェット』(1967)のように厳しい孤独を生きてきた女・小池栄子の決定的な距離が、視覚化され、聴覚化された瞬間であった。

●『トウキョウソナタ』──非説話的な存在が輝きを増してゆくこと

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新聞紙だろうか、画面をゆるやかに横切ってゆく白い紙を追ってキャメラが横移動するショットから、黒沢清の最新作は始まる。画面に映らない大気の動きを示した、薄い物質の空間移動は、開かれた雨戸の外に吹き荒ぶ豪雨を捕らえた次のショットにより正当化され、ふたつのショットが同じ空間に属するものなのだということが、照明、音声の連続性よりもなによりも、この見えない大気の動きによって示されることが、どこか暗示的である。薄暗い室内に向かって、カーテンが大きく揺れ、雨戸近くの床はびっしょりとぬれている描写からも、その暴風雨のすさまじさが慮られる。その画面へひとりの女性がスリッパの音を立てながら入って来る。あわてた様子もなく、落ち着いて開かれた引き戸を閉ざし、びしょ濡れになった床の水を雑巾で拭き取る。水分を大方拭き取った彼女は、戸外との接点が閉ざされてしまったことを後悔したのだろうか、または、吹き荒れる横殴りの豪雨と突風に、素肌を晒してみたいと思ったのだろうか、再びその引き戸を開け、空を見上げるのだった。

画面には決して映らない大気を見上げるというアクションを示したこの女性は、「TOKYO SONATA」と示されるタイトルの前に登場する唯一の人物である。一見、いわゆる普通の「家庭ドラマ」を描くかのように見えるストーリーは(もちろん黒沢清の作品であるからそんな「普通」であり、慣れ親しんだはずの光景が突然歪みだし、居心地の悪い不均衡へと突入し、見知らぬ恐怖の時間に雪崩れ込んでしまうのではないかという緊張もあるのだが)、このタイトルの前に登場した女性を、決定的な存在として特権化するというよりも、家族の構成員にあって最も「平凡」な人間として、画面の周縁に追いやってゆく。彼女の夫(香川照之)は、総務課の中間管理職というこれといった特徴のない役職に居座っていたが、ある日中国との合弁化を進める会社にあっけなくリストラされ、家族に告げることもできず、架空の出社を続ける毎日を送る。長男(小柳友)は、国を守る意識が現代日本人に欠落していると呟きつつ、米軍の外国人志願兵制度という、実際起こりえなくもない新たな国際安全保障システムに乗っかり、中東へ派兵される。次男(井之脇海)は、親としての権威にばかり拘る父親に愛想をつかし、密かに給食費をくすねてピアノ教室に通う。それぞれが家族に内緒にする秘密を抱えている中、主婦・小泉今日子だけがひとつの嘘もなく、食事を用意し、時にはドーナツを焼いて子供たちにふるまうという凡庸な日常に生きる。プロットを刺激し、物語を活気づけるような秘密裏のアクションという贅沢は与えられず、夫の理不尽な罵倒を無言で受け止め、息子たちの健康をごく普通の母親のように気遣う小泉は、なんの特徴もないサブキャラクターなのだろうか?──黒沢清のこの作品の驚くべきところは、そんなひたすら受動的な小泉が、徐々に輝きを増してゆく一点に尽きる。

他人の文句や誹謗中傷を眉ひとつ動かさず受け止めているこの女性が、画面の中心で輝きを増してゆくという事実。それは、ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』(1928)のような悲劇のヒロインとはまったく異なる力学が、映画の説話空間に生み出されたことを意味する。物語の前半、小泉は重大なピンチに陥ったり、突然の事故に見舞われたりするわけではない。掃除をしたり、夕飯の支度をしたりという、主婦のごく平凡な日常に従事するだけである。ストーリーテリングへサスペンスを導入する「秘密」など自分には贅沢すぎるというかのごとく、彼女はひたすら物語の周縁にひっそりと身を潜めている。

