メトロ、風船、カメラ──
ホウ・シャオシェン『レッド・バルーン』

橋本一径

辞書を引けばまず「地下鉄」と出てくるからには、地下を走るのが今では当たり前のパリのメトロが、19世紀末には、高架を走らせるか地下を走らせるかをめぐって、激しい議論が繰り広げられていたのは、比較的よく知られている。結局この論争は「地下派」が勝利し、やがて私たちが今日知るようなトンネル網が張り巡らされていくことになるわけだが、パリのメトロには、「地上派」の信奉者たちが見た夢の残滓のように、高架の上を走る路線もいくつか残されている。ただしそれも全線にわたって高架を走るのではなく、たいていの路線は、まるで「地下派」の機嫌を窺うかのように、ところどころで地上に顔を覗かせているにすぎない。

「地下か地上か」をめぐる議論がにぎやかかりしちょうどその頃、別の乗り物をめぐって古くから戦わされてきた論争も、最終的な決着を見ぬままにくすぶり続けていた。それは「空気より軽いものか、重いものか」をめぐる論争、つまり空を飛ぶ手段として、気球と飛行機のどちらが優れているかをめぐる論議である。空気より軽いガスを風船につめて浮かび上がる気球は、飛行機が発明されるまでの数世紀の間、人類にとって空を飛ぶための唯一の手段を誇っていた。しかし浮かんだ後は風まかせで、操縦すらままならない気球に、人類の未来を託すわけにはいかないと考えた人々は、ちょうど鳥が空を飛ぶように、空気よりも重い機体で飛行することを夢見たのである。ジェット時代を迎えて久しい今日、この論争がどちらの側の勝利に終わったのかは、改めて説明するまでもあるまい。

全編に渡ってパリとその周辺で撮影された、ホウ・シャオシェンの新作『レッド・バルーン』のなかを漂う赤い「風船」(フランス語では気球と同じ「バロン」だ)が、映画の冒頭で高架を走るメトロ、それもセーヌを渡るほんの数駅の間だけこわごわと地上に顔を覗かせる5番線の車両とすれ違うのは、だから偶然とは思えない。流体力学のような複雑な理論を必要とするまでもなく、ただ単になかの気体が空気より軽いという理由だけで浮かんでいる風船は、自らのそんな性質を恥じ入るかのように、天高く上昇するよりもむしろ、ふらふらと力なく舞い降りてきて、ホームの乗客たちに手で払いのけられながら、メトロのなかの主人公の少年と、ガラス越しに一瞬交錯するのである。

その後もビルの谷間や窓越しから、しばしば画面に登場することになるこの風船は、しかし「風まかせ」という性質とは裏腹に、時おり不可解な動きを見せる。上昇していたかと思うと、目的地でもあるかのように不意に下降を始めるその風船は、あたかも意志を備えた存在であるかのようなのだ。だがやがて風船が少年の暮らすアパートの窓へと近づき、部屋のなかを覗き込むような動きを見せたとき、この動きは、ちょうどクレーン撮影で窓のなかの被写体へと接近する際の、カメラの動きそのものであることに気づかされるだろう。つまり風船とはここでは、カメラでもある。たとえば19世紀の写真家ナダールが、巨大な気球の建造に奔走した気球狂であり、カメラをいち早く気球に持ち込んで空中撮影を実践した人物であったことからもわかるように、気球はカメラともまた歴史的に密接な関係を取り結んでいたという事実を、思い起こしておくべきだろうか。

カメラ=風船。だがこのカメラには、捉えるべき被写体がもはや存在しない。主人公たちは誰もがみな、それぞれ自らのカメラを手にしてしまっているからである。映画の勉強のためにパリに留学中だというベビーシッターのソン(ソン・ファン)が、始終廻している小型のDVカメラ。彼女からそのカメラを借りて撮影のまねごとをする少年シモン(シモン・イテアニュ)は、自身もまたカメラ・オブスキュラの原理を応用した遊具を用いて、窓際に佇む姉ルイーズ(ルイーズ・マルゴラン)の姿を模写してみせる。そして母親のスザンヌ(ジュリエット・ビノシュ)も、そんな子どもたちの姿をデジカメで撮影して、にっこりとほほ笑んでみせるのだ。

