デジタル化する粒子
──『砂の影』甲斐田祐輔

三浦哲哉

 冒頭、一瞬だけ映し出された砂丘のイメージは、その向こうにあるはずの海を想像させる。8mmで撮られた海。だが海は映されない。虚ろな表情の女性が通り過ぎ、砂のイメージだけが残される。その後『砂の影』は、その大半を薄暗い室内シーンに費やすことになる。
 そこで、この作品の制作者たちが8mmフィルムを選択したのは、ひとが「リュミエール的」と形容するような、初期衝動にまかせて無垢な光の戯れをフィルムに焼き付けようという意思からではないのだということに思い至る。空、海、逆光で照らされた木立や風にたなびくカーテン……これら半透過性の流体は、確かに、フィルムで捉えられたときとりわけ光線の快楽を供してくれる。その快楽をデジタルで再現することは難しいと、フィルム愛好者たちは考える(少なくともHDカメラ以前は)。8mmはそのもっとも手軽な媒体であり、8mmカメラで海や空や窓を映したことのあるものは、その始源的な映画の快楽を忘れることができないはずだ。しかし、繰り返し述べるが『砂の影』は、そうしたいかにもフィルム的な主題の一歩手間に留まり続ける。

 冒頭現れた女性がその後辿ることになる物語を、以下のように要約することができるだろう。この女性はユキエという名前のOLであり、俳優志望の恋人・玉川と自室で暮らしているが、玉川はすでに生きておらず、悪臭を放つその死体を隠しながらユキエは妄想の中で彼と戯れ続けている。やがて勤務先で真島という男性と出逢い、彼との接触の中でユキエは自身の閉ざされた世界からの離脱を迫られる……。
 物語の焦点は、追い詰められて心を閉ざしたユキエが、真島に対して心を開くことができるか否かにある。そしてユキエに想いを寄せる真島は、彼女をドライブに誘う。唐突に、どのような思いつきだろうか「ドライブ行こう」と言って待ち合わせ場所を指定し、車で彼女の来るのをじっと待つ。セックスではなく、ドライブ。ドライブこそがふたりの融和を約束するかのように。
 もし仮に彼女が薄暗い自室を出て真島のところへ来たとして、ドライブへ行った先には何があるか。冒頭で一度映され、それきり宙吊りになっていた砂丘だろうか。さらに砂丘の向こうに映されるはずの海……。それこそフィルムを融解させるような光の充溢によって、それまで作品の大半を占めていた室内の闇が打ち消されるような結末が訪れるのだろうか。だが、かろうじて抱かれる期待はあえなく潰えさる。自動車がふたりを乗せて発車することはなく、海も、車窓を流れる木立も映されることはない。

 つまり『砂の影』は、ふたりの男女の融和への憧憬を描きながら、最終的にそれを厳しく断ち切っている。これは、8mmフィルムへの郷愁を禁じる身振りと軌を一にしているように思われる。だからといって、ここでは融和や回帰の不可能性が改めて悲しげに物語化されているわけではないし、まして直接的な光と情愛へのルサンチマン(恨み節)が綴られているわけでもない。『砂の影』は、端的に、闇を捉えようとする作品である。

 まず『砂の影』が「8mm映画」であるという認識を訂正しなければならない。『砂の影』は、デジタルで最終的にフォーマット化された作品である。撮影は8mmフィルムでなされたが、次にデジタルに変換されている(再度読み込まれている)。実のところ、この作品のフォルムは、8mm+デジタルという二重構造によって決定されている。この二重構造があってはじめて、唯物的な8mmフィルムの影が対象として捉えられる。つまり、粒子(=砂)の影。

 心を閉ざしたヒロイン・ユキエが引きこもる薄暗い部屋の中で、カメラは闇を捉える。闇とは、心理的な比喩のことではない。闇が映るのである。暗所を映すことで8mmフィルムは、粗い粒子を露呈する。その粒子の姿が、デジタルの層に定着するわけだ。これは強い陽光の下では起きない現象である。

