欠けるところのない空虚
──オリヴェイラ『夜顔』

森元庸介

言葉の外に現実はない、と教えられてたしかにそうだと思うことはできるし、それを言葉に繰り返すこともできるのだが、その無底のありさまを浮き彫りにして触れうるものとすることができない、と思い知って、いまさらながら己の凡庸さがありありと見えるものになる。本当はそのように思い知ることさえ己の力のなかにはなくて、必要な機会の訪れをひたすら待つのでなければならない。だが、幸いにしてそうした機会はたしかに訪れもする。マノエル・ド・オリヴェイラの『夜顔』はその圧倒的な事例である。

70分の映画であると知ってどこかしら安堵するものがあり、同時に緊張が生まれる。あてもなく名を挙げればプレミンジャーやターナーのある種の作品に接するときのように。だから静かに速やかに始まるのだろうと思うと、冒頭は『繻子の靴』(1985)のように壮麗である。そうして、残りはもう1時間しかないのだ、という意識が働く。偶然の再会があり、ゆえんが問わず語りされ、ごく短かな逃走と追跡が展開される。語るべきことは切り詰められ、さりながら語りは引き延ばされ、しかしまたその語りが持続する時の短さは告知されているから不思議な切迫が心を締めつける。

サスペンスということの骨格標本を見る思いがする。だが、宙づりにされるものはどこにあるのか。追跡を妨げるような秘密は何もない。あのひとは誰か、どこにいるのか、いま何をしているのか。その答えを誰かに問うと、その誰かはいつでも必ず答えを与えてくれるのだから。禁じられたものなどひとつとしてなく、すべてはいつでもひたすら漏れゆくばかりなのだから。それも当然である。馬鹿馬鹿しいほどにただのパリであるパリを背景として語られようとしていることがらは、誰もが知っているはずのある一件の後日譚だというのだから。

そのようにして、また別の不思議な切迫が心を締めつける。男は女に秘密を開示しようとしているのだという。だが、かくまで深さを欠いた探求に値する解答などあるのだろうか。かくまで白々とした経過のあとで暗みを保ちうる秘密などあるのだろうか。つまり、この映画はどう終わるのだろうか。

むろん、わたしたちは、少なくとも形式のうえで、オリヴェイラをたとえばプレミンジャーやターナーから確実に分かつ線をひとつ知っている。かれは随意に映画を終わらせることができる、というそのことである。逆にいうと、オリヴェイラの映画は、終わりを予期しにくい物語を得るとき、とりわけ無上の不確実さを現出させてひとを陶酔に引き入れる。反面で、終わりへ向けた物語が組織されているときに、かえって落ち着きどころを失うようなところがないだろうか。

『夜顔』は明らかに後者の系列にあって、だから、これはどうなるのだろう、というごく単純な問いが糸巻きに巻きつけられる糸のように重ねられてゆく。だが、オリヴェイラはここで、そうした凡庸な問いとはまるで無縁の、まさしく人間の知が意味を失う虚空へ映画そのものを一挙に投げ込むのだった。灯が少しずつ落ち、闇が訪れる。だが、その闇をさえも己の光源とするかのごとき絶対の漆黒。糸巻きが抜き取られたにも関わらず、なお糸ばかりは巻きつけられたその形のまま静止している、そんなさまを目の当たりにするかのごとき真の錯覚の刻限。隠されたものなど本当にはどこにもない、と言葉にすることで隠されてしまうものがまさに「言葉の映画」と呼ぶべき映画によって眼前に広がる。

というようなやりとりを、あるとき友人と交わした。「それにしても」、とつづけて、「本当にそうだったのかということさえ実は確信がもてない、もういちど見たい」とかれはいった。もちろん、いっそう強く同じことを感じ、そう口にした。そのあとに機会がない。ただ、顧みて、果たして再見すべきものであるのか、という疑念が心中を過ぎりもする。そこには何も欠けるものなどないほど何もなかったのではないのか。さらにまた、これがそれの後日譚であるところの一件を見る、見直す、あるいは思い起こす必要があるのか、という不埒な疑念さえ。『夜顔』は、たぶん、それらの結局は偶有的な選択とはまるで無縁の場所に、ひたすら絶対的な作品として己の身を持しているのである。


『夜顔』 BELLE TOUJOURS

監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
製作:セルジュ・ラルー
撮影:サビーヌ・ランスラン
原作者:ジョゼフ・ケッセル
キャスト:ビュル・オジエ、ミッシェル・ピコリ、レオノール・バルダック

2006年/フランス・ポルトガル/70分

12月15日(土)、銀座テアトルシネマにてロードショー

08 Dec 2007
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