荒井晴彦インタビュー
──『恋人たちの失われた革命』

インタビュー

Introduction

 女ふたりと男ひとり、あるいは男ふたりと女ひとり。「2と1」がスクリーン上で織りなすいろとりどりの人間模様をモチーフに、毎回ひとりのゲストが個人的な記憶と思い入れを交えつつしめやかに語る、連載「2+1の映画史」。
 初回を飾るのは、脚本家・荒井晴彦氏。『新宿乱れ街 いくまで待って』(1977)、『赫い髪の女』(1979)をはじめ、『もどり川』(1983)、『皆月』(1999)、そして『やわらかい生活』(2005)に至るまで、男女の生と性を真に独自の視点で描き続けた荒井氏にとって、あらためて「2+1」の意味とはなにか? 新宿のとあるバーで、今年公開されたフィリップ・ガレルの新作を手掛かりに、「若さ」について、「嫉妬」について、そして「愛」について、グラスを傾けながらじっくりと語っていただいた。


ガレルの恋人たち──『恋人たちの失われた革命』

 この映画、ダメじゃないんだけど、あまりピンとこないというかな。「三角関係の映画史」っていうこのコーナーのテーマに引きつけていうと、主人公のルイ・ガレルとヒロインの間に、終盤、彫刻家のおっさんが入って三角関係になるじゃない。まずあそこが腑に落ちないわけ。普通に考えてみてね、女からすればルイ・ガレルみたいな若造よりも年上の金持ちの方を取るものだよな。でもそこの描かれ方がベタなんだ。
 このケースは俺の身の回りにもあった。怖いのはカネ持っているオヤジだよ。若者は無力感を感じるね。オヤジと女を争ったら勝負権はこっちにねえなあ、という焦り。でもそれがルイ・ガレルにはない。そこで普通ならば、カネも教養もあるおじさんに対する若者の武器はなんなんだと考えるはず。そこがすぽんと欠落してて、淡々と進んでいく。青春というのは持たざる者が持てる者に対して抵抗するものでしょ。パリの5月革命は、エスタブリッシュメントに対する闘いでもあったわけで、後半ではそのエスタブリッシュメント側のおっさんに女を持ってかれたって話なわけでしょ。それにしちゃあ、あの青年はじたばたしてない。すると、映画の前半で描かれたパリの5月革命はなんだったのかとなっちゃう。ルイ・ガレルは自分から行動しないキャラクターだよね。もしかしたら、フィリップ・ガレルってひと自身が68年の体験以前に映画をやっていたからなのかもしれない。どこかで傍観者というか、見るひとなんだね。
 ある後退戦の中での恋愛とその崩壊は、とてもおいしい話だなとは思うんだけどね。描き方が淡泊。ガレル自身が生きているんだから、ラストで死ぬんではなく、どんな様でも生き残るという結末でいいんじゃないか。
 もし俺がホンを書くんだったら、主人公たちが住んでたアパートの家主だったあの金持ちがモロッコに行った後、とり残された女を登場させてそれをルイ・ガレルとくっつけるとか……。そこにアメリカに渡ったあの女から手紙が届くなんてのもいいよね。

 俺はフィリップ・ガレルの映画は私小説ならぬ「私映画」だとしか思えないんだけど、ずっとそれをえんえんとやっているのはたしかにスゴイと思う。でも自分の話を映画にするときに、なぜそれをやるかっていう根本問題がまずある。過去を追体験すること、何かから逃げてきたのだとして、時間を経てそれを反省というか、角度を変えて改めて見ていくのならば、同じことを繰り返しやる必要はない。『革命』ではガレルは自分のせがれに自分の役をやらせている。そうして過去の時代設定にしているわけだ。そこをね、現代の設定にしてルイ・ガレルに自分のせがれの役をやらせる方がオモシロイと思ったね。そうすると昔と今との間の時間が入ってくるじゃない。ガレルにはそこがないと俺は思うのね。ひとつの体験をあれだけ繰り返し撮っていると、ひとつの記憶をいろいろと変奏できるはずだと思うんだが、どうもそのまんま同じだよなあ。そこが理解しがたい、というかプロじゃないんじゃないかなあと思うね。
 だから今回の映画より、ドヌーヴが出ている『夜風の匂い』(1999)のほうがわかりやすかったな。『夜風』には、「あれから何十年」って時間の隔たりがあるからいい。ある体験の記憶をその時代の設定でまんまやるよりも、現代まで生き残っちゃっているわけだから、その時間に耐えうる記憶が試されるわけだ。それが入ってこないと、ただの思い出になってしまう。『夜風』はその間の何十年間のこだわりが露呈されたのでよかったね。どんなにひどい傷でもどんな厳しい思い出も時がたてば色あせていくんだということは、長く生きていくことの素晴らしさであり残念なことでしょ。