風船がカメラであるとすれば、カメラを持った登場人物たちは、ひとりひとりがいわば風船である。実際彼らは映画のなかで、まるで風船のような緩やかな上下運動を、繰り返し行ってみせているのではなかったか。映画の冒頭、バスティーユ駅で地下からメトロに乗ったはずのシモンは、車両とともに地上に顔を出して高架駅のホームで風船と再会する。ベビーシッターのソンを乗せて帰路についたスザンヌの車は、セーヌの下をくぐるトンネルからゆっくりと顔を出す。シモンを学校で出迎えたあと、仕事に出かけたスザンヌと別れたふたりは、アパートの階段を登って自室に帰り着く。ほどなくピアノ教師が来訪すると、彼らは連れ立って、ピアノのある階下の部屋に降りていく。その階下の部屋を間借りするマルク(イポリット・ジラルド)が、台所を貸してくれと言って上階に登ってくる。スザンヌは自室のロフトへの階段を上り下りし、大事な契約書を探す彼女がばら撒いた書類は床に散らばる。ピアノは階下から職人ふたりに担がれてゆっくりと階上に運ばれ、台所の天井からは洗濯物が垂れ下がる……。スザンヌが声優を務めるマリオネット劇の人形たちの動きがそこに加わるのは言うまでもないだろう。

こうした上下の運動に比して見たとき、水平方向への運動は、驚くほど少ないことに気づかされる。なるほど確かにスザンヌとソンは、中国人の人形使いを伴って一度は郊外へと列車で繰り出しもする。だが近作を少し思い出すだけでも、台湾から東京そして夕張へと舞台を変えた『ミレニアム・マンボ』(2001)はもちろん、『珈琲時光』(2003)ですら、北関東の田園風景が東京とのコントラストをなしていたことを考えれば、『レッド・バルーン』のこの移動の少なさは例外的な部類に属するものだと言える。ジュークボックスから流れ出るシャルル・アズナヴールの歌声は、「世界の果てに」連れて行ってくれと繰り返すのに、スザンヌたちはパリ周辺から一歩も外へ出ないし、モントリオールにいるという恋人はまともに便りすらよこさず、ブリュッセルに暮らす娘のルイーズも、パリの大学への進学を断念した旨を、電話で伝えてくるのだ。

一点にとどまったままの、ゆるやかな上昇と下降。だがそれを停滞と呼ぶことはおそらく誤りである。オルセー美術館──この作品は同美術館の20周年記念として製作されている──で引率者に連れられて、赤いボールを追う少女を描いたフェリックス・ヴァロトンの作品の前に座る子供たちのなかで、ひとり絵を見ることをやめて上方に目をやるシモンの視線の先に、赤い風船が天窓から顔を覗かせる。その風船にズーム・インした画面が、背景の建物すら視野の外に追いやったとき、一面の青空のなかの赤い風船は、もはや上昇しているのか下降しているのかすら判別がつかなくなる。風船に許された唯一の自律的な運動であるはずの上昇と下降さえもが、相対的なものに過ぎなかったことに気づかされる。上がっていると見えたのはこちらが下がっていたからで、停止していると見えたのは、こちらもともに動いていたからではないのか。このときもはや私たちは、主人公たちの運動や停滞を見下ろす特権的な不動の一点ではすでにない。そしてかつてはそのような一点を体現していたはずのカメラは、いまや風船という亡霊と化して、在りし日の動きの痕跡のみを再現しながら、行き場をなくしたまなざしを、むしろ私たちのほうへと向けようとしているのかもしれない。

『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』 Le Voyage du ballon rouge

監督:ホウ・シャオシェン
脚本:ホウ・シャオシェン、フランソワ・マルゴラン
撮影:マーク・リー・ピン・ビン
録音:チュー・シー・ユイ
製作:フランソワ・マルゴラン、クリスティーナ・ラーセン
配給:カフェ・グルーヴ、クレストインターナショナル
出演:ジュリエット・ビノシュ、イポリット・ジラルド、シモン・イテアニュ、ソン・ファン、ルイーズ・マルゴラン


2007年/フランス/113分

2008年7月中旬、シネスイッチ銀座ほかにて公開予定
アルベール・ラモリス監督『赤い風船』(1956)、『白い馬』(1953)も同時公開を予定
公式HP:http://ballon.cinemacafe.net/

12 Jun 2008

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