ただよう視線、ねじれる時間──西山洋市『INAZUMA 稲妻』

film ]  西山洋市
葛生 賢

 『INAZUMA 稲妻』は、西山洋市が2005年に撮った30分の短編である。ここでまず戸惑うのは、この作品のタイトルだろう。なぜ『INAZUMA』でも『稲妻』でもなく、『INAZUMA 稲妻』なのか(さらにややこしいことに、その前年、この映画作家は『稲妻ルーシー』という長編を撮っている)。この作品の冒頭に黒地に白い文字で交互に浮かんでは消える「INAZUMA」と「稲妻」のふたつの言葉を眺めながら、見るものはぼんやりとそんなことを考える。だが、のちに見るように、この二重性は作品全体を貫く構造と関わっている。


 鬱蒼とした森に囲まれたどこか古い寺院の柱にカラフルな衣装を身につけた女が縄で縛りつけられている。傍には彼女を見下ろすように、もうひとりの女が短刀を手に立っている。縛られた女は人質らしい。立っている女は、彼女を助けに来るべき男はすでに殺してしまったと人質の女に伝える。しかしその言葉とは裏腹に、彼女の立ち姿からは微塵も気をゆるめる様子は感じられない。突如、人質の女が鳥の鳴声を模し、その声があたりに響き渡る。と同時に、ふたりを外部の視線から覆い隠していた簾が音を立てて崩れ落ち、刀を手にした男が現れる。不意の攻撃に身構える女。その時、照準線のような十字がいきなり画面を水平垂直に分割する。ふたりの立ち回りが始まり、構えた刀を男が女めがけて大きく降り下ろす。一瞬、しまったという男の顔。画面からは十字の線が消え、落下する簾の陰から頬を押さえた女の顔が現れる。鮮血に塗れた頬に刻まれた大きな刀傷。まるで画面に刻まれた禍々しい悪意のような十字の線が彼女の顔に転写したかのようだ。ぎこちないズームが彼女の顔をクロースアップでとらえる。画面には再び十字の線。そこへオフで「血だ」「ホントに斬れている」といったような声が被さる。そうだ、これは映画内映画の撮影風景であり、この十字の線はそれを示すための記号だったのだ。そう納得して、冒頭からここまで「事件」をただ傍観するままでいた観客は、とりあえずほっと一息つく。だが物語はまだ始まったばかりだ。

 このシーンの直後に「金曜ニューウェーヴ時代劇 デジャヴ街道」と書かれ、刀を構えた男の姿をあしらったポスターのショットが挿入されることから、さきの「事件」が起きたのが、このテレビ時代劇の撮影中であり、3人の人物はその出演者、オフの声はその撮影隊ということになる。先回りして言えば、斬った男は加嶋(松蔭浩之)、斬られた女はセリ(宮田亜紀)、縛られていた女は千華(西山朱子)と呼ばれ、加嶋と千華は実の夫婦である。セリを斬った刀は、真剣であり、竹光を使うことが慣例である時代劇の撮影においては、これは異例の事態である。女優の命である顔に大きな傷をつけられたセリは「仕返し」を誓う。しかし彼女によって口にされた「仕返し」とは何を意味するのだろう。加嶋の顔にも大きな傷をつけて、俳優としての命を損なうことだろうか。おそらくこの時点では彼女も漠然とそう考えていたに違いない。しかし物語が進むにつれて、この意図は大きく逸脱していく。