 三角関係の話に戻ると、あの女の子がルイ・ガレルに対して「愛とセックスは別なんだ」って言うよね。だからフランソワっていう別の男とヤってもいいんだと。たしかに理屈は正しい気がする。でもその理屈がどうやって正しくなくなるのか。いとことヤった時は戻ってきたけど、おっさんとだったら戻ってこなかったという、青春の敗北という話ならまだわかりやすいけどさ。やっぱり熟練の技術かあ、とかね(笑)。
 もっというと、フランソワっていとこの元から女が帰ってきた時に女が「彼のモノが小さかった」って言うところ。そこがまたガレルの暢気なところでね。それは嘘だろうと疑わないのか。とにかく何がホントかがわからないのが前提でしょ。明らかにそこでは男根主義的な価値観で女はそのセリフを口にしているわけ。でもね、68年世代はそんなことは言わないよ。観念的には「愛とセックスは別」とイキガったこと言っていたけど、実践的にはみんなウブだったよ。スポーツ感覚で、アダルトビデオを真似たセックスをするいまの若者たちとは違う。そこを押してくれればガレルの映画はもっとオモシロイのにな。だから彼はナルシストだな(笑)。「彼のモノが小さかった」なんて言葉を真に受ける男なんていないよ、普通。「あなたのほうがよかったわ」なんて女はたいがい照れ隠しにでも言うよ。でもね、そうじゃなかったっていう結果がいつも来るわけでね。ガレルは自分を笑い者にする方向には絶対に持っていかないよね。ガレルの映画、自分から主体的に行動を起こさない点では、俺のシナリオのテーマとも通じるところがあるのかもしれないけど、ナルシスティックだと思うね。やはりあの人モテたんだね。


原点としての三角関係

 例えば神代辰巳さんなんかもモテたけど、こういう人は三角関係については悩まないんだな。女を悩ませるかもしれないけど。一度、神代さんに「なんで三度も結婚したんですか」と聞いたら、「相手が勝手にウチに来て、勝手に去っていったんだよ」と。そういう感じで三角関係にならないんだね。
 俺は愛という感情はいまいちよくわからないんだけど、嫉妬はわかる。それでしか愛がわからない。『赫い髪の女』(1979)を書いたときも神代辰巳にテーマを聞かれたから「嫉妬です」って答えた。女を愛しているかどうかはわからないけど、その女が他人にヤられちゃ困る、それが愛かなと、それぐらいの理解しか俺にはできない。そこで「3」なんだね。その第三者がいないのならばそれをつくってみる。三角関係が関係の基本っていうのは、そこに嫉妬という感情が入るからなんだ。ふたりきりで深く愛しているようならば、それは眉唾だなと思って、もうひとりたててみる。これは『赫い髪の女』でやってみたことでもある。人とヤっても戻ってくるかどうか試すんだ。三角関係の映画で、俺がいつも思い出すのはやはり『突然炎のごとく』(1961)だね。若い時に見たものだから鮮烈でね。しかもドロドロしてなくて、セックスがあるんだないんだかわからない。その点では『明日に向って撃て!』(1969)に似ているし、『冒険者たち』(1967)なんかもそれを下敷きにして三角関係をきちんと美しく定式化したなと思う。
 俺は「3」ってのが人間関係の原点だって思うのね。一対一は関係といわない。そこにもうひとり入ってくることで関係として成立する。最低単位が「3」なんだ。三角関係。誰かが入ってくることで「2」が見えてくるというか、それである距離、関係が試される。切迫するのかしないのか。「2」の方向に事態が動くのか。どっちを取るんだという圧力の中で関係が鍛えられる。そうじゃないと関係ではない。だから人は3人目の影を感じていないとダメなわけ。
 「2」だけ描く映画ってのは関係がないもんだからドラマにならないんだね。俺も結婚したときに「2」になっちゃったもんだから困ったんだけど、すると子供っていう三番目が現れる。この三角……ほとんど女を子供に取られるという状況。それで俺は家を出ることにしたのね。娘ができて疎外されて家を出たということもあるし、お袋との仲を裂かれたというルサンチマンも女房には抱いてるね。俺はマザコンだから。

 それと、シチュエーションが許されない恋であれば、「2」の関係で道行きなんてのもある。漱石の『門』みたいにね、世間から追われて逃げて、そうした圧力の中だったら「2」は成立するけどね。『俺たちに明日はない』(1967)みたいに人から追われて逃亡しているという状況なら「2」は結びつく。あるいは、近親相姦とかタブーをひとつふまえていると成立するんだ。『DOLLS』(2002)なんかは浄瑠璃を持ってこなくちゃならなかった。で、最近の傾向でいうと難病だよね。死に向かって寄り添うという。「2」っていうのはつねにもうひとつを求めて動いていると思う。第三の男とか女とか、そうじゃなければいっしょに見る本とか映画とか食事だったり。


