[エディトリアル]よじれる笑い

editorial ] [ 特集記事 ]  
三浦哲哉、土田環

 サイレント映画の終焉が台詞を中心とするトーキー映画の笑いを用意したとすれば、むしろ、観客にとって聞き取りを要求するという点において、イメージに対する沈黙を強いる方向ができあがったといえるのだろうか。現在のテレビで必要以上に映像と音声に被せられているテロップや観覧席の笑い声のオーバーラップは、見る者の視界を覆い、視線とスクリーンとの出会いを遮るという意味において、音を持つに至った映像の歴史において退行を示しているといっても過言ではない。たしかに、笑いを誘い出そうとする観客への露骨な目配せは、チャップリンであれキートンであれ、サイレント映画の多くのなかにも見出すことができる。人々の笑いが映画館に満ちあふれていたような時代、観客と映画の笑いとが一体化する地点を安易に想定してしまうのはナイーブに過ぎるかもしれない。しかし、映画が完成し、上映される時、作品は制作者の手を離れ、観客という他者の視線、想像力の介入を余儀なくされる。映画で笑いが輝くとすれば、双方に残された余白=スクリーンこそが、裸となった自身の姿を目にしてともに笑うほかにやりようのない場と化す時ではなかったか。

 自己の内側から外へ。笑いが私たちの通常持っている固定観念を逸脱する行為から生まれるのだとすれば、そこにはある種の自由があるはずだ。トランプのジョーカーは、「はみだし者」を意味すると同時に「冗談を言う」人間のことでもある。政治風刺劇に嘲笑が付きものであるのも、笑いが制度におもねることのない力、自己をさらけだすだけでなく他者をも開こうとする力を持つことを示している。だが、現在のブログやメールに頻用される「(笑)」、テレビで芸人たちが自分のギャグに対して口にする「すべる」といった表現は、自己韜晦、照れ隠しにとどまらず、どこかで笑いが自己完結していることを示してはいないだろうか。いずれにせよ、それがエンターテイメントとして観客を単純に笑わせるものであれ高度に構造化されたユーモアであれ、私たちは内面化された状態から笑いの思考を始める時代のなかにいる。

 現在の「笑い」のねじれ、あるいは、いびつさ。北野武と松本人志が2007年6月2日に同時に公開することとなった2本の映画はそのことに示唆的な作品だったのではないか。80年代と90年代にテレビにおける笑いのかたちを作り変えた当事者であるふたりは、映画では自分の笑いがそもそもいかにして成立しているのかを意識した──自家撞着すれすれの──作品を発表した。成功したともいえるテレビ活動の後で、否定的に見れば映画としては失敗した、肯定的に見れば映画に対して挑発的な作品。彼らの映画、そして、同時代人としてテレビの笑いを独自な視点から語ってきたエッセイスト・ゴム版画家ナンシー関の活動を通して、いま映画のなかの笑いについて考察したい。また、笑いが作られ、消費されてきた現場を生きてきた瀬川昌治のインタビューは、経験そのものがユーモアとスリルさえともなって、日本映画史の「正統的」ともいうべき喜劇の姿を照射してくれることになる。

 吉本興業が黄金期を築くにあたって大きく貢献した木村政雄は、その著書のなかで、吉本が成長した理由について述べている。藤山寛美の説教芝居に代表される松竹新喜劇が、あくまでも日本の貧しさに照らし出された芸であり、日本が豊かになればやがて消えゆくものであるのに対して、吉本はくだらなさの一点を追求したことで時代に制約されない笑いの企業戦略を立てることができたという(『笑いの経済学』)。くだらなさも均一化、消費されることの宿命を逃れることはできない。時代さえも超越したかのような「荒唐無稽」という無責任な言葉をそのまま形容詞として使うことが現在どれほど許されているのだろうか。

(三浦哲哉、土田 環)

14 Mar 2008
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