強盗未遂者 フランツの肖像

寺岡ユウジ

 『愛は死よりも冷酷』は、1969年に弱冠23歳のファスビンダーが自作自演した長編第1作のフィルムだ。

 壁。
 画面の奥を探ろうとする、わたしたちの観客の視覚的欲望を遮るかのような、まっ白い壁。
 奥行きのとぼしい平板な空間。
 室内のシーンにおいて、画面いちめんにひろがる奥手の壁と平行に固定されるキャメラ。多くの場合、左右の壁が見えない位置に据えられている。すると、画面の左/右は、人物の入退場が可能な上手/下手として機能することになる。そのキャメラの位置は、劇場でいえば、不在の「第四の壁」の位置と等しくなり、同様の機能を帯び、観客席へと開かれる。
 舞台と相似した空間が、銀幕上に出現する。
 その仮設された舞台上にあがるのは、3人の若者たち。
 ポン引きや強盗を繰り返す青年フランツ(ファスビンダーが自演)。組織に忠実でありながら、一方でフランツとも友情を育む男、ブルーノ(ウリ・ロメル)。フランツのパートナーで、その筋の世界から足を洗うのを夢みつつ娼婦をしているヨアンナ(ハンナ・シグラ)。
 彼らの姿は、映像の中で、陰影の濃淡のグラデーションが排された、ハイコントラストの白と黒に還元され、コミックのように平面的に映しだされる。

 3人は、先ず、盗みを行う。
 彼らは、まだ多くの経験が書き込まれていないすべすべした肌をもった若い肉体によって、かつて自分たちを魅了した犯罪映画やヌーヴェルヴァーグの登場人物たちの肖像をなぞる姿を提示することで、観客たちにいち早く、自分たちが犯罪映画にふさわしい人物であることを承認されたい、という演劇的欲望にかられているかのようだ。

 はじめに、悪童志願者3人組は、百貨店に押し入る。そこで行われるのは、これから犯行現場で自分たちの眼を覆うためのサングラスを強奪すること。
 つぎに盗むものは、銃器。このフィルムのなかでは多くの銃弾が発射される。銃撃音の音圧は、空間を満たすことなく、弱い。倒れる男たちに傷口は見当たらなく、血液は一切噴出することがない。銃口から硝煙があがるのは、ラストの銀行前での銃撃戦での数発に過ぎない。このフィルムにおける拳銃は、武器というにはそれを本当らしく見せようとする配慮が、あまりに少ない。それは、むしろサングラスがそうであるように、3人が強盗をそれらしく演じあげるために身を飾るための装身具としての側面が強いように思う。
 やがて、窃盗した物品を身につけ、ならず者風情を漂わせ出した3人は、幅の広い道路を、いつ果てるともなく歩き続ける。そして、『勝手にしやがれ』(1960)のJ=P・ベルモンドをなぞり、自分たちが犯罪映画の登場人物として相応しい者なのだと、観客にうったえるためだけのように、後ろからやってきた白バイ警官を、銃殺する。
 あまりにもひ弱な銃声。血飛沫も散らさずに地に伏す警官。

