前言撤回のひと──
S・スタローン『ランボー 最後の戦場』

三浦哲哉

 シルヴェスター・スタローンのシリーズ最新作『ランボー 最後の戦場』を見終えたとき、そのあまりの短さに驚いた。ちょうど90分。これはもちろんシリーズ最短で、軽々と2時間を超える昨今のアクション大作とくらべてもかなり短い部類だ。そして、この映画のラストショット──はるか向こうに伸びる一本道をいつまでもいつまでも、あのアッバス・キアロスタミの『オリーブの林をぬけて』(1994)におけるラストのイラン人青年のように、ぽつんと小さくなって見えなくなるまでひたすら歩いていくスタローンの後ろ姿を捉えたショット──が異常なほど長いので、それを差し引けば正味80分ぐらいなのではないだろうかと思う。さらにいえば、エンドクレジット──製作総指揮だけで7人いる──もどこまで続くのだろうというくらい長かったので、これも差し引いてしまえば、本当は70分ぐらいだったのではないかとさえ思われてくる。

 物理的な長さを問題にしたいのではない。予想より短いという印象、つまりあっけなさの印象こそが問題である。もう終わってしまったのか、と思わず自分を疑わずにいられないような、ほとんど尻切れトンボのような幕の引き方なのである。ミャンマーのジャングルで倒すべき敵を機関銃で殲滅したと思ったら、唐突にアメリカのアスファルトで舗装された道路が映され、横幅は増したもののシリーズ第一作とまったく同じ格好(ジーンズに緑のアーミーシャツ)をしたスタローンは、そのまま何も語らずに父の住む実家へと歩み去ってしまう。そしてそれきりなのである。自堕落な終わり方という見解もあるにちがいない。彼を数十年ものあいだ東南アジアの奥地に引き留めていた心理的わだかまりが解消されるプロセスが丹念に描かれていたとはとても思われないし、むしろ事態はあまりに急ピッチで進行するのだから。
 邦題に「最後の戦場」とあるとおり、本作はランボーがこれまでの自身の闘いになんらかのかたちで幕を引く作品であると喧伝されていた。シリーズ三作を経てもなおくすぶり続けていた元ベトナム兵士の魂のドラマの決着が、こんなに簡単でいいのだろうかと考え込んでしまうところである。その題材にふさわしい深刻な語り方があったのではないか。だが、このあっけなさの印象に戸惑いながら、同時に、これこそがスタローンの流儀だったのではないかという思いもまた頭をもたげる。つまり、語られるべき物語とは食いちがうこの腰の軽さ、わだかまりのなさにこそ本作およびスタローンの魅力はあるのではないか。

 そもそも映画の始まりもまた、深刻さからはほど遠いものだった。冒頭、世捨て人と化したスタローンは、タイの毒コブラ狩りや、鉄製の弓矢を用いての魚釣りなどによって、かろうじて己の内側にくすぶる炎をなだめている。慈善団体の面々に、戦地の村へ救援物資を運ぶのを手伝って欲しいと依頼されても無下に断るばかりで、一見してとりつくしまがない。戦場の現実をいやというほど経験してきたこの初老の男を説得するにはさぞかし骨が折れるだろうと思いきや、しかし、どしゃぶりの中でアメリカ人女性にひとつ発破をかけられたら、もう船に乗っている。重いようでいてスタローンの腰はとても軽い。
 行かないと言っては行き、戦わないと言っては戦う。そうこうしているあいだに、どうでもいいと言っていた里帰りもあっさり実現してしまう。ジョン・ランボーは己の信念を決して曲げない不屈の男というよりも、見た目に反して、そうしたかったなら最初からそうすればよいじゃないかと誰もが思わずにいられないような、腰の軽い、前言撤回癖の持ち主なのである。

