涙を流す幽霊
──アルモドバル『ボルベール <帰郷>』

星野 太

 血(縁)、女(性)、家(族)。アルモドバルの映画の基調をなすこれらの要素は、今作においても欠けてはいない。むしろ、盟友カルメン・マウラとペネロペ・クルスの母子関係を軸に、徹底して「男」を排除した家系図を描き出すこの映画は、『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999)や『トーク・トゥー・ハー』(2002)などよりもはるかに過激な仕方で上記の三項(血/女/家)を結びつけているようにすら見える。けれどもそれ以上に、この『ボルベール』は「幽霊」の映画であり「回帰」の映画である。ひと言でそれを「ルヴナン(revenant)」──すなわち、「幽霊」にして「回帰するもの」──の映画、と言い換えてもいい。そもそもこの『ボルベール』というタイトルは第一義的に「帰ること」を意味するスペイン語の動詞にほかならないが、これをアルモドバル自身の故郷でもあるラ・マンチャ地方への「帰郷(volver)」としてのみ理解するとしたら、それはいささか早計に過ぎるだろう。というのもこの『ボルベール』においては、カルメン・マウラ扮する母の「幽霊」の「回帰(volver)」こそがおそらくもっとも重要な主題となっているからだ。確かに今作では、『ハイヒール』(1991)や『私の秘密の花』(1995)でも用いられていた「帰郷」をめぐるエピソードが多数盛り込まれている。だがこの「volver」という言葉の意味の広がりに注目するならば、まず何よりもこの映画を──前作『バッド・エデュケーション』(2004)でも展開されていた──「幽霊=回帰するもの」という主題に接続しないわけにはいかない。

 冒頭、風の吹きすさぶ墓地の場面で予告されているように、この物語は終始「死者」をその導き手として進行していく。故郷ラ・マンチャ地方を訪れたライムンダ(ペネロペ・クルス)は、姉のソーレ(ロラ・ドゥエニャス)、娘パウラ(ヨアンナ・コバ)とともに母の墓参りに来ているのだが、ここに伯母の隣人アグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)が加わることによって、説話上主要な人物のほとんどがこの「墓」の前に集うことになる。このライムンダの母イレーネ(カルメン・マウラ)は、数年前の火事によって夫とともに亡くなったとされている。しかし驚くべきことに、その後ライムンダの姉ソーレは誰もいないはずの伯母の家で母の姿を目撃する。奇妙にも、アグスティナをはじめとするこの村の人々にとって亡くなったはずの死者を目にするのは「よくあること」だというのだが、彼女は母の「幽霊」との遭遇を受け入れることができず、結局それをアグスティナに打ち明けることができない。

 後に明らかになるように、ソーレや村の人々が目撃したイレーネは実のところ──文字通りの意味における──「幽霊」ではなかった。一方ライムンダは、母の「幽霊」の存在すら知ることのないままその後いくつかの重大な出来事に遭遇することになる。まず彼女たち母子の住むマドリッド近郊では、ライムンダの娘パウラが無理矢理関係を迫ってきた義父を包丁で刺殺してしまう。娘から話を聞いたライムンダはひとまず閉店したレストランの冷凍庫に夫の死体を隠すのだが、たまたま近所で撮影をしていた映画クルーに従業員と間違われた彼女は、その後しばらく彼らに昼食を給仕するという約束を取り付けることになる。その間、男の死体は厨房の冷凍庫の中にとどまり続けることになるわけだが、この夫の死体に与えられたステータスとは明らかに「憑依する(haunted)」幽霊としてのそれであり、この死体はその後もひとつの重量感ある──しかし特別な意味をともなって表象されることはない──「もの」として、映画の終盤までこのレストランに「取り憑く(haunted)」ことになるだろう。すべての事が済んだのち、この死体はマドリッドから離れた川のそばに「埋葬」される。事情を知らないソーレは「(彼は)きっと戻るわ」とライムンダを慰めるのだが、終始「場所」に結びつけられたこの男の死体が、いかなる「回帰(volver)」とも無縁なものであることは言うまでもない。

 他方、実際は生者であるイレーネは、同じ幽霊でもこちらはいわば「回帰する(revenant)」幽霊と呼ぶにふさわしい。自身の姉であるパウラ伯母の死後、彼女の家にとどまる理由を失ったイレーネは長女ソーレの家に転がり込むものの、過去の軋轢ゆえに、もうひとりの娘ライムンダに会うことを執拗に避けようとする。結果、ライムンダの娘パウラがレストランに「取り憑く」義父の死体を怖れるのとは対照的に、イレーネはまさしく文字通りの「幽霊=回帰するもの(revenant)」として、ライムンダの前にみずからの痕跡を残していく。それゆえライムンダとイレーネの遭遇は決して速やかに実現されることはなく、その都度ひとつの感覚を通じて幾度となく先延ばしにされることになるだろう。それはライムンダの「舌」によって、すなわち伯母パウラの家で彼女が食べた「ウエハース」によってひそかに始まっている。ひとり暮らしのはずの伯母の家にあった手づくりのウエハースに微かな違和感を抱いたライムンダは、次に「嗅覚」と「聴覚」によってイレーネの存在を感じとる。というのも、ソーレの家を訪れるライムンダはまさしくバスルームでの「オナラ」や微かに聞こえる「笑い声」を通じて、そこに住む母の存在を察知することになるからだ。この点において、彼女たちのすれ違いにも似た遭遇は、いきなり視覚的に母親の「幽霊」と遭遇してしまったソーレのそれとは対照的であると言えるだろう。