 なんとももっともらしさが欠けた死体。しかし、生きている者の方だってもっともらしさが欠けている。生者は、死体の持つ無機物的な冷たさを放ちながら、フィルムの中にこわばりながら存在している。
 それをもっとも体現するのは、ウリ・ロメル。黙している場面が多く、動きは劇中人物でもっとも重い。ハットにトレンチコートに黒眼鏡。銃殺を行う前には、ゆっくりと黒眼鏡をはずす。あらわれた眼は、まったく瞬きをせず、ずっと見開いたまま。
 初登場のショットは、スーツを着込んだ彼が、微妙に画面向かって左に首を反らせながら、こちら側に瞬きひとつせず眼を向ける、凍てついたような不動のポーズのバストショット。2分くらい続くだろうか。バックにかかる弦楽のうごめきと停止だけが、そこに運動を記している。どこか安手のブロマイドを見せられていたような印象が、漂う。
 フィルムの終盤、彼は殺される。死体となって見開いたまま硬直した彼の両眼の大写しが挿入される。その映像は、生きている時との差異よりは、生きている姿と死んだ姿に違いがないことを、示しているように思う。
 誘惑。このエロティックなはずの行為さえここでは、冷気を漂わせている。
 ハンナ・シグラは、娼館らしき室内で、ストライプのシャツにタイトフィットのデニムパンツをブーツインした姿で、胴体を無防備にし、手足をまげて身体の曲線を強調しつつ、その場に凍てついてしまったかのように不動になる。それは、いかにも、わたくしはいま誘惑しているんですよ、というメッセージを示すためにとられたピンナップガール風のポーズ。だが、度を越して不動であることによって、そこにダルな時間が流れ始め、煽情的なポーズが誘発するはずの熱を、冷ませてしまう。バックに流れていたビートミュージックばかりが高揚し、音と画は分離して展開してゆく。
 他人を魅了するような美しい肉体を持ったふたりは、画面の中で凍てついたような不動のポーズをとることで、ステロタイプ的な美学の中に押し込められている。
 不動の人物たちによって、フィルムに流れる時間はこわばり、停滞する。

 壁。
 露光過多気味に捉えられた、明度の高い白さを反射する、画面奥を占拠する、平べったく広い壁。それは、その手前の人物たちの振る舞いを異化するだけにとどまらず、投影された映像の戯れ=図に対して、忘却されるべき地=スクリーンの存在感を、つまりは白い幕を張られたじっさいの劇場の壁の存在感をすら、呼び戻そうとしているようにすら、みえる(特に冒頭の犯罪組織のアジトらしき建物の壁)。
 あまりに白く発光する壁の存在感。その手前で、生も死も定かならぬ姿で凍てついたように佇む男女。やがて彼らの存在は、壁が反射する強い白の光によって包み込まれ、浸食され、その輪郭を消滅させられ、最後には、映像が投影されているのかいないのかわからないたんなる真っ白な平面だけがただずっとわたしたち観る者の手前に存在し続けている。そんな状況が現れでてしまうのではないか、という想像に駆られさえする。
 たえずスクリーンそれ自体の存在感におびやかされる、まがいものじみた犯罪者たち。

 冷気の漂う平面的な空間。しかし、ひとりだけ、なまあたたかさを、立体感を、画面にもたらし、いたみやふるえを生きる男が登場する。劇的な負荷を多くまとい、有機的な表情を見せ、その肉体の全身をもって七転八倒し、画面に鼓動を刻み、流れを作りだしては観るものの感情を鼓舞し、存在感を強く残そうとするのは、でぶっちょの醜男、自作自演のファスビンダーそのひと。
 彼もまた、ステロタイプのポーズによって、犯罪映画の登場人物たろうとしているようにみえる。しかし、その肉体がポーズを具現しても決まりきらずに、もっと過剰な有機性があふれでてしまう。そこで、彼の姿やうごめきが、一面の純白の中にたったひとつ引かれたひっ掻き傷のように、わたしたち観客の印象にしるされることになる。

 ジャガイモのような顔の輪郭に、カタカナのハの字型の眉と眼。少年性と青年性が混在する、あどけなさの残った瞳。鼻の下には、以後のフィルムでは見受けられるあの口髭を、まだ生やし揃えてはいない。若々しいその肌は、余白という言葉が似合い、やがて多くの皺や傷が刻まれることを待っているかのようだ。ハレーション気味の画面を凝らしてみてみると、その肌の表面は、皮膚炎か吹き出物だろうか、でこぼこしてみえる。画面向かって左下から右上へ歪んだ口をときおり尖らせる。獣の匂いが漂いだしそうな黒の革ジャンパーの襟を立てる。お尻はまんまるく、ぷっくりと突き出ている。スラックスの前のふくらみの向こうには彼のやわらかいチューブがうずくまっているのがわかる。土管のようなズボンの裾からは、埃にまみれた黒革のブーツが突き出ている。