 ちなみにこの性癖はスクリーンの外でも演じられている。本作をめぐるスタローンの俳優引退宣言をめぐるエピソードのことだが、彼は『ランボー 最後の戦場』の撮影に入るまえ、これを最後に俳優業から身を退き、監督に専念すると公言していたのである。ところが今年の1月には早くもカムバックを明言し、あまつさえ「ランボー」シリーズの続編さえもありえることを示唆したのだ(ちなみにその舞台候補地はメキシコ)。「最後の戦場」は日本公開に際してつけられた副題だが、これが最後ではなくなる可能性がどうも濃厚なようなのだ。さて、ではなぜ、スタローンは復活を決断したのか。本人の弁によれば、盟友シュワルツェネッガーに激励され、俳優続行を強く勧められたためであるという。いかがだろうか。劇中でヒロインに請われてカムバックするランボーと同様のことを、現実のスタローンも繰り返しているのである。

 こうしたあまりの腰の軽さをいまさら非難するのはお門違いだろう。なにしろ、このような前言撤回の身振りをこそ、スタローンはこれまで頑なに繰り返し続けてきたのだから。スタローン演じる主人公の魂の遍歴は、「引退宣言」「ラブコール」「カムバック」という順序を律儀に守りつづける。「ランボー」および「ロッキー」の両シリーズを思い出してみよう。両主人公はのっけから引退を宣言しているのである。ロッキーは映画が始まるやいなや情熱を失ってボクサー稼業から足を洗うことを決めるし、ランボーはベトナム帰りの退役軍人として登場する。

 そしてそれ以来、シリーズを通して彼らが自発的に戦い始めた例はない。たまたま誰かの口車に乗せられたり、理不尽な挑発を受けたり(これも「ラブコール」の一種といえる)、復讐劇に巻き込まれたり、上官に命令されたり、自分を愛おしく思ってくれる女性に説得されたりするのを待って、よしそれならばと腰をあげる。なかでも忘れられないのは『ロッキー2』(1979)でロッキーを発奮させるエイドリアンの「勝って!(Win!)」の一言だ。

 「ロッキー」シリーズはそもそもいかに始まったか。それまで売れない俳優でしかなかったスタローンをスターダムにのしあげたのは自ら脚本・企画を手がけたシリーズ第一作(1976)だが、これはロッキーが宿敵・アポロに無惨に敗北するアンチ・ハッピーエンドで閉じられる予定だったという。70年代のニュー・シネマを多分に意識して、スタローンは自身が演じるロッキーをすねたアンチ・ヒーローとして造形し、アメリカン・ドリームの失墜をこそ描くつもりだったというのだ。ところがもちろん、完成した『ロッキー』のラストは、判定負けではあるものの15ラウンドを闘い抜いたロッキー・バルボアがインタビュアーの質問を無視して「エイドリアン!」と連呼し、ビル・コンティの音楽が祝福するなか彼女とリング上で抱擁するあまりに有名な大団円で幕を閉じることになる。さて、ではなぜスタローンは脚本を変更したのか、とまたしても問うてみると、DVDの特典映像で彼が照れつつ語るところによれば、当時の彼の奥さんが「負けて終わるなんて駄目だ」と叱りつけたから、なのである。つまり彼はそのブレークスルーから一貫して、前言撤回によってこそ成功してきた男なのだ。それは両シリーズに限ったことではない。佳作『コップランド』(1996)等の多くの作品でも、スタローン扮する主人公は、いつもはじめは世を拗ねて、隠遁したいとばかり言っては、誰かに出撃依頼されるのを待つ。

 スタローンの前言撤回癖は、ようするに媚態に近いなにものかなのだと思う。そしてその限りで、スタローンの作品はつねに求愛の物語でもある。それは「君子豹変す」のような勇ましい身振りではない。たぶんもっと直裁な甘えの表れだと思うし、その限りで、彼のコメディ挑戦第二作『刑事ジョー ママにお手上げ』(1992)の世評──無謀にも芸域を拡張しようとして失敗した作品──は誤りである。このなかには彼が紙オムツ姿になる有名なシーンがあるのだが、彼が一貫してとってきた媚態的パフォーマンスの行き着く先が赤ん坊だっただけだと考えるべきだ(そもそも彼は脱ぐのが嫌いではなかった。『ランボー 怒りの脱出』[1985]でも必要外にその尻を露出していたのが思い返されるし、ポルノアイドル映画『イタリアン・スタローン』[1975]も秘められた過去とはいうにおよばず、堂々と楽しそうに裸を披露していたではないか)。

