不純と覚悟──
阪本順治『闇の子供たち』

film ]  阪本順治
三浦哲哉

 『闇の子供たち』の最後に流れる桑田佳祐のエンディング・テーマは、ちょうど北京オリンピックの日本公式テーマソングとなったミスター・チルドレンの楽曲のような違和感を覚えさせる。競技そのものの非情な現実を場違いに飾り立てるセンチメンタリズムにおいて。そして結局のところ、それが日本人の視点から歌われるに過ぎない点において。
 『闇の子供たち』にこの楽曲が使われたのは積極的な理由からではなかったのかもしれない。製作、興行を見すえたうえで、なにがしか大人の判断があったのだろう、と考えてしまう。しかし、そう言ってしまえば、自分もまた(本当のところはよくわからない)その大人の判断に与してしまうことになる。ところが『闇の子供たち』は、実際のところ、居直りへ転じかねないその大人の判断なるものをこそ、問題とする作品であったのではないか。

 『闇の子供たち』はそもそも不純な映画であり、その事実をなおかつ引き受けようとする映画だ。この不純さは、タイの臓器売買と幼児売春という現実に起きている出来事を、報道ドキュメンタリーとして提示するのではなく、劇映画としてドラマ化するという出発点からして避けることのできないものである。当事者になりかわって、彼らだけが体験しているはずの現実を再構成すること。彼らの感情を、立場を同じくしないものが演出し、ドラマ化すること。そこにいかなる正解もありえないのはあきらかである。とはいえ、中立的な報道が可能というわけでもない。映像化し、商品化することなしにこの現実は伝わらないからだ。だからこの事件をひとりでも多くの観客に伝え、なにがしかの変化へ寄与することを望むのであれば、この作品自身が資本主義の論理(大人の世界)のなかで、ともかくも広範に訴えかける実効性を持たねばならない。問題は、この不純とどうつき合っていくか、その実践的な姿勢であるということになる。
 そして『闇の子供たち』の欠点は、この不純に対し自堕落に居直ってしまった点にあるのではない。むしろその逆である。欠点はむしろ、その痛々しいほどの自覚、不純から逃れまいとする誠実さこそが、作品をこわばらせ、身動きのとれない袋小路へと追い詰めた点にある。

 誠実さゆえの行き詰まり。それは主人公である新聞記者の南部を演じた江口洋介の佇まいに端的にあらわれている。彼は苦悩する。彼は自分が直面する現実を、中立的な立場から報道することで潔しとはしない。なぜなら、その臓器売買と幼児売春には、ほかならぬ日本人が関与しているからであり、仮に直接の加担者でないとしても、日本人である以上、こうした現実を生み出すところの国家間経済格差の恩恵を受け、それを容認して生きていることにかわりはないと考えられるからだ。そして南部に関していえば、作品の終盤で突如はっきりするのだが、彼自身がまさに幼児売春のクライアントであった。事件の告発は、自己告発に直結する。まるで観客たる日本人たちひとりひとりに、逃げ場のない告発をつきつけるかのように。彼は開き直ることをよしとせず、追い詰められ、自己を断罪し、自らの命を絶つ。そこで物語も不意に宙に吊られる。日本人たちが追求していた臓器移植手術の顛末さえも知らされないままだ。南部の自殺によって、作品そのものまでが暗礁に乗り上げるかのような印象さえある。これは原作小説とは異なる結末であり、原作では南部の帰国で幕が閉じられている。

 おそらくこれが考えられる限りもっとも誠実な解答だったのかもしれない。ハッピーエンドはありえないし、事件の加担者たる日本人の改心で幕、というのもありえない。それでは彼らがつぶさに見てきたはずの現実を裏切ることになるからだ。そのうえで、なお白黒をつけたいのだと望むとすれば、主人公の自己否定という選択しかないということになる。ただ、あまりに生真面目な決着ではなかったか。阪本監督がそのキャリアを通し丹念に描いてきた「男たちの世界」に愛着をもってきた1ファンとしては、哀しみすら覚えた。『闇の子供たち』の主人公がとった自己否定が、その「男の世界」そのものの限界を露呈しているかのようにも思われたからだ。

 南部扮する江口洋介の佇まいには、阪本が繰り返し演出してきた「傷だらけ」の男たちと同質の魅力がある。自分の立場を知り抜き、また相手の立場を察せざるをえないからこそ、苦渋の決断を強いられる男たち。『傷だらけの天使』(1997)の豊川悦司、『ぼくんち』(2003)の真木蔵人らが体現してきた、「みなまでいわずとも」互いの立ち位置を理解し、それぞれの孤独を確認するその優しさ、その美学は、本作において江口だけでなく、彼の同僚を演じる豊原功補に、また、悪と知りながら犯罪に与する梶川に扮した佐藤浩市に引き継がれている。妻夫木聡も彼らの間に置かれ、「極度に気の弱い男」という役柄を与えられることで、近作にない魅力を湛えている。

 阪本の演出の真骨頂が発揮されるのは、立場の異なる者同士の視線のやりとり、つまり切り返しにおいてだろう。同僚の江口と向き合いながら、決して必要以上の詮索をしない豊原の聡明さ。ならずものの情報提供者と対峙する江口の寡黙さ。刺身包丁をふりかざしたやくざの「うちには5人の子供がいるんだ」という呟きに含まれる諦念。彼らは相手を見つめ、あえて多くを語らないことによってこそ、互いの矜持を保つ。自分と相手の不純を察するからこそ、彼らは饒舌を禁じるのであり、そのような立場論に立脚する限りで、本作の登場人物たちは誰もが魅力的に映る。

