窃盗のセノグラフィー──ブレッソンとヒッチコック

三浦哲哉

1.窃盗とサスペンス

 泥棒には、窃盗と強盗の2種類がある。窃盗とは、相手に見つからないように何ものかを盗み出す行為であるが、強盗は、その過程で暴力行為を伴わせる。どちらも盗みである点は同じだが、しかし映画メディアのなかで表現されたとき、両者の間には決定的な違いが生じる。端的に述べて、強盗はアクション映画の領分にあり、窃盗はサスペンス映画の領分にある。
 強盗の場合、最終的にものをいうのは武力であり、邪魔が入れば排除すればよい。ことは極めて単純だ。綿密な計画が要求されるときでも、いずれにせよ問われるのは戦争映画の場合と同じ効率性である。守備側と一戦交えて勝利しさえすれば、遅かれ早かれ目的は遂げられる。
 それに対し、窃盗はもっと慎ましい、孤独な営みだ。窃盗犯はその行為のさなかにあって自分の存在を他者の目から消し去る。彼らは誰にも聞かれず、誰にも見られないように行動する。だからこそ、窃盗行為はつねにサスペンスの特権的な題材であり続けた。サスペンスとは、知る者と知らない者、見ている者と見ていない者、聞いている者と聞いていない者、その間に生じる「秘密」と「死角」とをめぐってイメージを構築するタイプの映画であるからだ。プロフェッショナルの泥棒であれ、ふと出来心を起こした素人であれ、あるいは身分を隠して敵国に潜入したスパイであれ、彼ら窃盗犯たちがひっそりと秘密行為に乗り出すとき、演出家たちはまさにその「秘密」を軸としてもろもろのイメージを組み合わせることになる。


2.予定調和

 しかし、実際に窃盗犯をカメラに収めるのは容易ではない。彼らはその秘匿性によってサスペンス映画の主人公たりえるわけだが、しかし、どうやって秘匿性を損なわず彼らをスクリーンに映すことができるかという問題が生じるからである。本来誰にも見られてはならないはずの行為をカメラにさらけ出すという矛盾。窃盗のサスペンスとは、「秘密」の「見世物」という、ややもすれば不健康な性質のものであり、その限りで、興醒めするほかないような予定調和に陥ることもある。そのあからさまな例として、かつてビートたけしがさかんに言及していたことでも知られる次の場面を挙げてみたい。それは『水曜スペシャル 川口浩探検隊』というテレビ番組の1シーンなのだが、(彼は泥棒ではないけれど)たしか鬱蒼とした洞窟のとば口で、「前人未踏の地へ、これから決死の潜入を試みます」と大真面目にレポートする川口を、カメラはまさにその洞窟の内側から捉えていたのだ。つまり川口よりも先にカメラマンが潜入してしまっているわけで、だからこの探検が前人未到でも決死でもありえないことは誰の目にも明らかなのだった(死ぬとしたら、カメラマンが先にだろう)。この番組は、迫真性を演出すればするほど、その嘘くささが上塗りされるという悪循環に陥っており、その構造自体がおおらかな笑いを喚起したものだ。ただし、いうまでもなくここからサスペンスは消え失せてしまっている。
 秘密行動のさなかにいる登場人物をカメラでどのように捉えるべきかというのは、ともかくデリケートな問題であるし、さらに切迫感が演出されなければならないのだとすればなおさらである。演出過多に陥れば、ただちに登場人物の行為の秘匿性という、そもそも切迫感の条件をなすものが疑わしくなり、結果、登場人物は矮小化してしまう。必死の形相で身を隠す彼らに、まったく感情移入できなくなるというわけだ。もうひとつの例。『ミッション・インポッシブル』(1996)で、トム・クルーズとジャン・レノがふたりでCIA本部へ潜入する場面、天井の通気口に潜むレノのもとに、一匹のネズミが近づいてくる。レノはその場でロープを握りしめており、身動きがとれない。ところがネズミはそしらぬ顔でレノのほうへ接近する。レノは冷や汗をたらして思わずロープの手を緩めてしまい、彼らは危機一髪の状況に陥る……。以上、秘密行為の途中で邪魔者が入り、切迫感が増幅されるというお馴染みのシークエンス構成であるわけだが、川口浩の場合と似て、ここにも馴れ合いの印象が否定できない。必死で身を隠すジャン・レノをよそに、カメラはその全能ぶりを発揮して、切迫感を演出するためだけの要素をつけ加える。意志なき動物を使用するところが余計にわざとらしく、よほど良心的な観客でなければ、このような予定調和的スリルに甘んじることはできないのではないだろうかと思ってしまう。このわざとらしさ、あるいは恣意性の印象とは、煎じ詰めれば、あらゆるイメージを影から眺め、操作する者の気配であると思う。それは必ずしも実在の映画作家そのもの(この場合はブライアン・デ・パルマ)と同一視しうるものではなく、むしろ映画の「語り手」、あるいはイメージの「操作主」といったほうがよいのかもしれないが、ともかくもそのような主体が、泥棒と、泥棒を見つめる観客、さらに第三の要素(ネズミ)を適宜に配置し、スリルを計算しているという印象が生まれる場合がある。窃盗犯の不自由をよそに、「操作主」はあらゆることを恣意にまかせ、観客が適度な危機感が感じるよう逆算してシークエンスを組み立てうる。こうしたカメラの恣意性、つまり、窃盗犯をいかようにも切り取りうる自由自在の視点は、しかし窃盗犯の孤独な奮闘を、予定調和のスペクタクルショーに変えてしまう危険と隣り合わせである。