 チープな素材を積み上げてつくられた平面的な空間からひとりだけ浮かびあがり、痛みや震えを介して自己を顕示する自作自演の男。たとえばこれを武田鉄矢監督/主演の『プロゴルファー織部金次郎2 パーでいいんだ』(1994)(たまに街のレンタルビデオショップのレンタル使用済み商品を100円で叩き売る棚でこの作品のビデオの色褪せた背表紙が目に飛び込んでくることがある。)のように、ごみクズのような「醜男の妄想」フィルムと呼んで嘲笑してもなんの間違いもないはず。
 しかし、彼のフィルムの魅力にはめられてしまうのはどうしてだろう。

 フィルムの中、彼はさる犯罪組織から「我々の組織のために働かないか」という誘いを拒んで、暴行を受ける。嬲られ、眼の周りに痣をつくって、床に頬を擦りつけて倒れるファスビンダー。丸みを帯びた身体、だらりとさせた短い手足は、幼な児を想起させる。あわれみを乞う眼は、保護する者からはぐれてしまった迷子の不安に震えるそれのようだ。
 1983年、つまりファスビンダーの死の翌年、ダニエル・シュミットは彼について、インタビューでこんなことを言っている。
 「さっきもいったように僕は彼の映画よりも、彼の人間そのものに興味がある。矛盾に満ちていて物凄く才能があり、いろいろな顔を持っていた。(原文改行)いうならば彼はオーソン・ウェルズとマリリン・モンローの間の一切のものであったわけだ。ただ彼個人としては、むしろオーソン・ウェルズよりもマリリン・モンローになりたかったというところかな(笑)」[*1]  母子家庭で生まれたノーマ・ジーン。孤児院から幾人かの里親の元を転々とし、愛情の欠損を補うようにさまよい、やがて多くの男たちと浮名を流し、いくつかの結婚と離婚を経験し、36歳で謎の死を遂げる(因みにファスビンダーの享年は37歳)。ときにヌードモデルであり、ときにハリウッド女優であった彼女は、愛情飢餓をフィルムからの性的挑発へと昇華した。
 ここでの、弱冠23歳のファスビンダーの姿も、「マリリン・モンローになりた」いかのように強い愛情飢餓を発散させる誘惑婦みたいに感じられる。

 ファスビンダー自身はペーター・W・インゼンによるインタビューでこんなことを述べている。
 「両親をちゃんと知るようになったのはけっこう後になってからのことなんでね。ぼくはたしかに両親のもとで育ったんですが、うちはとてもたくさんの人が出入りする家でしてね。子供の頃、幼い頃には誰が誰で、誰が自分にとってどういう意味があって大切なのかちゃんと区別できる可能性はなかったんです。両親が離婚することになったとき、ぼくは6歳でした。で、母親の方に引き取られることになったんです。そこで初めて他の人たちよりもひとりの人間と特別な関わりかたをすることを学んだんです」[2]。
 ここで語られている幼年期は、父母へと方向を中心化されることのない愛情の授受の拡散的な多方向状態だ。父—母—子供という核家族的トライアングルに整流化されざる愛情の錯乱状態。
 そこで幼児はどのように周囲のひとびとと関係を築くのだろうか。ふたつの異なったイメージが想像される。他人との境界を溶かして流れ出すように誰彼となくすがりつき接触を求める幼児の、液体的な愛情の欲求のイメージ。それから、自分が誰に保護されるべきがわからずにどんな者とも知れない他人たちのはざまを迷子のようにさまよい、恐れを持ちながら接触しなければならない幼児の、固体的な困難のイメージを。
 また、ここで語られることで再構成された幼年期の愛情のありかたは、それを語る現在のかれの関係のつくりかたにかたちをあたえたもののようにも読める。
 かれのバイオグラフィーを眺めると、夥しい数のおんな、おとこ、双方との交渉が矢継ぎ早に、ときに重複して行われているのをみつける。そこからは、両性へと拡散的ににうごめく液体的浸透への欲求と、固体間の距離への恐れから矢継ぎ早に他者に接近し合一的避難所を仮設する動きを読み取ることもできるだろう。
 さらに、それは、フィルムに定着された姿を曝すことで、無数の見知らぬひとびとが瞳を凝らしている客席へと、多方向的に行われる誘惑を行うことの欲求につながってゆくはずだ。フィルムによって無数に霊的増殖したみずからの肉体と上映のたびにふたたび吹き込まれる魂によって、誰が誰とも何処が何処とも不分明な暗闇に、方向もさだまらずに行われる媚態。
 「たくさんの人が出入りする家」とはもしかしたら映画館のメタファーかも知れない。
 フィルム上のファスビンダーそのひとの姿をみつめているとそうした過剰な愛情の力と、強いおそれが、溢れ出してくるのを感知させられるのだ。