 しかし、こうした立場論に支えられた男たちのドラマは、結局、相手の立場をなんらかのかたちで察知しうるホモソーシャルな共同体のなかでしか機能しないのではないか。つまり、結局ここで語られていたのは日本人の男たちの自意識であるにすぎず、彼らが剥き出しの他者と対峙したとき、その誠実なる立場論は、畢竟、不毛な自己決着へと陥るしかないのではないか。南部の自殺によって、まるで男の美学そのものの無力が示されたかのように思うのだ。再び不謹慎な喩えを重ねさせてもらうならば、プロレスラーが(コンセンサスのない)総合格闘技の場面でさらけ出すような無力を、『闇の子供たち』の日本人男性たちも感じさせる。あるいは、情と責任の采配がまったく空転した星野ジャパンと同じように、相も変わらぬ阪本の男性的演出論が、ここタイで空転しているように思われる。
 つまり根本的に問題なのは、この作品が、結局のところ事件の当事者たるタイ人たちの視点を導入することを避けた点にある。無論、タイ人たちは登場するが、彼らは基本的に日本人サイドにいる。事件の当事者たちに関しては、もっぱら観察される対象にとどまるのであり、彼らと日本人の関係性に変化は生まれない。当事者のタイ人たちを日本人の視点から描くことは僭越である、という誠実な判断が働いたからだろうか。だがそうだとしても、そうした誠実な立場論(相手の立場を察したうえでなければ交渉しえないこと)こそがひとを無力に追い込む当のものではないか。

 もし仮に、相手の立場にたつことができたならば、男同士という一点において、江口は相手と殴り合いのひとつも演じたかもしれない。事件の当事者たちから断罪なり報復なりを受けたかもしれない。だが実際のところ、犯罪組織の一員チットは、主人公に銃を突きつけるも、嘲るように銃声の口真似をして、怯える江口を置き去りにするだけだ。ここにあるのは、ホモソーシャルな立場論には回収されることのない非対称の世界だ。それは、男のドラマが立ちゆかない世界でもある。

 したがって希望を託されるのは、立場論にがんじがらめになった男たちではなく、女たちにであり、具体的にその役割は音羽恵子役を演じる宮崎あおいが担うことになる。男の美学の袋小路をすり抜ける女。その必要性を誰より自覚しているのは、阪本監督そのひとだろう。『顔』(2000)の藤山直美、『ぼくんち』の観月ありさ、『魂萌え!』(2006)の風吹ジュン。阪本の近作は、男たちの窮屈な世界から脱出し自律する女性を繰り返しとりあげてきた。「殉死する男」(たとえば『傷だらけの天使』の豊川悦司)から「生きのこる女」へ。その焦点の移行によってこそ、不純な現実は肯定されることができた。
 『闇の子供たち』においてその肯定の契機は、宮崎あおいとタイの犯罪者との肉弾戦として演じられる。たまたま落ちていた鉄パイプで向こうずねを一撃、追い打ちの金的蹴りで相手をノックアウトすると、宮崎はひとりの少女を救出することに成功する。立場をわきまえない「バカ女」と罵られ、「日本人なら日本でできることをやればいい」と諭された宮崎だけが、そうした互いの立場を変化させるアクションを呼び込むのだ。土壇場で体が動くのは、責任で縮み上りがちな男性であるより、現実に身体でコミットする女性であるという事実が、またしても北京オリンピックの日本選手団を想起させるのだが。

 しかしそれでもなお、『闇の子供たち』が、場をわきまえない女よりも、わきまえすぎる男によって閉じられる事実に変わりはない。そもそも、「殉死する男と生き延びる女」という補完的な構図自体が、救いようもなく男性的であるというべきかもしれない。そして、桑田のエンド・テーマがその印象を強めているのはいうまでもない。桑田の楽曲に合わせて、川のなかで遊ぶタイの少年少女の映像が映されるのだが、どうしたわけかひたすら単調に水を掛け合い続ける彼らの薄っぺらな姿を見れば、やはりこの作品の真の突破口となりえたのは、「男と女」の二項対立ではなく、向こう側で現実に生きる他者の介入だったのだと思わざるをえない。それをドラマに導入することがどんなに困難で恐ろしいことだとしても。

 繰り返すが、限られた時間と環境のなかで、タイの当事者たちへと充分にコミットしえないことを一番よく知っていたのがこの映画の作り手たちであることは疑えないし、だからこそこの作品ではいたるところで、恥じ入るかのような、極度に慎重なトーンが選ばれているのだと考えることはできる。そうしたすべての選択は、誠実さと善意の産物なのだとも思う。だからこそこの不純な企画を、覚悟のうえで引き受けた作り手たちには賞賛の念を覚えずにはいられない。だが同時に、この誠実さを、作品そのものの倫理ととり違えることは厳しく禁じたい。とりもなおさず、『闇の子供たち』は不純で、自己完結的な映画である。

『闇の子供たち』

監督:阪本順治
製作:気賀純夫、大里洋吉
企画:中沢敏明
原作:梁石日『闇の子供たち』(幻冬舎文庫刊)
撮影:笠松則通
美術:原田満生
編集:蛭田智子
音楽:岩代太郎
主題歌:桑田佳祐
助監督:小野寺昭洋
配給:ゴー・シネマ 出演:江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡、プラパドン・スワンバーン、プライマー・ラッチャタ、豊原功補、鈴木砂羽、塩見三省、佐藤浩市

2008年/日本/138分

シネマライズ ほか全国大ヒット公開中

06 Sep 2008

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