 撮影休日なのだろう、セリはストーブを焚いた自室で洗濯物を干している。彼女の背後のテレビでは、冒頭で見たシーンが放送されている。それに対して彼女は関心を示している様子はなく、黙々と洗濯物を干す作業を続けるのだが、「ほうい」という加嶋の掛声が画面外から聞こえてくるや、初めて彼女は視線をテレビに向け、彼女の見た目ショット(以下、POV[Point of Viewの略])で、ちょうど加嶋がセリに斬り掛かる直前のショットがテレビ画面に提示される。キャメラはすぐにPOVから彼女の背中ごしに小さくテレビを捉えたショットに切り替わり、テレビ画面内ではセリが加嶋に斬りつけられる。手に抱えた洗濯物が落ちる短いアップ、テレビを食い入るように見る彼女のアップがそれに続き、そのまま彼女は気を失って画面下方にフレームアウトする。ここでセリが意識を失って倒れたのは、撮影中に加嶋に斬りつけられた記憶が生々しく甦ってきたという心理的な理由からではなく、文字通りテレビ画面内の加嶋がテレビ画面の外にいるセリを「斬りつけた」からである。もちろんそんなことは、この作品が超常現象を扱うホラーやSFでない以上ありえないし、この瞬間、彼女の頬から血が吹き出るわけでもない。にもかかわらず、そこで耳にする音響、そしてあのセリが斬りつけられた瞬間を想起させるような編集によって、やはりこの瞬間、彼女がテレビの中の加嶋に斬りつけられるのを、私たちはまざまざと「目撃」してしまうのだ。そのことはこれに続くシーンの奇妙な細部によっても確認することができる。

 ストーブの上に落ちた洗濯物が原因で彼女の部屋はボヤをおこす。そこに消防士の正留(布川恵太)が消火活動に現れ、彼女は一命を取り留めるのだが、目を覚ました彼女が枕元の鏡を覗くとその頬にはガーゼが当てられている。それを剥がした彼女が、傍のソファで眠りこけていた正留を叩き起こすと、「あっ傷がある」という寝ぼけた反応が返ってくることから、この時、彼は初めてセリの傷に気づいたことになる。とすると、省略された時間の間に、画面には登場しない別の誰かが彼女の傷の手当てをしたのだろうか。いずれにせよ、その誰かは彼女の刀傷のあまりの生々しさに、それがまだ間もないものだと勘違いしてしまったのだろう。しかし気を失う直前の彼女の頬にはガーゼが当てられていなかったのだから、大きな傷痕を残しつつも、その傷口はすでに塞がっていたはずなのだ。

 このシーンの後に、床に倒れて手を伸ばすセリを加嶋が斬ろうとするシーンが短く挿入され(この場面全体は緑がかった色調で撮影されており、他に比べてやや異様な──あえて言えばホラー的な──印象を与える)、続いて加嶋が千華の待つ家庭に帰宅するシーンとなる。ここで加嶋の頬にもセリのような大きな刀傷がついているのだが、これは偽の傷であり、千華が笑顔でそれを剥がす。つまり加嶋はつい先ほどまで撮影をしていたのであり、先の色調の変わったシーンはそこで撮影されていた場面なのだろう。加嶋と千華、あるいはセリと正留が自宅で会話をするこうしたシーンはこの後も何度か繰り返されるので、ここでこの映画の時間的な枠組みの基本構造を確認しておきたい。この物語世界内の時間は、出来事が展開される空間を基準に考えると、大きく分けて次の3つである。

a)「撮影現場の時間」(本番中の時間の他にその前後も含む)
b)「家庭の時間」(自宅やその周辺で登場人物が過ごす時間)
c)「テレビの時間」(テレビ番組自体が含んでいる時間)

私たちは以後、「撮影現場の時間」において、加嶋に対するセリの「仕返し」がどのように展開し、さらに逸脱するかを目にし、その効果が「家庭の時間」にどのように波及するかを見ていくことになるだろう。また「撮影現場の時間」で見たシーンの反復を、「家庭の時間」の中に嵌め込まれた「テレビの時間」として見ることになる。生中継でない以上、テレビドラマの撮影と放送の間には時間的な隔たりがあるはずだから、物語世界内に流れる時間において、私たちは「撮影現場の時間」で見たものを、「数日後」、あるいは「数週間後」に「テレビの時間」として見ることになる。この映画では、原則として時間軸にそって直線的に物語が語られる。したがってこれら3つの時間の間の関係は原則として維持される。しかし登場人物たちのエモーションの昂りにつれて、この3つの時間の関係がいつの間にかねじれていくところにこの作品の面白さがあると思われる。