3.ブレッソンの場合

 秘密をカメラで撮るということそのものに起因する予定調和の印象は、ひどければ肝心のサスペンスを台無しにしてしまう。だから、あらゆる窃盗のシークエンスにおいて、「演出(mise en scène=シーンのなかに置くこと)」の根本的問題が鋭く立ち上がるのだといえる。窃盗行為のスリルは、作家のセノグラフィー(舞台構成法)にかかっている。では、いかにして予定調和に陥ることなく秘密行為を表現することができるか。その回答は、権利上、無数にありえるだろうし、いまもまた優れた演出家がその都度、様々な工夫を凝らし新たな回答を案出し続けているというべきだろうが、ここではロベール・ブレッソンの場合を取り上げてみたいと思う。おそらく、ブレッソンは窃盗の演出において、予定調和を回避するための方策を、原則にまで高めた数少ない例だと思われるからだ。
 宗教作家のレッテルとともに語られることの多いブレッソンであるが、彼の作品群において窃盗の主題は極めて重要である。長編処女作『罪の天使たち』(1943)の悪女テレーズに始まり、遺作『ラルジャン』(1983)の殺人犯イヴォンに至るまで、ブレッソンの作品ではほとんど常に秘密行動に身を投じる泥棒たちが登場し、その都度、彼らの周囲に緊密なサスペンス空間が構築されてきた。
 そのブレッソンが提示した原則を、まず簡潔に要約するならば、「サスペンス空間において、中心となる登場人物が感覚しうること以上の要素を観客に提示してはならないこと」となるだろう。それが窃盗の場面であるならば、盗みがイコール発見にならなければならない、というコンセプト。ブレッソンがその著書『シネマトグラフ覚書』に書き留めた次の断章は、おそらくそのようにしてつくられるシークエンスのひとつの理想を示している。

 ロンドンの或る宝石店の金庫をギャングの一味が破って、真珠のネックレスや指輪や宝石を奪う。彼らはそこに隣の宝石店の金庫の鍵も発見し、そこにも押し入る、と、その金庫には第三の宝石店の金庫の鍵がおいてあった(新聞記事による)。[*1

