「私」のなかにいるリンチ
──リンチ『インランド・エンパイア』

三宅 唱

 デイヴィッド・リンチの最新作『インランド・エンパイア』は、前作『マルホランド・ドライブ』(2001)とほぼ同様「A WOMAN IN TROBLE」の物語でありながら、あの混乱よりもさらに飛躍や断絶に満ち、これまで以上に饒舌なサウンドトラックに支配された映画になっている。映画は、「劇中の不倫と現実の不倫を混同していく女優」の物語を前半に据え、その混同が頂点に達するスタジオ内セットを折り返し地点に、出鱈目さと唐突さで勢いよく後半に突入する。赤いランプの爆発音と雷鳴に導かれた肌も露な娼婦たちの出現を皮切りに、家庭内暴力に怯える女の相談シーンに導かれながら、スタジオ内セットを通路として雪のポーランドや夜のハリウッドをあべこべに行き来する。そうした一切の展開を、ひとり暗い室内で泣きながらテレビをみている女性が一気に我が身に引き受ける。これはそういう「トラブル」を扱った映画である。
 オムニバス的あるいはMTV的愉しみを提供する本作は、『ブルー・ベルベット』(1986)以来旧知の仲であるローラ・ダーンを主演・共同製作に迎え、アイデアが浮かぶに任せて断片的なシノプシスを書き、その度に自らデジタルヴィデオカメラで撮影していくというスタイルで制作された。そこでひとまず、これはリンチの「自主映画」であるという言い方ができるだろう(とはいっても、日本の若い学生のそれとはまったく別次元での「自由さ」に保証されているのだが)。ほとんどすべてのシーンが、どれほど抽象的なイメージの舞台へと還元されたものであろうと、撮影条件としては極めて具体的な場所・アングルに限定されていることや、前作に引き続きリンチにとって身近な業界が舞台であり、女優が「女優」役を演じていることなども、本作の「自主映画」的な側面を強めている。

 リンチは、約4年の間この作業に没頭しうる「恵まれた作家」としてのポジションで、ロサンゼルスとポーランドを行き来しながら、機動性に富みかつ安価なデジタルヴィデオカメラで撮影を行うことを選択したが、そうしたある種の「贅沢さ」と引き換えに、階調性豊かな──波打つブルー・ベルベットの手触りのような──照明設計や、「リンチ・ブラック」とも称される黒の表現に色濃い端正な色彩設計、あるいは過剰にデフォルメされた幾多の装飾が本作では失われている。こうした画面の「貧相さ」は近作と比較せずとも一見してわかる。その一方で、「またか!」とつい言ってしまうのだが(それは興奮だろうか失望だろうか)、本作はリンチ的クリシェのオンパレードであり、そこには一切の躊躇いもない。必然性を問う間もなく通り過ぎていく片足の少女や、真っ赤な電球を口に啣えて突進してくる隣人、隙をみてとりあえず登場する兎人間たちといった特有のフリークス趣味。「ハダカ女」に「泣き女」といったリンチ好みの女性たち。あるいは「布にタバコで開けた穴/時計/目」をフェードさせる画面のように、モチーフとしての円輪が頻出していることや(例えばシーン頭に多い)、どれほど錯綜しどんなに闇の奥まで進んでも再び同じ場所に行きついてしまう「メビウスの環」のような説話構造が生じていることも指摘できるだろう。回転するレコードの溝を鉄製の針が轟音ノイズで削っていく白黒の画面は、『ロスト・ハイウェイ』(1997)のあの飛び跳ねるようなセンターラインを捉えた画面のごとく数度反復され、ローラ・ダーンが目にする「AXX°N」という落書きは、『マルホランド・ドライブ』の謎のブルーボックスのごとく機能している。敢えてさらに挙げてしまうと、役者たちはジョン・メリック(『エレファント・マン』[1980])や呼吸不全のギャング(『ブルー・ベルベット』)の血を受け継いで、まるで呼吸をとめているかのような不動のリアクションを芝居の軸に据える。そうした「呼吸の剥奪」はラストのパーティーまで貫徹し、轟音の中あたりにささやき声を拡散させる。そして画面もまた、いつにもまして徹底して「寄り」で構成される。主人公は当然、金髪女と黒髪女だ。要するに、出し惜しみなく「またか!」の連続であり、リンチはここに4年と3時間をかけた。

