映画の皺──R・アルトマン『今宵、フィッツジェラルド劇場で』

三宅 唱

 音がきこえてくる。映画は音とともにはじまる。……本日の牛肉市場はキログラムあたり……さて今晩の料理ですがまずは鶏肉をオーブンで……禁欲的な生活を営むべし、さもなければ地獄に……ピッチャーふりかぶります、第1球投げたー! ……今夜の渋滞はいかがですか? 現場の状況です……とラジオのチャンネルが切り替わるのがきこえてくる。男の声や女の声が、それが発せられる空間での響きや伸び、抑揚、音量といった様々な音声的変化をうけてきこえてくる。ふたつの目からやや離れたところでじっとしているふたつの耳は、次々と届いてくる音の波に揺られて振動しつづける。まずは、左右正面から聞こえてくる複数の声や音を、前面で主張する音だけでなく後方できこえる微細な音も、そのまま耳で響かせておこう。
 「私の名はガイ・ノワール、私立探偵だ」というナレーションにのせて、雨に濡れた舗道沿いのダイナーからひとりの男(ケヴィン・クライン)が出てくる。この男は、フィリップ・マーロウよろしく壁でマッチを擦ってタバコに火をつけてはおもむろに隣の劇場に入っていき、チケットを持った客らで賑わうロビーをするりと抜けていく。
 どうやらこの劇場は、大企業に買収されて更地になる運命らしい。ラジオ番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」の最後の公開録音ショー、それがアルトマンの新作の舞台である。そんな「終わり」の場に集まるカントリー歌手たちを通して、何が語られるのだろうか。大声で叫ばれる最後の抵抗および見事な逆転劇? あるいはしめやかなる拍手に包まれた涙々の引退劇? アルトマンは、その手の反動的で通俗的な作劇を語ろうとはせずに、すべての曲を頭から最後まできかせるような態度で、このラジオショーで響くすべての歌声を、すべての饒舌と沈黙を文字通り公開録音していく。
 ステージ裏の楽屋では既に多くの歌手やスタッフがいて、彼らはまるでキャメラを待ち構えていたかのように自らその前に姿を現す。開演前のあわただしい人の動きの中で、テンガロンハットの二人組がギターを鳴らして歌っている。しびれるような声の老シンガー(L・Q・ジョーンズ)は、なにやら女性と抱き合っては写真を撮ってはしゃいでいる。そこへ遅れてやってきた女たちの金髪の、無造作に纏め上げられた1本1本の輝き。そこにかつての金髪の女たちを思い出してもよいだろう。例えば、去り際のフィリップ・マーロウと決定的にすれ違った運転席の金髪未亡人。妹の新郎の子を身ごもってしまった無口の金髪姉(すばらしいおっぱいの思い出とともに!)。ちゅるちゅると音を立ててシンナーを吸いつづけるシュワブ家の金髪母。ホットリップス! と軍医たちに笑われた金髪看護婦。さらには金髪ポパイに倒されて逃走するブルートの、これまたなぜか金色に輝く体への驚きまでを反芻していると、暗闇に浮かび上がる金髪の女(ヴァージニア・マドセン)の真白いコートまで姿をみせる。  アルトマンにまとわりつく「群像劇の巨匠」なる不幸なフレーズ。たしかに、顔らしい顔がなかなかみえてこない人々の、混乱にも似た右往左往を表現するにはてっとりばやいのだろうが、しかし、誰と誰が、誰が誰とどのような関係にあるのかは、秩序ある混乱としてゆっくりと浮かびあがってくる。劇場の入り口に掲示されたロンダ(リリー・トムソン)とヨランダ(メリル・ストリープ)の姉妹デュオ、ジョンソンガールズの写真、おなじくダスティ&レフティ(ウディ・ハレルソン&ジョン・C・ライリー)の写真……。老シンガーは給食係の女性と同じ写真に収まる。その後も繰り返し彼らを同一のフレームに収めるキャメラが、彼らを「二人組」として提示していく。一方「二人組」たちの傍らでは、適したパートナーがみつからずどうにも「二人組」を形成しえなさそうな「独り者」たちが徘徊している。探偵ガイ・ノワールはどこにでも首をつっこみ場違いに可笑しい身振りを繰り返す(彼の口髭はグルーチョ・マルクスを思わせる)。白いコートの女はステージだろうと楽屋だろうと気付くとどこにでも現われる。ヨランダの娘の金髪ローラ(リンジー・ローハン)は、母親と叔母の間に挟まれ、あるいはダスティとラフティの間に挟まれ、いつも左右に首をふりながらただ話をきいている。ガムを噛みつつ書類の束を持った妊婦のアシスタントがあくせくと駆け回る。アルトマンのフィルモグラフィにおいて、たとえ老若男女48人が交錯する結婚式であっても、4人の若い男たちが寝起きする兵舎であっても常に必ず語られてきたのは、この「二人組たち」と「独り者たち」の生き様である。