 もしブレッソンがこれを演出するならば、得意の手のクロースアップと扉のショットによってシークエンスが組み立てられるに違いないが、ともかく、見えないものがひとつひとつ明らかになる過程で、まったく予期せぬ何ものかが発見されていくわけだ。このように、「原則」として、あらゆるシークエンスは登場人物にとってと同様、観客にとってもひとつの僥倖として生成しなければならない。未来は扉の影に隠れており、それら新たなイメージを発見するたびに、これまで想定していたプロジェクトが変更される。そのようにして、見えない領域に置かれていた断片同士が不意に接合し、自在な組み替えの実験が生きられる。1956年の『抵抗』は、死刑囚が脱獄するまでの過程を、彼の両手のイメージに密着しながらメカニカルに描いた作品だが、ブレッソンは主人公が「行き当たりばったりに」脱獄を成功させる点を強調している。彼の手に針金、鍵、シーツ、シャツの切れ端、ヘアピンなどが次々と与えられ、その都度、思いもよらなかったアイディアを彼は見つけ出していく。それは作家の創作行為(モンタージュ)と重なる。
 視野を断片化し、限定すること。だがそれだけではスペクタクル化を避けるのに充分ではない。ブレッソンが描く窃盗劇においてより重要なのは、窃盗が物理的に接触を介してなされる行為であるという事実である。つまり窃盗は、その決定的な瞬間において、視線=距離が排される契機を含む。そしてまさにブレッソンはこの一点をシークエンス構成の支柱とすることで、「見せる/見られる」の予定調和を避けることができたといえるのだが、そのもっとも顕著な例は、その接触行為そのものを焦点化した『スリ』(1959)である。『スリ』は、手の動作を焦点としたサスペンス映画である。脱獄囚の場合と異なり、スリは白昼堂々となされるが、肝心なのは、彼の手だけは誰にも見られないという事実である。主人公は、ときに後ろ手で、ときに新聞紙の影から、まさにブランドタッチで見知らぬ相手の財布等を掠め取る。スリ行為の度に挿入されるこの不思議な手のクロースアップが決定的なファクターだ。手は目から切り離され、自律的に、無意志的に運動する。このゆるやかな手の運動に、カメラの運動が盲目的に同調し、そしてこの触覚的な体制において即物的なモノの移動が記録される。カメラが後退したときには、いつのまにかスリ行為が成立しているという具合なのだ。手のクロースアップによって開かれているのは、視線=距離が排される「接触」の領域だ。カメラは対象にとことん接近し、「見せる/見られる」という対立さえない、視覚のリミットとしての接触の領域へと一挙に降りてしまう。こうしてブレッソンは「秘密」を「スペクタクル化」することという難題を見事にクリアする。まとめると、スペクタクルの限界としての接触において、視線=距離を廃棄することによってである。


4.ヒッチコックの場合

 次にサスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコックの場合を取り上げたい。ヒッチコックもやはり、窃盗の「演出」の問題に対し、「原則的な」回答を提出しえた作家であると考えられるからだ。ただし、ヒッチコックはブレッソンとはどこまでも対照的な手段をとる。ブレッソンが、至近距離の微小な領域へ向かうのだとすると、ヒッチコックはあらゆるイメージが縦横に関係づけられ、あたかもひとつの網状をなすかのような極大の方へと向かうといえるかもしれない。また、ブレッソンは「宝石店強盗」のモデルについて語ったが、ヒッチコック自身がサスペンスシーンの理想として好んで語った「テーブルの下の爆弾」のモデルは、両者のはっきりした対照を示していて興味深い。以下、『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』から引用する。