 繊細なライティングやデコールが剥ぎ取られ、一貫した筋すら予定されぬまま撮影されたという、この稚気に満ちた「自主映画」。「贅沢さ」によって「無駄」をそぎ落とされた末の映像群が、いまだ「映画」としての骨格を保っているのは、ひとつひとつのシーンの演出に依っている。紆余曲折する3時間を構成している様々な「素材」それ自体は、それらが断片的に撮影された状況に由来するように、ひとつひとつ独立してコントロールされている。それぞれのシーンに、他のシーンとは無関係なままに要約的な仮題(と内容)を名付けることができるほどである。例えば、「報われないリハーサルの成功(突然後ろで人の気配がして中断する)」、「昼から庭でバーベキュー(すると赤の他人が大勢自宅から出てくる)」、「不倫セックス(どうやら互いの昨日の記憶がまったく合わない)」、「女の腹にドライバー(変人たちに挟まれて路上で野垂れ死ぬ)」、「勝手にパーティー(みんな集まりとにかく歌って踊る!)」等と。
 さて、リンチはこの各々のシーンをいかに演出するのか。例えば、冒頭のシーン「ある訪問者」の内容はこうだ──痩身で小柄な老婦人が豪華な住宅街の路地を歩いてくる。老婦人はとある家へ向かう。屋敷然とした調度品が配されたロビーで執事が迎え入れる。ローラ・ダーンが部屋の奥から現れる。ふたりは挨拶もそこそこに居間へ移動し、テーブルを挟んで向かい合わせに座る。執事がコーヒーを運んでくる。東欧訛りだろうか不気味なイントネーションをもつ老婦人は、予言と寓話に満ちた不可解な話を勝手に進めていく。ローラは無言のまま動かない。ふと老婦人が指さす方向をローラがみると、そこにはなぜか、老婆の予言通り「明日の私」がソファでくつろいでいる。
 このシーンの前半では、まず老婦人が街路を歩く流れの中で、老婦人の見た目ショット(以下、POV[Point of Viewの略])らしき画面がやや右にパンしてある屋敷を捉える。同様に、ローラがおそるおそるロビーに現れる流れでもローラのPOVらしきショットが、玄関に老婦人の姿をみとめる。厚化粧のローラの顔のショットを挟んだのち、再びそのPOVらしきショットになるのだが、ここで左からローラが入ってくる。決して新しくもないがこの視点処理が、後半の会話のやりとりでは、まず窓側に老婦人を、壁側のランプシェードの下にローラを配置する。手持ちカメラと固定カメラで捉えた単純なショット/リバースショットを、両者の発話のタイミングに合わせてごくシンプルに切り返していく。広角レンズの手持ちカメラは徐々に対象に接近し、さらに歪に丸くなっていく老婆の顔。やや斜め下から固定で捉えられた、ほぼ無言のままただ静止しているローラ(恐らく実際に、しばし息を止めさせている)。口を開ける少し前ではじめ口を閉じた少しあとでカットすることで、両者の呼吸の瞬間を捉えると同時に、すれ違いらしき沈黙の瞬間を作り出していく。老婦人の話がよどみなくエスカレートするにつれ、無言のローラのショットを合間に挿入し編集のリズムを崩していく。「あそこをごらんなさい!」老婦人が指す方へローラが首を向けたとき、これまでじっと彼女を捉えていたカメラは、テーブルの手前から奥へと(いわゆるイマジナリ—ラインを超えて)真逆の位置に移動する。馬鹿正直に口を半開きにして「驚く」を演じるローラの背景は、のっぺりとした白い壁から、遠くに窓を配した奥行きある空間に変わる。シーン「ある訪問者」を決定づける、この移動後のローラを捉えるショットが再び映画の終盤に現われることからしても、(カメラ位置についての)演出がこの一点に賭けられているといっていいだろう。リンチは「なんの変哲もない我が家の日常に、不意にやってくる謎の訪問者」という、この映画の出だしに位置するシーンを演出するにあたって、ごくごく簡単なショット、基本的な画面連鎖の技法を用い、それらを次第にズラしていくことであのリンチらしい磁場をつくりだしていく。終始、こうしたごく簡素なやりかたで、ごく簡単な短いシーンを構成しているだろう。例えばこのワンショットの切り返しは、映画の後半のひとつの中心であるシーン「人生相談(夫の家庭内暴力を訴えるが、眼鏡のデブ男は一切反応してくれない)」でも採用される。昼間にしてはあまりに暗すぎる廊下をローラがおそるおそる進むときには、手持ちで揺れ動きながら前進するPOVをときおり挿みながら、観客の視線を誘導していく。ところで、そうしたすべての事柄は、何に奉仕しているのだろうか?