 さて「家庭の時間」から「撮影現場の時間」に私たちは引き戻される。森の中で加嶋とセリが対峙し、すでに深手を負った加嶋はガクッと膝をつく。次のショットでは、ふたりは同軸上のさらにロングから捉えられ、加嶋が膝をつくアクションがダブる(ここでわずかに時間がズレたような印象が与えられる)。このショットで画面に再び十字が現れる。ここで見るものは不吉な予感とともにある種の期待をもって事態を見守る。というのも、すでにセリの口から「仕返し」の一語が呟かれているし、例の十字は「撮影中」を指し示す記号であるとともに、いやおうなくあの「事故」の記憶を呼び起こすからだ。セリの短刀が加嶋の身体に突き刺さるとともに十字が消える。やはりこの記号は犠牲者の血を求めているのだ。この行為にある種、性的な興奮を感じているかのようなセリの昂りは、フレーム内に無遠慮に入り込んだ撮影隊のマイクによって中断される。それを睨みつける彼女の鋭いまなざし。彼ら「撮影隊」は、撮影現場という公的な空間の只中で、セリが加嶋とともに産み出そうとする私的な空間(それゆえ彼らの「演技」は必然的に公的であると同時に私的であるという二重性を帯びてくる)に絶えず邪魔者として介入し、彼らの情動の昂りが頂点に達するのを永遠に引き延ばす。しかし「いまここで」何が起きているのかについて無頓着である彼らは、自分たちが「邪魔者」であることには気づいていない。そして加嶋とセリの関係は、衆人監視の中でそれと悟られることなく密やかな愛の行為を遂行し、スリルを味わおうとする恋人たちの遊戯に酷似してくる。とはいえ、加嶋もまだこの時点では、自分たちの「演技」の二重性にはっきりと気づいているわけではない。彼がそれに気づくのはもう少し後である。

 再び「家庭の時間」。西部劇のガンマンきどりで、消火スプレーを腰のフォルダーにさした正留がセリのところにやってくる。セリはじっとテレビ画面を見ていて彼には目もくれない。テレビから「アンタの名前を教えてよ」というセリの声が聞こえ、正留はここで初めて自分の名前を告げる。それに対してセリは「違う、加嶋に聞いたの」と返答する。ここで正留が勘違いして自分の名前を告げたのは、単にテレビによって再生された音声がリアルだったからではない。セリがテレビ画面内の加嶋に斬りつけられたように、正留もまたテレビ画面内のセリに呼び掛けられたのだ。(「テレビの時間」の「家庭の時間」への侵入)。しかしまだこの時点では、この映画は自らの論理を隠しており、正留の受け答えも常識的な論理に回収できるようなアリバイが用意されている。しかしこの見かけに騙されないようにしよう。ここでの画面連鎖は、「正留のB.S.(=バスト・ショット)」→「テレビ画面内のセリのB.S.(「アンタの名前を教えてよ」)」→「正留のB.S.(「ハイ、正留と言います」)→「セリのB.S.(「加嶋に聞いたの」)」→「正留のB.S.(テレビを見る)」→「テレビ」というようになっている。まずここで指摘したいのは、「テレビ画面内のセリ」と「(本物の)セリ」がほぼ同じフレームサイズに収まっていることである。これによって、最初の「正留のB.S.」→「テレビ画面内のセリのB.S.」→「正留のB.S.」という3つの画面がスムースな切り返しであるかのように編集されている(しかもテレビ画面内のセリの視線が左、つまり正留のいる方向に向いているため、この印象はさらに強まる)。この「テレビ画面内のセリのB.S.」は、ほぼセリのいる位置から撮られ、セリのPOVと考えることができる。さらに興味深いのは、最後の「正留のB.S.」→「テレビ」という連鎖の最後に登場する「テレビ」がセリのPOVの位置から撮られていることだ。つまり画面連鎖の上では正留は「テレビ」を見ているが、実際に画面に登場する「テレビ」はセリのPOVなのだ。