 まるで独り言のようにそれぞれが同時に会話するアルトマン的な人物たちの声が、暖かな照明の中で大小の鏡に囲まれた楽屋の四方で響いている。例えば、ささやかな息継ぎすら艶やかな音となって空間を震わせる妹ヨランダの声。姉ロンダの腹のすわった直線的な皺がれた声。その声の間をぬけるようにして、この番組の司会者であるGK(ギャリソン・キーラー)が楽屋からステージまで継ぎ目なく移動してマイクの前に立つ。そしてステージの幕があがる。
 ステージでは軽快な音楽がつづく。熟練のバンドによる華麗な演奏と痛快なCMソングがつづき、擬音の名人芸まで披露される。愉快な音楽は楽屋にも響き、途切れることがない。さまざまや音楽やありとあらゆる声に満たされた本作において、「二人組」の物語はいかなる展開をみせるのか。
 楽屋にて娘のローラを前にヨランダがささやくように思い出話を語ってみせる。相手が近くにいようといまいと、口の中からちょっとだけ漏れるような声が、そこに親密といってよい空気を漂わせる。と同時に、ロンダのしわがれた声が直線的に響き、同じく思い出を語る。姉に構うことなくとぎれとぎれにうやむやと話すヨランダの独り言を聞いていると、秩序だって話しているはずのロンダの口振りすら(字幕はロンダのセリフを追っている)まるで独り言のように響きはじめ、一方独り言のヨランダの声が逆に何かを語っているように聞こえはじめる。声と声は互いに補うことも排することもなく、ただそこにふたつの声としてある。ローラと私たちは椅子に座りながらそのふたつの声の間で沈黙しているのだが、すうっと息を吸ったのちヨランダが歌いだす瞬間、その空間が変貌する。伸びやかな彼女の歌声だけが、いま聞こえる音のすべてとなって耳に響く。口を閉じ目をつぶったロンダは、ただおのれの耳だけを頼りに妹とともに在る。盲目的に妹の声を愛する。妹の歌声は、まるで手をとりあうかのように姉の歌声を誘いだす。ふたつの歌声は、高低に響きわけながら、その手と手をからませるようにしてゆるやかにひとつになる。ヨランダの声とロンダの声をききわけつつ、同時に第三の、これまできこえなかった「二人組の声」がきこえてくる。潜在的というよりもむしろ現在進行形で生成されるこの新たな歌声、この「まじない」のような歌声を響かせるには、ひとりではダメなのだ。歌うには、ふたり以上いなければならないのだ。「二人組」は、ある声とある声が重なる瞬間を経て真に形成される。「歌がわたしのすべてよ」と姉妹は無言で抱き合う。隣の人の呼吸に耳を傾けて戯れに自らの呼吸をそこに重ねあわせるときの、互いの呼吸のちがいが更に際立ちながらそれでもふたりを一組として包み込むようなひとつの空気がそこに漂う。
 ふたりが出会えば、そこがステージだろうと楽屋だろうと彼らはすぐに歌声を重ねて「二人組の声」を響かせるだろう。例えばかつて恋仲だったらしい「失われた二人組」、ヨランダとGKがマイクの前に立つとき。背の大きなGKがちょいと腰を屈めて口元をヨランダのそれと同じ高さに合わせる。そうしてふたりが同じフレームに収まれば、彼ら「二人組の声」が見事に響き渡るだろう。カウボーイハットの男たちも、ハイ ダスティ! ヘイ レフティ! と互いを呼び合えばいつまでも二人組の声を響かせる。あるいは、眼鏡のGKが眼鏡のローラに出会えば、そこがステージの真裏であろうと、うるさいからやめてとアシスタントが執拗に制止するのも構わず、「二人組の声」で歌い続けてみせる。

