ナイフと安全圏──
D・クローネンバーグ『イースタン・プロミス』

三宅 唱

 いま、ひとりの青年が有無を言わさず鋭利な刃物を持たされてしまう。深夜雨に濡れながらロンドンの片隅を走り抜け、ようやく叔父の床屋にたどり着いた途端「この客を殺せ!」と命令されるその青年の一方で、ロンドンの別の片隅では、街行く人々の中をたどたどしく歩く少女がいる。どうやら出産間近の妊婦らしい彼女の顔はいまにも死にそうなほど青冷めている。

 ふたつの流血沙汰で始まるクローネンバーグの新作だが、実のところ、だからといって暴力的瞬間そのものが描かれることは多くはない。映画の大半を占めるのはむしろ、ひとりの人間が1本のナイフで殺される傍らで、それに気づくこともなく生きている他の人々の日常である。物語が動き出すのは、彼らの生が、「まったく殺されず」単に「生き残っている」に過ぎないものだと感じられてしまう瞬間である。たしかに致命的な暴力は、死者とその他すべての人間とを残酷に切り離し、それはとりかえし(取り返し/取り替えし)がつかない。実際、若い妊婦タチアナの死に立ち会った助産婦アンナ(ナオミ・ワッツ)が、生前彼女が記していた日記を手に入れたとしても、非当事者でしかない彼女にできることは今更限られている。しかし、ロシア語が読めないアンナの代わりに日記を翻訳する叔父(イエジー・スコリモフスキー)が、あるときいみじくも「彼女も普通の人だった」と過去形で漏らしてしまうように、それはいつも事後的なものでしかないのだが、まったく無関係だったふたりが暴力のあとで結び付いてしまうような感覚がやがて訪れる。

 果たして彼ら「生き残った」人々は、生が暴力によって相対化されてしまったあともなお、それが<安全圏>にある限り、生をそのまま受け入れる他ないのだろうか? むしろ自らの生が暴力によって保証されるのを望むことすらできるだろう。たとえそれがどんな生であろうとも、それ自体「とりかえしがつかない」にもかかわらず。ではたとえば、誕生と同時に孤児となる赤子はどうか。この女児はともすると生まれなかったかもしれず、生まれてくる必要などあるのかもわからず、むしろ生まれなかったほうがよかったとしたら? しかし、現にいま赤子は彼らの目の前に存在している。同じ問いとジレンマに、キリル(ヴァンサン・カッセル)は自ら振り回されているようにみえる。ロンドンに拠点をおくロシア系マフィアの一人息子として生まれたものの(胸には「ファミリー」の一員を示す入墨がある)、どうやら性的不能であるらしい彼は、ときにわざわざ自ら胸の入墨を誇示して<正統性>とやらを主張し、ときに性的な<正しさ>の基準だとかに晒されながら、どうにもならない感情的高ぶりに流されていくようだ。アンナと、彼の部下で一介の運転手にすぎないニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)が演じる型通りのロマンスの傍らで、キリルの無力さが行き場をなくしたように彷徨っている。

 キリルの不能がこの赤子の生まれた遠因にあることが明らかになるとき、この物語を根本で支えるのが、「生きていることのとりかえしのつかなさ」に支配された合わせ鏡のようなキリルと赤子のすれ違いと出会いにあることがわかるだろう。そして結局のところ、その感覚に囚われているのは彼らだけではない。若い妊婦と赤子の生死を切り離した「もう十分だ(Okay,enough.)」という医者の合図とまったく同じ単語をニコライが口癖のように繰り返すとき、マフィアのボスは「誰が貴様に"enough"なんてくそったれの単語を教えやがった」と愚痴るように難詰する。実際、祖国を離れたマフィアたちはまるで<必要以上>に家族に優しさを注ぎ、一方で怒鳴り散らし、焦り、酒に逃げ、挙げ句の果てに泣きもする。アンナもまた、単に職務上出産に立ち会ったに過ぎない赤子に対して、母ではなく一介の助産婦でしかないにもかかわらず、あるいはだからこそか、赤子のために<必要以上>に行動する。

 『イースタン・プロミス』で語られるのは、暴力の傍らで相対化されてしまいかねない生の居心地の悪さと、それをどうにもできない無力さに支配されてしまうことへのおそれやおののきの感覚が、「生き残った」者たちの生そのものをかたどっていく過程であるだろう。おそらくこの感覚は、映画に対する観客の存在にも、また映画そのものの存在にも無縁ではない。



『イースタン・プロミス』 EASTERN PROMISES

監督:デヴィッド・クローネンバーグ
脚本:スティーヴ・ナイト
撮影:ピーター・サシツキー
衣装デザイン:デニース・クローネンバーグ
編集:ロナルド・サンダース
音楽:ハワード・ショア
出演:ヴィゴ・モーテンセン、ナオミ・ワッツ、ヴァンサン・カッセル、アーミン・ミューラー=スタール、イエジー・スコリモフスキー、シニード・キューザック

2007年/アメリカ・イギリス・カナダ/100分

シャンテ シネ、シネ・リーブル池袋ほかにて公開中
公式HP: http://www.easternpromise.jp

22 Jun 2008

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