 ここで注目したいのは、正留の「ハイ、正留と言います」という答えに対するセリの返答である。「違う、加嶋に聞いたの」という彼女の発言は単に正留の間違いを訂正しているだけでなく、加嶋とセリの関係に割り込んでこようとする正留を予め排除しようとしているようだ。テレビ画面を注視するセリは正留には目もくれない。そしてまた加嶋とセリとの間の出来事が映し出されているはずのテレビ画面を見つめることを、この映画は正留に許していない。さらに奇妙なことに、その時、テレビには先に「異様な印象を与える」と形容した色調の場面(加嶋が床に倒れたセリを斬りつけようとする場面)が映っているはずなのだが、画面連鎖からは周到に加嶋の姿は排除されていて、私たちがテレビ画面内で目にするのはもっぱらセリだけである。つまり、セリはテレビ画面内の加嶋を見て復讐の念を燃やしているのではなく、自分の分身をひたすら見つめているのだ。これはかつてのテレビに対するセリの無関心と極めて対照的である。あの時、テレビ画面内の加嶋に斬りつけられることによって、セリの最深部にあった欲望に火が点いてしまったのだ。そして今や彼女ははっきりとその欲望を自覚している。おそらく彼女はテレビに映った切り傷だらけの自分の分身を見ながら情慾をたぎらせているのだろう(彼女の「たまに火照るの。傷跡が」という台詞はそのように理解すべきだ)。したがってこの後に正留とセリの間で交わされる問答は実はそれほど重要性を持たない。そこでは、加嶋がつけた刀傷が彼女の容姿を損なったために、彼女が復讐の決意を新たにするかのように論理が展開するのだが、彼女がそこで口にする「仕返し」とは、彼女が以前それを口にした時とはもはや大きく意味を異にしている。「仕返し」とは、これから加嶋とセリの間に推移する事態を正確に名指す言葉が見当たらないために、とりあえずつけられた名前に過ぎないのだ。そしてまず、その「予告」として壁に貼られたポスターの加嶋の顔にセリはマジックで大きく刀傷を書き入れる。

 さて、カットが掛かったばかりの撮影現場では、次の撮影までの間、加嶋が一息入れようとしている。土蔵の壁を背に気を抜いた様子で立っている彼を捉えた画面にはなぜか十字の線が刻まれる。何かの間違いだろうか、「撮影中」でもないのに。そう訝りながらふと私たちは不安をおぼえる。これは、『グロヅカ』(2005)に登場する、撮影者不在のまま惨劇を記録し続けるキャメラの非人称的なまなざしが持つ不気味さと同質のものである。そのため十字のついた画面が、歩き始めた加嶋の動きをフォローして移動を始めると、私たちはキャメラの背後に人為を感じてほっとひと安心する。しかしその油断を見越したかのように、土蔵の陰から突如としてセリが現われ、加嶋を斬りつける。鈍い音とともに彼の額から血が滴る。と同時に十字が消える。再び刀傷に転写される十字。ここから物語は新たな局面に入っていく。セリの手にしていたのは本物の短刀、一方、加嶋の手にしているのは竹光である。彼はあの「事故」の後、真剣を使うのを止めたのだ。ここでセリから投げかけられる問い、「真剣じゃないの?」は、あなたは真剣を使わないの、という意味であると同時に、もっと真剣になりなさい、という呼びかけでもある。真剣になりなさい、とはもちろん、もっと私を傷つけなさい、という誘いである。日常的な論理からすれば、セリが短刀で加嶋の額に切り傷をつけた時点で「仕返し」は終了したはずだ。しかし彼女の欲望はもはやそれでは満足しない。セリは刀傷を媒介とした、さらに高い、あるいは深い次元の関係を加嶋に求めているのだ。そして実はそれを先に求めていたのは加嶋の無意識の欲望である。「事故じゃないでしょ」「傷付けるために真剣使ってたんでしょ?」と加嶋に畳み掛けるセリの問いかけは、だから真相を突いている。この問いによって自らの欲望の存在にあらためて気づいてしまった加嶋も後戻りできない。「また俺はお前を傷つけていいんだな」と血だらけの加嶋がセリの耳元で念を押すショットは、見かけの陰惨さとは裏腹に、ついに自分の欲望を充分に叶えてくれる運命のパートナーに巡り合ったかのような幸福感に包まれている。そんな加嶋に一瞥もせずに背を向けて無言で立ち去るセリも、歓喜が顔中に広がってしまうのを懸命に抑えているだけなのだ。