 リンチにとって、「世界」とはただひとつしかない。たとえハリウッド/ポーランドというふたつの世界を導入しようと、そのどちらにも出てくる娼婦たちや夜の路上にまったくといっていいほど区別がないように。あるいは、まったく別の世界にいたはずのふたりの女が巡り会うとき、一方が他方の腕の中で回収されてしまうように。リンチ本人が肯定の身振りでしばし強調するように、彼は、彼の中にうまれたアイデアのためだけに映画を撮っている。要するに、「私」にしか興味がないのである。ありとあらゆるアイデアは「私」の中でうまれ、すべての撮影はこの一点に収斂していくのだ。
 徹底的に「寄り」でみせていく本作にあって、そのほぼ9割のシーンに出てくるローラ・ダーンの「寄り」。だからといって、そこに「身体性」と名指しできるような役者の肉体の生々しさがあるわけではない。化粧の濃いローラ、髪もぼさぼさなタンクトップ姿のローラ、口元に痛々しいアザのあるローラ……。実際の加齢も無視して脈絡なく様々なキャラクター演じきっていくローラ・ダーンは、しかし虚しくなるほど希薄である。リンチの「寄り」は、その役者の身体に引き寄せられるようにして出現する「寄り」ではなく、自らの接近行為そのものとしての「寄り」である。POVによって導かれる観客の視線は、その対象にではなくむしろリンチの視線へと「寄る」。
 リンチは「私」の中に留まり続ける。そこでは、ふたりの女の邂逅の行方をなぞるかのように、リンチと映画が一致する。リンチによるリンチのための映画。作者と映画が一致し、さらにそこに、観客の視線までが同一化されていくこのプロセスを経て、ここにきて本作のタイトルが一種恥ずかしいものとして浮上し、リンチを象徴するだろう。ペドロ・コスタが言うように、リンチは「自分自身の小さな問題にしか興味がな」く、「結局自分と自身のファンタズムだけしか扱っていない」[*1]。本作は、彼なりの「贅沢さ」によって達成されてきた「私」についての映画群の極点に位置する。

 さて最後に、リンチ映画と<現実>の関係、リンチと私たちの関係について触れなければならない。この関係は、デイヴィッド・リンチその人からは遠く離れた地点に始まる。リンチのあらゆる趣味や執着、それらの継続した実践を前にして、私たちは自らを相対化して彼とは別世界の人間であることを安心して納得し、それなりに興奮し、しばし謎解きに熱中になる。肯定も否定も明らかにはせず、やりすごすこともできるだろう。その後リンチのことなどさっぱり忘れたある日、さて「自分」は何をすべきかと問いを立てる。自分の切実さを整理すべく過去に直面し、今後どうすべきかと新しさを模索する。身近で安価なデジタルヴィデオカメラを手にし、好きな映画から学んだごく基本的な技法を駆使しながらある日やっとのことで映画を完成させ、ことによっては幸か不幸か個性的だとか新しいなどと賞賛され、再び自らに期待するように次にとりかかる。誰しもがこのように<独創的に>映画を撮ることができるし、あるいはそんな事態を夢想することもあるだろう。そんな何の変哲もないある日、嘘のようなタイミングでチャイムがなるのだ。老婦人だか、置き去りにされたビデオテープだかは知らないが、それはもう目の前まできている。彼女の指さす方向には、ビデオテープの中には、「私」がいる。
 これが問題以外の何だろうか。リンチにならってトラブルと呼んでもいい。いや、自分は何をすべきか、という無茶とはいえ必然的でもある問いかけをしたその時から、トラブルは始まっている。普段ならばわざわざ気にする必要のない自分の中の何かが、「対話者」として自らに対峙しはじめる。無論、彼はまるでリンチ的人物たちのようにじっと動かず、無言のまま何も答えてくれはしない。腹を刺しても死なず、逃げ切ることもできない。無言の対話者「リンチ」の幻は、ちっぽけな自分のファンタズムから本当に切実なものまで悉く相対化しすべての根拠を宙づりにしながら、なんとも醜く脆弱な「私」に影を重ねてくるだろう。そして、期待の地平、あざとさ、贅沢さ、個性、それらすべてに対する相克を麻痺させてくる。

 「あるひとりの人物がまずはふたりの人物のイメージによって構成される」というリンチ映画の骨格が、自らに向き合った瞬間から私の中で組織しはじめること。どうどう巡りするリンチの話法そのものが、私と「リンチ」の関係を語り出すこと。『インランド・エンパイア』を筆頭にする「私」についてのリンチ映画が、ある瞬間から創作行為を裏からなぞりはじめる。どれほど「リンチは別世界の人間である」と悪態をつこうとも、私たちが自らに根拠を持つ限り、私の中では「リンチ」の幻影がじっとりと横たわっている。ともすると幻影はそのまま「私」を回収し、私は「リンチ」になってしまう。ほとほと倦怠を感じるが、このデイヴィッド・リンチにして破局的な一点に抗するには、どうやらときには「リンチ」と向き合っていかねばならないらしい。脱力しながらも、そう覚悟できるかどうか、それがリンチと私たちの関係を決定づける。



[脚注]
*1.
『ペドロ・コスタ 遠い部屋からの声』せんだいメディアテーク, 2007年, 33頁.

『インランド・エンパイア』 Inland empire

監督・脚本・撮影・編集:デイヴィッド・リンチ
製作:メアリー・スウィーニー、デイヴィッド・リンチ
共同製作:ローラ・ダーン、ジュレミー・アルター
出演:ローラ・ダーン、ジュレミー・アイアンズ、ジャスティン・セロー、ハリー・ディーン・スタントン、カロリーナ・グルシカ

2006年/アメリカ/180分

7月21日より恵比寿ガーデンシネマほか全国順次ロードショー

27 Jul 2007
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