 ここで観客は、フィルムを見る。対象として見る。8mmよりも精細なデジタルの底に支えられて、フィルムの粒子が顕わになるからだ。するとどうなるか。観客は、見るという行為を見ることになる。

 カメラマン・たむらまさきの名が監督・甲斐田祐輔のそれに劣らず強調されていることの意味もここにある。見るということ、それは正確を期せば、「見える」(光)から「見えない」(闇)へと至る階梯の中で、そのもどかしさを生きつつそれでも注視し続けることだ。そして『砂の影』の特異な点は、「見えない」ものさえも、フィルムのノイズとして可視化し、感覚化してしまうところにある。

 たむらまさきは、ユキエを映し続ける。だがそこになにが見えただろうか。自意識と乖離したような華奢な(拒食症的な)身体の戸惑いがかろうじて見えるだけである。彼女の秘密が表に現れることはない。内面が解放されて外界の光の中に融解するという甘い錯覚は、厳しく禁じられている。だがそこではじめて可視化されるのは、見えないものをそれでも注視するという行為である。
 デジタルのうえに定着された、見る(あるいは、見えないものに眼差しを注ぐ)という行為、それが「砂の影」の意味である。8mmフィルムが可視領域を逸脱したときノイズが晒されるのだが、そのノイズさえも包容する受け皿としてのデジタルが必要だったのだ。

 こうして「見える」から「見えない」への全階梯そのものが可視化されるとき、観客は覚醒し、あらゆることをその発生状態で感覚することになる。生まれつつあるイメージ、音響、演技……。本来ならばなにもないはずの闇でさえも、ノイズとして感覚化し、この見えるノイズは、たとえば音響と相互作用を起こし続けるだろう。

 俳優達の口から漏れる言葉を、菊池信之は決して表立たないように、しかし極めて繊細にフィルタリングしていく。音響は8mmフィルムの貧弱な磁気テープではなく、デジタル上に作られたものだ。アフターレコーディングで後から重ねられる声は、ただ同時録音のもっともらしさに近づけられるだけではない。俳優の感情表現が勝りすぎるような場合は、それを状況音にまぎれさせて中和し、言葉が説明的に響きすぎる場合は、かつての神代辰巳の映画のように大胆に唇の動きとずらしてみせる。あるいは亡霊の呟きのように、あるいはつんざくノイズのように。スクリーンに映る空間に強く関連付けたり、あるいは関連を弱めたり。これら調整や配慮そのものが聞き取れるように思うのだ。

 真島役を演じる俳優ARATAが、ヒロインを口説く口調の繊細なぶっきらぼうさ。この口調から感覚される、自分を客観視しうる男の聡明さ。俳優ARATAのこの配慮がなければ、ふたりの恋の始まりはひどく不自然な印象になっていたかもしれない。映像、音響、俳優の身体感覚、これらすべてを発生状態において感覚することを『砂の影』は強いるのである。

 『砂の影』は、死につきまとわれた沈痛な作品である。死とは物語上の登場人物の死のことであり、かろうじて余命を生きる8mmという媒体の死の予感のことでもある。しかしここではそれら個体の死よりも深いところでデジタルの「地」がすべてを支えている。その「地」のうえでは、死も、見えないものさえも、充実した姿で発生し続ける。ここにみとめるべきなのは死んだものへの甘美なノスタルジーとは対極の姿勢である。つまり、消えつつあるもの、死んだものさえ、いくらでも可視化し感覚化しうるというしたたかな認識がここにはある。


『砂の影』

監督・脚本:甲斐田祐輔
撮影:たむらまさき
編集:大重裕二
音楽:渡邊琢磨
効果・整音:菊池信之
製作:滝口雍昭、山下暉人
企画・プロデュース:越川道夫
配給:スローラーナー
出演:江口のりこ、ARATA、米村亮太郎、矢吹春奈、鈴木卓爾、足立正生、光石研、山口美也子
公式HP:http://www.sunanokage.com

2008年/日本/76分

2008年2月2日より、ユーロスペースにて公開。

09 Feb 2008

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