 「味覚」に訴えることによって始まったこの「幽霊」の回帰は、最終的にはふたりの直接的な対面によって解決をみる。つまり見ることと触れること、「視覚」と「触覚」というふたつの感覚を通じた母との接触が実現されることによって、ライムンダは母が「生者」であることを確信するにいたるのだ。その時はじめてイレーネはライムンダにとって生者に「なる」。映画は、死者と生者を存在論的に区別することができない。だからこそ、映画において死者が生者になるにはある「復活」の契機が必要となる(あるいは逆に、たったひとつの切り返しによって生者が死者へと見事に転換しうるという事実は、ジャック・リヴェットの『Mの物語』[2003]が示す通りだ)。

 ライムンダは味覚や嗅覚といったあらゆる感覚を動員しつつ、長い迂回を経ることで母の存在を諒解するにいたる。しかし、彼女が本来の意味で生者に「なる」には、さらにいくつかの段階を経なくてはならない。本当に幽霊じゃないの、と問うライムンダに対して、イレーネは夫婦の死の原因となった火事の真相を語りだす。この時点で、彼女が死者ではないことはナラティヴな次元において証明される。しかしここで「ライムンダに赦されるために戻った」というイレーネと、かつて「妻との約束を果たすために戻った」アグスティナの祖父の幽霊とのあいだには、一体どれほどの差異があるというのだろうか。「たとえ死んでいたとしても」ライムンダのもとへ戻っただろう、と語るイレーネは、そのような意味で実のところ本物の幽霊──すなわち「回帰する死者」──といささかも異なってはいない。娘との和解ののち、イレーネは末期癌に冒されたアグスティナの家を訪れ、ひとりヴィスコンティの『ベリッシマ』(1951)に視線を注ぐ。そして、彼女の本当の「復活」はその後、ライムンダの来訪の直後に実現することになるのだ。

 深夜、伯母の家からイレーネがいなくなっていることに気づいたライムンダは、母を追ってアグスティナの家を訪れる。ここで、ライムンダが母のもとを「訪れる」という事実は決定的に重要である。というのも生者である娘によって「来訪」されるイレーネを、もはや「幽霊=回帰するもの(revenant)」と呼ぶことはできないからだ。幾度となく先延ばしにされた出会いののち、ここでやっとイレーネは来訪されるべき生者としてのステータスを獲得することになる。だが、短い対話の名残を惜しむライムンダを前にして涙を堪えきれないイレーネは、いささか性急に家の扉を閉め、娘を家に帰そうとする。ここで注目すべきは、そのさい彼女がライムンダに発する「幽霊は涙を流さない」という行為遂行的な言葉である。というのもまさにその直後、ライムンダと別れアグスティナの部屋へと戻っていく彼女が見せるのは「涙」にほかならないからだ。「幽霊は涙を流さない」のだとすれば、まさに彼女はその瞬間、みずからが幽霊では「ない」ということを自身の言葉によってまざまざと示しているではないか。

 もちろんこの言葉じたいは、娘に自分の涙を見せたくないというごく素朴な感情に由来するものであり、彼女が暗い画面の中で見せる涙は不随意に零れ落ちたものにほかならない。しかし、「生者/死者」を区別する絶対的な尺度が映画という視聴覚的なメディアに欠けている以上、それを決定づけるのはひとり彼女の行為遂行的な言葉のみである。忘れてはならないが、これに先立つ火事の真相についての告白は、イレーネが実は火事で死んでいなかったという事実を述べたものにすぎない。むしろ、「たとえ死んでいたとしても」ライムンダのもとへ戻っただろうというその言明は、いまだイレーネを「回帰する死者」の側にとどまらせるものであったとすら言えるのだ。

 「涙」こそがイレーネの「生/死」を決定づける表徴であるとすれば、ここでライムンダの眼前に現れる前、彼女がすでに一度涙を流しているという事実を思い出さないわけにはいかない。言うまでもなくそれは、ライムンダが歌う「ボルベール」を、レストランの外で聴いている時のことだ。すでにのべたように、イレーネが「幽霊」でなくなるためには彼女自身の行為遂行的な言葉が不可欠であり、そこで「涙」が流されるだけではいまだ十分ではない。だが冒頭で触れたような「volver」という言葉の二重性──「帰郷/回帰」──に注目したとき、ライムンダによって歌われるこの曲がレストランの外にいる母の「幽霊」に差し向けられていることは明らかである。生者の「帰郷」と、死者の「回帰」。明らかにアルモドバルは、このふたつの異なる「ボルベール」をペネロペ・クルスのあの感動的な場面に託しているのだが、「幽霊は涙を流さない」というイレーネの言葉は、この「ボルベール」という曲こそが自身を生者として「回帰」(volver)させるひそかな契機となっていたことを、事後的に、しかしきわめて効果的な仕方でわれわれに示しているのである。


『ボルベール <帰郷>』 Volver

監督・脚本:ペドロ・アルモドバル
製作総指揮:アグスティン・アルモドバル
撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ
編集:ホセ・サルセド
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ペネロペ・クルス、カルメン・マウラ、ロラ・ドゥエニャス、ヨアンナ・コバ、ブランカ・ポルティージョ

2006年/スペイン/120分

絶賛公開中

07 Aug 2007
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