 イタリア人気質、と言ってしまえば行きすぎた単純化になるかもしれないが、スタローンの佇まいには、どうしてもイタリアンと言いたくなるような楽天性と愛嬌がみなぎっている。どんなに仏頂面をしようともそれは決して消えることがない。たしかにスタローンの媚態は、ただひとの気をひくためとはいえないような自虐のレベルに達することもあるし、実際、ベトナム帰還兵のランボーは設定上深刻なトラウマを抱えていて、それが自らをして過剰な肉体的責め苦へと駆り立てずにいないともいえる。だが、そうした傷さえも、結局のところ彼をほんとうの孤独に追いやることはない。常に誰かが見ていてくれて、手を差し伸べてくれるという確信がつねに前提されているように思えるのだ。その誰かとは例えばランボーの恩師トラウトマン大佐のことであり、『怒りの脱出』で彼を愛するベトナム女性エージェントであり、『最後の戦場』のヒロイン・サラである。その原型はいうまでもなくエイドリアンだ。スタローンがほぼ常に場違いな男として登場し、自虐に自虐をかさね、うつむきながらもう闘いはやめだと言うのだとしても、それは、エイドリアン的存在が実は待っていてくれるという予感があるからこその一時的なポーズにすぎないのだと思う。
 その証拠に、一旦、前言を覆して行動を開始するならば、スタローンは待っていましたとばかりに自分の不器用な身体をすり切れるほど躍動させるではないか。多くの場合、それは疾走するというもっとも単純な身振りで表現される。ロッキーの疾走、そしてランボーの疾走には、ただ嬉しくて走らずにいられないときの少年のような屈託のなさがある。そして、そのナルシスティックな歓びを増幅させるための儀式的過程として、スタローンにはまず自分が必要とされていることを確認するためのいじましい迂回が必要だったのではないか。そして繰り返すが、スタローンの魅力は、甘えが通じる──愛が酬われると信じられるその鷹揚さにあるのだ。

 『最後の戦場』でもっとも感動的なのも、例によってスタローンが疾走する場面だと思う。還暦を超えたスタローンがひとりジャングルの中、倒木を飛び越え飛び越え、疾走する。まるでキアロスタミ監督『友だちのうちはどこ?』(1987)のイラン人少年のように、カットとカットを跨ぎつつ、無限のスタミナで森を疾駆するのである。カットが細かく分けられることによって疲れが蓄積されず、身軽な印象が与えられるだけなのだが、こうして肉体的衰えさえも軽々と切り抜けるところがまたスタローンらしい。
 やがて、彼の仲間たちもスタローンの腰の軽さに触発されて、次々と前言を撤回し始めるだろう。くよくよしていた傭兵たちは、いつのまにか活き活きと闘い始め、殺生許すまじと主張していたはずの牧師にいたっては、岩石で敵軍兵士を撲殺するありさまだ。ここで起きているのは仲間たちのスタローン化にほかならない。いったいこんなに簡単にうまくいっていいのだろうか。いいのである。少なくとも、スタローンに向けて誰かが「勝って!」とエールを送りつづけるかぎりは。

『ランボー 最後の戦場』 RAMBO

監督:シルヴェスター・スタローン
脚本:シルヴェスター・スタローン、アート・モンテラステリ
撮影:グレン・マクヴァーソン
編集:ショーン・アルバートソン
音楽:ブライアン・タイラー
出演:シルヴェスター・スタローン、ジュリー・ベンツ、ポール・シュルツ、マシュー・マースデン、グレアム・マクタヴィッシュ、レイ・ガイエゴス、ティム・カン、ジェイク・ラ・ボッツ、マウン・マウン・キンケン・ハワード

2008年/アメリカ・ドイツ/90分

18 Jul 2008
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