tokyosonataそんな主婦・小泉が、ある時から少しずつ中心化の磁力を自らの身体に纏い始める。長男が中東へ出兵することとなり、都心のエアポート・バス発着所に見送りへゆく場面。夫との離婚を促す長男に対し、「あのうちのお母さん役誰がやるのよ?」と小泉は切り返す。ともすれば温かい親子の対話場面なのだが、このシーン以降、「お母さん役をやる」自身を意識したかのような発言を繰り返すようになる。役所広司演じるコミカルな強盗にムルナウ的な小屋の建つ海岸へ誘拐された彼女は、いよいよやってきた劇的な展開(=プロット)で活躍しようと悲鳴をあげたり、命乞いをしたりすることもなく、毅然と「こんなに遠くまで来たのに、今さら帰るわけにはいきません」「あたし、ここからもう一度スタートしてやり直せるでしょうか? 向こうに見えるのは陸地? 舟?」「これまでの人生が全部夢で、ふっと目が覚めて、全然違う自分だったらどんなにいいだろう」と、現在とはまた異なる人生の可能性について思いを馳せてゆく。それは、「お母さん役をやる」というセリフと呼応し、別の人生プランを模索する中年女性の姿を浮き上がらせる。夫や子供たちのように、秘密のプロットがある訳ではない。ただひたすら根拠のない妄想を抱く彼女は、抽象的な二面性を生きている。家族に隠れてピアノをこっそり習ったり、リストラを隠すという実生活の二面性ではなく、現実否定の嘆息から生まれた第二の人生への憧憬と言えようか。救いを見いだせぬ暗い諦念を人物が身に纏ったとき、映画は分かりやすいプロットの事象から、無時間性の中に存在が佇む抽象空間へと変容してゆく。夜、何か星のように輝く一点を水平線に発見するが、しばらく後再び見失ってしまう小泉今日子は、虚しい夜闇を見つめながら、波間に身を横たえ涙を流す。そのときプロットを何も背負わないはずの彼女の存在が、打ち寄せる漆黒の波と一体化し、画面の磁力を一身に集めていることに我々は気付く。翌朝、海岸線に朝日が上り、文字通り何も持たない彼女を照らし出すその光は、ドラマチックなプロットを抱えている他のキャラクターたちの存在の揺れを照射し、画面の周縁にいた小泉を奇跡のようにフレームの中心に位置づける。

小池栄子と小泉今日子、ふたりの女性に共通しているのは、混乱を極める世界に対し少しの期待など持とうとしない諦念とともに、光と闇の領界線上にすっと身を収めてしまう点である。小池が、通俗的な思いやりを発揮してウェットな関係を結ぼうとする仲村トオルを切り捨てるように、まったく揺れを感じさせぬ冷ややかな視線で見返すとき、仲村トオルは光の集まる焦点から重苦しい影へと押しやられる。一方、小泉が水平線からの直射光に身を浸すとき、強盗は海の中へと姿を消すしかなかった。受身だがまったく動揺を見せぬ、この女性たちの視線がもつ厳かな冷たさが、他の人物たちを、影へと、画面の周縁へと追いやってゆくのかもしれない。本来、深い翳りの中で希望の薄い眼差しで佇んでいた人間が、光の下へ一歩進み出ることが、画面中の人物たちのヒエラルキーを転覆する重要な主題となっている。

光と影のコントラストにより孤独を視覚化してきた映画史は確かに存在する。──『少女ムシェット』の沈んだ目の少女と、荒みきった世界を知らない赤ん坊が飲むミルクの白さの対照。ニコラス・レイ『孤独な場所で』(1950)のボガードの骨張った顔と抑えようのない暴力衝動、周りの人間関係をすべて断ち切った後に立ちつくすその後ろ姿と逆光の照明によるコントラスト。ずぶ濡れで乱心のまま男の仕事場に現れる『妻は告白する』(1961)の若尾文子の和服の黒。その感性の源泉には、ドライヤーが蒼然と立っているのだが、万田・黒沢はこの孤独の視覚化という映画の原始的欲望を踏襲しつつ、さらに歩を進め、ヒロインの闇の中からの浮上が物語を決定づける特権的アクションとなるようショットを紡いでいるといえる。

●デカドラージュ

さらに、ふたりのヒロインに許された特権的なショットを指摘すべきだろう。それは、「手」のクローズアップである。
『接吻』において、殺人犯・豊川悦司の不敵な微笑をテレビで目撃し、思いを寄せ始める小池栄子は、新聞・雑誌の束と大学ノート、鋏、のりを用意する。犯人の発言・情報を新聞から切り抜き、ノートにスクラップしてゆくのだが、その執念にも似た熱情で鋏を握る彼女の手元がクローズアップで示される。その後、小池が監獄の面会室で豊川と相対し、透明の敷居越しにシャボンの香りを嗅がせるとき、そして、ラスト仲村トオルに襲いかかり、ナイフを振り上げるとき、小池の手のクローズアップが再び提示され、我々をはっとさせる。ラストシーンで重要なアクションを担う「手」が視覚的に強調されていると安易に言ってみることもできるが、それよりも裸の手がその持ち主の意志とは無関係に宙に投げ出されたかのような朴訥とした物質感がこれらのショットに漲っていることに留意したい。
『トウキョウソナタ』においてはどうか。香川照之が同じくリストラ失業中の旧友・黒須の家へ夕食に招かれ、偽りの同僚関係を演じ、疲れ果てた体で帰宅する場面。家は薄暗く、夜も遅いのに誰も帰っていないのかと思いきや、居間のソファで小泉今日子がうたた寝している。妻への内緒事を抱える夫・香川はそそくさと二階へ上がってしまうが、小泉は宙に向かって両手を差しだし、「引っ張って」と呟く。しかし、その声は香川に届かない。さらにキャメラは彼女の両手がすっと上昇してゆくクローズアップを捉え、オフスクリーンで「誰か私を引っ張って……」という声が響く。後れて、その声の主の顔のショットが続き、心なしか目に鈍く光る涙を湛えた無表情のまま小泉が宙に浮いている両手を凝視する視線が示される。誰かに握られることもなく、無為に宙に投げ出された両手の寄り画は、冒頭の空を見上げる眼差しのように、小泉に「無目的」な身振りを纏わせる。