 二人組が歌いだすと、ある時その背後に、白いコ-トの天使がふらりと姿をみせる。ステージの二人組は、その姿がみえないのかまったく気付くことなく、歌いながらどこかをみている。彼らの視線の先にいるはずの観客の姿が、例えば切り返しショットによって示されることはない。とにかく、彼らは歌いながら、自分たちの声をききながら、何かをみようとしている。彼らの視線は、「二人組の声」がこだまする虚空に、自らの声と相手の声の姿形をみわけ、その先に「二人組の声」の姿をみつけだそうとしているのか。
 耳は目でないし、目は耳ではない。決してみることができない歌をうたいながら、それでもみようとすること。もし仮にその不毛な試みが、この映画における決定的な身振りとして実を結ぶ瞬間があるとすればそれは、彼らの視線が、その彼らをみている私たちの視線と合致するときである。声と声とが重なるようにしてひとつになり「二人組の声」が響いたように、その響きに導かれるかのように互いの目と目が自らの目であることをやめてゆるやかにひとつになる瞬間、その視線の先において、天使のコートの白とスクリーンの白が不意に一致するだろう。天使の白いコートがスクリーンの一部を占めるとき、その「白」は天使とスクリーンの区別を超えて、一気に視線をその身に引き受ける。彼らの視線と私たちの視線による、ある種合唱のような虚構の「切り返し」によって生まれるいわば「二人組の目」が、天使=スクリーンの「白」の広がりをみたとき、そこに無数のイメージを投影する。ヨランダとロンダが亡き母に向けて「二人組の声」で歌いながら、美しい皺に囲まれた濡れた瞳を虚空に彷徨わせるとき、その視線と私たちの視線が向きを同じくして、そのふたつの視線の先に(歌う彼らの背後に)天使が現われるのをみて、ほんのつかの間そこに例えば亡き母の姿を重ね合わすかもしれない。「二人組の声」の響きにつつまれながら天使を前にした私たちは、みることときくことの別もつかぬまま我を忘れて震えだす。さまよう孤独な目と耳とが遭遇してつかの間の「二人組」を結成し、アルトマン的祝祭ともいうべき生の一瞬の震えに身を任せる。

 大げさな装いもあからさまな作劇も排された本作には、そのようなたった一瞬の、繊細で儚いものだけが豊かにある。しかしそのすべても一瞬ののちに消えていく。「二人組の声」やアルトマン的祝祭の豊かさとは、ふっと現れては消えてしまうようなほんの一瞬の輝きが奇跡的に連続したものにすぎない。老シンガーの、もう遠くまで伸びずフレーズごとに消えていくような声、もう高くまで上がらずときに喉を詰まらせるような声。それでも笑顔を絶やさぬ顔に、その度に深く刻まれる1本1本の皺。もう決して若くはないヨランダが肩を震わせて歌いあげるとき、その濡れた瞳を囲むようにふっと刻まれる1本1本の皺。そのような繊細な声や皺が、一瞬空間を切り開くように現れては消え、現れては常に消えていく。「何事もなかったかのように」すべては消えていく。
 ひとりの老人が死んだとしても、「何事もなかったかのように」音楽はステージでつづく。「何事もなかったかのように」ステージが終わり、その明け方には「何事もなかったかのように」劇場が取り壊される。おそらくは、映画も「何事もなかったかのように」終わる。そして例えばどこかで誰かが、「遺作らしい遺作だったね」などとだけ呟いて「何事もなかった」ことにしたり、「群像劇の巨匠、反ハリウッドの監督」と述べるだけで「何事もなかった」ことにするのかもしれない。
 しかし、本当に「何事もない」はずがあろうか。
 最後のステージの夜からしばらくたった日だろうか、かつての劇場の隣のダイナーに、再びGKとガイ・ノワール、ジョンソン姉妹の4人が集まっている。キッチンでは、かつてのメイク係が働いている。レフティとラフティも、そしてローラもダイナーに集まってくる。この集合につられるかのように、あの白いコートの女も雨降る窓越しに姿をみせ、ゆっくりと中へと入ってくる。その姿をみとめて、口をつぐんで身を固める彼ら。その表情が、(やや歪な)切り返しショットで二度示される。さらにその皺の寄った白いコ--トがゆっくりと手前に近づくとき、スクリーンはその「皺の寄った真っ白さ」に覆われる。この瞬間の白の膨張、あるいは「皺」の接近に、私たちもまたたじろがざるをえない。
 平面の世界における拡大や収縮が、不意に接近や後退の運動として生起する瞬間、スクリーンは平面であることをやめ、そこに「皺」のような奥行きが切り拓かれる。アルトマンは、奥行きを欠いた平面のスクリーンに次々と「皺」を刻み付けてきた作家である。繰り出されるズームアップとズームバックがつかの間の奥行きを平面に切り拓く。『ギャンブラー』(1971)の、雪景色に倒れた死体を捉えたズームバックの緩やかな後退運動。『ストリーマーズ』(1983)の、兵舎に残されたふたりを捉えるラストショットの滑らかな後退運動。中心にむかってだんだんとフレーム内に取り込まれていくこれまでみえていなかった世界の諸々の顕在化を前にしながら、その内への取り込みに豊かさを感じるよりもむしろ、このまま外に広がっていく後ずさりが、ふとこちらの側にまでつづきはしまいかと私たちを動揺させる。その奥行きにむけた運動が、私たちを誘惑する。運動の軌跡が、そこに流れた時間の経過が、過ぎ去った波の跡のような「皺」をその肌に刻み付ける。その「皺」もまたいっときの仮構された奥行きでしかないだろう。すぐにスクリーンは白い平面に戻る。それでもなお抵抗するように幾度となく刻み付けられた「皺」は、また幾度となく私たちを誘惑する。