 この後、セリと正留、加嶋と千華、それぞれの「家庭の時間」を挟んで、再びセリと加嶋は「撮影現場の時間」に戻る。ここでセリを捉える画面には十字が入るのだが、すでにセリが加嶋に傷を負わせたシーンで、十字は単に「撮影中」を示すだけの記号であることを止めている。かろうじてこの直前のショットで、カチンと音をたてて動く大きなカチンコの影が土蔵の壁に見えるので、私たちはそれが「撮影中」を示すものと納得しつつも、なお確信が持てないままだ。奇妙なのは、このカチンコのショットから始まる、4つのシーンにまたがる画面連鎖である。とりあえず便宜上、これらのシーンをそれぞれA、B、C、Dと呼ぶことにする。すなわち、

A = 土蔵の前でセリと加嶋が対峙しているシーン
B = 千華が自宅でテレビを見ているシーン
C = セリが加嶋の背中に刀傷をつけるシーン
D = 千華が加嶋をマッサージするシーン

である。Aの最後のショットでセリがフレーム外の加嶋に「素敵」と言うやいなや、画面は、Bのテレビを見ている千華のショットに替わり、それに続いて千華のアップ、テレビ画面のショットとなる。そしてそのテレビ画面内のセリと加嶋の芝居の続きがCとして始まる。このC→Dの関係についてはのちに述べる。ここではA→B→Cの関係について考えよう。さてAはカチンコ、十字、ふたりの衣装などの画面内の要素から「撮影現場の時間」に属していると考えられる(ただし最後のショットから十字が消えたことはある曖昧さを残す。言い換えればA→Bの移行を可能にしている要素のひとつに、この十字の不在がある)。しかしその直後にBのテレビを見ている千華のショットが続き、彼女が「このふたりは、何のために闘っているのかしら」という台詞を口にすることから、テレビ画面に千華が見ているのがまさしくAの最後のショットであるかのような印象が生じる。しかもそこでセリは画面左を見ており、一方、千華は画面右を見ているために、AからBへの時間的・空間的な連続性の印象はさらに強化される。だがすでに述べたように、生中継でない以上、テレビドラマの撮影と放送の間には時間的な隔たりがある。だとすれば、Aの最後のショットとBの最初のショットの間には、それがいかにスムースに繋がれていようと、断絶がある。つまり千華の視線の先にあるのはAの最後のショットではない。事実、Bの最後には千華のPOVとして別の映像が提示されている(とはいえ、なお千華の見ているものがAの最後のショットである、という可能性を完全に捨て去ることはできないのも事実だ。とすれば、このAの最後のショットは「撮影現場の時間」に属しながら、その隠された可能性として同時に「テレビの時間」にも属するという二重性を帯びることになるだろう)。ではB→Cへの移行について考えてみよう。これ以前のシーンでは、観客の混乱を避けるために、テレビ画面内の映像は必ずそれを枠付けるテレビのフレームとともに提示されていた(この原則を適用するならば、Aの最後のショットは「撮影現場の時間」のみに属するということになる)。したがってBの最後のショットもあくまで「家庭の時間」で千華が見ている「テレビの時間」に属する映像として理解することができる。画面の論理からすれば何の矛盾も生じない。しかしこのテレビ画面の背後の壁の薄汚れた雰囲気は、千華がテレビを見ている部屋の窓から射しこむ冬の光の暖かさとどこかそぐわない。何かが違う……。あの壁にはどこか見覚えがある……。そう、このテレビはセリの部屋に置かれているものなのだ(しかも正留が自分の名前を答える時のテレビのショットとほぼ同じサイズである)。つまりこのテレビ画面は千華のPOVなどではまったくない。ならば彼女は何を見ているのだろう。いやそもそもこのテレビ画面は一体誰が見ているのだろう。そう考えて私たちは戦慄すらおぼえる。千華が見ていたものはAの最後のショットでも、Bの最後のショットでもないのだ。映画内の空間に定位することなく漂う千華の視線。観客不在のまま映像を流し続けるテレビ。この瞬間、映画はかぎりなく恐怖映画に近づく。