「さよなら三角……」

 だから、「さよなら三角、またきて四角」って言葉があるけれど、「さよなら三角」のあとにどんな言葉がくるのかが俺のテーマだと思うね。四角なのか、それとも二角なのか。
 これも若い時に見た映画だけど、『さらば夏の光よ』(山根成之監督、1976)もインパクトが強かったな。郷ひろみと秋吉久美子ともうひとりのブ男の三角関係の話でね、男ふたりとも受験生。秋吉はハンバーガー屋かなにかで働いているお姉さん。秋吉は郷ひろみのことが好きなんだけど、もうひとりのブ男が秋吉のことが好きになっちゃって、それを知った郷ひろみが譲る。その事実を秋吉も薄々わかっているんだけど、自分の好きな男がそうするならばとそのブ男を受け入れて、そっちの男とできてしまう。すると郷ひろみも途中でたまらなくなって秋吉に手を出してしまう。「俺は君のことが好きだったんだ」と。すると秋吉のお腹の中が動く。子供ができてるんだね。で、郷ひろみが絶望するわけだ。すると例のブ男がなんかあって留置所に入って死んじゃうんだな。そして「さよなら三角」のあとにどうなるのかっていう問題がそこに残る。郷と秋吉がくっつくかっていうと彼女はそれができないと言って、大きなおなかを抱えて田舎に帰っていくんだね。そして郷ひろみは涙を流すんだ。友だちに女を譲るという心情は日本的なものなのかもしれないね。友情優先、でも後になると……友情ちがうだろ、みたいな(笑)。そこに青春があるんだね。作劇でいうと、関係ない人間たちの三角関係はおもしろくない。親友とか、近場の人間同士でいかないと。
 でも最近書いたホンでは、最初から三角関係になっていない。『ヴァイブレーター』(2003)は「2」、『やわらかい生活』(2005)は「4」以上。いってしまえば、ここでは関係性はないことでやっている。『ヴァイブレーター』は行きずりみたいなものだし、関係性が発生していないともいえる。『やわらかい生活』の場合はいろんな人間とヤってみた後で、この人だと思ったらその人が死んでしまうと。現在は関係性は成り立たないんじゃないかという認識のうえでやっているからね。いまの若い人って恋したら3日やそこらですぐヤっちゃうでしょ。俺が若い時なんかはもうそれまでに半年くらいかかったよ。手握ったりなんなりから始めてね(笑)。入射角と反射角って同じじゃない。つまり、口説くまでに時間がかかれば、別れてから傷が癒えていくまでにも時間がかかる。でもいまの若者は淡泊に入ってすぐ忘れちゃう。簡単に手に入れるのが早いから手に入れたという実感が弱いんだろうね。この簡単さはよその人に対してもそうだろうな。
 だから恋愛を書くときのドラマツルギーも変わっているはずなんだ。それを反映してか、観客たちは例えば「難病もの」のほうに走っているよね。ありえないドラマとして見ているのか、それともああいうことにあこがれているのか……「2」の未来が見えないのか、愛が冷めることが恐いのか、だったら病気で死んでくれないかなと。二者関係のありえなさってのは、まず自分ありきでね、やはり自分が自分のことをいちばん愛しているのだと思う。その次に愛しているのが「君」であって、それを相手が受け入れるかどうかを問うているわけだ。恋愛して結婚するってことが当たり前だってことになってるけど、そんなのここ何十年じゃないの。ひとりの相手とずっとなんて、そもそも無理があると思う。キリスト教とも関係があることだけどね。セックスは生殖のためにあるという建て前を日本に導入しても、無理があるんだ。恋愛・結婚・出産という三位一体の近代主義は破綻してしまっている。だから、対幻想とはすでに幻想なのではないか。ふたりの関係という交換可能なものに永遠はない。いまあなたのことを好きだよ、とは言えるかもしれないけど、明日以降はどうかはわからない。ずっと好きでいてくれというのが、結婚という契約システムだよね。
 契約ではなしに、男と女が「2」を推し進めていったとき、例えば『もどり川』(1983)でも書いたことだけど、心中ってことがでてくるのかもしれない。それは究極的には「2」が「1」になりたいという願望なのだと思う。あり得ない夢なんだ。セックスもつながりたい、「1」になりたいという欲望と行為だけど、やっぱり同床異夢の幻想だということもできる。快楽さえも共有できないのだから、まして愛なんて。

(新宿にて 取材・構成:衣笠真二郎、三浦哲哉)

[完]

02 Apr 2007
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