 ダイナーに集まった彼らにゆっくりと近づく女の白いコートの皺がスクリーンのほぼすべてを覆うと、ふと画面が切り替わる。また音楽とともに「映画」がはじまるのだ! 女の白いコート=スクリーンの、「皺」のような奥行きの先に投影されるようにして、すでに「何事もなかったかのように」終わりを迎えたはずのステージの様子が再び映しだされる。そこでは、すべての歌手がステージにたって、「彼らの声」で歌うだろう。とあるカップルによる唐突なキスすら演じられる祝祭的なステージで、彼らは歌いつづける。目指したメジャーの場には届かずなんとか居つづけることができた場すらも失われた姉妹は、それでもなおこれからも歌いつづけるだろう。老シンガーは声が枯れてもなお歌いつづけたし、好きな音楽をかけて下着姿で愛する人を待ちつづけた。やめろと言われても屈服せず言い訳せずただ不敵に歌いつづけるダスティ、たとえおもいきり滑ってもギャグにギャグを重ねつづけるラフティ。探偵ガイも、マルクス兄弟的なギャグをかましつづけ、取り壊し中の劇場でははじめて歌ってみせた。アルトマンもまた、不遇とされる80年代にあってもなお映画を撮りつづけた。最も新しい写真をみればわかるのだが、70歳を過ぎて心臓移植手術をうけ、81年の生涯を生きたアルトマンの顔には、既に一度人生と死とが顔の上を通り過ぎた、その跡のようなものとして、皺が刻まれている。そして天使。一時代を築いた劇場の終わりという危機に面して歌われた「二人組の声」は、福をまねき災いを払う「まじない」のように天使を召還した。天使は、ある老人の死に際して「老人の死は悲劇ではない」と囁く。その天使は、最後のステージの幕がしまるとき、まさに映画的な方法によって闘うべき相手を示した。  いま誰と闘いどう生きるべきか。皺の寄った天使の白いコートをはおった、このささやかで繊細な映画は、その政治的な振る舞いのひとつを明示する。彼らは好きな歌をうたいつづけ、好きな人を愛しつづける。その顔の皺は美しい。

 私たちは映画をみる度に老いる。ほんのつかの間の、本作のようなたった105分であれ、私たちは確実に老いる。どのように過ごそうとも死に向かっていくのだが、映画の観客には映画の観客なりの老い方があるだろう。1本、また1本と映画をみるたびに、それを「何事もなかったかのように」する側には身を置かず抵抗し、映画の皺をこの身に引き受けること。アルトマンはかつて、映画制作を砂浜での城造りに喩えた。寄せては返す波が砂の城をまたもとの砂浜に還そうとも、私たちはその城を心の中に残している、と。この比喩を借りるならば、何事もなかったかのようにまた平面に還される砂浜の上で、それでもなお抵抗するかのようにその砂浜に何かをみつづけ、何かをきこうとすること。もはや、目も耳も皺もない、のっぺらぼうでいつづけることはできまい。みつづけ、ききつづけるという抵抗の身振りによってはじめて、「二人組の声」が響き渡る一瞬の空間や、何度も一瞬切り開かれる「皺」のような奥行きに誘惑されることに身を任せ、アルトマンの映画の皺とともに老いることができる。


『今宵、フィッツジェラルド劇場で』 A PRAIRIE HOME COMPANION

監督・製作:ロバート・アルトマン
製作:デヴィッド・レヴィ、トニー・ジャッジ、ジョシュア・アストラカン、レン・アーサー
脚本:ギャリソン・キーラー
撮影:エドワード・ラックマン
音楽:リチャード・ドヴォスキー
出演:ウディ・ハレルソン、トミー・リー・ジョーンズ、ギャリソン・キーラー、ケヴィン・クライン、リンジー・ローハン、メリル・ストリープ、L・Q・ジョーンズ

2006年/アメリカ/105分

3月3日(土)より
銀座テアトルシネマ、Bunkamuraル・シネマ他にて全国ロードショー
配給:ムービーアイ



17 Feb 2007

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