 動揺する私たちにこの作品はさらなる追い打ちをかける。まずBの最後だと思われたショットが千華のPOVではなかったことが分かってしまった以上、ここで小さな修正を加えなければならない。すなわち、このテレビ画面はCの最初のショットであると(ただし、あたかも千華のPOVであるかのように画面は連鎖しているのだから、このショットもまた二重性を帯びている)。するとこのショットから、うつ伏せになった加嶋の背中にセリがひとすじの刀傷を入れる芝居を挟んで、その後の「あんたの血が見たい。あんたの血潮を浴びたいの」というオフの彼女の台詞とともに現れる赤画面までがCを構成するが、このシーンもまた奇妙な細部を含んでいる。加嶋の黒いコートの襟に手をかけるセリというツーショットの後、セリのアップを挟んで、同軸上のやや寄った位置から再びツーショットになるのだが、この時、すでに加嶋は諸肌を脱いでいて、見るものは時間が跳んだような印象を受ける。森の中のシーンで膝をつく加嶋のアクションがダブって編集されていたことをすでに指摘したが、今度は真逆の事態が生じている。この作品はこうした細部の編集を意図的にズラしてみせることで、私たちの時間的・空間的感覚に意識下で揺さぶりをかけてくる。それが最高潮に達するのがC→Dの移行なのだが、それはわざと人目につく場所に置かれた盗まれた手紙のようにあからさまなので、かえって人目から隠されてしまう。しかし私たちはこの挑戦をやり過ごしてはならない。Cでセリによって加嶋の背中につけられた刀傷、それを今度は千華がセリと同じように見下ろした位置から眺め、指でなぞる。ここで千華のふたつのアップに挟まれる赤画面の場所は本来、千華のPOVとしての加嶋の刀傷のショットが占めるべき場所であろう。しかしそのショットの登場はこのシーンの最後まで引き延ばされる。そして赤画面の反復が加嶋をめぐるふたりの女の境遇の相違を際立たせる。「セリさんとの立ち回りで疲れたの?」という千華の問いに、「ああ、今日は立ち回りばかりだった」と加嶋は何の気なしに答えるのだが、彼がたとえ無自覚であったとしても、それが意味するところは、今日はセリと一日中愛し合っていた、ということに他ならない。だからここでの千華が、あたかも夫の不倫を知りつつ、それに気づかない振りをしている妻のように演出されているのは偶然ではない。台詞の二重性、演技の二重性、これらによって、以後、チャンバラ活劇の底に隠された不倫メロドラマという二重構造が立ち現れてくる。ところで、ここでひとつ問いを発してみよう。いつ千華は加嶋の背中の刀傷に気づいたのか。画面の論理にしたがえば、千華のアップに続く赤画面の時点ということになる。その瞬間、画面外で高まる音楽もその見解を裏づけてくれるようだ。だとすると時間的な順序でいえば、Cの後にDがくることになる。つまりCでセリがつけた刀傷をDで千華が見るというふうに。この矛盾に気づかなくてはならない。セリが加嶋に刀傷をつけたのは「撮影現場の時間」での出来事であり、その後の「家庭の時間」においてその刀傷を千華は発見する(あたかも予めその傷がそこにあることを知っていたかのように)。そしてその出来事が記録された「テレビの時間」は時間的にその後にくるのでなくてはならないはずだ。ところがどうだろう、最初に私たちがセリとともに目にした加嶋の背中の刀傷は、Cの頭に置かれたテレビ画面のショットによって枠付けられた「テレビの時間」としてのCの時空間に属しているのだ。しかしC→Dという繋がりは直線的な時間軸上にはありえない。にもかかわらず、何の疑問も持たずに自然なものとして私たちはそれを見てしまう。