 いま、わたしたちがこうやって話しあっているテーブルの下に時限爆弾が仕掛けられていたとしよう。しかし、観客もわたしたちもそのことを知らない。わたしたちはなんでもない会話をかわしている。と、突然、ドカーンと爆弾が爆発する。観客は不意をつかれてびっくりする。これがサプライズ(不意打ち=びっくり仕掛け)だ。サプライズのまえには、なんのおもしろみもない平凡なシーンが描かれるだけだ。では、サスペンスが生まれるシチュエーションはどんなものか。観客はまずテーブルの下に爆弾がアナーキストかだれかに仕掛けられたことを知っている。…(中略)…これだけの設定でまえと同じようにつまらないふたりの会話がたちまち生きてくる。なぜなら、観客が完全にこのシーンに参加してしまうからだ。スクリーンのなかの人物たちに向かって、「そんなばかな話をのんびりしているときじゃないぞ! テーブルの下には爆弾が仕掛けられているんだぞ! もうすぐ爆発するぞ!」と言ってやりたくなるからだ。最初の場合は、爆発とともにわずか15秒感のサプライズを観客にあたえるだけだが、あとの場合は15分間のサスペンスを観客にもたらすことになるわけだ。…(中略)…観客にはなるべく事実を知らせておくほうがサスペンスを高めるのだよ。[*2

   登場人物と観客が、ともに新たな発見を繰り返すべきと考えたブレッソンに対し、ヒッチコックは登場人物を孤立させ、そのうえで事実を前もって観客に提示するべきだと述べる。カメラを用いて、観客にあらかじめあらゆるものを提示し、登場人物が置かれる状況、関係性を一挙に示しきってしまうこと。それがサスペンスの原則であるとヒッチコックは説く。例えば『北北西に進路を取れ』(1959)でケーリー・グラントが広大な農地の上で、農薬を散布していた飛行機に襲われる有名な場面がまさにそうだが、ここに「見えないもの」はなにもない。