パスカル・ボニゼールは、ブレッソンに見られるような人物や事物の局部のみを切り取ったクローズアップをデカドラージュと呼んだ。彼は、今にもふれあいそうなふたりの人物の手のクローズアップや、何かに驚愕する目元のアップなどが、画面外のものへ想像力を喚起するという点においてサスペンスを生む、と指摘した。

「フレームによって容赦なく身体を切断し、空間を例外なく遠慮会釈せずに「破壊する」希な映画作家のひとり──エイゼンシュタインではなくブレッソンだ──が、絵画の用語で「シネマトグラフ」を思考した(『シネマトグラフ覚書』参照)ことで著名なのも偶然ではない。突飛で欲求不満を与えるようなフレームを使用することにおいて、ストローブもデュラスもアントニオーニも画家なのである。これらの映画作家は、非説話的でサスペンスのようなものを映画にもたらしている。彼らは空白のシーンを作り出すが、それは「映画作家の考察」でエイゼンシュタインが望んだような「断片的な要素が整理される全体的な映像」に解消されるものではない。そこには「説話」が各ショット毎に消え去ることのないように緊張感が持続している。……(中略)……見る者には原則的に欲求不満をもたらし、「モデル」(ブレッソン的な意味において)を原則的に切断してしまうこのフレーミングの特異性は、残酷な支配に属し、攻撃的な冷たい死の衝動に属している限りにおいて、アイロニックであり、サディスト的なのである。」(斜体強調筆者)[*1

ボニゼールの論理によるならば、小池、小泉の「手」のクローズアップは、死の衝動を示唆する冷ややかなものということになる。なるほど小池の「手」はナイフを握りしめ、男への殺意が漲る暴力装置と化すが、問題はそんなことではない。重要なのは、これら身体の部位が外界から切り離されたことにより、非説話的な存在であるキャラクターの実存的物質性が浮上し、映画空間を荒涼茫漠とした、心理とは無縁の領域へと押し広げてゆくことではないか。それをボニゼールは「死の衝動」と表現したのだろう。そして、小池・小泉の深い諦念に湛えたかのような眼差しは、この冷ややかな「死の衝動」に根ざしているのではあるまいか、と考えたとき、ぶっきらぼうなヒロインたちの存在は共感よりも畏怖を覚えさせるものとなる。

血の通っているはずの五指がまるで物のように投げ出されたショットは、その持ち主である女性を説話空間から引き離す。彼女は一歩引いた距離から他の人物や事物へ無感情な視線を送り、自分自身を世界から疎外するだろう。そんな「死の視線」と「裸の手」は、心理的な同調を寄せ付けぬ厳かな冷たさに満ちており、ペドロ・コスタの画面に漲る厳格さに通底していまいか。

映画が作られる制度や環境の別なく見受けられる「零度の画面」がここに浮上してきている。

(次回に続く)

脚注
1. パスカル・ボニゼール『歪形するフレーム 絵画と映画の比較考察』梅本洋一訳, 勁草書房, 1999年, 124頁.

『トウキョウソナタ』

監督:黒沢 清
脚本:マックス・マニックス、黒沢 清、田中幸子
撮影:芦澤明子
美術:丸尾知行、松本知恵
音楽:橋本和昌
出演:香川照之、小泉今日子、小柳 友、井之脇海、井川 遥、津田寛治、児嶋一哉、役所広司

2008年/日本・オランダ・香港/119分

(配給:ピックス)
『接吻』

監督:万田邦敏
製作:仙頭武則
脚本:万田珠実、万田邦敏
撮影:渡部 眞
音楽:長嶌寛幸
出演:小池栄子、豊川悦司、仲村トオル、篠田三郎

2008年/日本/108分

全国順次公開中!!
(配給:ファントム・フィルム)

06 Oct 2008

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