 シュミットは同じところで、こんなコメントも残している。
 「とにかく彼には無尽蔵の味わいがあり、僕は彼の死から距離がとれるようになったら彼をモデルにした芝居なり映画なりを作ってみたいと思っているぐらいだ。でも、そういうものを作る場合、ファスビンダーの役は女にやらせるつもりだ。ちょうど日本の歌舞伎の女形みたいに(形容の比喩としては逆)。この役は男より女の方がずっと向いてると思う」[*3]。
 この演劇的着想においてシュミットは、肉体的を逆転させて、彼の過剰なる愛情の欲求、拡散的な関係のむすびかたにかたちをあたえようとしている。さらに、男女両性の肉体を統合したかれの肖像が、観客の脳内において像を結ぶように企んでいるように思う。
 でぶっちょでひげをたくわえたマリリン・モンロー。

 劇的想像力においても彼は独特の愛情のありかたを描きしるし、それを上演する。このフィルムでは、ファスビンダー演ずるヒモのフランツは、ハンナ・シグラ演ずる売春婦のヨアンナに、ウリ・ロメル演ずる彼の気に入るシンジケートの使者であるブルーノを誘惑するよう仕向ける。そこで志向されているのは男ふたり女ひとりのトライアングルがお互いの肌をふれあわせることによってうみだされる愛情の均衡状態だ。カップルや核家族的な関係からはみだすひとの繋がりかたに対する──メランコリーに染まった──探求がみてとれる。
 そして、このフィルムの終幕を構成するのは、その三人がおこなう銀行の襲撃だ。

 壁。
 銀行もまた、白い壁の平面としてキャメラの前に平行に陣取り、舞台空間をしつらえる。
 終幕の主題となるのは、裏切りだ。
 犯罪映画の主人公をなぞるように身を飾り、周囲におそれの感情を喚起することができるようになったと感得したのか、ヨアンナとブルーノはフランツへの裏切りを演じたてることで、襲撃の計画を瓦解させる。そして、かれの存在に悲調を加味してやり、おそれとあわれみを具有したひとつの有機的な肖像として完成させ、観客に提供しようとする。
 ブルーノは「女と男のいる舗道」のロケ現場から盗んできたかのようなピンボールマシンをいじりながらシンジケートに計画をバラす。ヨアンナはパトリシア・フランキーニを気取るかのごとく警察に密告のダイヤルを廻す。
 かくて、見事に襲撃は失敗する。
 知らぬ間にふたりの仲間に裏切られ、一攫千金の夢想も消え去ったみじめなフランツ。しかし、あの傷つきやすそうな瞳は黒眼鏡で覆ったまま、客席へ曝されることはない。あわれみを乞うよりは、みずからを曝すことのおそれがここにいたって強く溢れ出したかのように甲羅のような革ジャンパーで身を固く包みこんで、世界の寒さに耐えている。
 そして、ヨアンナに「売女」とひとこと投げつけて、刺すような冷気漂う空の下を、自動車でどこへとも知れず去ってゆく。





[脚注]

*1.
「ダニエル・シュミットインタビュー」岩淵達治訳, 『月刊イメージフォーラム』4巻1号 [No.27 1983年1月号 特集 R・W・ファスビンダー研究]所収, ダゲレオ出版, 1983年.

*2.
渋谷哲也・平沢剛編『ファスビンダー』現代思潮社, 2005年.

*3.
前掲書「ダニエル・シュミットインタビュー」.

10 Apr 2007
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