 ところで、Bでテレビを見ていた千華の口から「このふたりは、何のために闘っているのかしら」という疑問が発せられている。これはこの作品を見ている私たちの疑問でもあるだろう。この問いもまた二重の意味が含まれている。すなわち、映画内映画であるこの「デジャヴ街道」のストーリーがさっぱり分からない、という文字通りの意味と、セリと加嶋が傷つけあう理由が分からない、という隠された意味である。後者については、ふたりの欲望がそれを求めているからだ、と私たちはとりあえずの答えを口にすることができるだろう。その答えがとりあえずのものであるのは、なぜふたりの欲望はそれを求めるのか、というさらなる問いに対する答えを私たちは手にしていないからだ。一方、「デジャヴ街道」のストーリーがさっぱり分からないのは、私たちがこの映画内映画に属する映像として目にするものが、ただセリと加嶋の立ち回りばかりだからだ。テレビを見ている千華からこういう感想が洩れる(しかも彼女はその番組の出演者のひとりでもあったはずなのに!)ことから考えて、彼女にしても私たちと事情はそう変わらないのだろう。一般に、映画の撮影自体が映画の題材として扱われる時、映画自体の進展と映画内映画の進展とが連動していて、映画内映画の撮影が何らかの理由で終わりを迎えることで、それを枠付けている映画自体も結末を迎えるという構造を取ることが多いのだが、この作品ではそうはなっていない。何度も傷つけ傷つけられるセリと加嶋を見ていると、あたかも何度殺されても甦ってきてはまた殺される亡霊のような存在に思えてくる。この映画内映画はそれを見せるための口実であるかのようだ。彼らの対決は「すでに目にした」ことのあるn回目の反復であり、この映画内映画が「デジャヴ街道」と名づけられている理由もおそらくはそこに存する。そしてそのn回目の反復はテレビ画面の中でさらに反復され、累乗される。この映画内映画が単に撮影中の映画としてはではなく、毎週放送されるテレビ番組として設定されていることの巧妙さに感嘆せずにはいられない。そこではテレビを見るという日常的な行為によって、「撮影現場の時間」、「家庭の時間」、「テレビの時間」の三者の間にフィードバックが生じ、初めは整然と引かれていた境界上で徐々に相互侵食が始まるのだ。

 この後もふたりの傷つけあいは永遠に反復されていく。そしてその度ごとにそれは決定的な破局を迎えることなく中断され、互いの身体の表層に鋭利な無数の愛の痕跡を残していくだろう。そしてその愛の行為は人目に晒された秘め事である(彼らが、撮影隊にその行為を中断されてバツが悪そうに身づくろいするのもそのためである)。そして彼らにとって部外者にすぎない私たちは、千華や正留のように、自らのまなざしをキャメラのまなざしに重ね合わせてふたりの愛を見守るしかないのだ。

 以上の分析によって、『INAZUMA 稲妻』という作品に西山洋市が隠した二重構造という「罠」の一端を明らかにできたと思う。彼は素知らぬ顔をして、その罠をいたるところに仕掛けてまわるのだが、それがあまりにも自然なので私たちは自分が罠にかかっていることすら気づかない。これまで彼を巡る言説においては「叙事性」というキーワードが使われることが多かった。それは事実その通りなのだが、それだけでは彼の特質を捉えたことにはならないことは、これまで述べてきたことでお分かりいただけると思う。ジャン・ドゥーシェが溝口健二について述べた言葉をあえて使わせてもらうなら、西山洋市もまた「自らのシステムを隠す映画作家」に属している。その「作家性」を特徴づけるような「主題」がその作品の表面に見出すことが困難であったために、彼を語る際には主にその「職人性」が評価されてきたきらいがあるし、本人もまたそうした評価に甘んじていたように思われる──実際、彼ほど適確なショットを撮ることができ、それを適確に繋げることのできる映画監督はおらず、『INAZUMA 稲妻』の画面連鎖を見みれば、そのことはただちに分かるだろう。しかしそれはあくまで彼を語るための言葉を発見するための作業を私たちが怠ってきたからでもある。ここで明らかになったことを手懸かりにもう一度、彼の作品群を見つめ直してみるならば、そこには様々なレベルでの二重性が作動しており、そこでまた「テレビ」のような媒介物を通したフレームとフレームの相互作用を見てとることができるだろう。彼の「主題」が見出しにくかったのは、そこに描かれているものではなく、その「絵画」を枠付ける「額縁」自体が問題だったからである。彼は『INAZUMA 稲妻』の後、すでに「江戸吉原」を舞台にした『死なば諸共』(2006)という傑作を撮り上げている。「時代劇」をテーマにした時、この二重性がどのような変化を被るのか。それを知るためにも、まずは『INAZUMA 稲妻』を見なければならない。


『INAZUMA 稲妻』

製作:映画美学校
監督:西山洋市
脚本:片桐絵梨子
撮影:芦澤明子
出演:宮田亜紀、松蔭浩之、西山朱子、布川恵太

2005年/日本/30分

プロジェクトINAZUMA公式サイト
http://www.project-inazuma.com/

12 Jun 2007
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