図1
 すべてを見せることによってつくられるサスペンスシーンの典型として挙げるべきは、だがやはり『裏窓』(1954)においてグレース・ケリーが殺人容疑者のアパートへ侵入する場面だろう。図1は、殺人容疑者の部屋に侵入して物品を盗みだそうとする彼女と、ちょうど部屋にもどってきた殺人容疑者を、ただひとつのフレームで示したものである。これが常套的なサスペンス映画であるならば、おそらくカメラはグレース・ケリーに寄り添って、まず彼女が無人の部屋へ侵入するところを写し、次に階段を登ってくる足音を聞かせ、そのうえで部屋の主が帰ってきたことを示すショットを置くはずだ。それがもっとも観客の生理にあったイメージの提示方法であるし、そのようにしてグレース・ケリーの「主観的な」スリルの再現が目指されることだろう。しかしヒッチコックはこれらすべてを──驚くべき舞台装置を用いて──一挙に平面的に延べ開いてしまう。そしてまるで数式のようにあからさまな因果関係が一望のもとに提示される。
図2
 注目したいのは、この平面のなかに、複数の平面が閉じこめられている点である。つまり、グレース・ケリーが見えるほうの窓と、殺人容疑者のいるほうの窓のふたつである(図2)。ヒッチコック作品はこれまで多くの論者から「関係の映画」、「タピスリーの映画」と形容されており、その驚くべき関係性の密度の高さがつとに言及されてきたわけであるが、それを可能にしているもののひとつが、おそらくこのようなフレーム同士の入れ子構造である。ひとつのフレームが無数のサブ・フレームを取りこみうるということ。この単純な原理を最大限に活用することで、ヒッチコックの映画はその密度を飛躍的に高める。絵コンテをもとにスタジオの中で緻密に作られた画面は、色彩と造形において常に大胆に単純化され、しばしば奥行きを欠いた平面的なグラフィックへと還元される。そのうえで、複数のフレームは、レイヤー状に重ねられ、再配置される。無数の窓、鏡、絵、あるいは瞳が縦横に組みあわされ、ときにはあの魅惑的なスクリーン・プロセスが半ば唐突に別の空間を接合してしまう。
 また、こうした複数のフレームによって達成される関係の束の密度に関して、同様に重要視されなければならないのは、デフォルメされた視覚的記号の反復である。大写しにされた何者かのイニシャル……ピカピカの白い靴……眼鏡……男たち女たちの体形……原色の赤……。あるいは蓮實重彦が『映画の神話学』に収められたヒッチコック論で着目した「円形」の主題こそ、そのもっとも強力かつ遍在的な形象であると言いうるかもしれないが、これらヴィヴィッドな視覚的記号は、反復することによって様々な出来事の因果関係を緊密に織り上げていく。
 ヒッチコック作品は、あたかも集合的なタピスリーへと接近していくかのようであり、だからこそ、「観客に先んじてあらゆる事実を示す」という離れ業が可能になる。この場合の「先行性」は、たとえばデ・パルマの『ミッション・インポッシブル』がただ抽象的に設定していた(と観客に感じられた)「操作主」のステータスではない。実はこれがヒッチコックの模倣者の誤解でもあると思われるのだが、ヒッチコック映画の秘密は、登場人物の行動を影から見守り、彼の周囲のすべてのイメージを操作する「神の視点」が設定されることにあるわけではない。例えば『間違えられた男』(1956)のような作品には、確かに、このような超越的視点が設定されていると感じざるをえない場面がある。誤って投獄されたヘンリー・フォンダがキリスト像の前で祈り、そのとき彼とうりふたつの真犯人が発見されるという有名な場面があるのだが、フォンダの顔のクロースアップに、真犯人の顔のクロースアップがゆっくりと溶解し、やがてぴたりと重なるとき、こふたつのショットを重ねる「操作主」の存在が露骨に示されていると考えるのは一見、不自然なことではない。泥棒を監視する神。というよりも、あらゆる出来事を前もって知っている神。全能の観者。さらに、結局はこの神の場所に、映画館の観客が座るのだとしたら……。だがこの錯覚に身を任せるべきではない。問題は、あくまで継起的にしかイメージを提示しえない映画メディアの条件の中で、いかにしてそれら断片を高密度かつ高速度で統合しうるかにある。ヒッチコックは、サスペンス空間を支配する神に自分をなぞらえたからではなく、あくまで具体的な手段によって、登場人物よりも観客よりも「先行した」地点でイメージを操作しえた点で卓越していたのだ。その手段とは、単純化するならば、フレームの入れ子構造と、平面的形象の反復である。反復の時間は、継起的時間に先行する。この「先行性」において予定調和は克服される。いうまでもなく、ここにあるのは徹底してヴィジュアルなスリルである。おそらく、「事後性」とは非対称的な、イメージの「先行性」を、ヒッチコックにおいて思考しなければならない。例えば、精神分析のパロディともいえる『白い恐怖』(1945)において、なにが絶対的だったかといえば、それは神経症患者の超自我などではなく、彼のオブセッションが、「白の上に描かれた直線」という、どこにでも見出せるに決まっている形象と結びついていることだった。形象の遍在性こそが絶対的だったのである。
 だから、ヒッチコックの模倣者たちの失敗は、ヒッチコック的な形象の「先行性」、つまりはイメージ同士の密度・速度を獲得しようともせずに、ただ抽象的にサスペンス空間の操作主になりうると信じてしまった点に求められるかもしれない。そして「あざとさ」とは、とどのつまり、超越的立場から見下ろし、すべてをただ抽象的に操作しうると考える錯誤に由来するのではないか。この種の抽象に陥ったときに、サスペンス空間のただなかに置かれた登場人物の尊厳は、無惨に打ち砕かれるだろう。窃盗のスペクタクルはその意味でも、演出家にとって格好の試金石である。

 以上は、窃盗のスペクタクルを主題として、ブレッソンとヒッチコックのセノグラフィーの一端を素描する試みであったが、ヒッチコックが視覚的形象の無時間的反復において、ブレッソンが触覚的=盲目的領域において設定したふたつのフレームは、あるいはサスペンス映画の限界地点を、いまもなおその両極から示しているといったらいいすぎだろうか。





[脚注]

1.
Robert Bresson, Notes sur le cinématographe, folio, Ed. Gallimard, 1988, première parution 1977, p.134.(邦訳=松浦寿輝訳『シネマトグラフ覚書 映画監督のノート』筑摩書房, 1987年, 189頁.)

2.
フランソワ・トリュフォー『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一・蓮實重彦 訳, 晶文社, 1981年, 61頁.

10 Apr 2007
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